機動戦士ガンダムF91 パン屋の俺が宇宙海賊になって、最推しのヒロインを処刑台から奪い去る話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「……ねえ、シーブック君。起きて。もうすぐ、一番いい時間よ」
Cecily Fairchild(セシリー・フェアチャイルド)の、鈴の音のような声が僕の意識を優しく揺り起こした。宇宙世紀の暦がいくつ進もうと、僕たちがこの海辺の街で刻む時間は、もう銀河の勢力図を塗り替えるような激動とは無縁だ。
公式設定。歴史の闇に消えた「宇宙海賊」の物語は、今やTobias Arronax(トビア・アロナクス)たちが紡ぐ新しい神話へと引き継がれ、僕たちはただ、潮風と小麦粉の匂いの中に溶け込んでいる。僕は、隣で穏やかに微笑むセシリーの手を引いて、店のテラスへと出た。そこには、まだ夜明け前の紺青色の世界が広がっていて、水平線の向こう側から、世界をオレンジ色に染め上げる光が今まさに溢れ出そうとしていた。
「——お兄ちゃん、セシリーさん! 準備できたよ!」
階下から、Reece Arno(リズ・アノー)の元気な声が響く。見下ろせば、店の前の小さな広場には、リズが一生懸命に並べたテーブルと、そこに乗せられたたくさんの焼きたてのパン。今日は、この街の子供たちを招待したパン祭りの日だ。
かつて戦火の中で「ひまわり饅頭」を分け合ったあの日のように、僕たちは今、奪い合うためではなく、分かち合うためにここに立っている。
「……綺麗ね、シーブック君」
セシリーが、僕の肩にそっと頭を預けた。その瞳に映っているのは、かつてFrontier Ⅳ(フロンティア4)の空を焼き尽くした殺人兵器、BUGB-01(バグ)の群れでも、ラフレシアの触手でもない。ただ、静かに、けれど力強くこの星を照らす、太陽の輝きだ。僕は、ポケットの中に指を滑らせた。そこには、もうBio-Computer(バイオ・コンピュータ)のチップも、暗号通信のメモも入っていない。あるのは、昨日の夜、セシリーと一緒に選んだ、新しいパンのレシピを書いた小さなメモだけだ。
「……ああ。本当に、最高だ」
僕の脳細胞が、かつてない多幸感で満たされていく。それは、サイコ・フレームの共鳴でも、ニュータイプの感応でもない。ただのSeabook Arno(シーブック・アノー)という男が、愛する人と、かけがえのない家族と共に明日を迎えられるという、当たり前すぎて涙が出るほどの幸福だ。
宇宙世紀0100年代、モビルスーツの小型化は急務であった。連邦政府の軍縮方針、そしてAE(アナハイム・エレクトロニクス)社の独占による技術停滞を打破するため、Strategic Naval Research Institute(サナリィ)はF90やF91(ガンダムF91)といった全高15m級の高性能機をロジカルに提示した。F91は出力4890kW、推力合計15530kg×4を誇り、高密度実装されたMCA(マルチ・カセット・アクチュエーター)によって、従来の大型機を凌駕するレスポンスを実現した。僕がかつてそのコックピットで見た極限の景色は、今、この穏やかな朝の光の中に溶けていく。
公式記録。宇宙世紀という長い長い、血と鉄の物語の中で、僕たちはきっと、一行の注釈すら残らない存在だろう。けれど、僕たちがここで焼いたパンを食べて笑った子供たちが、また誰かを笑わせる。その連鎖こそが、母、Monica Arno(モニカ・アノー)がガンダムに託した希望の、本当の答えだったんじゃないかって、今なら思えるんだ。
「——シーブック君。私、幸せよ」
セシリーが、僕の目を見つめて言った。僕は、彼女の腰を引き寄せ、その額に優しく口づけをした。
「僕もだよ、セシリー。たとえこれから先、どんなに大変なことが起きても。僕は一生、君のためにパンを焼き続ける。それが、僕が選んだ最高の道なんだから」
水平線から、太陽が完全に姿を現した。まばゆい光が、僕たちの小さな店を、そしてこの美しい地球を包み込んでいく。かつて質量を持った残像として宇宙を彷徨った少年は、今、ここに、確かな愛という名の重力を手に入れた。
宇宙世紀。それは、争いの歴史。けれど、それは同時に、一人の少年と少女が、手を取り合って「ただいま」と言える場所を探し続けた、旅の記録でもあった。僕の物語は、ここで終わる。でも、僕たちの日常は、この温かなパンの匂いと共に、どこまでも続いていく。
「——さあ、行こう。みんなが待ってる」
僕はセシリーの手を強く握り、光に満ちた広場へと駆け出した。そこには、最高の笑顔を浮かべたリズと、香ばしいパンの匂いと、そして僕たちが愛した、眩しすぎるほどの未来が待っていた。