灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第15話 七年前の闇

 朝のうちに、地下へ向ける命令は二つになった。

 

 一つは軍本隊の正式命令。

 西壁地下の中枢記録を確保せよ。

 

 もう一つは、紙の方がまずかった。

 封は雑で、字は急ぎ、差出人の名だけがない。

 

 奪えぬなら焼却せよ。

 

 ディーンは二枚の紙を重ねて見た。

 破りも隠しもしない。ただ指の間へ挟んだまま、西壁の方へ目をやった。

 

「どっちで動くんです」

 

 グレンが訊いた。

 

「中を見てから決める」

 

 ディーンは短く答えた。

 

「焼く気満々だろ、上は」

 

 アーデルが言う。

 

「だからだ」

 

 その一言で終わった。

 

 壕の角で、紙を抱えた女が待っていた。

 

 軍衣は地味だが、泥に慣れていないのではなく、泥の上でも紙を汚さないよう身体の方を調整している手つきだった。背に細長い箱、腰に墨壺、油紙、封蝋、小刀。

 

「従軍書記官補、コレット・ヴァランです」

 

 女は箱を少し持ち上げて見せた。

 

「封、私印、差し替え跡、焼け残りの順番を見ます。読めるなら読みます」

 

「死ぬには向いてない手だな」

 

 アーデルが言った。

 

「死なないようにしてください」

 

 コレットは顔色ひとつ変えない。

 強がっているというより、自分の役目がそこにしかないと分かっている顔だった。

 

「置いてく時は置いてく」

 

 ディーンが言う。

 

「承知しています」

 

 それで班に入った。

 

 地上では、昨日よりも戦いの準備が露骨だった。

 

 西壁の前に黒鉄の杭が増えている。

 香炉も、鎖も、導線も、工兵槌も、ぜんぶ壁を落とすためではない。壁の下を生かしたまま、もっと深い場所へ繋ぐための荷だった。

 

 王国側ではラウルがまた前に出ている。

 白灰の火幕が塔影と砲列のあいだを揺れ、帝国側の火筋をほんの少しだけ上へ押し上げる。その数十息へ工兵が走り、白杭が打たれ、結界兵が板を差し替え、砲兵が位置を変える。

 

 見上げれば、主力級魔導師は今日も戦場そのものをねじっていた。

 

 その下で、自分たちは地下へ潜る。

 

 今夜はディーン班だけではなかった。

 北納骨堂口から一班。

 灰炉脇の狭道から一班。

 西回廊崩れ口からディーン班。

 さらに地上の回収班と工兵補助班。

 

 帝国もまた同じことをしていると、行く前から分かった。

 西壁下の熱が、あちこちで細く起きていたからだ。

 

 崩れ口を降りると、香の匂いが先に来た。

 

 甘い。

 けれど花の匂いではない。

 灰と油と血の上へ、無理に薄甘さを被せた匂いだった。

 

 先頭はバルツ。

 その後ろをディーン、グレン、アーデル、リゼ、シオン、コレット。

 

 ニコの革帯は、リゼが巻いた布袋へ入れて持っている。

 誰もそれを口にしなかった。

 

 地下は昨日より人の気配が多かった。

 ただし見える数ではない。

 走り去った足跡。

 壁に擦れた箱の角。

 いったん置かれてまた持ち上げられた重み。

 短く鳴って止んだ合図鈴。

 

 帝国は少人数で来ていない。

 複数の回収班が、棚ごとに分かれて動いている。

 

「右だ」

 

 バルツが言った。

 

「新しい靴跡が多い。運んでる」

 

 シオンも頷いた。

 

「熱も右です。生きてる」

 

 それで進路が決まる。

 

 焼けた書架の区画を一つ越えるたび、地下の顔が変わった。

 納骨堂。

 灰炉の残り熱が通る細道。

 軍があとから打ち抜いた導線孔。

 そして今夜は、封印棚が開けられた跡が急に増える。

 

 誰かが、ただ探しているのではなく、選んで抜いている。

 

 第二書架室へ出たところで、コレットがしゃがんだ。

 床に落ちた封蝋片を拾い上げる。

 

「王国の私印」

 

 さらに別の黒く焼けた欠片を裏返す。

 

「帝国宮内印」

 

 グレンが眉をひそめた。

 

「同じ棚に両方かよ」

 

 コレットは答えない。

 封の切られ方だけを見ている。

 

「急いで持ち出してます。読むためじゃない。先にどこかへ移すための切り方です」

 

 その言い方が、妙に気持ち悪かった。

 ここには秘密がある、ではなく、秘密がもう動いていると言われたからだ。

 

 さらに奥。

 半ば崩れた祈祷室を抜けると、空間が急に広がった。

 

 古い納骨室をぶち抜き、後から棚と鉄格子を継ぎ足した広間。

 中央には割れた石卓。

 左右へ三本ずつ細い通路。

 奥には半円形の封印棚。

 黒く磨かれた石札が何枚も埋め込まれ、火を受けても妙に光を返さない。

 

 そこに帝国兵がいた。

 

 一人や二人ではない。

 右通路に二人。

 左棚の前に三人。

 奥の搬出路に箱持ちが二人。

 中央石卓の近くに負傷者と護衛。

 そして、その全員の重心になっている一人。

 

 第二王女セラフィナだった。

 

 黒衣の裾が灰へ触れている。

 顔色は白く、けれど弱く見えない。

 周りに男たちが何人いようと、そこだけが場の中心と決まっていた。

 

 王女だからではない。

 彼女がひとつ言えば、地下の全員がそこへ耳を向けると分かる、そういう人間の立ち方だった。

 

 近くの帝国兵が血を流しながら何かを差し出す。

 セラフィナは受け取らず、先に言った。

 

「そっちは後」

 

 怒鳴りではない。

 それでも、その兵は反射で従った。

 

「南列を先に出して。火が回る」

 

 また一人が動く。

 地下が狭くても、彼女の周りだけはひとつの宮廷みたいだった。

 

 シオンはその姿を見た瞬間、停戦の朝とは別の意味で息を呑んだ。

 

 綺麗だとか、美しいとか、もうそんな言葉だけでは足りない。

 ここにいてはならないほど目を奪うのに、ここにいるからこそ場が支配される。

 その矛盾ごと人を従わせる類の女だった。

 

 次にフラッシュバックしたのは、ニコの血だった。

 

 細い光。

 倒れる喉。

 血に濡れた革帯。

 

 シオンは杖を握る指に力を込めた。

 目だけはどうしても逸らせなかった。

 

 セラフィナもこちらを見た。

 驚かない。

 だが、完全に無感動でもない。

 

「またあなた」

 

 低い声だった。

 シオンへ向けたのか、王国兵全体へ向けたのか、判然としない。

 それでも、その短い一言だけで地下の空気がさらに張る。

 

 ディーンが前へ出た。

 

「武器を捨てろ。さもなくば、殺害する」

 

「退けない」

 

 セラフィナは即答した。

 

「ここは、あなたたちが来ていい場所じゃない」

 

 その時、左の細道から別の足音がなだれ込んだ。

 

 王国兵だった。

 腕章が違う。

 背に火油袋。

 先頭の男は顔まで布で覆い、入るなり広間を一瞥して火瓶を抜いた。

 

「焼け!」

 

 命令口調だった。

 

「棚ごとだ! 一枚残すな!」

 

 シオンは、その声が自軍のものだと理解するのに一拍かかった。

 帝国班でも奪取班でもない。

 焼却のためだけに入ってきた別働隊。

 

 先頭の男が火瓶を振り上げる。

 

 ディーンは迷わなかった。

 

 魔法剣が一度光る。

 布覆面の喉が裂ける。

 男は瓶を落とし、血を噴いて崩れた。

 

 残る二人が止まるより早く、グレンの槍石突きが一人の手首を砕く。

 バルツの短刃がもう一人の脇腹へ潜る。

 

 早かった。

 帝国兵に向ける時と何も変わらない速さだった。

 

 火瓶が転がる。

 アーデルが一枚だけ板を切り、炎が棚へ跳ぶ前に床の上で押し潰す。

 

「てめえら……!」

 

 砕けた手首を押さえた兵が叫んだ。

 

「裏切りっ」

 

 最後まで言わせなかった。

 

 ディーンが二歩で間合いへ入り、喉を貫く。

 

 残った一人は逃げた。

 だがグレンの槍が背から入り、そのまま床へ縫い止める。

 

 広間が一瞬だけ静まり返った。

 

 帝国兵も、セラフィナも、王国兵も、みなそれを見た。

 王国の下士官が、王国の焼却班を一息で皆殺しにしたのだ。

 

 ディーンは振り返らない。

 死体も見ない。

 ただセラフィナへ踏み込んだ。

 

「今度はお前だ」

 

 そこには迷いがなかった。

 秘密を知っている敵なら、この場で殺す。

 

 帝国側の護衛二人が割って入る。

 バルツが一人を止め、アーデルが板でもう一人の足場を崩す。

 グレンは槍を引き抜いたまま横から回る。

 

 シオンは動けなかった。

 動くべき方向が一つも分からなかった。

 

 殺せ。

 とっくにそう思わなければいけない相手だった。

 ニコを殺した敵だ。

 なのにディーンの剣がセラフィナへ向かった瞬間、胸の奥で何かがひどく痙攣した。

 

 セラフィナは退かない。

 細剣を抜いたが、ディーンを受ける位置ではない。

 受けるのではなく、何かを待っている構えだった。

 

 その手元には、半円棚の黒い石札があった。

 磨かれた石が、火も灰もほとんど映さない。

 

 ディーンの剣が届く寸前、セラフィナは左手のひらを石札へ当てた。

 

 黒が揺れた。

 

 火の影ではない。

 石札そのものが濡れたみたいに波打ち、そこだけ暗さの質が変わる。

 

 セラフィナの黒衣が、影へ沈む。

 護衛の一人も、半身だけ黒へ溶ける。

 ディーンの刃は確かに届いたのに、肉を断つ手応えがない。

 

 次の瞬間、そこには誰もいなかった。

 

 石札だけが、さっきより黒く濡れている。

 

 広間にいた全員が一拍遅れて動きを止めた。

 知らない術だった。

 板でも杭でもない。

 地下導路の熱とも違う。

 

「……何だ、今の」

 

 グレンが言った。

 

 誰も答えない。

 

 ディーンだけが一歩で止まり、すぐに振り返った。

 

「読むぞ」

 

 命令はコレットへ飛んだ。

 

 従軍書記官補はすでに床へ膝をついていた。

 焼けかけた封書を小刀で開き、灰を払い、焦げ跡の残る行だけを拾っていく。

 

「読めるか」

 

「……拾います」

 

 コレットの声は低い。

 だがぶれていない。

 

 広間の奥では帝国側の残兵が後退し始めていた。

 セラフィナが消えた時点で、彼らはもうこの場に意味を見ていない。

 王国側も追わない。

 追えば棚が落ちる。

 

 今は紙が先だった。

 

 コレットが焼け跡をなぞる。

 

「停戦密約……別紙」

 

 全員が黙る。

 

「帝国第三皇妃……マルチナ……御身柄」

 

 そこで一度途切れた。

 焦げを払う。

 

「王国特使へ……引き渡し」

 

 シオンの背筋が冷えた。

 

 ただの停戦記録ではない。

 王国と帝国が、何かを引き渡している。

 

 コレットが次の行へ目を落とす。

 

「王国王家……血統事案……秘匿」

 

 アーデルが顔を上げた。

 グレンの喉が鳴る。

 ディーンの目だけが細くなる。

 

 もう一枚。

 焦げて短い。

 

「証人六名……灰炉にて処断」

 

 誰も息をしない。

 

 最後の断片は半分しか残っていなかった。

 それでも十分すぎた。

 

「混血児記録……二通……削除」

 

 広間の火が、小さくはぜた。

 

 それだけで、七年前に地下へ埋められたものの輪郭が見えすぎた。

 停戦。

 引き渡し。

 王国王家の秘事。

 証人の処断。

 混血児の記録抹消。

 

 帝国だけの闇ではない。

 王国だけの闇でもない。

 両国が手を組んで埋めた闇だった。

 

 シオンは、第二王女セラフィナが何を探していたのかを初めて少しだけ理解した。

 あの王女は戦場見物に来ていたのではない。

 この地獄の底を確かめに来ていたのだ。

 

 それでもニコは死んだ。

 その事実はどこにも消えない。

 

 ディーンが封書を受け取る。

 血のついた手で、焼けた紙を折りもせず握る。

 

「撤収だ」

 

 短い。

 

 グレンが訊いた。

 

「追わなくていいんですか」

 

「今追えば、こっちが全部落ちる」

 

「姫を逃がすんですか」

 

 ディーンはそこで初めて、グレンを見た。

 

「次に会ったら殺す」

 

 その声にためらいはない。

 だがさっきまでより重くなっていた。

 相手がただの敵ではなくなったからだ。

 

 帰り道、地下の空気は来た時より冷えていた。

 香の甘さも、火の熱も、もう別のものにしか思えない。

 

 バルツが前を見て進み、アーデルは板を守り、リゼは何も書かずに歩いた。

 コレットは封書の順番だけを口の中で繰り返している。

 書き間違えないためだろう。

 

 シオンはひとりだけ、黒い石札の波打ちを思い出していた。

 見たことのない魔導だった。

 火の流れでも、板の補助でも、導路でもない。

 石の影そのものが、セラフィナを呑んだ。

 

 知らない。

 だが、忘れられない。

 

 地上へ戻ると、夜はもう半分ほど焼けていた。

 西壁の前ではラウルの火幕がまだ残り、修道院上部の塔影が赤く揺れている。

 

 ディーンはラウルの前で封書の断片を開いた。

 宮廷第三魔導師は、読み終えてもすぐには何も言わなかった。

 

 その沈黙の方が重かった。

 

「ただの戦争じゃなくなったな」

 

 最初に言ったのはラウルだった。

 

 誰も否定しない。

 

 西壁を取り合っているのではない。

 七年前の戦争。誰が停戦を作り、誰を引き渡し、誰の血を消し、誰を灰へ混ぜたのか。

 その奪い合いに変わってしまった。

 

 ガーヴェントがこれを焼こうとした理由も、帝国の第二王女が命を賭けて取り戻しに来た理由も、全部同じ底へ繋がっている。

 

 シオンは、まだ喉の奥に地下の灰を感じていた。

 

 ニコの死がある。

 セラフィナの顔がある。

 混血児記録二通、削除、という五文字がある。

 

 恋に似たものは、もう綺麗なままではいられなかった。

 それでも消えなかった。

 

 だから最悪だった。

 

 壕の上では兵が死に、板が割れ、伝令が走る。

 それでもシオンの意識は、もう壁ではなく、その下に埋められた名前の方へ引かれていた。

 

 戦争はまだ深くなる。

 

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