Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
玉座の間を呑み込んだ大洪水が、嘘のように引いていく。
すべてを圧し潰す水塊を顕現させていた『満象』を静かに解き、背後二人の少女へと歩み寄った。
「大丈夫だったか?」
一瞥した限り、致命傷はない。だが、ダメージの蓄積は深刻だった。特にジャンヌ・ダルクは、聖杯の魔力が乗った苛烈な一撃を腹部に受けた影響か、自力で立ち上がることすら困難な状態に陥っている。
「……はいっ」
対照的に、マシュ・キリエライトが地に膝をつきながらも、元気よく答えた。
彼が無事であったことに安堵したような、柔らかい空気。隣で痛みに耐えていたジャンヌも、ヴァルナの顔を見て少しだけ強張った顔を緩ませた。
ヴァルナは、ボロボロになったマシュと静かに視線を交わす。
盾を握る腕は限界を迎え、全身の骨が軋んでいる。それでも、彼女の瞳の奥にある光は全く死んでいない。折れない強靭な意志が、そこには確かに宿っていた。
(……頑張ったんだな)
『――ッ、ヴァルナくん!! 大丈夫かい!? 無事だったのか!?』
突如、通信機から砂嵐のノイズを切り裂いて、ロマニ・アーキマンの悲痛な叫び声が鼓膜を打った。
『ドガッ!』という、通信越しに誰かが誰かを突き飛ばしたような鈍い音が響き、即座に別の声が割り込んでくる。
『ちょっと! アンタ何をして……ッ!』
「……オルガマリーか。見ての通りだ、傷はない」
カルデアの所長の怒鳴り声に、ヴァルナは極めて淡々と返した。
だが、その返答がさらに彼女の感情に火をつける。
『傷はない、じゃないわよ!! アンタ、さっきまでとんでもない状態になってて、こっちは生きた心地がしなかったのよ!?』
ヒステリックなまでの怒涛の詰め寄り。だが、その裏にあるのは隠しきれないほどの深い案じだった。
彼らはヴァルナのバイタルデータを観測している。一度肉体が致命的に損壊し、強引に再構築されたその異常な経過を、遠く離れたカルデアの管制室からモリタリングしていたのだろう。
――ズゴゴゴゴゴッ……!
通信越しに宥めるような言葉を返そうとした矢先、瓦礫の山が吹き飛ぶ音が玉座の間に響いた。
ヴァルナは無言で振り返り、マシュも即座に盾を構え直す。
大洪水によって流され、崩落した石壁に埋もれていた竜の魔女が、瓦礫を弾き飛ばしてゆっくりと立ち上がった。
「ふふっ……久しぶりじゃない。カルデアのマスターだったかしら?」
全身を濡らしながらも、彼女は美しい、しかしどこか虚無を孕んだ邪悪な笑みを浮かべ、一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
「会うのは二度目か。……どうした?以前とは少し雰囲気が違うな」
「それはそっちも同じでしょ? ファヴニールに随分と手こずったようね」
竜の魔女は、ヴァルナの全身から立ち上る異常な呪力密度と、その内側に隠された消耗を値踏みするように目を細める。
「以前の禍々しさはどうしたの?」
『気をつけて……ッ!』
通信機から、オルガマリーの切羽詰まった声が飛ぶ。
『あの竜の魔女は聖杯を取り込んで、さらに強化さているわ!以前の彼女だとは思わないで!』
その警告に、ヴァルナは改めて目の前の存在を観察する。
確かに、彼女の霊基から溢れ出している魔力は、かつて対峙した時の比ではない。
「あぁ、聖杯を取り込んだか」
性質が異なる理由を、彼は極めて冷静に察した。
あの圧倒的な火力、そして尽きることのない魔力供給。またひどく面倒な存在が生まれたものだ。
現在の彼の呪力残量は、決して多くはない。昨日の戦闘からの疲労、そして何より邪竜ファヴニールとの死闘。万全とは程遠い状態である。
面倒が半分。だが、その規格外の出力に対する興味が半分。
「一旦下がれ」
ヴァルナは視線を前方から外さぬまま、後方の二人に向けて指示を飛ばした。
「マシュ、ジャンヌを連れて城を出ろ。アレと全力でやり合えば、こんな城は一瞬で崩壊するだろう」
それは気遣いではなく、ただの事実の宣告。
この閉鎖空間で災害同士が衝突すれば、確実に周囲を巻き込む。
「ですが、彼女は……ぐぅッ!」
ジャンヌが責任感から無理に立ち上がろうとするが、軋む肉体が限界を訴え、再び膝をつく。
「悪いが、ここは譲ってもらう。今のお前の状態では……少し邪魔だな」
冷徹に事実を突きつけるヴァルナに、通信機越しのロマンが声をあげた。
『ダメだ、ここは一旦撤退するべきだ!』
ロマンには見抜けていた。表面上の傷が治癒していても、彼の内側が、ファヴニール戦で極限まで削られていることを。
オルガマリーもそれに賛成する。
「……ダメだ」
だが、ヴァルナはその提案を即座に拒否した。
「あいつは『聖杯』を持っている。下手に時間を与えれば、何を引き起こすかわからない。立て直すにしても、それは向こうもだ。聖杯を持つサーヴァントに、時間なんて与えたくはない」
これ以上の反論を許さない、絶対的な意志。
ヴァルナは肩越しに振り返り、マシュと真っ直ぐに視線を合わせた。
「マシュ、頼んだ。ジャンヌを連れて城を出ろ」
「……わかりました」
一切の迷いなく、マシュは頷く。
彼女は目の前の『先輩』を百パーセント信じている。言葉を尽くさずとも、彼が何を考え、何を求めているかを完全に汲み取っていた。
マシュは即座にジャンヌに肩を貸し、出口へと向けて歩き出す。
「……ご武運を」
「あぁ」
背中越しに短い言葉を交わし、二人の少女の気配が遠ざかっていく。
「おしゃべりは、もう終わったのかしら?」
竜の魔女が、嘲るような笑みを浮かべてヴァルナを『眺めていた』。
「そうだな。ここからは、俺が相手をしてやる」
「……足手まといを、みすみす逃すと思うの?」
彼女が邪悪に嗤った、次の瞬間。
聖杯の魔力を推進力に変えた爆発的な加速で、竜の魔女が撤退する二人の背中へ向けて、文字通り消えるような速度で奇襲を仕掛ける。
だが。
「――」
一歩だけ。
竜の魔女と、後方の二人の間を遮るように足を踏み出し、極めて静かに『構え』を取った。
ただそれだけ。
しかし、その一動作に込められていたのは、強烈な呪いを帯びた純度百パーセントの『殺気』。
「ッ……!?」
ジャンヌ・オルタはハッと息を呑み、魔力の放出を強制的に遮断して、石畳を削りながら凄まじい勢いで緊急停止した。
眼力と殺気だけで、その超加速を物理的に押し留められたのだ。
――殺される……!
彼女の魂の奥底で、極大のアラートが鳴り響く。
もしあのまま攻撃を優先し、踏み込んでいれば、一撃で粉々に粉砕されていたのではないかという錯覚。
かつて彼と初めて対峙した際の記憶。慢心していたとはいえ、己の腹を無惨に抉り取られ、致命傷を負わされたあの時の一撃。
幻痛が腹部を走る。
恐怖という感情が一瞬だけ彼女の脳裏を過ったが、空っぽの器を満たす憎悪で、強引にそれを黙殺した。
彼我の距離、約十メートル。一歩踏み込めば首が飛ぶ、最適の殺戮距離。
「く、ふふ……怖いわね」
焦りを隠し、彼女は笑いながらも、見下すような態度は崩さない。
「聞いてなかったのかしら? 今の私は、聖杯と融合しているのよ? お仲間を撤退させて、一人で勝てると思っているのかしら?」
「相手は俺だと言ったろ」
ヴァルナは、事も無げに返す。
「その台詞は以前も聞いたような気がするが……今のところ、特に問題はないな」
自身の肉体の状態。そして、相手の魔力出力。
全てを天秤にかけ、加味して計算した上で、彼は平然と「問題ない」と出力した。
「なめられたものね」
竜の魔女が、獲物を値踏みするように目を細める。
「アナタ、表面上は平気そうな顔をしているけど……内側はかなりボロボロでしょ。覇気が弱まってるわよ」
「……わかるか」
「えぇ、バレバレよ」
彼がカルデアと交わしていた会話からも、それは十分に察せられた。
「今からでも、お仲間を呼んだ方が――」
「随分とよく喋るな」
(――ッ)
竜の魔女の背筋に、ツー、と冷たい汗が流れる。
ヴァルナは一切の感情を交えず、絡まった糸を一つ一つ解きほぐすように、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「先ほどの会話中、俺たちを攻撃しようとすれば、いくらでもできたタイミングはあったはずだ。お前の言う『足手まとい』の二人が、無防備にそこにいたんだから」
「……」
「だが、お前はそれをせずに、大人しく俺たちの話を聞いていた。その上、今もだ」
彼の硝子のような瞳が、オルタの底の底までを見透かしてくる。
「俺を殺したいほど憎んでいるにもかかわらず、手を出さず、ベラベラと喋り続けている」
ピタリ、と。動きが止まる。
「目的は――時間稼ぎか?」
……バレてるッ
ジャンヌ・オルタは、内心で激しく舌打ちをした。
彼が看破した通り、彼女が強気に振る舞いながらもすぐに戦闘を仕掛けられなかったのには、明確な理由があった。彼女の『霊核』には、深いヒビが入っている。
それは、マシュ・キリエライトが決死の覚悟で放った盾打ちによる、不可逆のダメージ。
聖杯を取り込んだとはいえ、霊核にヒビが入った状態でこの男と殺し合えば、間違いなく自壊して消滅する。万全のポテンシャルを発揮するためには、どうしても聖杯の魔力を用いてヒビを繋ぎ止めるための『修復時間』が必要だった。
「……マシュたちに、随分と手こずったようだな」
図星を突かれ、オルタがギリッと奥歯を噛み締める。
だが、すぐに感情を抑え込み、どこまでも優位であることを崩さない、余裕のある表情へと戻した。
「すでに霊核の修復は九割方終わりました。……アナタを消し炭にするくらい、これくらいで問題ありません」
彼女は自分自身に言い聞かせるように、極めて冷静な口調で返す。
「そうか。なら、見せてみろ」
呼応するように。
ヴァルナの内側から、呪力がさらに一段階、爆発的に溢れ出す。
その禍々しさに、足がすくみそうになる。先ほどまでの疲弊した気配が嘘のように、さらにエネルギーの純度が上がり、呪いの密度が深まっていく。
「実のところ……俺もかなり消耗していてな。呪力を練り直す時間が、欲しかったところだ」
「……時間稼ぎは、お互い様ってわけね」
オルタが、呆れたように息を吐く。
「あぁ、お互い様だ」
極限の対峙の最中。
不完全な怪物たちの口から、フッ、と同時に微かな笑みがこぼれた。
(……想像以上に消耗しているのね)
静寂に包まれた玉座の間に、竜の魔女の莫大な魔力と、ヴァルナ・クロスの禍々しい呪力が互いに漏れ出し、不可視の火花を散らして軋み合う。
「私はもう、聖杯によってほぼ万全まで回復したわ」
――勝つなら、今しかない……!
疲弊しているとはいえ、目の前の男はあの邪竜ファヴニールを屠った化け物だ。こいつを万全の状態で相手にするなど、それこそ自殺行為に等しい。彼女は自らを震い立たせるように、傲慢な態度で言葉を投げつける。
「負けた時の言い訳を、今のうちに考えておくことね」
対するヴァルナは、その挑発を受けて、極めて素っ頓狂な反応を示した。
「……ん? 言い訳? なんのための?」
彼は本気で理解できないというように疑問符を浮かべる。
「必要ないだろう」
ジャンヌ・オルタの頭上にも、はっきりと疑問符が浮かんだ。
(強がり……? いや、違う)
一瞬、彼が「自分は負けるはずがないから言い訳は必要ない」という皮肉を言ったのかと思った。だが、彼の瞳には、そんな安っぽいプライドや挑発の色は一切映らない。
彼は皮肉でもなんでもなく、本気で「何を言っているんだ?」という顔をしていた。「仮に負けたとして、そんな言い訳をするわけがない、当たり前だろう」と、そう顔に書いてある。
「え……?」
呆けた顔になる。
なんだこいつは。理解できないのは当然のこと。根本的に、この男の思考回路は常人のそれとは乖離している。
互いに見えない疑問を向け合い、極限まで張り詰めていた空間に、何とも言えない微妙な空気が流れた。一瞬だけ、竜の魔女の魔力が毒気を抜かれたようにふわりと緩む。
「……いや、普通、悔しいでしょ?」
自分でも何を言っているのだろうと思いながらも、彼女はその変な男へ純粋な問いを投げていた。時間稼ぎの意図すら忘れ、ただ純粋に、この目の前の存在が何を考えているのかわからなかったから。
敵のあり方など、どうでもいい。
目的も、価値観も、何もかも。
だが、空っぽになったが故か、彼女の好奇心のようなものがジャンヌオルタの脳裏を駆け巡った。
「こんな状態で負けたら。ファヴニールと戦闘して、連戦で、おまけにこっちは聖杯を持ってるのよ? 理不尽だとか思わないわけ?」
それは、生まれたばかりの彼女が抱いた、素朴な疑問。
「だから、必要ないだろう」
ヴァルナは、彼女の言葉をばっさりと切り捨てる。
「そもそも、戦闘に『平等』なんてない。正々堂々なんて言葉は、存在しない」
きっぱりと言い放つその言葉に、オルタはさらに混乱した。
戦士とは、英雄とは、もっと高潔な意志や美学を持っているものではないのか。
彼女の戸惑いを見て、ヴァルナは「やれやれ」と小さくため息を吐いた。
そのあからさまな態度にオルタがイラッとした瞬間、彼は自身の根底にある極めて泥臭く、そして冷徹な
「人は、それぞれ違う過去を持っている。不平等を積み重ねて、現在がある」
淡々とした声が、崩壊した城内に響く。
「戦いとは、その『現在』の競い合いだ。削り合いだ。
向こうがああ動いていなければ。アレを持っていなければ。これを経験していなければ。……そんなタラレバは、全て無意味だ。全てにおいて、意味がない」
ヴァルナは、自身の腕を軽く握り込む。
「向こうがあの武器を持っていなかったら、あの要素がなかったら。それは逆においても同じだろう。生まれ持って同じ人間などいない。持ち得ない才能。その環境によって磨かれた技術」
――君が持ち得たものを他者は持ち得ず、他者が持ち得たものを君は持ち得ない
彼の言葉は、あまりにも現実的で、残酷な真理だった。
「全てを統一できるのなら、その限りではないだろう。全ての才能、全ての環境。それらが整えられ、完全なる『平等』が実現されたのならな。だが、それは不可能だ。どう足掻こうと、不平等を積み重ねて今がある。才能も、技術も、能力も、武器も、作戦も」
その瞳が、獲物を射抜く猛禽のように鋭く細められる。
「全てを積み重ねた『今現在』を競い合う。最終的にこの世界に存在し、息を吸っていた者が勝者。その空気が美味いと感じた方が、勝ちだ」
――不平等を積み重ねた今を競い合う。
生まれたばかりの竜の魔女にとって、その価値観は、あまりにも新しく、強烈な劇薬として彼女の虚無に染み込んだ。
彼女は復讐のためだけに生み出され、狂人の言う通りに憎悪をばらまくプログラムでしかなかった。彼女に「生き方」や「在り方」を、ましてや「殺し合いのルール」を説く人間など、これまで一人もいなかったのだ。
「真っ正面から、清く正しく戦って、目的の結果を得られない。……そちらの方が好みというのであれば、そうするといい」
ヴァルナは、宣告するように告げる。
「最後まで正々堂々と戦い、そして死ね。正々堂々、清く正しく振る舞っている自分……そんな偶像に縋ることしかできないのであれば、お前は目的を達成することなく死ぬだろう。その後で、後悔と共に泣き喚く。誰にも見えない暗闇の中でな」
その言葉が、彼女の魂の最も深い部分を撃ち抜いた。
「……ハッ」
ジャンヌ・オルタの口から、乾いた笑いが漏れる。
それは、借り物の狂気の笑いではない。彼女自身の魂の底から湧き上がった、純粋な歓喜の嗤いだった。
「確かに。正々堂々なんて、私の柄じゃないわねぇ!」
彼女は高らかに笑う。
空っぽの器に、初めて彼女自身の『意志』が満ちた瞬間。
「いいじゃない。その殺し合いに対する向き合い方? 哲学? 呼称はどうでもいいけど……気に入ったわ」
竜の魔女の瞳に、絶対零度の虚無ではなく、命を燃やすような純粋な殺意と好戦の光が宿る。
彼女は、呪いの旗槍をヴァルナの鼻先へと真っ直ぐに突きつけた。
「アナタを殺す。どんな手を使ったとしても。……文句はないわね?」
「あぁ」
不平等の果てに立つ呪術師は、極上の笑みを浮かべてそれに応じた。
「それでいい。――来い」
次の投稿までちょっと開きます。
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