空洞と火の粉   作:狐族だいすき坊や

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告発

 やはりフォフォをあの現場に連れて行くのは早かったみたいだ。

 まったく懸念がなかったわけではないが、それでも早いうちに慣れてしまった方が良いという考えも確かにあった。とはいえ、彼女がまだ冥差──それも新人であることにもっと気を配ってやるべきだったかもしれない。

 

 部屋に踏み込んだ瞬間、フォフォの耳が根元から完全に伏せられた。

 その時点で僕は密かに失敗を悟った。

 目に涙の膜を張り、袖で鼻を押さえながら彼女は重い足取りでついてきた。逃げなかったことだけは認めてやりたいが、こういう現場──とりわけ死臭は意地で乗り越えられるものではない。

 

 案の定、と言うべきか。

 僕が部屋の奥で調査を進めていると、背後で短い嗚咽が聞こえた。振り返るまでもなかった。

 始末が終わるまでの間、フォフォは壁に背を預けて三角座りをしていた。顔を上げようともしない。僕が近づいても一切動かない。

 外に出てからも彼女はずっと黙っていた。俯いたまま、数歩後ろをついてくる。

 

「……すみません」

 

 フォフォが絞り出すような声で言った。

 少し歩くたびに、また言った──「すみません」「本当に、すみません」。

 謝るたびに声が小さくなっていく。

 

 何と言ってやるべきか僕には分からない。

 叱責は違う。慰めも多分違う。

 気にするなというのも、あれだけ吐いた後だと流石に無理がある。

 

 正解が分からないまま、僕はとりあえず歩き続けた。

 

 人気の少ない公園が目に入った。

 ベンチを見つけて、そこへ向かう。

 傍に木が一本立っている。

 青々とした葉が、風もないのに微かに揺れていた。

 

***

 

 さすがに寝巻のままというわけにはいかなかった。

 洗って落ちるような汚れでもなかったので、ゴミ箱に入れてから外出用の服に袖を通し、杖を手に取って外へ出た。

 

 まずフォフォの家へ向かう。

 道中、石畳の継ぎ目に杖の先を取られて転倒してしまった。

 立ち上がるのに時間がかかった。

 

 辿り着いてインターホンを押したが反応はない。

 もう一度押しても、やはり反応はなかった。

 僕は懐から符を取り出して丸め、鍵穴に押し込み術を起動した。焦げた臭いと金属の軋む音がして扉が開いた。

 

 前に来た時より部屋は散らかっている──フォフォはいない。

 額に汗が滲んできたので、袖で拭う。

 

 外に出てから辺りを歩いた。

 生活圏がほぼ同じという認識は以前からあったが、こうして意識して探すとなると手がかりになるようなものが何もない。見覚えのある場所を一通り当たった。居酒屋。茶館。判官の詰め所の近く。だが、どこにもいなかった。

 

 また転んだ。

 今度は段差に足を取られたのだ。

 服が滅茶苦茶になっていくのは分かっていたが、どうしようもない。

 

 気づけば夕方に差しかかっていた。

 

 さすがに体力も限界に近付いてきて、僕は無意識に座れる場所を探すようになっていた。

 フォフォを探しつつベンチを探していると、近くに人気のない公園が現れた。

 葉の落ち切った木の陰にベンチが設置されている。

 

 そして──ベンチの上でフォフォが膝を抱えて縮こまっていた。

 僕はベンチに近寄りフォフォの隣に腰を下ろした。

 

 何から話すべきかを、僕は静かに考えた。

 昨夜の出来事は理解している。部屋の状況が示していたし、経験的な知識がそれを補った。文学作品の中でこの種の出来事は珍しくない。感情が理性を超えた時、人はああいう行動を取ることがある。痴情の縺れ──それは知識として持っている。

 しかし、それを今ここでフォフォに重ねようとすると、どこかで像が結ばない。

 

 隣にいる彼女は、昨日まで毎日夕食を作りに来ていたフォフォと同一人物で。

 38年間僕の隣で教えを請い、多くの時間を共にした元弟子であり。

 そして……──そんなフォフォが、なぜ。

 

 分からない。

 分からないことは本人に訊くしかない。

 

 隣で蹲ったままのフォフォに、僕は昨夜の出来事について話がしたいと端的に述べた。

 フォフォの肩が一度大きく震え、膝に埋めた顔がさらに深く沈んだ。

 責めているわけではない、と付け足しても効果はなかった。

 

 沈黙が続く。

 公園の外で子供が何か叫んでいる。

 そして彼らはどこかへ走り去った。

 

「……ごめんなさい」

 

 膝の間から発せられた声は酷く掠れていた。

 謝罪は受け取ろう。しかし、僕が訊きたいのは理由──なぜあんな凶行に及んだのか、だ。

 話してくれなければどうしようもない。状況を仔細に把握したい。

 

「理由……理由……」

 

 フォフォは膝の中で何度もその単語を繰り返した。少しずつ言葉の間隔が大きくなっていき、ある時から彼女は完全に沈黙した。

 急かす理由も特になかったので、僕は時間の流れに身を任せてフォフォを見つめ続けた。

 

「……なんで、探しに来たんですか」

 

 いなくなったから。

 

「それだけ、ですか」

 

 それだけ……ではない、かもしれない。

 探さなければならないと思ったのは確かだ。寝室にフォフォの姿がなかった時、彼女ならどこに居そうか、どこに身を隠すか、普段好んでいる場所はどこか、そんなことを考えながら動いていた。転んでも、また立ち上がって歩いた。

 いま冷静に客観視してみると、その時の僕は明らかに普段と違った。

 何がそうさせていたのかと訊かれると返答に困るが、事実そうだった。

 

 それを、できるだけ正確に言葉にして伝えた。

 するとフォフォはゆっくりと顔を上げた。

 目が腫れている。頬に涙の乾いた跡がある。唇が少し震えている。

 

「怒って、ないんですか」

 

 何かが荒立っているという感覚はない。

 当惑はある。理解の及ばない部分への戸惑いもある。しかしそれは怒りとは違う気がした。怒りというものがどういう感覚なのかを正確には把握していないのだが、少なくとも今の状態はそれではないだろう。

 

「……アタシは」

 

 フォフォは掠れた声で続ける。

 

「ずっと……ずっと、そばにいたかったんです」

 

 フォフォは手をぎゅっと握りしめた。

 そして、また短い沈黙が訪れた。遠くで烏が鳴いた。

 

「もし、治療が成功したら。教官は一人で、また……全部できるようになって……」

 

 フォフォは一度言葉を切った。

 

「そしたらアタシのことは必要なくなって、毎日来る理由も、なくなる。そう、思って」

 

 呼吸を整えるように肩が動く。

 

「それだけじゃなくて……治ったら、また現場に出るって言われて。そしたら……また、ああいう怪我を。今度は、もっと酷い、もしかしたら……二度と」

 

 冷たい風が僕たちの間を吹き抜けた。

 

「……二度と、目を覚まさないかもしれないって」

 

 木の影が少しずつ伸びていく。

 

「最初は、ただ……傍にいるだけで、よかったんです。眠ってる教官の横に座って、ちゃんと息をしてるのを確認するだけで。そしたら怖くなくなって、アタシ……眠れたんです。それだけでよかったのに……本当に、最初は本当に、それだけで」

 

 フォフォは両手で顔を覆った。

 

「……それだけ、じゃ……──ごめんなさい……う、嘘です。ごめんなさい、ごめん……なさい」

 

 隙間から声が零れる。小さく、か細く、途切れ途切れに。

 フォフォは両手を下ろし、真っ赤な目で虚空を見つめた。

 

「あ、アタシ、教官とずっと一緒にいたくて、繋ぎ、止めたくて……」

 

 再び顔を手のひらで覆う。

 

「……うまく、いかなかったんですけど、それで……教官の栄養が足りてないんじゃないかって……だから、お肉を増やして……もう少しだけ元気になったら、もう一度って……」

 

 それで、フォフォの話は終わった。

 僕は彼女の話を頭の中で整理した。

 事実の輪郭は出揃った。茶の件、料理の件、領収書の件。断片として存在していたものが一本の線で繋がっていく。ある程度の納得は出来た。

 

 しかし、これで納得してはいけないと同時に思った。

 動機が分かった。そこには恐怖があった。それは理解できる。しかし動機の説明は行為の説明であって、問題の説明ではない。問題はもっと深いところにあるはずだ。

 

 フォフォは自分が必要なくなることを恐れていた。

 そして、僕が死ぬことを恐れていた。

 なぜ。

 

 僕は記憶を手繰り寄せた。

 

 昇進祝いの夜のこと。

 酒を一気に呷って倒れたフォフォを背負って帰った。

 あの夜、フォフォが何かを呟いていた──「そっか、アタシ……」。

 あれは何だったのだろう。

 

 それからしばらく、フォフォが僕によそよそしくなった。

 寒鴉があの後フォフォに何度も「離れた方がいい」と諭していたと聞いた。結局フォフォはその制止を聞かず、居酒屋で僕と会って話した。

 寒鴉の告げ口を白状していた時の微笑みは、どういう意味なのだろう?

 

 幻戯を観ていた日のこと。

 あの日、訓練という名目でフォフォは僕を招いた。

 画面が暗転するたびに呼吸が浅くなり、フォフォは次第に身を摺り寄せて来た。僕はあれを恐怖への反射として処理していたが、本当にそれだけだったのだろうか。

 そもそも──訓練だったのか、あれは。

 

 病室で「生きててよかった」とフォフォが言った。

 握り返してきた手の力は今も覚えている。あの言葉の重さは分かっていた。いや、正確には重みがあることは分かっていたが、その重みが何であるかを、僕は解明しないまま放置していた。

 

 退院してから今日まで毎日来て、夕食を作り、段差を教えながら隣を歩き、背中を流し、茶を入れた。顔色を伺いながら椅子を引き、向かいに座り、朝の食欲を気にかけた。

 

 雲騎軍の兵士の話を思い出した。

 身体の不自由な人間のために毎日夕食を作りにくるような者も存在する、と僕は実感と共に彼に言った。その実感が何の実感であるかを、僕は考えずにそこで止めていた。

 

 ルアンとの会話をフォフォに伝えたあと、"彼女"という言葉を繰り返し、フォフォはゆっくりと笑みを浮かべた。普段のフォフォと何かが違うと思った。

 そう感じながらも、僕はそれを言語化しなかった。

 

 最後にシッポの声が頭に浮かんだ。

 ──見てらんねぇよ。

 

 だいたい、分かってきた。

 おそらく、ずっと前から兆候はあった。

 

 フォフォが僕に向けていたものの名前を、僕はずっと言語化せずに保留し続けていた。

 保留には理由があった。知識として「そういうもの」が存在することは知っていても、それを自分と結びつけることが全く出来ないからだ。

 

 なぜなら僕は誰かにそういった感情を抱いたことがない。

 光を見たことのない者が、どうやって影を理解するというのだろう?

 経験したことのないものを、どうして我が事のように思えるだろう?

 

 しかし、今ここで全てを同じ方向に向けて並べると──繋がる。繋がってしまった。

 否定する材料がどこにもない。

 

 38年間。

 38年間、フォフォは僕の隣にいた。

 38年間、彼女が何を感じていたかを僕は一度も把握できていなかった。

 38年間、何も見えていなかったのだ。

 

 フォフォはまだ虚空を見つめていた。

 手のひらが膝の上で力なく開かれている。

 

 フォフォ。

 名前を呼ぶと、彼女の視線が僕の方に動いた。

 

「……」

 

 君は、僕のことが好きなのか。

 

「……」

 

 フォフォの目が大きく見開かれた。

 唇が小さく開いて、すぐに閉じた。

 視線が一度逸れ、また戻ってきた。

 

「……はい」

 

 彼女は、ゆっくりと頷いた。

 

「好きです。ずっと、ずっと好きで……教官のことが、大好きで……」

 

 崩れるように言葉が続いていく。

 

「ごめんなさい、好きです。愛しています、教官……ずっと、ずっとそばにいたくて……離れたくなくて……本当に好きなんです……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 呪詛のように、同じ言葉が何度も何度も何度も繰り返される。謝罪と告白が溶け合って、どちらがどちらか分からなくなっていく。彼女の声でそれが発せられるたび、僕は少しずつ喉が渇いていくのを感じた。彼女が気持ちを吐露するたび、僕の咎が明らかになっていく。

 

 咎。

 そうか。

 これは罪だ。

 

 38年もの間、僕はずっと罪を犯し続けて来た。

 僕は人間になれていなかったのだ。

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