空洞と火の粉 作:狐族だいすき坊や
修行の時間になってもフォフォが来ない。
5分。10分。僕は訓練場の椅子に座ったまま本を読み続けたが、15分が経過したところで栞を挟んで立ち上がった。遅刻は彼女の習性にない。何かあったと見るのが妥当だ。
廊下を歩きながら、まずフォフォが普段いる場所を頭の中で列挙した。
自室、食堂、資料室。あまり人目につかない場所。着任して間もない頃から、彼女が人の少ない場所を好んで移動することには気づいていた。足音が小さく存在を主張しない歩き方をする。廊下の端を歩く。誰かとすれ違う時に必要以上に身を縮める。ここに来る前の経緯については人事から概要を聞いていたから、さして不思議ではない。
資料室は無人だった。食堂も、自室にもいなかった。
しばらく当てもなく歩いて外に出てみると、建物の裏手にある小さな中庭の隅に見覚えのある緑を見つけた。石造りの低い壁に背中を預けて膝を抱えていて、顔が膝に埋まっている。
近づいても気づかなかったので声をかけた。
びくっと肩が跳ねて、彼女はゆっくり顔を上げた。
目元が赤い。頬が濡れている。
「す、すみません……忘れてた、わけじゃ……」
立ち上がろうとする彼女を手で制して今日の修行は中止だと告げた。こんな状態でやっても時間の無駄だ。フォフォは目を瞬かせ、それから視線を落として膝の上で指を絡め、それを解いてまた絡めるといった手遊びを始めた。
僕は彼女の隣に腰を下ろして同じように石垣に背を預けた。
「……手紙、来てたんです」
ぽつりと、フォフォが言った。
「家族から、と思ったら……そうじゃなくて。あの、元の学校の子たちから、で……」
僕は黙って続きを促した。
「読まなきゃよかったです。自分でも分かってたのに、なんで読んじゃったんだろ……あはは」
乾いた笑いが出て、それからまた黙った。
泣き声は上げなかったが、膝の上に落ちた雫が布地に染みを作った。
なるほど、その元同級生たちの送ってきた手紙が彼女をこんな風にしているらしい。さて、どうしたものかと頭を捻る。同僚とすら真面に付き合えない人間が幼子を宥めるなんてできる気がしない。まあ、やるだけやってみるかと思い立ち、僕は右の手のひらを彼女の前に差し出した。
息を緩めて気を引き上げる。掌の中心から黒い炎がゆっくりと立ち上った。普通の炎とは違って熱を持たない。むしろほんのりと温かい程度のもので、触れても燃えない。人は無意味な美に惹き付けられると思い込んでいた僕が10年程前に開発したものだ。使い道のない技だと同僚に笑われたことで、完全に僕の勘違いだったことが判明したが。
フォフォは顔を上げてじっと炎を見つめている。
差し出すと、彼女は戸惑いながら両手を器のようにして受け取った。
炎は掌の上で形を変え始めた。最初は小さな鯉。尾びれをゆらゆらと揺らしながら宙を泳ぐように動いて、やがて煙のように溶けて消えた。次に現れたのは龍だ。細長い胴体をくねらせて螺旋を描き、髭をそよがせながら昇っていくような動きをして、それもやがて消えた。
鶴が羽を広げた。孔雀が尾羽を扇のように開いた。小さな兎が耳を立てて跳ねた。
炎の中でそれらは生まれ、揺れて、消えた。墨で描いた絵が風に流されるような、そういう消え方をした。
「きれい……」
完全に気を取られているフォフォを横目に地面に放り投げられていた封筒を手に取って、これが件の手紙かと訊ねた。すると彼女は血相を変えて僕に振り返り、目を限界まで開いて口をはくはくと釣り上げられた魚のように開閉させた。その反応で十分確認できた。
僕は右手に新しい炎を作り、その揺らめきの頂点に触れるか触れないかの所に封筒を固定した。
やがて炎の中から虎が現れた。前脚を折って低く構え、後脚に力を溜めるようにじりじりと重心を落とす。それから、ぐっと沈んだかと思うや否や僕の手のひらを蹴り付けるようにして跳ね上がった。
黒い爪先が封筒の端に食い込んだ。虎はぐいぐいと引っ張り、封筒を炎の中へと引きずり込んでいく。紙は燃えるでも灰になるでもなく、虎と共に黒い炎の向こうへと去っていった。これで手紙は跡形もなく消えた。右手を閉じて炎を消した。
「……ありがとう、ございます」
それからしばらく、僕たちは並んで石垣に背を預けたままでいた。風が中庭の草を揺らした。フォフォは時折鼻を啜って、それ以外は静寂を保っていた。僕も本を取り出してそれを読んだ。沈黙は苦ではなかった。少なくとも僕にとっては。
「あの、教官。アタシ、ここに来てよかったんですかね」
本から目を上げて、何が言いたいのかと訊ねる。
「なんか……邪魔してばっかりで。いつも迷惑かけてばっかりで。元々アタシみたいなのがここにいていいのかも、分からなくて……」
僕はしばらく宙を見ながら言葉を選び、君には才能があると述べた。
「……はい」
それで十分じゃないのか。そう付け加えた。
彼女はまた視線を落として膝の上で指を絡め、それを解いた。
僕は本に視線を戻した。
風がまた吹いてフォフォの耳がそれに揺れた。
隣で彼女が静かに息をしている。
しばらくして、フォフォがうとうとし始めた。
眠りなさいと言うと、彼女は「でも」と言いかけて止まり、それからこくりと頷いて石垣に寄りかかった。じきに寝息が聞こえてきた。僕は起こさないように彼女の右手を取り、炎を回収して手のひらを閉じた。
***
あの日の出来事を忘れたことは一度だってない。
教官が何を思ってあの炎を見せてくれたのかは今でも分からない。
38年一緒にいて分かったのは、分からないことが正しい、ということだけだった。
寒鴉さんの言う事は正しいと思う。教官に人の心はない。
あったとしても、きっと誰も気づかないくらい小さな火の粉なんだ。
でも……。
教官があの炎を作った時の話をしてくれたことがある。人は無意味な美に惹かれるものだと思ってたって。笑われて、勘違いだと気づいたって。
それを聞いた時からずっと思ってる。
たとえそれが失敗作のひとつに過ぎなかったとしても、教官が無意味なものに美しさを見出そうとしてくれたこと、その小さな火の粉みたいなものを、あの日空洞の中からアタシに向けて差し出してくれた気がして。
アタシは、それが嬉しかったんだ。
ずっと、嬉しかったんだ。
「空洞と火の粉」完結