空洞と火の粉 作:狐族だいすき坊や
その日の仕事を終えた僕は、帰りに居酒屋に寄って本を読みながら酒を呑んでいた。
結局寒鴉との食事はあのまま流れてしまって、お互いの都合が合う時間もなかなか取れないせいで仕事の話も出来ずじまいだ。おまけに次に担当することになっていた弟子候補も直前で別の同僚に割り当てられるしで、最近小さなところで躓きがちだ。
酒を呑みながら、ふと最後にフォフォと会った時のことを思いだす。
どもった口調、怯え切った表情、そして涙。状況的に僕に原因があるというのは明白なのだが、肝心の原因というものが分からずにいた。これを解くのが目下の課題である。こんなもの、普通は課題にするまでもなく分かることなんだろうな。一口酒を呑み下す。
「いらっしゃいませ。空いてるお席にどうぞ」
ガラガラと背後で扉の開く音がした。それから喧騒に紛れて足音が。
足は小さく、歩幅も狭い。身長はそこまで高くはなく、むしろ低い。歩き方からして恐らく一見か、あるいはそもそも人の多い場所に慣れていない。本を読みながらそんなことを考えた。答え合わせのために振り返った僕は、そこに居た意外な人物に思わず目を丸くした。
「あ……うぅ……」
隣空いてるよ、と指差すとフォフォは視線を右往左往させて、それから深呼吸をして隣の席に腰を下ろした。
メニュー表を手渡すと、彼女は内容に一通り目を通してから「き、教官はなにを……」と訊いてきたので、僕は先ほどの注文を思い返し、メニューを指差しながら答えた。そしてフォフォは全く同じものを注文した。
料理が運ばれてくる前にフォフォ、と僕は名前を呼んだ。
「ひゃ、ひゃい!?」
耳が一瞬ぴんと立ち、それから空気が抜けていくみたいに萎れながら後ろに倒れていく。尻尾が炎のように揺れている。そんなに緊張しなくていいと伝えても効果はなかったので、僕はそのまま話を続けた。
目下の課題とは言いつつも、少なくとも一つだけ分かったことがあった。
僕が溜息を吐いた後にフォフォが泣き出してしまったことだ。あれは自分の至らなさへの失望だったのだが、もしかするとフォフォは、その溜息を彼女自身へ向けたものと勘違いしたのではないかと思ったのだ。
そんなつもりはなかったし、そもそも君には何の咎もないと伝えた上で、もしそうだったなら申し訳ないと謝罪した。彼女は震える手で、僕の衣の袖を指先が白くなるほどぎゅっと握りしめた。
「……よかった。本当に、よかったぁ……」
フォフォは鼻を啜りながら消え入りそうな声で漏らした。
それから、運ばれてきた度数の高い酒を躊躇わずに口に運んだ。
顔を赤らめながらも、彼女の口調は先ほどより幾分か滑らかになっていた。
寒鴉に連れて行かれた後に「あの男は人の心が欠落しているから離れたほうがいい」と何度も諭されたのだと、彼女は少しだけ微笑みながら白状した。
僕は寒鴉の指摘は至極真っ当であると肯定した。現に彼女との食事は霧散し、僕に割り当てられるはずだった新しい弟子も上層部によって取り消されてしまった。今の僕には教えるべき相手も、プライベートで時間を共有する相手もいない。
その現状を包み隠さず彼女に提示した。
「……今は、お一人なんですか?」
僕は頷いた。
何だか最近僕に向けられる視線が前と同じものに戻っているような気がするし、友人らしい友人もいない。しばらくは一人で酒を呑み、本を読むだけの生活に戻るだろうと付け加えた。
「そう、ですか。そっか、そっかぁ……」
フォフォはグラスを口元に運び、ぐいっと酒を呑んだ。明らかにハイペースだ。また背負って帰ることになるかもしれない。彼女は軽いし、自宅もここから近いので別に構わないが。
トン、と机の上にグラスを置き、フォフォは完全に据わった目を僕に向けて来た。
「えへ、えへへ……」
にへら、と笑みを浮かべている。
「きょうかん、きょーかん……」
再びグラスを持ち上げて残った酒を呑もうとしていたので、飲み過ぎだと言ってグラスを手で制した。耳がぴくりと波打つように跳ねた。そういえば、いつの間にか耳が立っている。
「じゃあ、じゃぁ……きょーかんが呑んでください……」
しょうがないな。
僕は受け取ったグラスに口を付けて酒を迎えた。
フォフォがその様子をじっと観察してきた。何だか懐かしいな、昔のことを思いだす。確か彼女と師弟だった頃も、僕が手本をやっているのをフォフォは食い入るように観察していた。そう思うと、彼女が異例の速さで出世を果たしたのは生来の素質もさることながら、彼女の真面目な性分に依るところも大きいのではないかと思える。
「おいしいですか……?」
もちろん、と答えるとフォフォは目を僅かに細めて口元に三日月を浮かべた。
その日の彼女は、この間のことが嘘であったかのように終始上機嫌だった。結局最後は寝てしまって、起こすのも気が引けたので背中に負ぶって自宅に送り届けた。
出世祝いの後に背負った時よりも少し軽く感じたのは恐らく気のせいではない。
ちゃんと食べるように言っておかなければ。