空洞と火の粉 作:狐族だいすき坊や
気がつけば、同僚と顔を合わせる機会が減っていくのに反比例する形でフォフォと会う頻度が上がっていた。街角で、居酒屋で、仕事終わりも休日も関係なく、ふとした瞬間に彼女の緑が視界に入っている。
生活圏がほぼ同じということもあり、偶然の一致が重なっているのだろう。
そんな折のことだ。
何の気なしに休日の予定を訊かれて、何もないと答えた。するとフォフォは一瞬何か言いかけるように表情を明るくして――その寸前で、ぐっと唇を引き結んだ。それから一拍置いて、今度一緒に訓練に付き合って欲しいとおずおずと申し出てきた。
訓練。その言葉の意味するところを確認すると、彼女は少し恥ずかしそうに経緯を説明してくれた。自分の臆病な性格と判官の職務の相性が良くないことは本人が一番よく分かっているらしく、それを克服するためにホラー系の幻戯を繰り返し観て胆力を養おうとしているのだという。
正直に言えばそういうものは実践でしか身につかないと思っているが、発想の新しさは認めざるを得なかったし、どういうものか単純に気になった。
了承すると、フォフォは耳をぱたぱたと揺らした。
次の休日にフォフォの自宅を訪ねた。
案内された部屋を見回した。室内は清潔で整えられていたが、床にうっすらと残る拭き跡、クッションの向きがどこか揃いすぎていること、棚の端に押し込まれた背表紙の揃っていない数冊の本が普段の状態を遠回しに教えてくれた。
フォフォは準備を始めながら、ちらちらとこちらを窺ってきた。
「教官が新入りだった頃って……どんな感じでしたか。や、やっぱり怖かったですか……?」
怖かったか。僕は少し思い返した。
あの頃のことを順番に手繰り寄せてみたが、怖いという感覚がどこにも引っかかってこない。
そもそも僕はああいったものが昔から気にならない質なのだと気づく。幼い頃からそうだった。
全くそんなことはなかったと答えると、フォフォは遠い目をして「いいなあ」と小さく呟いた。
喉が渇いたな、と背の低いテーブルに視線をやった、その瞬間だった。
「あっ、お茶! ご、ごめんなさい、すっかり……!」
フォフォが弾かれたように立ち上がり、謝りながら台所へ消えていった。僕は腰を上げて残りの準備を引き継いだ。
お盆にお茶を載せて戻ってきたフォフォが目を丸くしたので、問題ないと伝えた。
「あ、ありがとうございます……」
どういたしまして。
カーテンを閉め、部屋の照明を落として僕たちはソファに並んで座った。幻戯が始まる。
フォフォが選んだ作品は、鬱蒼とした森の中に佇む洋館を舞台にした古典的作品だった。序盤は不気味な雰囲気の醸成に時間が割かれていて特筆すべきことは何も起きない。音楽の使い方は悪くないと思った。
隣からそっと体温が近づいてくるのを肌で認識する。
フォフォが身を僅かに寄せている。気のせいかとも思ったが、しばらくして今度は膝の上のあたりに何かが触れた。視線を落とすと、彼女の手が僕の腿にそっと添えられていた。指先が微かに揺れている。フォフォは画面を見つめ続けている。
画面の中で洋館の扉がゆっくりと開いていく。
僕はあまり退屈という感情を表に出さない方だと思うのだが、心の中ではそろそろ場面が動いてほしいと思っていた。音楽が低く唸り始め、廊下の闇の中に何かの輪郭が浮かんでくる。
この手の演出は展開を読めてしまうのが難点だ。
洗面所であれば鏡、バスルームであればカーテン、寝室であればベッドの下という風に。
画面の中で何かが叫んだ。
「ひっ」
フォフォは上擦った声を上げ、彼女の手に力が入った。
画面が暗転するたびにフォフォの呼吸は浅くなり、効果音が鳴るたびに腿の上の手が強張った。
いつの間にか彼女の肩は完全にこちらへ寄り掛かっていた。これは訓練として成立しているのかと疑問に思い始めた頃、不意に隣が静かになった。
それから時間は過ぎていきエンドロールが流れ始めた頃、僕は何とはなしに視線を横へ向けた。
「……」
フォフォが白目を剥いていた。
口が半開きになっている。呼吸はある。ただ完全に意識を手放している。僕はエンドロールを最後まで見てから幻戯を止めて照明を戻した。
ソファから立ち上がり伸びをしたあと、その場にしゃがんでフォフォの背中と膝裏に腕を通し立ち上がろうとしたところで、尻尾の炎が大きく揺らめいた。
「おい」
久しぶりだな。
そう言うと、シッポは牙を覗かせながら強く睨みつけてきた。
「てめぇ何するつもりだ?」
そんなの訊くまでもないだろうと思いつつも、ベッドに運んでやるつもりだと答えた。
シッポは歯軋りしながら暫く目を鋭くしていたが、やがて瞼を閉じて溜息を吐いた。
「手出すなよ。まあ、お前に限っては言うまでもないだろうがな」
僕はシッポの言葉を無視してフォフォを寝室へ運んだ。
多分ここに客人が来ることは想定外だったのだろう。足元に気を配りながら歩き、ベッドの上に転がっているぬいぐるみを横にどけて彼女を横たえた──が、ふとした気付きがあって、僕はフォフォの上体を僅かに浮かせて手を差し込み、髪を枕の上に流した。
「……慣れてんな?」
そう訊いてきたシッポに、言いたいことがあるならもっと詳らかに言えと返した。
「女と付き合ったことあんのか?」
ある。
「……マジか?」
本当だとも。僕は学生時代の記憶を手繰り寄せた。
あれは随分と昔の話だ。彼女は親が学者だったこともあってか非常に聡明で、交わす会話はいつも刺激的だった。時々髪の毛や体液を要求してくる変わった習慣はあったが、それを除けば概ね充実した日々だったと記憶している。
「気持ち悪ぃな!」
まあ確かにそうかもしれないが僕は気にならなかったし、なにより毎回何かしらのフィードバックがあったので特に断る理由もなかったのだ。そのお陰で病が見つかったこともあった。
そんな彼女は研究に没頭すると夜通し机に向かっていることがあって、朝方に寝落ちしているのを見つけてはこんな風にベッドまで運んでいた。だから慣れている。
シッポは黙って聞いていた。牙は収まっている。
「で、その女とは今も付き合ってんのか」
いや、と即答した。
彼女は仙舟を離れた。旅立つ際に同行するかと訊ねられたが僕は断った。それがそのまま別れとなった。淡々と事実だけを並べてシッポに伝えた。
「ほう……」
シッポは興味深そうに相槌を打った。
そういえば、彼女は今も元気にしているだろうか。玉兆を取り出して検索を掛けてみると、3年前にヘルタという人物と共著で論文を出していることが分かった。僕は画面を閉じた。どうやらシッポも覗き見ていたらしく、耳元で舌打ちが聞こえた。
「この話、絶対フォフォの前ですんじゃねぇぞ」
今してしまったが。
「そういう意味じゃねぇ!」
シッポが声を荒げた。彼の実体を象徴する炎がひときわ大きく揺れる。
僕はフォフォに毛布を手繰り寄せてやりながら、シッポの言わんとするところを静かに考えた。