空洞と火の粉 作:狐族だいすき坊や
天井のシミは五つ。木目の年輪は今日だけで三度数えた。
体を起こすには腹部が痛すぎる。左腕は固定されていて動かせない。右手だけは自由だが、手が届く範囲に本も玉兆も置いていない。看護士に頼めば持ってきてくれるだろうが、それも億劫だ。なにより口を開くたびに肋骨のあたりが軋む。
退屈だ。
「こんな姿は久しぶりに見た」
隣の椅子から寒鴉が平坦な声で言った。
彼女は脚を組んで書類らしいものに目を落としている。
仕事の合間に寄ってくれたのだろう。
確かに、と僕は天井を向いたまま答えた。こんな大怪我を負ったのは判官になりたての頃以来だ。あの頃は加減というものを知らなかったし、引き際を知るための経験も足りていなかった。ただし今回に関しては経験不足というより、単純に予想外のことが起きたのが原因だ。
「何があったの」
僕は経緯を手短に説明した。
魔陰の兆候が見えた仙舟人を迎えに出た冥差が戻らないという報せが入り、雲騎軍の兵士数名と共に調査へ向かった。現地に踏み込んだところで複数名との戦闘が始まったが、相手方は予想以上に手強かった。兵士たちが次々と倒れていく中で援軍の要請だけは先に出しておいた。それが功を奏して最終的には何とかなった。
問題は要請を出した後だった。
物陰から子供が飛び出してきたのだ。全く予想外の方向からで、咄嗟に庇おうとして足を滑らせ体勢が崩れた。その隙に剣で何か所か切りつけられ高所から落ちた。
「子供は」
無事だと聞いている。
寒鴉は「そう」と短く答えて再び書類へ視線を戻した。
しばらく沈黙が続く。
「それで、フォフォには連絡した?」
していないし、そもそもそんなタイミングはなかった。
聞くところによると数日間意識を失っていたようだし、目が覚めた時は腕を動かすことさえ難しかったのだ。玉兆で連絡を取る余裕なんてなかったし、寒鴉が来るまで一人も見舞いに来なかったので伝言を頼める相手もいなかった。それに、僕が直接伝えなくても周りが勝手に噂して勝手に彼女の耳に入るだろうという打算もあった。
概ねそんなことを述べると、先ほどまで聞こえていたペンの音が止んだ。
「……そう」
それだけ言って、寒鴉は再びペンを走らせ始めた。
また天井のシミを数え始めたところで、廊下の方が急に騒がしくなった。
早足。それから小走り。それから──
「し、失礼しますっ」
勢い余った様子で扉が開く。その先にはフォフォが立っていた。
息が切れていて、頬が紅潮していて目が赤い。緑の髪が乱れていた。走ってきたのだろう、いつもより身なりが崩れている。
フォフォは部屋に一歩足を踏み入れ、そして止まった。
また一歩。また止まる。
それから堰が切れたように駆け寄ってきて、ベッドの縁に膝をつき、白いシーツを両手で握りしめた。言葉が出てこないのか、口が小刻みに動いているだけで何も声にならない。よく見ると目の端も赤い。泣いていたらしい。
「……フォフォ」
寒鴉が名前を呼ぶも、フォフォは振り返らなかった。
彼女は少しの間黙っていたが、やがて静かに溜息を吐いて椅子から立ち上がった。退室の際に一度だけ僕へ視線をよこしたが、結局何も言わなかった。扉が静かに閉まる。
フォフォはまだシーツを握ったままだった。
肩が荒く上下していて、呼吸が乱れているのが分かった。
「ああクソ! うるせぇな!」
尻尾の炎が大きく揺れてシッポが実体化した。
「生きてんだからちったぁ落ち着け!」
フォフォはびくりと肩を揺らしてシッポを睨みつけた。
睨みながらも目尻に涙が溜まっているので凄みに欠けるが、それでも反感の色はしっかりと出ていた。シッポは牙を覗かせながらも、それ以上は何も言わなかった。フォフォの呼吸がだんだん緩やかになっていく。
そんな彼女を見ながら、僕はふと疑問に思って今日は休日かと訊ねた。
するとフォフォの視線がすっと窓の方に逸れた。視線を辿ってみたが、窓には特に何もない。
「……仕事が一段落したので」
「サボりだ」
「っ、シッポ!」
シッポは涼しい顔で「事実だろ」と返すだけだった。
フォフォが仕事をサボった。僕はその事実を意外に思いながら頭の中で転がした。
フォフォといえば昔から真面目な娘だった。訓練には毎回出席していたし、僕が課したやや無茶な鍛錬も最後まで投げ出さずにやり遂げてみせた。そういう娘だった。
そんな彼女が職務を途中で切り上げてまでここへ来た。それが少し引っかかる。
何か特別な用事があって来たのかと訊ねた。
「……はい?」
フォフォは目を瞬かせた。
それから少し間を置いて「お見舞いに来たんです」と一言述べた。それ以外に用事は何もないと付け加えて。
それなら仕事が終わった後でも良かったろうに、と返すとフォフォの表情が分かり易く歪んだ。
眉が寄って、唇が引き結ばれて、何かを堪えるような顔になった。
「で、でも……」
フォフォは俯き黙り込んだ。
視線がシーツの上を彷徨い、僕の右手の近くで止まり、また逸れた。それを何度か繰り返す。
やがてフォフォは、ひどく小さな声で言った。
「……教官は、怖くなかったんですか」
問いを頭の中で何度か反復する。
そういえばこんな質問を以前にもされたな、と思った。彼女の自宅で幻戯を観る前に新入りだった頃のことを訊かれた。あの時は記憶を手繰り寄せて推論した末に、恐怖というものが自分の中のどこにも引っかかってこない、という漠然とした結論が出た。
しかし今回は違う。
今回は実際に経験した直後だ。腹の傷が痛むたびに、あの瞬間がはっきりと蘇る。剣が入ってくる感触、体が高所から落ちていく感覚、地面に叩きつけられた衝撃。それら全てを順番に検分してみても、やはり恐怖という感情はどこにも見当たらない。
なかった、と僕はきっぱりと答えた。
「……アタシは」
シーツを握る手が微かに動いた。
「報せを聞いてから、ここに来るまで、ずっと」
シーツの上に置かれた彼女の手が小刻みに震えている。
走ってきた疲労のそれではない。それくらいは流石に分かった。
ふと、あの日のことが頭に浮かんだ。
薄暗くしたフォフォの部屋で、ソファに並んで幻戯を観ていたあの時間。画面が暗転するたびに呼吸が浅くなり、効果音が鳴るたびに腿の上の手が強張り、気がつけば肩がすっかりこちらへ寄り掛かっていた。今のフォフォは、きっとあの時と同じだ。
僕は右手をゆっくりと持ち上げて、シーツの上に置かれている彼女の手の上にそっと載せた。
「……え」
フォフォは顔を上げて呆然とした表情で手元を見ている。
それからゆっくりと視線が上がってきて僕の顔を見た。
また間違えてしまったかもしれない。
手を離そうとした──その前に。
フォフォの指が動いて、僕の手をぎゅっと握りしめた。ずいぶん力強く。
「……怖かったです」
しばらくして、フォフォは小さく呟いた。
「報せを聞いてから、ずっと。ここに来るまでも、ずっと怖かったです。……来てみたら、思ってたよりずっと酷い怪我で、それで、またもっと怖くなって」
解けていくように言葉が続く。
「もしもっと早く、援軍が間に合わなかったら、とか。子供を庇おうとして、高いところから落ちたって聞いて、もし頭を打っていたら、とか。考え出したら止まらなくて……教官はそういうの、怖くないって言うけど、アタシは」
握った手に、じわりと力が籠もる。
「アタシは……すごく怖かったです」
僕はそれを聞きながら天井を見た。
シミは五つ。いつもと変わらない。
自分の中のどこを探しても恐怖はなかったが、彼女がそれだけ怖がっていたという事実は不思議と腑に落ちた。説明はできないが、否定する気にもなれなかった。
怖い思いをさせて申し訳ない、と僕は言った。
意図してそうしたわけではないし、またああいう場面に出くわせば同じことをするだろうという自覚もある。それでも彼女が怖がったという事実は明らかなので、そう伝えた。
「……ずるい」
フォフォが掠れた声で言った。
「そういうこと言われたら、怒れないじゃないですか。……怒ってないですけど」
矛盾しているな、と思った。思っただけだ。
フォフォはそのまま暫く俯いていたが、やがて顔を上げてこちらを見てきた。目が赤い。頬に涙の伝った跡がある。それでも口元には僅かに弧が浮かんでいた。
「……生きてて、よかった」
僕は何も言わず、フォフォの手を静かに握り返した。