空洞と火の粉   作:狐族だいすき坊や

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 医師から退院を告げられたとき、正直ヤブ医者を引いたと思った。

 足は満足に動かない。切りつけられた傷も治癒の途中と呼ぶには程遠い状態に思えた。体を起こすたびに腹部が鈍く痛み、左腕は動かすと未だに軋む。こんな状態で退院を言い渡すとは、と内心で判断を疑った。

 

 しかし後に続けられた説明を聞いて僕は納得した。

 相手方が使用していた武器は魔剣と呼ばれる類のものらしかった。本来であれば雲騎軍の厳重な管理下に置かれるか、鋳潰して完全に使い物にならなくするものだ。その魔剣の特性により、傷は表面上塞がってはいるが内側の機能が著しく低下している状態が続いており、入院治療でどうにかなる段階は既に過ぎ去った、というのが医師の説明だった。

 

「この類の傷は精神的なところも大きいので、本人の治そうという意志が重要になります」

 

 それでも完治までにはかなり時間がかかるでしょうが、と医師は付け足した。

 

 要するに、あとは自力で回復するか、しないかだ。

 文句を言うなら魔剣を持ち込んだ相手方に言え、ということでもある。

 それならば納得できる、と伝えると医師は少し困った顔をした。何か問題でもあったかと訊き返すと「もう少し不満そうな顔をしてください」と苦笑交じりに返ってきた。そういうものか。

 

 退院の日にはフォフォが迎えに来た。

 

 彼女が泣いた一件から、僕は定期的に連絡を入れるようにしていたのだ。

「今度はちゃんと仕事を終わらせてから来ましたよ」とわざわざ申告してきたので、それはよかったと答えた。フォフォは少し目を細めたが何も言わなかった。病院の廊下に出ると、支給された杖を突いて歩く僕の歩調に合わせ、彼女は無言でゆっくりと隣を歩いた。

 

 外に出ると風が冷たかった。

 杖を突くたびに地面の硬さが腕を通じて伝わってきて、これが長くなると肩に来るなと思った。

 フォフォが僕より少し前に出て何かを確認するように進行方向を見た。石畳の継ぎ目、段差になりそうな箇所、人の多い方向。目線が忙しなく動いている。

 

「そこ、段差があります」

 

 フォフォの言う通り、確かに少し先の敷石が僅かに浮き上がっていた。杖の先が引っかかれば厄介な高さだ。感謝を告げるとフォフォは頷いて前を向いた。それから自宅に辿り着くまでの間に彼女は三度そうやって前方を確認し、その都度一言だけ知らせてくれた。「ここから少し狭くなります」「向こうから人が来ます」「もう少しです」と。

 

 悪くないな、と思いながら歩いた。

 

 自宅の扉を開けると、フォフォが玄関前で少し躊躇した。

 中に入るのが当然の流れだろうと思ったが、彼女は敷居の手前で一度立ち止まり、お邪魔しますと言ってから踏み込んだ。

 

 居間で僕が腰を下ろすのを見届けてからフォフォは部屋を見回した。

 視線が棚の上で止まり、机の上で止まり、それから台所の方へ向いた。

 

「何か……食べるものはありますか?」

 

 特にない、と答えた。

 保存食の類もなかったはずだ。

 

「……買い出しに行ってきます。教官はここで待っていてください」

 

 構わなくていい、と言おうとしたがフォフォは既に背を向けていた。

 静かになった部屋で、杖を脇に立てかけて足を伸ばした。やはり感覚が鈍い。魔剣の影響は傷口だけでなく広範囲に及んでいるらしく、感覚が戻るまでにどれほどかかるのかは医師にも見当がつかないとのことだった。極めて不便だ。

 

 しばらくしてフォフォが戻ってきた。

 紙袋を二つ提げて重そうにしていたので手伝おうとしたところ、フォフォが「だ、大丈夫です」と先回りして台所へ消えた。それから音が続いた。袋を開ける音、冷蔵庫が開く音、棚を開く音。

 途中で「あの、茶葉はどこですか?」と声が飛んできたので、棚の右から二番目だと答えた。

 また音が続く。

 

 やがてフォフォは盆を持って居間に戻ってきた。

 茶と、それから椀が一つあった。中身は粥だった。

 

「その……あまり凝ったものは作れないんですけど……」

 

 フォフォは少し眉を下げながら言った。十分だと答えて匙を取った。

 フォフォは向かいに座らず、少し離れた場所に立って僕が食べるのを見ていた。座ればいいのに。視線を向かいの椅子、フォフォ、最後にもう一度椅子へと順に移していくと、ややあって彼女は徐に動き出し、それから椅子を引いて向かいに腰かけた。

 

 粥はよく炊けていた。

 飲み込むのが楽で胃に負担がない。入院中の食事と大差ないかもしれないが温度の加減が丁度よかった。それを伝えると、フォフォは「よ、よかったです」と言って少しだけ表情を緩めた。

 粥を食べ終えると、フォフォは椀を下げて洗い物に向かった。水音が台所から続く間、僕は仕事道具の入った袋と壁に立て掛けてあった剣を手元に引き寄せ中身を確認し始めた。

 

 入院中に誰かが持ち込んでくれたらしく、あの夜身につけていたものが一式袋に入っていた。

 剣は鞘に収まったままだったが、柄の部分に何か所か細かい傷が入っていた。鞘にも擦れた跡がある。高所から落ちたのだから当然といえば当然だ。刃を確認すると刃こぼれが二箇所。砥石が要る。留め具の金具が一つ緩んでいたので指で締め直した。

 台所の水音が止んでフォフォが戻ってきた。

 

「……それ、入院中に誰かが届けてくれたんです。あの夜、現場に残っていたものを雲騎軍が回収してくれたみたいで」

 

 そうか。礼を言っておかなければ。

 フォフォは向かいの椅子に腰かけ、僕が革帯の縫い目を確認するのをしばらく黙って見ていた。

 

「……これから、仕事はどうされるんですか」

 

 僕は手を止めずに答えた。

 僕の職務は重犯罪者の追跡と身柄確保が主で荒事が基本だ。この状態で現場に出るのは難しいから、しばらくは様子見になるだろう。できれば事務へ異動して回復の具合を見ながら復帰の時期を探りたいと思っている。

 

 僕は革帯を置き、次に脛当ての留め具を確認した。

 金具が一つ根元から折れている。これは交換が必要だ。

 

「……十王司は」

 

 フォフォが静かに口を開いた。

 声が少し低かった。

 

「魔剣の存在を、知ってたんでしょうか」

 

 思わず手が止まった。

 そんなことを訊かれるとは思っていなかった。

 脛当てを机の上に置いて少し考える。

 

 可能性は低い、と僕は最終的に結論した。

 もし上層部が魔剣を持ち込んだ集団の存在を把握していたなら、最初から調査隊ではなく相応の規模の部隊を編成して送り込むはずだ。雲騎軍の兵士数名と判官一人という編成では明らかに力不足だ。実際、僕と同行していた兵士たちは今頃軒並み使い物にならない状態だろう。魔剣の影響は傷の深さに比例する。あの戦闘で彼らが受けた傷は浅くない。

 

「……」

 

 フォフォの視線が机の上の脛当てに落ちた。

 折れた金具の先端を見ている。

 耳は伏せていた。

 

***

 

 それからフォフォは毎日来るようになった。

 仕事終わりに立ち寄り、夕食を作り、後片付けをして帰る。そういう流れがいつの間にか定着していた。断る理由もなかったし、正直なところ片腕と片足が不自由な状態での自炊は見通しが甘かったと思い知ったので助かっていた。

 

 ある夜のことだ。

 フォフォが食器を洗っている音を聞きながら、僕は文書の整理をしていた。上層部から届いた異動に関する書類と、それに付随する事務手続きの確認書類が重なっていた。

 目を通しているとフォフォが盆を持って戻ってきた。湯呑が二つ載っている。

 

「書類、多いですね」

 

 異動の手続きだと説明しようとして僕は言い淀んだ。正確な表現ではないからだ。

 ことり、と湯呑が置かれる。視線を上げると、フォフォが不思議そうに書類を眺めていた。

 

「……あ、す、すみません! あんまりジロジロ見ちゃダメ、ですよね……」

 

 構わない、と言って僕は書類の一部をフォフォに手渡した。

 異動先について記されたものだ。そして先ほど僕が言い淀んだ原因でもある。

 

「……へ? 統括部?」

「なにぃ? おめぇ昇進すんのか!」

 

 シッポの言葉に僕は頷いた。

 確かに異動先は事務ではあるが、正確には実働する判官たちの管理・統括を担う部署だ。現場から直接この役職に就く例は僕自身ほとんど聞いたことがなかったので、辞令を受け取った時は少し面食らった。今回の件で何らかの評価が動いたらしい。

 

「す、すごい! お祝いしなきゃ……!」

 

 フォフォが書類を手に取り興奮した様子で声を上げた。耳がぱたぱたと動いている。しかしその興奮は長続きしなかった。書類に視線を落としたまま、しばらくして彼女の動きがゆっくりと鎮まっていくのが分かった。それどころか次第に眉が下がり始め、耳も伏せられていく。

 

「……教官は、その……羅浮から離れるんですか?」

 

 僕は書類の山に手を差し込み、迷わず一枚引き抜いてフォフォに手渡し答えた。

 流石にこの状態で慣れ親しんだ土地を離れるのは現実的ではない。それに土地勘のある人間をわざわざ別の場所へ出す合理的な理由もない。

 フォフォとシッポが受け取った書類に目を落とした。

 

「……てれわーく? なんだそれ」

 

 シッポが訊ねた。フォフォも首を傾げ、耳も一緒に傾いた。

 管理対象となる判官たちが羅浮の各所に散らばっている以上、文書とコンピュータでのやり取りが主になる。なので、基本的には自宅を拠点にして構わないと話がついている。状況によっては対面での確認が必要な場面も出てくるが。

 

「じゃあ、ここにいるんですね。……ずっと」

 

 当面は、と僕は繰り返した。

 フォフォは書類に視線を落としたまま僅かに頷いた。

 耳がゆっくりと持ち上がり、それから小さく息を吐いた。

 

「その統括ってのは、フォフォも管轄に入るのか」

 

 シッポの問いに僕は頷いた。

 判官全員が対象だ。フォフォも当然その中に含まれる。

 シッポは少しの間黙っていたが、やがて「そうか」とだけ言い残して尻尾に戻った。フォフォはそのやり取りに反応せず、ずっと書類を眺めていた。

 

「……なんか」

 

 フォフォがぽつりと零した。

 

「なんか、不思議な感じがします」

 

 何がだ。

 

「教官がアタシの……その、上になるじゃないですか。また」

 

 確かに師弟関係は公的に解消された。

 それが形を変えて、今度は職務上の関係として再び繋がることになる。

 

「……いいです。なんか、そっちの方がしっくりきます」

 

 フォフォは書類を丁寧に揃えて机の端に置いた。

 それから湯呑を両手で持って一口飲んだ。

 ちゃんと食べているか、と訊いた。

 フォフォが湯呑から顔を上げた。

 

「き、急に何ですか……」

 

 毎日来て夕食を作っているのは分かっているが、それ以外の時間帯に食事を取れているかが気になっていた。顔色は悪くないが、以前より幾分か頬の肉が薄い気がする。入院中からそう感じていたが訊くタイミングを逃していた。

 フォフォは少し目を泳がせた。

 

「……食べてます」

「食えてねぇだろ」

 

 シッポが実体化せずに言った。

 フォフォの耳がびくりと跳ねる。

 

「っ、食べてます! ちゃんと!」

 

 量が少ないのではないかと訊ねると、フォフォは口を引き結んだ。

 しばらく沈黙が続いた。湯呑を両手で包んだまま、フォフォは机の上に視線を落としている。

 

「……最近、あまり食欲がなかったんです」

 

 最近、というのがどのくらいの期間を指しているのかは分からない。

 しかし心当たりは一つしかない。僕は溜め息を吐こうとして、寸前で耐えた。代わりに謝罪を声に出して言った。

 

「そ、そんな! 教官のせいじゃ……」

 

 慌てたように言うフォフォに、これからは昼食も一緒にどうかと提案した。

 少なくとも夕食は十分に食べられているようだったし、もし食事量の増減に恐怖が関係していて、かつ僕の存在によってそれが改善するならば暫くは一緒に食べた方が良いだろう。

 

「ほ、本当にいいんですか……?」

 

 もちろん。

 フォフォはまた少し黙った。湯呑を両手で包んだまま、視線を机の上で彷徨わせている。

 やがてフォフォの表情がゆっくりと解けていった。

 

「…………はいっ」

 

 耳がぴくりと震えた。

 僕は湯呑を傾けて茶を飲んだ。

 うまい。昔に比べてフォフォも腕を上げたようだった。

 

***

 

 仕事は順調だ。

 統括部に異動してから今日まで目立ったミスは一度もない。

 現場経験のある人間が事務に回ると大抵は勝手が違うと愚痴を零すものだが、僕に関してはそういった齟齬はさほど感じなかった。もともと事務作業は嫌いではないし、判官たちの動向を把握して最適な采配を考えるという作業は性に合っていた。

 

 そんな折、街で見知った顔に出会った。

 名前はすぐに出てこなかったが顔には覚えがある。あの日同行していた雲騎軍の兵士の一人だった。向こうも気づいたらしく、少し躊躇しつつ声をかけてきた。互いの近況を語り合うでもなく聞き合うでもなく、なんとなく歩調を合わせながら話した。

 話によると、彼は今月いっぱいで除隊するのだという。

 

「家の手伝いに戻ります。親父もそろそろ歳ですし」

 

 それは良い選択だと思う、と答えると彼は照れたような顔をした。

 もともと継ぐつもりではいたのだと言い、それから少し声を落とした。

 

「ただ……この状態となると、その。嫁が見つかるかどうかが少し」

 

 結婚か、と頭の中で繰り返した。

 不思議な響きがする。少なくとも今まで自分の問題として一度も考えたことのない概念だった。

 しかし言われてみれば確かに、こんな具合に体調が万全でない男を進んで選ぼうという者は滅多にいないだろう。彼の懸念は尤もだ。

 

 ただ、実際のところあまり悲観するようなことでもない気がした。

 世の中には、身体の不自由な人間のために毎日夕食を作りにくるような者も存在する。

 それに僕たちには時間がある。

 

 彼に何と言えばいいのか少し考えてから、縁というのは案外思いがけないところからやってくるものだと伝えた。一定の実感を込めた言葉だったが、彼はどう受け取ったのか少し首を傾げながら「そういうものですかね」と笑っていた。

 

 家に帰ると香辛料のいい香りがした。

 台所の方を見ると、フォフォがエプロン姿で鍋に向かっていた。

 仕事が早く片付いたのだろう。こちらの帰宅に気づいていないのか、鍋をゆっくりとかき混ぜながら小さな声で何かを歌っている。

 

 椅子を引いて腰を下ろした。

 杖を立てかけ、上着を肩から外したところで、テーブルの上に封筒が一つ置かれているのが目に入った。

 

「あ、おかえりなさい。今日、郵便受けに入ってました」

 

 フォフォが振り返った。

 火のそばに立っていたせいか頬にうっすら赤みがある。

 

 封筒を手に取った。

 差出人の名前には覚えがある──正確には偽名だが。

 紙の乾いた匂いの奥から、控えめな梅の花の香りがした。

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