空洞と火の粉 作:狐族だいすき坊や
ルアンとの約束まで、あと二週間。
それ以外は概ね今まで通りの日常だった。
仕事は滞りなく進んでいるし、フォフォも変わらず毎日来ている。
治療の件をフォフォに話してから何か変わったかといえば、特に何も変わっていない。強いて言うなら湯呑が二つ並ぶ夜が増えたというくらいで、それも以前からそうだったような気もする。
ある日の昼下がり、居間の整理をしていた時のことだ。
ゴミ箱の中に見覚えのない紙切れが一枚入っているのが目に入った。
拾い上げてみると丹鼎司の領収書だと分かった。
直近で丹鼎司から何かを購入した記憶はない。となれば必然的に、これはフォフォが捨てたものということになる。
どこか具合でも悪いのだろうか。
目を細めて内容を確認した。日付。金額。そして薬品名の欄──そこだけが伏せられていた。意図的な秘匿だ。丹鼎司ではプライバシー保護の観点からこういった措置が取られることがある。
金額だけは読めたが、日用品として購入するものとしては妙に高い。
処方薬の類か、あるいは特定用途の試薬か。
判断材料が足りない。
領収書を手に持ったまま考えていると、背後で足音がした。
買い物から戻ってきたのか、手に紙袋を提げている。
僕が手に持っているものに気づいた瞬間、彼女の動きがカチッと止まった。目が泳ぎ、耳が一度だけ跳ねた。それからすぐにいつもの表情に戻った。慌てて取り繕ったというより、努めて平静に戻したという感じだった。
手に持っている領収書を示して、心当たりがあるかと訊ねた。
「あ……えっと」
視線が右に左に動く。耳が少しだけ伏せられる。
フォフォは自分を落ち着かせるように一度大きく息を吸ってから紙袋を床に置いた。
「……任務の都合で、必要になったので」
なるほど、確かに判官の職務には時として特殊な物品の調達が伴う──しかしだ。
これは自分で払ったのか、と僕は続けて訊ねた。
「え、はい……?」
フォフォは少し首を傾げながら頷いた。当たり前のことを訊かれたとでも言いたげな表情だ。
任務に必要な物品の購入は申請すれば上が負担する。それをしていないということはフォフォが知らないか、あるいは申請を避ける理由があるかのどちらかだ。前者であれば教えればいい。後者であれば話が変わってくるが、フォフォには関係のない話だろう。
今後は報告するようにと伝えて領収書を手元に回収した。これは僕の仕事だ。
「……え、あ」
フォフォはしばらくポカンとしていたが、次第に口元に薄い笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
どういたしまして。
フォフォは「お茶を入れてきますね」と言って台所へ消えた。
領収書を机の上に置き椅子に腰を下ろした。薬品名が分からない以上申請の際には本人から確認を取る必要があるが、それはまた後で話せばいい。
しばらくして、フォフォが盆を持って戻ってきた。
湯呑を受け取って口に近づけた瞬間、花に似た匂いがした。普段の茶葉とは違う。
なんの茶だと訊いた。
「同僚の方から頂いたんです。珍しいものだからって」
フォフォは向かいに腰を下ろしながら答えた。
自分の湯呑を両手で包んで、湯気に少し顔を近づけている。
一口含んだ。
花の香りが鼻の奥に抜けて、甘みと渋みが絶妙に混ざり合う。
フォフォが「おいしいですか」と訊いてきたので、美味しいと素直に答えた。
彼女は少し目を細めた。
その後、もう一杯飲み終えてから軒先に出た。
日当たりの良い縁台に腰を落ち着けて脚を伸ばす。風はなく、日差しが緩やかに僕の体を包み込んでくる。
目を開けているのが億劫になってきた。
体を横たえる。
仕事を思い浮かべたが、特に急ぎの案件はない。
瞼が重くなるに任せた。
***
「……あ、起きられましたか?」
目を覚ますと、眼前にフォフォの顔があった。
そしてその後ろには青い空が見える。どういう状況なのか最初は分からなかったが、どうやら膝枕をしてくれているらしい。わざわざすまない、と言って体を起こそうとすると、フォフォは僕の胸に手を添えてゆっくりと押し返した。
「もう少し」
フォフォが呟いた。
「もう少しだけ……」
それから二時間ほど横になっていたかと思う。
陽が少し傾いてきた頃、彼女は僕が起きるのを手伝ってから夕食の準備をしに台所へ歩いて行った。僕は彼女を見送り、それから風呂が沸いたと知らされるまで何をするともなく中庭の池を眺めていた。
空が夕暮れに染まる頃、背後から小さな足音と共にフォフォは帰って来た。
「あの、お風呂と晩御飯、どっちが先がいいですか?」
風呂がいいと告げると「それなら良かったです」とフォフォは言って僕が立ち上がるのを手伝ってくれた。どうやら調理の工程にミスがあったらしく、その分料理の完成が遅れているとのことだった。どんな工程かを訊ねるとフォフォは快く説明してくれたが、僕は料理に詳しくないのでさっぱり理解できなかった。
シャワーを浴びて体の前面を洗っていると、脱衣所の扉の開く音がした。
「あの」
振り返ると、すりガラスにぼんやりと緑色が浮いているのが見えた。
「お背中を……」
背中を洗ってくれるのか。確かに洗うのに難儀していたので渡りに船だ。
頼む、と口にしたはいいものの、流石に浴室に入れるのは倫理的に良くないかなと直後に思い直した。やっぱり──と断ろうとしたが、それよりもフォフォが扉を開ける方が早かった。
「お、お邪魔……──失礼、します」
明らかに委縮している時の口調だ。
無理はしなくていい、君がそこまで迷惑を被る必要はないと言った。
「む、無理なんてしてないです!」
本当に?
「本当です」
それなら良いのだが。
手拭いをフォフォに手渡すと、背後で深く息を吸う音がしたのち、まるで飴細工に触れるような具合で手拭いの触れる感覚がした。そこまで慎重にならなくていいと伝えると、少しだけ力が強まる。本当に少しだけだ。
僕としてはボディソープを塗布しているだけのように感じたが、彼女なりに頑張ってくれているのだし、とやかく言うのはやめておく。
「……教官って」
手拭いの動きが止まり、代わりに小さな指先が肩甲骨あたりに触れた。
「思ったより、筋肉あるんですね」
指先が背中をなぞっていく。
まあ、働いていた場所が場所だから当然のことだろう。こうならざるを得なかったとも言い換えられる。そう言うと、今度は指先でなく手のひらがぴたりと背中に張り付けられた。
「……」
フォフォ?
「……流しますね」
結局、フォフォは特に説明することもなく僕の背中に湯を流してから浴室を出て行った。
何だったのだろうか。まあ、どうでもいいか。
風呂から上がると肉の良い香りが鼻孔を擽った。
食卓には普段より少し豪華な料理が並んでいて、確かにこの完成度だとちょっとしたミスくらいは生じそうだなと思った。何かいいことでもあったのかと食事中に訊いてみると、フォフォは小さく微笑んだ。
「教官には……元気になってほしいので」
ありがとうと率直に述べた。
フォフォは微笑むばかりだった。