空洞と火の粉 作:狐族だいすき坊や
「……あ、おはようございます」
どうやら今日も膝枕をしてくれていたらしい。
これも昼寝と同じく習慣化してきていることで、君の細い腿では負担が大きいのではないかと僕は何度も言っているのだが聞き入れてくれる様子はない。
恐らく好きでやっていることなのだろうし、世話になりっぱなしな僕がとやかく言うことでもないかと思い、最近は話題に上げることもなくなった。
「今日も……ぐっすりでしたね」
視線を逸らすと、確かに空には夕焼けが広がっていた。
補助してもらいながらゆっくり体を起こし、僕はフォフォの隣に並ぶような形で座った。鳥の囀りが聞こえたので庭の中を探してみると、木の枝に2羽の小鳥が身を寄せ合っているのを見つけた。番だろうか。
「晩御飯の準備をしてきますね」
そう言って立ち上がるフォフォを僕は呼び止めた。
不思議そうな顔をする彼女に、服が乱れているから直しなさいと伝えた。
「え、え……? あ、ほ、ほんとだ……あはは、すみません……」
フォフォは服を直し一礼してから去っていった。
尻尾が大きく揺らめいていた。
***
ルアンとの約束まで、あと一週間。最近は昼寝をすることが増えた。
始まりはあの縁台での一度きりのつもりだったが、気づけば日課のようになっていた。
酷い時には夕方近くまで眠ってしまうこともある。これも魔剣の影響だろうかと考えたが、どうも合点がいかない部分がある。疲労から来る眠りであれば目覚めた後に幾らか楽になるものだが実際は逆で、昼寝の後の方が体が怠い。起き上がるのに妙に時間がかかる。
まあ、これもルアンに診てもらえばいいか。
「上官、なんだか上の空ですね」
今日は朝から職場に顔を出す必要があり、そこで会った直属の部下にそんなことを言われた。
確かに考え事はしていたが、そこまで表に出ていたのか。端的に謝って彼女から書類を受け取ろうと腕を伸ばした、その時。彼女の鼻先がピクリと動き、不快そうに眉をへの字に曲げた。彼女は狐族なので、僕には感じ取れない臭いも敏感に嗅ぎ取ってしまうのかもしれない。
そんなに臭いかと僕が訊ねると、彼女は腕を組んでうんうんと唸りだした。
「何と言えばいいのか……」
僕は続きを促した。
「朝もシャワーを浴びたほうがいいかもしれません」
皆もそうしているのかと訊ねた。
「分かりませんが、まあ……そのまま職場に来る人は少ないんじゃないですか」
そのまま?
「訴えますよ?」
意味が分からない。
結局それ以上のことは何も分からず時間は過ぎていき、定時前に仕事を終えた僕は堂々と職場を後にした。
***
夕刻、台所から匂いが漂ってきたのでテーブルへ向かった。
フォフォが皿を並べているところだった。最近の夕食は心なしか品数が増えている。今日も肉料理が一品あった。思い返してみると昨日も一昨日も、その前も肉だった。
このところ肉料理の頻度が高い。
「あ……ちょうどよかったです。座ってください」
フォフォが椅子を引いて促した。
言われた通りに腰を下ろし、並べられた皿を眺めた。肉は薄く切られていて、火の通りが均一で端が硬くなっていない。加減を覚えてきたのかもしれない。
箸をつけながら、最近肉が多いなと声に出した。
「……もっと、元気になるかなと思って」
それだけ言って、彼女は自分の椀に手を伸ばした。
なるほど。治療を前に体力をつけさせようとしているのかもしれない。あるいは単純に昼寝が増えたことを気にしているのか。
どちらにせよ料理はうまかった。
***
食事の後に湯に浸かっていると、外から声がした。
「……教官。お背中、流しましょうか?」
特に考えず、頼むと答えた。
引き戸が開く音がしてフォフォが入ってきた。湯桶に湯を汲む音、手拭いを濡らす音。それからぬるめの湯が背中にかかった。手拭いが当たる。絶妙な力加減だ。
「この傷、まだ塞がってないですね……」
フォフォは傷の縁を丁寧に避けながら手を動かし続けた。
それから湯を流してもらい、風呂から上がった。
居間に戻るとテーブルの上に湯呑が並んでいた。
フォフォが先に戻って茶を入れていたらしい。椅子に腰を下ろし湯呑を傾けると、また例の花の香りがした。最近ずっとこの茶葉が続いている。
同僚からもらったと言っていたが随分と量があるな。
そう言うと、フォフォはやや間を置いてから答えた。
「追加でもらえたんです」
それから二人で取り留めもない話をした。
フォフォが担当している仕事のこと、街の外れにできた新しい茶館のこと、先日彼女が仕事帰りに野良の子猫に一時間足止めされたこと。僕は相槌を打ちながら聞いていた。聞いている内に、少しずつ欠伸が増えていく。そういえば今日は昼寝をしていなかった。
そんな僕の気配を察したのか、フォフォが少し身を乗り出してこちらの顔を覗いてきた。
「ね、眠いなら今日は早めに……」
フォフォの顔を見ながら、僕は漠然と昼の記憶を手繰り寄せていた。
今日は昼寝をしていなかった。なぜか。今日の昼は仕事で外出していたからだ。それは分かる。
しかし、それにしても……と思う。
今日に限ってあの耐え難い眠気がやってこなかった。
そちらの方がむしろ根本的要因ではないか。
最近の昼寝前の眠気を思い返してみる。
朝は元気だが、昼を過ぎた頃には思考が真面に動かなくなり、気づけば縁台や椅子に沈み込んでいる。あんな強烈な眠気の中で仕事が真当に出来るはずがない。つまり、今日は本当に眠気はなかったのだろう。
それは分かっている。分かっているが。
そういえばおかしい。何かがおかしい。何か……それを考えようとしたところで、思考の輪郭がぼんやりと滲み始めた。
「……そんなに眠いんですか?」
フォフォの声がした。
頷く。
「じゃあ、寝室……に」
立ち上がるのが億劫だった。
腰を浮かせようとしたが体が重く、腕も言うことを聞く気配がない。
「……教官」
フォフォの声が遠くから届く感じがした。
茶がまだ半分ほど残っていることは分かっていたが腕を持ち上げる気にもなれなかった。
飲み切ろうという考えが浮かんでは沈んだ。
「眠いなら、ここで寝てしまって構いませんよ……」
フォフォが言うならいいか、という気持ちが静かに広がる。
それ以上抗う理由が見当たらなかったので、腕の上に額を乗せた。
フォフォが何か言っている。言葉の形をしていたが、意味になる前に遠ざかっていった。
***
「──かん……あっ、んっ……うぁっ……きょうかん……っ」
瞼が重い。耳元で誰かが囁いている。
たぶん、女性だ。でも、誰だろう。
体が重い。重い、というより……圧迫。
押さえつけられてる、みたいな……。
いや……乗ってるのか。でも、この声って──。
「……きです……してます……」
フォフォ……?
「えっ起き──シッポ!」
「はあぁぁ……」
誰かの溜息。
暗い。何も見えない。
何が起きて──。
***
昨夜何が起きたかを推論するのは、難しいことではない。
目覚めた後の部屋の状況が何もかもを物語っている。
そういう現場に踏み込んだことが何度かあった。
だから、この独特のにおいは覚えている。
僕は経験的に今の状況を知っている。
視界の中に、いつもの緑はない。
……フォフォを。
探さないと。