『許してあげて』
それが、泥に塗れて死んでいった、太陽のように優しい親友の最期の言葉だった。

けれど、私にはそんな慈愛を引き継げない。
だから私は、あの人の顔を被り、あの人の声で笑いながら、この狂った世界をすべて灰にすることにした。

――ごめんね、あいつらが嫌いなままで

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ダークな話となっておりますので、苦手な方はご注意ください。


死んだ親友の笑顔を被り、あなたが愛した世界を焼き尽くす

焦げた肉の臭いが、瓦礫の山に重く、そして甘く立ち込めていた。

 

「急げ! ここは俺が食い止める! 女子供だけでも逃がすんだ!」

 

血を吐きながら叫ぶ男の声が、崩壊した市街地に響き渡る。

 

男は、背後で逃げ惑う同胞たちを庇うように、崩れた教会の柱を背にして一人で立ち塞がっていた。

 

その両腕はすでに折れ曲がり、武器であるはずの長剣は力なく地面を引きずっている。

 

だが、見開かれた瞳には恐怖よりも、理不尽に抗おうとする気高い正義の炎が宿っていた。

 

「隊長、危険です! 異端のネズミどもが、まだ抵抗を――」

 

後方から響く部下の制止を、教団の外套を羽織った小柄な影が、弾むような足取りでひらりと追い抜いた。

 

「大丈夫、大丈夫! 私に任せて!」

 

瓦礫を踏み越えて男の前に進み出た『隊長』の姿は、異様だった。

 

彼女の右腕に刻まれた教団の『聖痕』が、どくどくと異常な熱と赤い光を放っている。

 

軍手はとうの昔に燃え尽き、手首から先は自らの発する熱で皮膚が爆ぜ、完全に炭化していた。

 

動かすたびに、ジュッ、と自らの肉が焦げ、脂が爆ぜる音が鳴る。

 

黒焦げた肉のひび割れからは、生々しい白い骨が覗いていた。激痛で発狂していてもおかしくない状態だ。

 

しかし、彼女は小さく首を傾げた。

 

痛みに顔を歪めるどころか、その顔に張り付いていたのは、凄惨な戦場にはおよそ不釣り合いな、太陽のように眩しく、底抜けに明るい笑顔だった。

 

「バケモノめ……!」

 

男が、血走った目で彼女を睨みつける。

 

「思考を放棄した教団の狂犬が! 俺たちの命を奪って、尊い思想を踏みにじって……それで世界が救われるとでも思っているのか!」

 

魂を絞り出すような、悲痛な叫び。

 

それは、教団という絶対的な権力によって理不尽に虐げられてきた者たちの怒りだった。

 

その重い言葉を受け止めた彼女は、まるで友人に理不尽な八つ当たりをされたかのように、困ったように眉を下げた。

 

「もう、そんなに怒らないでよ。悲しいこと言わないで」

 

鈴を転がすような、どこまでも澄んだ明るい声だった。

 

誰もが信じて頼りたくなる、完璧な慈愛の響き。

 

「大丈夫だよ。私たち、ちゃんとお話しすれば、きっと分かり合えるから!」

 

あまりの文脈の狂いに、男が絶句する。

 

教団の暴力の権化のような姿をして、自らの肉を焼き焦がしながら、本気で「対話による平和」を信じているかのような無邪気な瞳。

 

「……狂って、いる」

 

「ほら、安心して! 痛いのは一瞬だから、私に任せてね!」

 

男が最後の力を振り絞って剣を振り上げるより早く、彼女の右腕の聖痕が爆発的に燃え上がった。

 

純粋な好意と、心からの親愛を込めた言葉と共に。

 

白骨化した右腕から放たれた圧倒的な業火が、男の気高き正義も、背後で逃げ惑っていた罪なき人々の悲鳴も、すべてを飲み込み、一瞬にして消し炭に変えた。

 

轟音と閃光が収まると、そこにはただ、黒く焼け焦げた巨大な円形のクレーターだけが残されていた。

 

灰が、まるで季節外れの雪のように静かに舞い落ちる。

 

「ふう、終わった終わった!」

 

彼女はくるりと振り返り、後方で待機していた部下たちに向かって元気よくピースサインを向けた。

 

「みんな、お疲れ様! 今日の討伐も大成功だね。怪我した人はいない?」

 

部下たちは、顔を引きつらせながら無言で頷くことしかできなかった。

 

彼らは教団の精鋭だが、自分たちの隊長の、文字通り「骨身を削る」異常な強さと、その裏にある狂気を本能で恐れていた。

 

「あーあ……」

 

彼女は、完全に炭化し、動かすたびにボロボロと黒い灰をこぼす自らの右腕をまじまじと見つめた。

 

「またこんなに派手にやっちゃった。あいつに怒られちゃうなぁ」

 

えへへ、と照れ隠しのように舌を出す。

 

その瞳の奥に、光すら吸い込むような、どす黒く冷たい虚無が広がっていることに気づく者は、この部隊には誰もいない。

 

「それじゃ、事後処理はお願いね! 私はちょっと、お医者さんのところに行ってくるから!」

 

部下たちに明るく手を振ると、彼女は自身の致死的な傷など気にも留めない軽い足取りで、焦げた死臭の立ち込める戦場を後にした。

 

彼女が向かう先は、教団の医療施設ではない。

 

この世界で唯一、彼女がその「笑顔」を見せ続けなければならない、たった一人の共犯者が待つ、薄暗い隠れ家だった。

 

***

 

重く、錆びた鉄の扉を開けると、消毒薬と古い血の匂いが鼻を突いた。

 

「ただいまー! 帰ったよ!」

 

地下室の薄暗いランプの下で、作業台に向かっていた男が振り返る。

 

彼は教団の追手から逃れるようにこの街の地下に潜み、禁忌とされる魔術や医療を扱う裏の医者だった。

 

そして何より、この世界で唯一、彼女の『本当の顔』と、彼女が模倣している『あの人』のすべてを知る男だ。

 

男は、彼女の右腕――肘から先が黒焦げになり、白い骨が露出している凄惨なありさま――を一瞥すると、深く、ひどく重い溜息をついた。

 

「……そこに座れ」

 

低く、感情を押し殺した声だった。

 

男はすぐさま作業台から、滅菌された刃物と、怪しく青い光を放つ治癒の霊薬、そして呪いを帯びた縫合糸を準備し始める。

 

「えへへ、またやっちゃった。今日は敵がいっぱいでさ、ちょっと張り切りすぎちゃったかも!」

 

彼女は硬い手術台に腰掛け、まるでカフェで友人にショッピングの成果を自慢するかのように、弾む声で今日の『討伐』の様子を語り始めた。

 

「でも安心して! ちゃんと私が一人で全部片付けたから! 誰も苦しまないように、一瞬で灰にしてあげたんだよ。私、えらいでしょ?」

 

男は無言のまま、彼女の右腕を乱暴に、しかしどこか壊れ物を扱うような手つきで掴んだ。

 

刃物が振るわれ、炭化して完全に死んだ肉が、ガリガリと無造作に削ぎ落とされる。

 

麻酔など効くはずもない。

 

生きた神経が剥き出しになり、焼け焦げた肉片が床にボトボトと落ちる。狂い死にしてもおかしくない激痛が彼女の脳を焼いているはずだった。

 

しかし彼女は、顔色一つ変えずに親友の明るい声を出し続けている。

 

「そういえば、帰りの道で綺麗な花が咲いててね……痛っ、もう、ちょっと手荒いなぁ。女の子の腕なんだから、もっと優しくしてよ!」

 

「……黙れ」

 

男が低い声で呻いた。

 

その手は、炭化した肉を削る刃を握りしめたまま、かすかに震えていた。

 

男の険しい横顔を見た瞬間、彼女の胸の奥底で、どす黒く冷たい泥のような感情が渦を巻いた。

 

――負い目だ。

 

彼女は知っている。

 

彼が教団を心の底から憎んでいることを。

 

そして、教団の犬として人を焼き殺し、自らの肉体を壊して帰ってくる自分を治療することが、彼にとってどれほどの屈辱と苦痛であるかを。

 

自分が生き残ってしまったこと。

 

彼の最愛の人の「顔」と「声」を盗んで、彼を縛り付けていること。

 

彼に泥を被らせ、自身の復讐のための延命装置として利用していること。

 

謝りたかった。

 

土下座して、血を吐いて、自分の醜さをすべて曝け出して謝罪したかった。

 

けれど、それが許されないことも分かっていた。

 

彼が今、正気を保ってこの治療を行えるのは、目の前にいるのが『彼女』ではなく、彼女が演じる『あの人』だからだ。

 

仮面を外せば、彼を繋ぎ止めている最後の糸すら切れてしまう。

 

だから彼女は、限界まで引きつりそうになる内臓の痛みを飲み込み、最も残酷な手段で彼を気遣った。

 

「ごめんね、いつも無理させちゃって……」

 

眉をハの字に下げ、本当に申し訳なさそうに微笑む。

 

それは、彼が愛した『あの人』が、彼に迷惑をかけた時に必ず見せていた、表情と声のトーンだった。

 

ビクッと、男の肩が大きく跳ねた。

 

男は痛ましそうに顔を歪め、強く唇を噛み締める。

 

そこから一筋の血が流れるのを、彼女は特等席で見つめていた。

 

彼女の完璧すぎる模倣が、彼の傷口に塩を塗り込み、抉っている。

 

自己嫌悪で吐き気がした。それでも彼女は、決してその眩しい笑顔を崩さない。

 

「でも、君がいてくれて本当に助かってるよ。君がいなかったら、私、とっくにダメになってたもん。ありがとう」

 

青い光を放つ霊薬が傷口に注がれ、肉が強引に再生していくおぞましい音が地下室に響く。

 

呪いの糸が皮膚を縫い合わせるたび、彼女は愛らしい声で「痛い」「冷たい」と無邪気に文句を言った。

 

死んだ『あの人』の姿をした化け物と、それを生かし続ける共犯者。

 

血の匂いに満ちた密室には、彼女の明るい声だけが、ひどく空虚に、そして残酷に響き渡っていた。

 

***

 

痛ましい治療が終わり、新しい皮膚が引きつる右腕を、彼女は無邪気にぶんぶんと振り回した。

 

「わあ、すっごく綺麗にくっついてる! さすがだね、ありがとう!」

 

その声は、弾むような喜びと心からの感謝に満ちていた。

 

そして彼女は、作業台を片付ける彼の背中に向かって、死んだ『あの人』がご機嫌な時によく口ずさんでいた、古い子守唄をハミングし始めた。

 

音程と、特有の息継ぎの癖まで、一切の狂いなく。

 

その瞬間だった。

 

男の視界が揺らいだ。

 

薄暗いランプの光の中で、血と煤にまみれた彼女の後ろ姿が、かつて愛した『あの人』の幻影と完全に重なってしまったのだ。

 

錯覚だと頭では理解している。だが、心が、細胞が、死んだはずの恋人がそこにいるのだと悲鳴を上げた。

 

ブツン、と。

 

男の中で、何かが決定的に切れる音がした。

 

「……やめろ」

 

床に落とした血まみれのメスを拾おうともせず、男は低く唸った。

 

「えっ? どうしたの、急に怖い顔し――」

 

「それがあいつのためだと思ってるなら、大間違いだ!!」

 

地下室に、男の悲痛な咆哮が響き渡った。

 

それは怒りではない。

 

最愛の人を失った喪失感と、目の前の少女が心を殺し続けている原因となっている自分自身への、耐え難い自己嫌悪の爆発だった。

 

「お前はあいつじゃない! あいつのふりをして、あいつが最期まで守りたかった連中を殺して……あいつがどんなに悲しむか、分かっているのか!」

 

その言葉が、彼女の顔から完璧な笑顔を剥ぎ取った。

 

困ったような、ひどく優しい表情が引きつり、醜く歪む。

 

「……あいつらが、なんだって?」

 

漏れ出したのは、底冷えするような、彼女自身の低い声だった。

 

言葉は、最後まで続かなかった。男が彼女の細い体を、力任せに抱きしめたからだ。

 

彼女の顔を自身の胸に押し付けるようにして、視界からその『壊れた表情』を強制的に遮断する。

 

男の体は、嗚咽を堪えるようにガタガタと震えていた。

 

言葉による対話が届かないなら、物理的にその仮面を塞ぐしかない。

 

「……離してよ。あいつらを、守りたかった? 笑わせないで」

 

彼女の左手が、男の背中の布地をきつく握りしめる。指先が白くなるほどに。

 

「『あの人』を裏切って、魔女だって言って磔にして、なぶり殺したのはどこの誰!? 『あの人』が血を流して守ってきた『人々』じゃない!!」

 

「……っ、分かってる! 誰よりも、俺が分かってる!」

 

「だったら、あなたは……あなたは憎くないの!?『あの人』を殺したあいつらが、平気なの!? 何も思わないの!?」

 

彼女は男の胸の中で、暴れるように叫んだ。

 

男は彼女をさらに強く、押し潰すほどに抱きしめ、搾り出すように答えた。

 

「憎いさ! 殺したいくらいに! どいつもこいつも八つ裂きにしてやりたいと、毎日思ってるよ!」

 

「だったら!!」

 

「でも……あいつが、あんなに優しかったあいつが、こんなのを望むわけないだろ!」

 

男の叫びが、彼女の動きを止めた。

 

「…『あの人』は殺すべきだったんだ。あいつらを。優しいからって死んで言い訳ないじゃんか……!私は、あいつらが許せない……! 『あの人』を殺した『人々』も、『あの人』を死地に追いやって高みの見物を決め込んでいた『教団』も、全部、全部、私が地獄へ送ってやるんだ!!」

 

地下室に、彼女の素の、割れたような肉声が響き渡った。

 

教団へ潜り込むために、彼女は『あの人』が守りたかった『人々』を狩り続けた。

 

それは潜入の手段であると同時に、彼女自身の、あの日親友を殺した「世界」への報復でもあった。

 

「……お願いだ」

 

男の掠れた声が、彼女の耳元に落ちた。

 

「お前が、ボロボロに壊れていくのを見るのは……辛いんだよ。もう、自分を壊すのはやめてくれ……」

 

ポツリと、彼女の肩に熱い雫が落ちた。

 

彼が泣いている。

 

その事実が、彼女が死守しようとしていた最後の防波堤を粉々に打ち砕いた。

 

「わたし、は……っ、あ、ああ……っ」

 

溢れ出したのは、熱い涙だった。

 

一度決壊した感情は、もう彼女自身にも止められなかった。

 

血と煤にまみれた頬を大粒の雫がとめどなく伝い、男の服を濡らしていく。

 

男が彼女の涙に心を打たれ、完全に警戒を解いた、その直後だった。

 

チクリ、と。

 

男の首筋に、冷たい痛みが走った。

 

「……ッ!?」

 

抱きしめる力が唐突に抜け、男は膝から崩れ落ちた。

 

強力な筋弛緩と昏睡の呪毒。

 

男の服を握りしめていたはずの彼女の左手には、いつの間にか小さな注射器が握られていた。

 

「……ごめんなさい」

 

嗚咽混じりの、ひどく掠れた声。

 

『あの人』を救えず、世界を恨んだ、ひどく傷ついた少女。

 

「『あの人』が一番愛していたあなたを、これ以上、私に付き合わせるわけにはいかない。……ありがとう。さようなら」

 

***

 

教団本部、大聖堂。

 

今夜は、異端討伐の完遂を祝う『聖浄祭』の夜だった。

 

皮肉なことに、彼女が積み上げてきた凄惨な戦果が、教団の権威を盤石なものとし、最高幹部から地方の司教にいたるまで、腐敗した特権階級のすべてを一堂に会させていた。

 

喧騒のなか、教団の外套を羽織った彼女は、迷いのない足取りで回廊を歩く。

 

その時、一人の若い修道女と肩が触れ合った。

 

「あ、すみません……あっ、隊長様!」

 

修道女が振り返り、英雄の姿に気づいてはにかむように微笑む。

 

瞬間、彼女の心臓が激しく脈打った。

 

その修道女は、泥に染まっていない純粋な目をしていた。

 

親友であった――『あの人』が持っていたのと同じ、穢れを知らない慈愛の光を纏った人物。

 

彼女は足を止め、その修道女を眩しそうに見つめた。

 

あまりの眩しさに、視界が滲む。

 

かつての自分は、『あの人』の隣でそんな風に笑えていたのかもしれない。

 

だが、今の自分の右手は黒焦げの炭となり、その内側にはどす黒い殺意の毒が満ちている。

 

この純粋な光を、これから自分が起こす地獄に巻き込むわけにはいかなかった。

 

「……ねえ、お願いがあるの」

 

彼女は、かつて親友がよくしていたように、優しく微笑みかけた。

 

「今夜は冷えるから、西棟の孤児院にいる子供たちの様子を見てきてくれないかな。暖炉の火が消えていないか心配で」

 

「西棟ですね! はい、すぐに行ってまいります!」

 

「うん。……あなたは、そのまま笑っていて」

 

元気に駆け出していく修道女の背中を見送り、彼女は一度も振り返ることなく、光の輪の中から闇の深淵へと足を踏み出した。

 

その眩しさが、これから自分がなそうとすることの正しさと、自分が二度と光の下へは戻れないという現実を、同時に突きつけていた。

 

大聖堂の分厚い扉が開かれる。

 

祭壇の前では、彼女が狩り続けた人々の死の上に胡坐をかく幹部たちが、神の祝福を謳歌していた。

 

彼女の姿を認め、最高幹部の一人が不敵な笑みを浮かべる。

 

「おお、英雄の帰還か。お前の働きのおかげで、この世界は浄化されたぞ」

 

「……そうだね」

 

彼女は初めて、誰の真似でもない、自分自身の表情で笑った。

 

それは、この世の終わりのような、冷たく美しい微笑だった。

 

「だから今度は、あなたたちの番だよ」

 

彼女は、最前列で震えていた巨漢の司教を見据えた。

 

広場の特等席で親友が血まみれの磔台に縛り付けられ、生きたまま楔を打ち込まれる様子を「聖なる儀式」と呼び、最初に楔を打つよう群衆を煽った男だ。

 

「あの日、あの人の体に打ち込まれた『浄化の楔』は、四十八本だったよ」

 

彼女が地を蹴る。炭化した右腕が、司教の胸倉を掴んだ。

 

「だから、残りの四十七本分、ここに返しに来たの」

 

彼女の指先に込められた聖痕の力が、司教の体内に逆流する。

 

内側から沸騰した男の肉体は、体内から突き破るように現れた無数の赤熱した炎の楔に串刺しにされ、叫び声を上げる暇もなく破裂し、消し炭となって飛び散った。

 

「ひ、ヒィ……ッ! 殺せ! その化け物を殺せ!」

 

教主の絶叫に応じ、教団の精鋭――『処刑聖騎士団』の六人が、聖痕を刻んだ大剣を手に彼女を包囲する。

 

彼らは教団最強の盾だ。神聖な加護を纏った刃が、彼女の肩や脇腹を容赦なく切り裂く。

 

だが、彼女は避けなかった。止まりもしなかった。

 

斬りつけられた傷口から流れるのは、血ではなく白熱した炎だ。

 

「ああ……熱いな。『あの人』も、こんな風に体が熱かったのかな」

 

彼女は切り裂かれた痛みさえも燃料に変え、騎士の一人の頭部を、形を失った右腕で無造作に握りつぶした。

 

次いで、返り血を浴びたまま跳躍し、残りの騎士たちの中心で聖痕を暴走させる。衝撃波が聖堂の柱をなぎ倒し、騎士たちはその身に纏った鎧ごと溶かされ、床の石材と一体化した。

 

「次は、あなた」

 

彼女の視線が、祭壇の陰に隠れようとしていた老審問官に向けられる。

 

親友に「魔女」の烙印を押し、口封じのために彼女をあの広場へ送る公文書を作成した男。

 

「待て! 命だけは! 私は命令に従っただけだ!」

 

「知ってるよ。だから、あなたの舌はもういらない」

 

彼女が指を鳴らす。

 

影から噴き出した炎の触手が、彼の喉を精確に貫いた。

 

言葉を奪われた老人が、自らの喉を押さえながら、もがき苦しんで崩れ落ちる。

 

彼女の全身は、今や半分以上が炭化していた。歩くたびに、黒い灰が粉雪のように床に積もっていく。

 

「さて……最後はあなただよ、教主」

 

祭壇の最上段、神を模した巨大な黄金像の足元で、この世の全てを統べる男が腰を抜かしていた。

 

「こ、来い……私の護衛兵! 異端を討て!」

 

奥の扉から、さらに数十人の増援が雪崩れ込む。

 

彼女はその狂乱のなかで、先ほど遠ざけたあの修道女がここにはいないことを確認し、小さく息を吐いた。

 

安堵による、一瞬の静寂。

 

教主はその隙を逃さず、黄金像に隠された禁忌の聖具を起動させた。

 

聖堂全体を焼き尽くすほどの光の槍が、彼女の胸を深々と貫く。

 

「……ぐ、ぅ」

 

「ははは! 死ね! 異端のバケモノめ!」

 

しかし、彼女は倒れなかった。

 

貫かれた穴から溢れるのは、絶望ではなく、この世の全てを拒絶する漆黒の炎だった。

 

「……眩しすぎるんだよ。この光も、あなたたちの嘘も」

 

彼女は胸に刺さった光の槍を、炭化した左手で無理やり掴み、引き抜いた。

 

その顔に浮かんだのは、ただ、全てを終わらせる決意に満ちた、一人の少女の穏やかな顔だった。

 

「あなたたちが奪ったのは、ただの一人の女性じゃない。……私の、たったひとつの世界だったんだ」

 

彼女は教主の眼前に立ち、その震える首を優しく包み込んだ。

 

炭化した皮膚が教主の喉を焼き、彼の絶望的な悲鳴が聖堂に響き渡る。

 

「『あの人』は、あなたたちを許した。……でも、私は『あの人』じゃない」

 

脳裏に蘇るのは、文書庫で知った真実。

 

教団が人々を煽り、親友が串刺しになったあの日の光景。

 

リミッターを外した聖痕が、彼女の存在を定義していた「人」という形を完全に崩壊させる。

 

肉が焼き切れる痛みなど、とうの昔に通り越していた。

 

『今、いくよ。……ごめんね、あいつらが嫌いなままで』

 

次の瞬間、彼女の存在そのものを触媒とした規格外の火球が、大聖堂のすべてを白く染め上げた。

 

理不尽を生み出した巨悪も、親友に楔を打ち込んだ群衆の記録も、神聖を装った欺瞞の城も。

 

彼女の命と共に、塵一つ残さず、浄化の炎に抱かれて消滅した。

 

***

 

教団の鐘の音は、もう聞こえない。

 

地下室の冷たい床の上で男が目を覚ました時、世界はすでに変わっていた。

 

窓のない部屋に、かつてないほどの静寂が満ちている。

 

麻酔の毒は抜けていたが、体を動かそうとすると、全身に重い倦怠感と、胸の奥を掻き毟るような痛みが走った。

 

彼は這いずるようにして、彼女が座っていた手術台へと向かった。

 

そこには、彼女が脱ぎ捨てた血まみれの外套と、一本の古いノートが遺されていた。

 

ノートのページをめくれば、そこには彼女が親友を模倣するために血の滲むような努力を重ねた記録があった。

 

口癖、好みの花、笑い方の角度、そして――彼への接し方。

 

すべては計算され、磨き上げられた『模倣』だった。

 

だが、最後のページだけは、筆跡が乱れていた。

 

『私は、『あの人』が好きだった人々を、『あの人』の顔で殺した。あいつらが死ぬ時、私は笑っていたけれど、心の中ではずっと叫んでいた。本当は、『あの人』のことさえ、恨みそうになった。どうしてこんな世界を愛したのかって』

 

インクが涙で滲んだ跡があった。

 

『私は『あの人』を愛していた。『あの人』の全部が、私のたったひとつの世界だった。だから、『あの人』を殺したこの世界がどうしても許せなかった』

 

『でも、あなたが私を抱きしめて止めてくれようとした時、初めて「私自身」として認められた気がした。『あの人』を失った同じ地獄を歩く戦友として、私を信頼し、本気で案じてくれたこと。……本当に嬉しかった』

 

『『あの人』が一番愛したあなたには、狂った私と同じ破滅の道ではなく、生きて光の下を歩いてほしい。ありがとう、私の最高の共犯者』

 

男は、冷え切った外套を抱きしめた。

 

そこにはもう、彼女の炭化した肉の臭いも、無理に明るく振る舞う声もない。

 

ただ、彼女が最後に遺した、本当の言葉だけが重くのしかかっていた。

 

外に出れば、教団の本部があった場所から、今も細い煙が上がっているのが見えた。

 

支配を失った街は混乱していたが、人々の表情には、かつて彼女が笑顔で蹂躙した恐怖とは異なる、戸惑いと、それ以上の期待が混じっていた。

 

彼女は、親友を愛するがゆえに世界を憎み、焼き尽くした。

 

だが同時に、彼女は共に地獄を歩んだ唯一の戦友を、そして彼が生きる未来を、文字通りその身を焦がして守り抜いたのだ。

 

「……バカな奴だ」

 

男の独白は、冷たい風にさらわれて消えた。

 

彼女が完璧に演じていた『あの人』の笑顔を、彼はもう二度と思い出すことができない。

 

彼の記憶に深く刻みつけられたのは、泣きじゃくりながら自分を裏切り、震える声で感謝を告げた、愚かで、不器用な、一人の少女の素顔だけだった。

 

男は立ち上がり、光の差し込む地上へと一歩を踏み出す。

 

彼女が命を懸けて繋いだ、この醜くも残酷な、自由な世界を生き抜くために。

 

その背中を追うものは、もう、誰もいない。


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