今でも雪音クリスは時折夢に見る。
地獄のような時間だった。
一人、また一人と居なくなっていく。
明日を迎える事は出来ないかもしれない。いや、数分、数秒後に生きていられる保証すらない。
生きている実感よりも、隣り合わせになっている死の存在が幾度となく心を蝕み続けていた。
大切な両親は死に、いっそ死んでしまったら二人に会えると思っていた。なのに、心は死を恐れている。
心は砕け、明日など諦めて数日経った日のときだったろうか。
「こんな所に子供が一人か」
綺麗な声だった。
建物が崩れる音が遠くから響く中、その声はよく聞こえた。扉から差し込む太陽の光を背にして、真っ直ぐにこちらを見つめてる。
「……女神、様?」
「そんなに上等な者じゃ無い」
すぐ側にまで歩いて来たその人は、しゃがみ込んで頬に手を添えてきた。こちらを覗き込む目がとても綺麗で、思わず飲み込まれそうになる。
「食べ物を探して迷い込んじゃってね」
「迷子なの?」
「……あぁ、昔から道に迷いやすくて」
頬に添えられた手はとても優しくて、とても暖かく。
「最近、夜は寂しくて寝つきが悪くてね。生きるのを諦めてるなら、暫く私と一緒に寝てくれないか?」
この日以降、死の恐怖に怯えることは無くなった。久しく感じることのなかった、安心感と暖かい優しさを目の前の女神は惜しみなく注ぎ込んでくれた。
〇〇〇
シャワーの音が響く中、両の腕で自身を抱きしめていた。
流れ続ける水音など耳に入らず、クリスの頭の中では複雑な感情が入り乱れていた。
(──どうして)
喜び、驚き、失望に怒り。
ヘレナに対するどの感情が本心で、何を優先すれば良いのかが分からない。
いや、きっとどの感情も本心なのだろう。だからこそ、心の整理が出来ないでいた。
地獄から救い出してくれた。生き方を教えてくれた。生みの親を失った自身にとって、ヘレナはもう一人の親だと思っていた。それなりに長い時間を共に過ごして、人となりは分かっていたつもりだったのだ。
悪夢にうなされて脳裏に焼き付いた地獄に身体を震わせていた時、あの人は優しく抱きしめてくれた。寂しさに涙を流した時だって、涙が止まるまで一緒にいてくれた。
何が理由であの地獄から自分を拾い上げたのかは分からなくても、共に過ごした期間で与えてくれた愛情と優しさは本物だと思っていた。
「──なんでだよ」
自分自身の中に存在していた、ヘレナという人物像が崩れていく。
いや、そもそも自分はヘレナという恩人の事を何も分かってなかったのではないか。与えられる愛情に甘えるだけで、あの人の事を知ろうとしなかったから、こんな事になってしまったのではないか。
「フィーネなら、どうした」
クリスが知る中で、最もヘレナに詳しいのはフィーネだった。
ある日を境にフィーネと共に三人で過ごす事になったが、そんな中でも二人は何処か親しげだった。それが羨ましくて、嫉妬して、その中に交じりたく思っていた。
彼女ならヘレナの行動の理由を知っているかもしれないが、現状として聞き出すことは出来ない。
今までヘレナの過去について尋ねたことは何度もあった。
『それは、ヘレナ本人が話す時に聞いてあげてちょうだい』
いつもそう言われて、フィーネから聞き出すことは出来なかった。クリス自身に誰も話したくない事があるように、フィーネやヘレナ自身にも話づらい事はあるんだろうと、納得していた。
その判断を、今は少し後悔している。
我儘を貫き通して聞いていれば、結果は違ったのかもしれない。いい子のふりをして、そして選んだ結果がこれなのか。
「それとも、頼りないから?」
ふと零れた言葉だったの、胸にストンと落ちる。
弱肉強食の世界の生き方や、イチイバルの使い方を教わる中で、ヘレナと特訓をした事は何度かあった。その全てで、クリスはヘレナに対して優位を取れたことは一度だって無い。
フィーネとも過ごすようになり、ヘレナが定期的に外出するようになってからも、空いてる時間で特訓は継続していた。
ヘレナが自分達の元から居なくなっても、フィーネを巻き込んで特訓は続けていた。
フィーネと袂を分かち、新しい居場所を見つけた後でも、いつかヘレナやフィーネに追い付けるよう汗を流し続けた。
そうすれば、何時か戻ってくる人の隣に立つことが出来る。心の底からそう信じて疑わなかった。
なのに、隣に立つ事は出来なかった。
それは何故なのか。
「……なんだよ、簡単な事じゃねぇか」
我慢できずに涙が零れた。
自分で考えだした否定できない回答に、自分の努力が否定された。
雪音クリスは、自分が思っていたより弱かった。
それだけの事なのだ。弱いなら、また一から特訓でもして強くなれば良いのだ。
ただ今は少しだけ、感情に任せて泣きわめきたかった。
「どうかしたのか、雪音?」
「っ──」
唐突にかけられた言葉で、漏らしかけていた嗚咽を堪える。振り返れば、翼がこちらの様子を伺っていた。
「の、覗きとは趣味が悪いんじゃねぇか?」
「すまない、後輩の様子が心配だったんでな。まさか、泣いているとは思わなかったが」
隠せていたと思っていたのに、言い当てられたクリスの頬が赤く染まる。この先輩は時々抜けている事はあるが、基本的には鋭い感性を持つ人物だ。
「何があった?」
「なんでも無ぇよ」
バレるとは思いつつも、質問に対してぶっきらぼうに応える。
「例のヘレナと言う人物だな」
「そ、それは」
「やはりそうなのだな。敵として現れたとはいえ、あれ程の実力者が雪音の知り合いだったとは、驚いた」
「知り合いじゃねぇよ。……育て親だ」
驚いた様な表情をする翼の横を通り抜けて、足早に横を通り抜ける。
「待ってくれ、雪音」
「何の用だよ」
脱衣所で濡れたからだを拭いていると、また声を掛けられた。
「育て親とは、どういう事だ?」
「言葉のままだよ。あの人に拾われて、生き方を叩き込まれた。ここまで生きて来れたのもあの人のおかげでさ、イチイバルの使い方だって教えてくれたんだぜ」
話す言葉を、翼は黙ってただ聞いていた。
「恩人なんて言葉じゃ足りないんだよ。……なのに、敵なんだぜ。私はどうすりゃいいんだよ!」
「『取り敢えず、ぶん殴る』」
荒らげた声に対して返ってきた応えは、普段の翼から出るとは思わぬものだった。戸惑った様な表情を浮かべるクリスに向けて、言葉は続けられる。
「あの時は、そう言っていたのではないか?」
「え、いや、言ってたけどよ。普通その発言を取り上げるか?」
「少なくとも、あの時はそうしたいと思ったのではないのか」
それは確かにその通りである。
今まで何の連絡も寄越さなかったのに、急に訳の分からない事をしているヘレナに文句と一緒に拳を叩き込みたい思いはある。
それに、そうやってぶつける事で伝わる気持ちもあるのでは無いだろうか。ぶつける事で分かる事だってあるかも知れない。
今まで出来なかった分、我儘に、自分の思いをあの人にぶつけたい。
「……確かにそうだな」
「ウェル博士達を追うなら、又どこかで戦いになる時は必ずあるだろう。その時に、思いっきりぶん殴ってやるんだろう?」
「相当な難敵だけどな」
難しく考える事は似合わない。
決意を込めて拳を握る。握り締めた色々な気持ちごと、思いっきりぶん殴って、全力で問い詰めてやる。
出来る出来ないは別として、頭の中にもう迷いは無い。
「今まで我慢してた分、全力でぶつかってやる!」
〇〇〇
未だ僅かに残る興奮を収めるように、冷たい水を一気に飲み干した。
ツテを利用して確保したホテルの一室は非常に豪華に作られており、少し落ち着きに掛けるものの、疲れた体を癒すにはこれ上ない環境だった。
椅子に腰かけて天井を眺めながら、つい先日のひと時を思い返す。
「いやぁ、変わらずクリスは可愛かったなぁ」
この一言に尽きる。
様々な事情の元ではあるが、フィーネの名前を名乗っている組織に協力する事になり、その過程でクリスと再開することになった。
本当はもっと良い雰囲気の場を設けたかったのだが、あれはあれでサプライズになっただろう。
特異災害機動部で保護されるように仕向け、その後に二課で活躍しているということを知ったが、実際にこの目で見たのは今回が初めてだった。
「幼いなりに、元気に頑張っていると見える」
成長もしているのだろう。
出来ればもっと話したり撫でくりまわしたい所ではある。ここ暫くは一人で寝ているが、抱き枕が無いとやはり寂しくて寝心地がどうも悪い。
「……いや、やっぱり流石に気まずい」
いまの今までフィーネに任せてほっといていたのに、真っ向から向き合ってお話するのは非常に気まずい。
時間感覚が違うのだから仕方ないのだ。ちょっと野暮用を済ませるつもりだった筈が気付いたら数年経っているとは思わなかった。だが、訳があったとはいえフィーネに怒られかねない。彼女が目覚めた後に会うのが怖い。
「まぁ、その時はその時だな。潔く怒られるしかない」
もしもの時は、何とかクリスに協力してもらって怒りを収めよう。フィーネは何やかんやでクリスに甘い。同じようにクリスもフィーネに懐いていた。
恐らく、家族に近い繋がりを感じているのだろう。それがどうしても羨ましい。
──とは言えど、まずは目先の事を終わらせる必要がある。
ウェル博士達にはネフェリムの餌にする為、保有する中でも不要となった聖遺物を複数個渡してある。充分すぎるとは言えず、欲を言うならもう少しばかり欲しいところであるが必要最低限にはなるはず。
米国政府の介入も気になる点である。FISの少ない戦力では、米国が本腰を入れて対応されれば何処まで抗えるか怪しい。
先程も彼女達の潜伏先に聖遺物を運びに行った際に、米国特殊部隊の襲撃を受けていた。ウェル博士のノイズと私で対応したが、彼女達は潜伏先の変更を余儀なくされることとなった。
「だから、もう少し強くなってもらわないと困るぞ?」
「……好きに、言ってくれるわね」
汗に濡れて床に倒れている少女に声をかける。
未だその手を血で汚せずにいる、マリア・カデンツァヴナ・イヴ。
「世界に喧嘩を売るには力不足が過ぎるな」
「言われずとも、分かってる。だけど、それでも私は進むと決めたのよ」
襲撃を逃れた後、目の前の少女からお願いをされた。
強くして欲しい。
その一言だけの願いを利害の一致という理由で聞き入れたが、一朝一夜で叶えられるものでもない。とは言えど、何もしないのも礼儀に反するかと思い短時間だけでも面倒を見てみることにしたのだが。
「才能もある、薬を使用してるとはいえシンフォギアを使いこなす実力もある。だが、精神面が脆弱過ぎる。強き肉体には強い精神が宿るが、逆もまた然り」
「……覚悟は決めている」
「嘘をつくな、誰しも命のやり取りで最初の一人を乗り越えるのは困難ではある」
「誰かを殺すのが、強くなるための条件とでも言うの!」
強い口調で声を上げ、此方を睨み付けてくる。彼女の中での価値観にとって、私の発言は認める事が出来ないのだろう。
「必須では無いが近道ではある。どの時でも殺す事に躊躇いの無い者は一定以上の強さはあったから、タガを外すのが手っ取り早い」
「……私は」
「逆に不殺貫き通した強者も何人かいた。だが、そう言った者たちも何処か常識から逸脱していたし、道半ばで死んだ者も多いし、前者よりも大成まで時間を要していた。甘さを捨て去るも、甘さを貫き通すもお前の自由だ」
選択する自由は誰にもある。選択しない自由も同じく。
「何を選んで、どうやって強くなるかは自由。それは自分で決めろ」
「あの子にも、同じように?」
あの子と言うのはクリスの事だろう。
「無論同じだ。その結果と過程に私が介入することは無い、自身で決めること、そして結果を受け入れる事であの子は成長するだろう」
イチイバル、喪失したとはいえどネフィシュタインも使いこなせた才能。それなりの時間は要するであろうが、成長が楽しみな逸材である事に間違いは無い。
「貴方の元で成長したと言うのなら、手強いのでしょうね」
「当たり前だ。まだまだ甘いとはいえ、クリスは強いし可愛いぞ」
「可愛いかどうかは聞いてないわ」
言いながら立ち上がったマリアに、ペットボトルに入った水とタオルを投げ渡した。一言感謝を口にしてからそれに口をつけるマリアを見て、やはり根が良い子であるのだと改めて思う。手っ取り早く戦いでの命のやり取りを進めてみたが、根本からして向いていないのかもしれない。
ならばやはり、米国を相手にした荒事は出来るだけ大人で対応するとしよう。
「そろそろ時間だ。早くナスターシャの元に戻ってやれ。ちびっ子の二人も心配し始める頃だろ」
「我儘に付き合って貰って、感謝してる」
短い礼の言葉を最後に彼女はベランダから去っていった。
誰かに鍛錬をするなんて久しぶりすぎて少し不安だったが、上手く出来たのでは無いのだろうか。
しかし、あれくらいの歳頃の少女だと命のやり取りに慣れなくて当然か。その精神性を教える事は出来ないし、今の世の中ならそれは不要な物だろう。
「優しさで世界が救えるのなら、それが一番なんだろうが」
世界は優しさで満ちていると同時に、そんな世界の優しさが時に牙をむく事を知っている。牙をへし折れるだけの実力があれば話は別だが、いま相手取るのは世界ではなく月だ。
優先するのはネフェリムとフロンティア覚醒による月落下の阻止。立花響、風鳴翼、雪音クリスの三人が行った月の欠片の破壊、それと同時期に私が行った別の月の欠片の蒸発の様な力技での解決は不可能。
一先ずはナスターシャ教授とウェル博士が提案した方法に乗るとしよう。全てが終わったあと、目的を果たすのはそれからで良い。