数年後の藤田ことねとプロデューサーの話です。

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第1話

 彼女の去った部屋で煙草に火を点ける。吸い込んだ煙をそのまま肺に叩き込む。ヤニに頭が小突かれたような痛みを覚える。それでも吸い慣れた香ばしさがくそったれな程旨くて、吐き気がした。

 

 冷めやらぬ興奮の熱とは対照に頭の隅では冷静になっている俺がいる。口から飛ばした煙は換気も上手くいっていないこの部屋の染みになっていくのだろう。

 

 あんだけ快楽を求めたのに、終わってしまったら呆気ないものだ。何が染み付いているかも分からないシーツに包まれて眠ることは、流石に無精な俺でも嫌気が差した。

 

「プロデューサー辞めっかな」

 

 このまま消えてなくなる方法だけを探し続けた。

 

 

 

 藤田ことねは初星学園を卒業後、望み通りに100プロに所属するアイドルである。俺は彼女のケツを追いかけるように同社に所属し、担当プロデューサーをしている。

 

 彼女と出会ってからかれこれ6年。目が回るような毎日で、彼女は一度として足を止めたことはなかった。それに引き摺られるような形で俺も手綱を離さないだけのことはしてきた。

 

 しかし、その全てを列挙するにはどうにも記憶が覚束無い。殴られたような衝撃と、苦悩の毎日と、それとその分だけのやりがいと。まだ四半世紀も生きていない鼻垂れ小僧だが、人生を掛けてという言葉に嘘偽りはない。

 

 彼女の名声も高まり、地方のイベントにも呼ばれるようになっていた。今日は比較的大きめなステージで、それをものともしない彼女の姿は一端のアイドルと言っても差し支えないだろう。舞台袖から俺は陽光を見ていた。

 

「プロデューサー!どうでしたか、あたしのステージは!」

 

 控室に戻ってきたことねは、全身から湯気が出そうなほどの熱気を帯びていた。肩で息をしながらも、その表情は会心の出来を誇るように輝き、自慢げに胸を張っている。

 

 二十歳を越えても振る舞いはあの頃と変わらない。そのせいで俺は彼女との距離感がわからないままでいた。

 

「今日のことねも世界で一番可愛かったぞ。クレオパトラも真っ青だよ」

「プロデューサーのよくわからない褒め言葉がキくー! 前回は小野小町でしたよね」

「次回は楊貴妃だぞ」

「コンプリートですね!」

 

 パチンとハイタッチの小気味の良い音が響く。

 

 掌から伝わる熱は、ステージの興奮冷めやらぬ彼女の体温そのものだった。火傷しそうなほどのその熱を、俺は気付かないふりをしてポケットに突っ込んだ。

 

「腹減ったな。この辺りにディナーも出してる喫茶店があるらしいんだが、どうだ?」

「へー、プロデューサーにしてはお洒落な所選びますねぇ」

「割と行くんだよ。最近煙草が吸える場所が少なくて困る」

 

 せっつかれるようにして社用車に乗り込む。誰が付けたかわからない芳香剤の似合いが苦手で、少し窓を開けた。

 

 カーステレオからは俺が流しているダニエル・パウターが「今日は厄日だ」と繰り返している。

 

「相変わらず古い曲ばっか聴きますね。プロデューサーの青春時代の曲って訳でもないですよね」

「耳馴染みのある曲は落ち着くんだよ。それにことねだってよく知ってたな」

「生き馬の目を抜くアイドル業界のプロデューサーの発言とは思えないですね。昔お父さんが車で流してたんですよ」

 

 そうは言っても彼女は口ずさみ始めた。発音はカタカナで、歌詞もうろ覚え。お世辞にも上手いとは言えないが、何故か染みた。

 

 曲が終わった後、もう一度と流す。不満を垂れつつも歌い始める。次はスマホで歌詞を見ながら。付け焼き刃ではどうにもならず、やっぱり下手でも俺は好きだ。 三度目をお願いしてみたが、流石に断られた。

 

 

 

 目的地の喫茶店は駐車場を見ても儲かっているとは思えなかった。店内に入ると、やはり人は少ない。一応人目を気にして端の席を選んだ。

 

 色褪せたベルベットのソファーに腰を下ろし、水と共に配膳されたメニューを開く。

 

「よし、注文決まった」

「早いですね。もうちょっと待ってください」

 

 ああでもない、こうでもない。と悩んでいる。確かにメニューは豊富だが、何を迷う必要があるのか。

 

「どうせプロデューサーはカツカレーですよね」

「⋯⋯どうしてわかった?」

「プロデューサーはいつもそれじゃないですか。前に朝にカレーパン、昼にカツカレー、夜にカツカレーを食べていた時はなんだこの人って思いましたよ」

「今日は違うかもしれない」

「そうでしたら申し訳ないです。ちなみに何を頼む予定ですか?」

「⋯⋯カツカレーだけど、文句あるか?」

 

「いいえ」と答えることねの顔は勝ち誇っている。居心地が悪くなって煙草を取り出したら、店内禁煙の文字が目に入る。「喫茶店なのに」と心の中で愚痴りながらも、昨今の情勢も考えると喫煙者こそ異端なのかもしれない。

 

 悩み抜いた挙句選んだのはデミグラスのオムライス。二ページ目にあったメニューじゃないか。せっかちな自分にはその選択が遅く感じた。

 

 頼んだカツカレーとデミグラスのオムライスが届く。無駄にグレービーポットにルーが入っているが、気にせずに全部掛ける。ことねは角度に苦戦しつつも写真を撮影している。後でSNSに挙げるのかもしれない。俺が写り込んでいないことだけ確認しよう。

 

 ようやくと言った段階で口を付け始めた。

 

 カチャ、カチャと銀色のスプーンが皿に当たる音と名前も知らないジャズだけが、薄暗い店内に響く。

 

「プロデューサーって挑戦しないですよね」

「失礼な、ここのカツカレーと他の店のカツカレーは別物だ」

「あたしから言わせれば、カツカレーの括りで大差ないですけどね」

 

 オムライスを頬張る彼女は、不意に口数を減らした。いつもなら今日のステージの反省点や、次の仕事の野望を早口でまくしたてるはずなのに。

 

 ふと視線を上げると、ランプの仄暗い灯りの中で、ことねがじっと俺を見つめていた。その瞳には、ステージ上で見せるような万人に向けられた太陽のような輝きではなく、もっと粘度が高く、息が詰まるような底知れぬ熱が宿っていた。

 

「⋯⋯どうした。顔にお弁当でもついてるか?」

「いいえ。なんでもないです」

 

 誤魔化すように笑った唇の艶かしさに、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。その予感から目を背けるように、俺は食後のコーヒーを胃に流し込んだ。

 

 

 

 宿泊先のビジネスホテルに戻ったのは、夜の九時を回った頃だった。

 

 当然、部屋は別々だ。オートロックの重い扉を閉め、安っぽいユニットバスでシャワーを浴びる。ようやく一人になれたことで、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

 

 明日も早い。さっさと酒を飲んで寝てしまおう。そう思って椅子に腰掛け、煙草に火を点けようとした瞬間だった。

 

 コンコン、と。控えめだが、はっきりとしたノックの音が部屋に響いた。

 

「⋯⋯プロデューサー、起きてますか?」

 

扉の向こうからの声は、確かな湿度が存在していた。時計を見なくても、こんな時間にアイドルが男の部屋を訪ねてくることの異常性はわかっていた。

 

「もう寝るところだ。明日にしろ」

 

「⋯⋯少しだけ、話したいんです。開けてください」

 

 ここで頑なに拒絶すれば、かえって妙な角が立つ。そんな言い訳を自分に用意しながら、俺はチェーンを掛けたまま僅かに扉を開けた。

 

 隙間から見えたことねは、すっぴんに近い顔に、ラフな部屋着姿だった。だが、その瞳だけが異様なほどの熱を帯びて俺を射抜いている。

 

「話ってなんだ」

「⋯⋯ここじゃ、言えません」

 

 哀願するような、それでいて逃げ道を塞ぐような声。気付けば俺はチェーンを外し、彼女を薄暗い部屋の中へと招き入れていた。

 

 カチャリと、背後でオートロックが閉まる音がやけに耳に残る。逃げ場のない狭い空間。彼女から発せられる熱気が、じりじりと俺の影を焼き尽くしていくようだった。

 

「で、どうした。体調でも悪いのか」

 

 努めて平坦な、いつも通りの声を作った。だが、ことねは答えない。ただ静かに距離を詰め、俺のシャツの裾をきつく握りしめた。

 

「⋯⋯プロデューサー」

 

 これ以上踏み込ませてはいけない。本能的な危機感が、背筋を走る。半歩下がろうとしたところで、掴まれたシャツが俺を縛り付ける。

 

「怖い夢でも見ちまったか? 明日も早いぞ」

 

 軽薄に告げることで、彼女をアイドルの枠に押し込め、境界線を引こうとした。お前はアイドルで、俺はプロデューサーだ。その冷たい事実がどうしても拭えない。

 

「一回だけ」

 

 震えるような、甘くねっとりとした声が、俺の拙い防壁をあっさりと溶かした。見上げた彼女の瞳は、拒絶など端から想定していない、ある種の確信を孕んでいた。

 

「一回だけ⋯⋯あたしを、抱いてください」

「馬鹿なことを言うな。自分が何を言っているのか分かってるのか」

 

 なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。大人としての威厳も、プロデューサーとしての倫理も、今の彼女の前ではひどく陳腐な響きにしかならない。

 

 俺は確かに藤田ことねに惹かれていた。誘蛾灯に引き寄せられる虫のごとく目が離せない。本気で拒絶を行うことも出来るはず、でもそれを行わない。

 

 ことねはシャツの裾を掴んでいた手をスライドさせ、今度は俺の胸元にそっと触れた。そのまま、じりじりと体重をかけて押し歩いてくる。ベッドの縁にぶつかり、俺は半ば倒れ込むようにしてシーツの上に腰を下ろしてしまった。

 

 見下ろしてくる彼女の瞳には、仄暗い淀みがあった。

 

「⋯⋯お前は俺の担当アイドルだ」

 

 それは答えになっていない逃げ口上だった。その弱さを完璧に見透かしているように、ことねはふうわりと笑う。そして、ゆっくりと俺の膝の間に入り込み、逃げ道を塞ぐように首へ腕を回してきた。

 

 すっぴんの肌から香る、微かな石鹸の匂い。それに混じって、先ほどのステージの熱がまだ彼女の奥底で脈打っているのが伝わってくる。太陽が、俺の影を完全に呑み込もうとしていた。

 

「最後はプロデューサーからお願いします」

 

 脳内にぱちりと電気が走った。

 

「⋯⋯後悔するぞ」

 

 それが、俺にできた最後の、そしてひどく情けない抵抗だった。

 

「しませんよ。絶対に」

 

 塞いだ唇は、やはり火傷しそうなほど熱かった。俺が必死に守り続けてきた6年間は、そのたった一回の熱で、呆気ないほど簡単に焼き尽くされていった。

 

 腰に手を回し、ベッドへ押し倒す。抵抗もなく沈み込む。露わにした肌に蛍光灯の白さが反射した。髪を静かに撫でると、ぴくりと跳ねた。彼女の嬌声が耳を刺して、もう一度燃え上がった。

 

 

 

 ことねが去った部屋は甘ったるい香りだけが残っていた。それを塗り潰すように煙草に火を点ける。一丁前に感じた罪悪感が喉を焦がす。

 

 俺を焦がした熱は火遊びでは済まない。自己嫌悪が腹の底から侵食してきて、世界に対して居心地が悪くなる。

 

 プロデューサー辞める、その選択肢が蜃気楼のように現れては消えた。

 

 結局希死念慮なんてものは産まれなくて、ただただ逃げて楽になりたかった。

 

 

 

 眠気で重い瞼を擦った所で、朝が来る事実は変わらない。腹に何か入れる気にもならず、煙草と、備え付けのインスタントコーヒーだけ叩き込んだ。胃酸が上がってくるがわかる。口の中が酸っぱくなる。

 

 ことねの前にどんな面を晒せば良いのか。鏡の中の男は、引き攣った口角を必死に上げていた。

 

 最低限身なりを整えて、まともな人間の振りをする。これで騙せるなんて思ってはいないが、会話の切っ掛けを一つでも潰しておきたい。ネクタイを締めると窒息する気がして、いつもより指3本分緩めた。

 

 窓の外は今にも泣き出しそうだった。分厚い雲が陽の光を遮り、朝なのに薄暗い。

 

「ことね、おはよう。今日は帰るだけだから最悪車で寝てても良いぞ」

「おはようございます! それプロデューサーが眠くなりませんか?」

「いや、まあ⋯⋯。俺は平気だ。眠気覚ましもコンビニで買う予定だ」

 

 昨晩何度も練習した言い訳は自分でもわかるほど不審な臭いがした。声は掠れ、隠し事の体すらしていない。

 

 それでも、深く突っ込んで来なかったのを偶然と片付けられるほどには俺は馬鹿ではない。大方、何かを察して気を利かせてくれたのだろう。人って情けなくなると笑みが溢れるものなのか。今日一番の自然な笑顔が出来た気がする。

 

 車内でことねは提案の通りシートを大げさに倒して目を閉じている。息が詰まりそうだから振り出した雨粒が入らない程度に窓を開ける。

 

 このままハンドルを切ったのならば楽になれるか、そんなこと出来る程俺が大物だったなら苦しいと考えることもなかっただろう。

 

 昨日より小さく流したダニエル・パウターの調べが、今日は俺を糾弾しているようだった。

 

 

 

「チーフ、お話があります。今お時間よろしいでしょうか?」

「⋯⋯わかった。この書類があと10分くらいで終わるから、喫煙所でも行っててくれよ」

「チーフって煙草吸うんですか?」

「吸わないけど、そっちの方が話しやすいだろ。会議室の方が良いか?」

「すみません、喫煙所でお願いします。お時間いただきありがとうございます」

 

 軒下の喫煙所は風が吹くたび雨が顔に当たる。雨の日は煙草が美味くなるとしても、不快感がそれを上回る。

 

 傘を持ってこなかったこと、それとチーフをこんなところに呼び出してしまったこと。後悔なんて簡単には上書き保存はされないようで、塊となって俺の肩を重くしていく。

 

 吐いた煙は姿も見せず、人知れずに消えてなくなる。「自分だけ逃げやがって」。ぶつける先のない矛先でせめてもと八つ当たりする。

 

「お待たせ。なんだよ濡れてるじゃないか。やんちゃ坊主だな」

「⋯⋯チーフは準備が良いですね」

「先読み、段取りは仕事の基本だぞ。お前らしくもない。⋯⋯それで、話ってなんだ?」

「⋯⋯この仕事辞めようかなって思っています。まずはチーフに話を入れとこうと思って」

 

 自分にとっては一世一代の告白も、チーフにとっては青天の霹靂ではなかったようだ。少しだけ面倒臭そうに眉を顰めたばかりだった。

 

 十分に考えているとばかりに沈黙が続く。雨音が間を持ってくれたことが救いだった。

 

「どうするかな。理由を聞いても良いかな?」

 

 俺は怒られた子供のように口を噤んだ。ことねの事まで身売りすることをプライドが許さなかった。

 

 またも訪れる沈黙は俺の我儘だった。良い歳こいてメンタルだけは何も成長していない。

 

「そうだな、心療内科受診しようか。今時オンラインだったら即日やってくれる所もある。適応障害の診断書をもらえば取り敢えず1カ月は休めるぞ」

「医者相手でもなにも話さなかったら⋯⋯」

「そんなの嘘八丁並べれば良い。例えそうじゃなくても、今のお前の顔を見てなにもしない医者がいたら相当な藪だぞ」

 

 そんなに酷い顔をしていたのか。確かに今日一日、まともに鏡を見た記憶がない。チーフが詳しい事を聞いてこない理由がわかった。

 

「転職するにしても、どうにしても。会社から金貰って休んでからの方がお得だろ。何があったかは聞かないけれど、お前みたいな若者なんてこの業界腐るほど見てきた。今は休め」

「ありがとう⋯⋯ございます⋯⋯」

「濡れて冷えただろ。缶コーヒーくらいなら奢ってやるよ。あまり高いものじゃ俺の小遣いからじゃ難しいけどな。せっかくだし、もう1本吸ってから帰ってこい」

 

 渡された缶コーヒーは暖かかった。一人の喫煙所、堪えきれなかった嗚咽は雨音が覆い被さった。

 

 

 

 療養という名の休みを数日間したところで、気がついたことがある。案外世界は今日も正常に動いている。俺の存在なんて元から存在してなかったかのように。

 

 長い間染み付いた生活のリズムは変わることはなく、目覚まし無しでも意識は覚醒する。歯を磨き、食パン1枚だけ食べる。食後には珈琲と煙草を飲む。いつも通りのルーティン。

 

 通学する小学生の声が苦痛でテレビを付ける。遠い世界を伝えるニュースは悲しいことばかりを放送して、人々の不安を駆り立てていた。それでもチャンネルを回して、万が一ことねが出ていたらと考える方が怖かった。

 

 慢性的な頭痛と吐き気には慣れた。やるべきことが見つからず、時間を浪費するように毎日を過ごしていた。生きてはいない、死んでいないだけだ。

 

 動画サイトで無味無臭の情報を摂取していたら、12時を回っていた。特に腹が減った訳でもないが、これこそ人間の生活だと昼飯を準備する。

 

 また無意味な時間の浪費を続けていた所でインターホンが鳴る。宅配か、それともセールスか。モニターを覗き込むと、見慣れた金色の三つ編みが揺れていた。

 

 目が合った気がして目を逸らすけれど、冷静になったらそんなことないはずなのに。毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出してシャツを濡らす。一瞬にして不快感の塊になる。

 

 おずおずとモニターを再び覗くと、太陽の笑みがそこにいた。

 

『可愛いことねちゃんが来ましたよー! プロデューサーさん、開けてください!』

 

 スピーカー越しに届いたのは底抜けに明るい声だった。

 

 胸の内の黒いモヤが霧散していく。その事実に気がついて自分に嫌悪感。言うに事欠いて俺は彼女に救われたがっているのか?

 

 言い訳を探してみても、今の彼女を拒むだけの体力がなく。素直に自室の鍵を開けた。或いは、彼女を招き入れる言い訳を探していたのかもしれない。

 

「ここ最近ろくなもの食べてないんじゃないですか? あたしが何か作りますよ」

「いや、さっき昼飯を食べたばかりだから良いよ。気にしないで座っててくれ。今珈琲でも持ってくる、それともお茶の方が良いか?」

 

 不自然なほど自然な会話をする。互いに核心には触れずに、柔らかい所を撫でるような言葉を選ぶ。

 

 この場合覚悟を決めないといけないのは確実に俺だろう。一寸先の闇が怖くて、二の足を踏んでいた。ことねの笑顔は俺の背中を押して、突き落としてくれる。

 

 

 

 逃げ場のない狭いキッチンに逃げ込み、俺は電気ケトルのスイッチを入れた。湯が沸くまでの数十秒すら、今の俺にはとてつもなく長く感じられる。粉末のインスタントコーヒーをふたつのマグカップに落とす手が、微かに震えていた。

 

「プロデューサー、少し痩せましたか?」

 

 背後から声がした。振り返らなくてもわかる。ことねは部屋の奥の座椅子には座らず、俺のすぐ後ろ、この狭いキッチンの入り口まで付いてきている。あの夜と同じ、甘い香りと体温が背中にじりじりと迫っていた。

 

「⋯⋯元々太ってはないだろ。ただの運動不足だ」

「そういうことじゃなくて。なんか、しわしわになってますよ。ちゃんと運動しなきゃすぐに老け込んじゃうんですからね」

 

 冗談めかした口調の中でも、俺の惨めな生活をすべて見透かされているようだった。カチリと音を立てて湯が沸く。俺は逃げるように湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜた。

 

「ほら、熱いから気をつけて持てよ」

 

 振り返り、マグカップを差し出す。ことねは両手でそれを受け取ろうと手を伸ばし──カップではなく、カップを持っている俺の両手ごと、その小さな手で包み込んだ。

 

「冷たいですね、プロデューサーの手」

 

 俺は手を振り払うことができなかった。彼女の手は、あのステージの後のように、あるいはベッドの上で触れたときのように、どうしようもなく熱かった。

 

 ことねはマグカップを持ったままの俺の手に顔を寄せ、上目遣いでじっとこちらを見つめてくる。笑みはそこになく、曇天が広がっていた。淀みが瞳の奥で渦を巻いていた。

 

「寂しいですよ、プロデューサー」

 

 静かな、けれど有無を言わさない声だった。

 

「休むのはいいですよ。いっぱい寝て、元気になってください。でも、いなくなるのは許しません」

 

 彼女の手の力が強くなる。俺の手首に回された指先は、手錠のようだった。罪人のようで全ての罪を追及されている気分になる。裁判を待たずに自白する。これは俺が全て悪かったのだと。

 

「俺は⋯⋯プロデューサーとして間違ったことをした⋯⋯。もう戻れない⋯⋯」

 

 ぽろりぽろりと溢れた言葉は涙の代わりだった。泣くことなんて烏滸がましいのに、それもまたことねに甘えていた。謝罪の一つも零さずに。

 

「良いじゃないですか。パパラッチにすっぱ抜かれた訳でもないですし」

 

 部屋の重さに似合わない、あっけらかんな回答が返ってきた。覗き込むと、そこにはおおよそ表情と呼べるものが抜け落ちていた。手を振り払い、思わず後ろに下がるも、キッチンでは逃げ場などなかった。

 

 ことねの理解者は俺だ。彼女と積み重ねた年月、それから産まれたものは全て驕りに等しかった。

 

「プロデューサーは、本当に真面目ですね」

 

 諭すような、あるいは手のかかる子供をあやすような声。彼女の顔が目の前に迫る。ゆっくりと唇が重なる。俺はそれを避けることはしなかった。

 

「あたしはアイドルを続けます。誰にもバレずに、今まで通り最高のステージを見せます。トップアイドルにもなります。プロデューサー夢でしたよね?」

「違う。そういう問題じゃない」

「じゃあ、なんの問題なんですかね」

 

 彼女はつま先立ちになり、俺の耳元に唇を寄せた。ぞくりとするほど甘い声が、脳髄に直接響き渡る。

 

「もう一回、あたしを抱いてください」

 

 首筋に、ちくりとした痛みが走る。噛み付かれたのだと遅れて理解した。それは明確なマーキングであり、所有権の主張だった。

 

 離れた彼女の顔は、やはり太陽のように無邪気で、狂おしいほどに輝いていた。

 

 マグカップから立ち上るインスタントコーヒーの湯気だけが、この異常な空間で唯一、日常の振りをしている。俺はもう、戻れないかもしれない。戻る必要などないのかもしれない。

 

 彼女に腕を引かれるままベッドに行くと、手を広げて俺を待つ。用意されたレールの上で、最後のピースだけは俺自身で嵌めた。

 

 そこからはこの前の再演だった。欲望のままに腰を振るうと、彼女はわざとらしく身を捩らせて悦ぶ。視界がことねで埋まる。思考がことねで満たされる。世界には俺とことねしかいない。腰に登ってくる快感のままに、ことねを汚した。

 

 

 

 目を覚ますと、腕の中に感じる確かな重みと、自分由来ではない甘い香り。自分の部屋の、自分のベッド。長年使い込んだ俺のテリトリーは、もう完全に彼女に塗り潰されていた。

 

 窓の外はすっかり暗くなっていた。カーテンを開けるのはいつ以来か。少なくとも休み始めてからは記憶がない。ガラス越しに見た空は雲の切れ間から月明かりが差し込んでいる。

 

 フローリングを音が立たないように踏みしめ、キッチンの換気扇の下に立った。煙草を咥え、火を点ける。深く吸い込み、肺の奥まで紫煙を満たす。香ばしさが口の中に広がる。チェのレッドは何時でも旨かった。

 

「⋯⋯これで良かったんだよな」

 

 ぽつりとこぼした呟きは、換気扇の低い唸り音に吸い込まれて消えた。

 

 背後で、衣擦れの音がした。

 

「またそんな身体に悪いもの吸っちゃって」

 

 振り返ると、俺の大きめのシャツを羽織っただけのことねが、目をこすりながらキッチンに立っていた。その無防備な姿に、再び下腹部に熱が灯るのがわかる。

 

「お前はもうちょっと寝てろ。明日も仕事だろ」

「あたしの仕事は、プロデューサーと一緒にいることです」

 

 当然のように言い放ち、背後から抱きつかれる。確かな温もりが、そこにことねがいることの実在性を主張している。

 

「チーフには、明日連絡するかな。復職するって」

「お、随分と思い切りが良いですね! ことねちゃんが良い薬になりましたか?」

「元からただのサボりだったからな。気の持ちようだ」

 

 背後でことねがくすくすと笑ったのがわかった。その姿勢のまま言葉を紡ぐ。

 

「プロデューサーって意思が弱いですよね」

「なにを失礼なことを」

「昔ことねって名前で呼んでくれって言った時もあんなに拒んでいたのに。一回だけなんて言ったら後はなし崩しでしたし」

「⋯⋯ああ、そんなこともあったな」

 

 頭の片隅にかろうじて引っ掛かっていた記憶を引っ張り出す。そうか、あの頃から俺はことねの掌の中だったのかもしれない。

 

「大丈夫ですよ。そんなプロデューサーもしゅきですよ」

「なんだか全く嬉しくないな」

「こんな美少女が言ってるのに、失礼ですよ」

「前からどこかで言おうと思っていたけれど、流石にことねも美少女って歳ではないだろうに。可愛いけれどさ」

 

 みぞおち辺りが締まる感覚がある。無言の抗議のようだった。「苦しい」と言いながらも、俺の口角は確実に上がっていた。抗うことをやめた途端、こんなにも世界は呼吸がしやすい。

 

 

 

 数日後。俺は予定通り100プロのオフィスに復帰した。

 

「お、元気になったか」

「チーフ。ご心配おかけしました。もう大丈夫です」

 

 いつもより早く出勤したつもりだったが、チーフは既にそこにいた。いつ来てるんだよ。デスクに向かい、チーフに頭を下げる。

 

「煙草でも吸いに行こうか。朝はブラック飲みたいだろ」

「お供させていただきます」

 

 朝の冷たい空気は澄んでいて、煙草を吸うには丁度良い。一応非喫煙者の上司に煙が掛からないようにだけ気を遣いつつ、一服させていただく。

 

「解決したのか?」「いえ、全く」

 

 はっきりと答えると苦笑が返ってくる。

 

「どうせ痴情のもつれだろ。お前みたいな年代の奴はみんなそうだ」

「今までの経験則ですか?」

「まあな、俺がそうだったから」

 

 さっと告げられた衝撃の事実に面食らう。振り向くと、ニヤニヤと悪戯が成功したガキのような顔をしている。こんなチーフは初めて見た。

 

 しばし固まっていると、その笑みのまま話し始める。武勇伝を語るワルガキかよ。

 

「俺がお前ぐらいの頃な、当時の担当に手を出したんだよ。見てくれよ、それ今の奥さん」

 

 差し出されたスマホには綺麗な人が。元アイドルだと言われても納得はする。それにしても妙に若いような。

 

 スワイプされて出てきたアイドルはくりりとした目で可愛くて⋯⋯。

 

「これって高校生ぐらいじゃないですか?」

「いや、この時は中学生だったかな」

「犯罪じゃないですか!」

「そうだけど、こいつが俺以外の誰かに盗られるのが怖かったんだ」

 

 真面目な上司の過去が想像以上で、思わず煙草を落としそうになった。こいつは一体何を言っているのだろうか。

 

 警察に突き出そうか考えたが、物わかりの良い上司がいなくなるのも俺にとって損がある。詳しくは知らないがどうせ時効だ。

 

「お前もどうせ藤田に手を出したとかそんなもんだろ。くだらない」

 

 俺の悩みをゴミ箱に投げ捨てるようなチーフ。くそったれ、同じ穴の狢かよ。

 

「最低ですね、俺ら」

「最高の間違いだろ。どうせ腐った業界だ。楽しく生きろよ」

 

 自嘲気味に笑うチーフ、頭沸いているんじゃないか。

 

 くそったれなのは世界の方か。そこに気がついた時、腹を抱えて笑った。


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