魔装機神ヴェネフィルディア   作:深雪ソーマ

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プロローグ 門の向こうに在るもの

 最初に感じたのは、冷たさだった。

 

 頬に触れる空気がひやりとしていて、けれど冬の外気とも違う。湿り気を帯びた空気が、ゆっくりと肺の奥へ沈んでいく。鼻先には土と石の匂い、それにわずかに、鉄と魔力が混ざったような乾いた匂いがした。

 

 久遠水湊は、薄く目を開けた。

 

 視界はぼやけていた。けれど、それでもわかる。頭上に空はない。あるのは、はるか上方に広がる巨大な岩盤だった。夜空のように遠い天井の下に、光る植物と石造りの建物が点々と連なり、街の灯りが複雑に層をなして広がっている。

 

 ラ・ギアス。

 

 その名を口にする前から、水湊はそう理解していた。

 

「……本当に来たのか」

 

 呟いた声は掠れていた。喉が乾いている。身体は動く。痛みもある。夢ではないらしい。

 

 神のもとで告げられたことが、断片的に蘇る。

 

 ラ・ギアスを選んだこと。

 空間属性への適性。

 精霊の意思を感じ取る感応。

 そして――白銀の小さな相棒。

 

 足元の影が、ゆっくりと波打った。

 

 黒く沈んでいた輪郭がほどけるように揺れ、その中から白い鼻先がぬっと現れる。続いて三角の耳と青白い目。最後にふわりと尾をひとつ揺らして、白銀の小狐が影の中から這い出てきた。

 

 ナインは一度だけ身体を震わせ、水湊の足元にちょこんと座る。

 

『目は覚めた?』

 

 声は耳ではなく、頭の中へ直接落ちてきた。

 

「おまえ、平気そうだな」

 

『水湊が転移に弱すぎるだけ』

 

「初めてなんだから仕方ないだろ」

 

『私も初めてだよ』

 

 もっともな返しに、水湊は苦笑しかけた。

 

 肩の力が少しだけ抜ける。ナインがいる。それだけで、さっきまでの世界から完全に切り離されたわけではないと思えた。

 

 もっとも、安心してばかりもいられない。

 

 立ち上がった瞬間、水湊は全身に薄い違和感を覚えた。肌の表面ではない。もっと奥、骨の内側あたりがざわついている。目の前の景色に、目では見えない継ぎ目がいくつもある。岩の陰、低木の根元、街道の脇。そこだけ世界の布が薄くなっているような、不気味な感覚。

 

『感じる?』

 

「……空間が薄い場所、か」

 

『うん。あんまり気分のいい状態じゃない』

 

 水湊は周囲を見回した。街道からは少し外れている。岩場と低木に囲まれた斜面で、遠くに石畳の道が見える。その先に人影がある。三つ。こちらに近づいている最中らしい。

 

 同時に、別の感覚が胸の奥を掠めた。

 

 呼ばれている。

 

 そうとしか言えない感覚だった。

 

 音ではない。声でもない。なのに、はっきりと方向がわかる。斜面のさらに下、岩場の奥。空間の継ぎ目が最も薄く、世界の向こう側が近い場所。

 

 そこから、静かな意志がこちらへ伸びていた。

 

『……来るね』

 

 ナインの声が少し硬くなる。

 

 次の瞬間、街道脇の空中が、紙のように裂けた。

 

 黒い亀裂が細く走り、その中から灰色の塊が這い出してくる。獣に似ているが、獣ではない。四足で、長い前肢を持ち、頭部には目がない。ただ裂けたような口だけがあり、その奥で青い光が脈打っていた。

 

「早いな……!」

 

『感心してる場合?』

 

 ナインが影に沈み、水湊の足元で影そのものが広がる。

 

 魔物はすでに跳んでいた。前肢が振り下ろされる。反射で横へ転がると、さっきまで立っていた岩肌が音もなく裂けた。爪ではない。空間そのものを削っている。

 

 まともにやり合うべき相手ではないと、頭ではなく本能が告げた。

 

 だが逃げ道もない。

 

 街道の三人も、すでにこちらの異変に気づいて足を止めている。このまま魔物が流れれば巻き込まれる。

 

『水湊』

 

 ナインの声に振り向くと、白銀の小狐は影から半身だけ現し、岩場の奥を見ていた。

 

『あっち。いま感じてるの、あそこだよね』

 

「……そうだ」

 

『なら行くしかない』

 

 同意する暇もなく、二体目の魔物が亀裂から滲み出る。

 

 水湊は舌打ちし、斜面を駆け下りた。足元の石が滑る。背後で空間が裂ける嫌な音がして、灰色の影が迫る。けれど胸の奥の“呼び声”はさらに強くなっていく。

 

 岩壁の裂け目に辿り着いた瞬間だった。

 

 そこには、本来あるはずのない“奥行き”があった。

 

 岩の表面が揺れている。水面のように、薄い膜を張ったように。そこだけ、この世界から半歩ずれている。

 

 触れた指先が、冷たく沈んだ。

 

 そして――意味が流れ込んでくる。

 

 言葉ではない。だが水湊は理解した。

 

 辿り着いたか。

 

 胸の奥が、強く鳴った。

 

 その向こうにいる。

 

 神の場で一度だけ触れた、高位精霊の気配。静かで、薄く、深い。夜の海の底みたいな意志が、岩の向こうからこちらを見ている。

 

 ヴェネフィス。

 

 水湊がそう意識した瞬間、世界の向こう側に白い巨体の輪郭が立ち上がった。

 

 白銀の装甲。細身でも重装でもない、鋭く引き締まったシルエット。背には翼ではなく、門の骨組みを思わせる多層フレーム。まだ完全には現れていないのに、その存在だけで息を呑む。

 

 魔装機神。

 

 ヴェネフィルディア。

 

 だが、それはそこにあるだけだ。待っている。試すように。

 

 再び、意味が流れ込んでくる。

 

 力を欲するか。

 

 なら示せ。

 

 おまえが、何を選ぶのかを。

 

 流暢な会話ではない。ただ短い意志が、刃のように胸へ落ちてくる。けれどそれだけで十分だった。

 

 背後から咆哮が響く。魔物が迫る。街道の方では、人影の一人が防御結界を展開していた。間に合わない。ここで躊躇えば、あの三人が食われる。

 

 水湊は振り返り、裂け目の向こうの白銀機を見上げた。

 

「……上等だ」

 

 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。

 

「試すっていうなら、見てろ」

 

 その瞬間、岩壁の膜が大きく開いた。

 

 門だった。

 

 白銀の巨体の胸元へ続く、薄い光の道が現れる。装甲が開いたわけではない。空間そのものが、乗り込むために繋がったのだ。

 

 水湊は迷わず飛び込んだ。

 

 膜を抜けた瞬間、音が消える。次いで視界いっぱいに青白い紋様が広がった。円環。幾何学模様。位相の線。計器よりも先に、機体そのものの“構造”が感覚として流れ込んでくる。

 

 足元の影からナインが現れ、低く囁いた。

 

『気絶しないでよ』

 

「そんな暇あるか……!」

 

 両手を広げる。

 

「同調《シンク》!」

 

 世界が反転した。

 

 人間の視界ではない。ヴェネフィルディアの視野が一気に広がる。岩場も、街道も、魔物の裂け目も、全部が掌の上みたいに見えた。同時に、機体の重さと鋭さが、そのまま自分の四肢になったような感覚が走る。

 

 強烈な圧が、胸の内を貫く。

 

 まだ足りない。

 

 それでも、振るえ。

 

 ヴェネフィスの意志が、短く落ちてきた。

 

 水湊は息を呑みながらも笑った。

 

「十分だよ……!」

 

 白銀の魔装機神が、ラ・ギアスの地を踏みしめる。

 

 魔物が三体、同時に跳ぶ。右から一、左から一、正面から一。狙いは街道側だ。

 

 守るなら、今だ。

 

 水湊は前へ踏み込んだ。

 

 いや、踏み込んだのではない。間合いが縮んだ。背部フレームが開き、前方に小さな光輪が生まれる。白銀の拳がそこへ沈み、次の瞬間には魔物の眼前から現れた。

 

「穿門打《ゲートナックル》――!」

 

 轟音。

 

 魔物の頭部が砕け、灰色の身体が吹き飛ぶ。残る二体が左右から爪を振るうが、水湊は叫んだ。

 

「転界《シフト》!」

 

 景色がずれた。

 

 一瞬だけ世界が白く抜け、ヴェネフィルディアは別の座標へ滑っている。爪は残像だけを裂き、空振った。

 

 そのまま右腕を引き抜く。白銀の剣が鞘走り、刃に燐光が走る。実体剣のはずなのに、輪郭だけが半歩ずれ、空間そのものを噛んでいるように見えた。

 

 裂け。

 

 短い意志。

 

 水湊はそれに頷くように、剣を振るった。

 

「裂界剣《スプリットセイバー》!」

 

 一閃。

 

 魔物の身体は真っ二つになるのではなく、中心からほどけるように崩れた。位相的な繋がりそのものを断たれたように、灰が散って消える。

 

 最後の一体が口を開き、青い光を放つ。

 

「位相障《フェイズシェード》!」

 

 薄い膜が幾重にも重なる。盾ではない。壁でもない。飛来した光弾はその膜を滑るように逸れ、ヴェネフィルディアの脇を抜けて岩壁に突き刺さった。

 

 刹那、ナインの気配が増える。

 

 白い小狐の残像が二つ、三つと分かれ、魔物の周囲へ散った。ハイ・ファミリアの簡易展開だ。小さな白い影が敵の周囲に座標を刻む。

 

『いま!』

 

「界穿弾《ピアスミサイル》!」

 

 肩部から放たれた誘導弾は直進しない。飛び出した直後に光輪へ吸い込まれ、次の瞬間には別の位置から再出現した。上から、横から、死角から。座標をなぞるように食らいついた弾頭が、最後の魔物を位相ごと食い破る。

 

 爆発音が遅れて響き、灰色の影は跡形もなく消えた。

 

 静寂が戻る。

 

 水湊は大きく息を吐いた。胸が苦しい。けれど倒れるほどではない。機体の中に流れる圧も、さっきより少しだけ馴染んでいた。

 

 そのとき、街道の方から声が飛んだ。

 

「そこの魔装機――動くな!」

 

 水湊が視線を向ける。

 

 三人だ。ローブと軽装甲に身を包んだ男女が、杖と剣を構えてこちらを見ている。中央の若い女魔術師の表情には、明らかな警戒が浮かんでいた。

 

 当然だろう。

 

 見知らぬ異邦人。見知らぬ機体。そして、魔装機神級の白銀機。

 

 水湊はヴェネフィルディアをゆっくりと半歩下がらせ、剣先を地面へ向けた。敵意がないと示す、ぎりぎりの動きだった。

 

 すると胸の奥へ、また短い意志が落ちる。

 

 選べ。

 

 ここから先も。

 

 水湊は思わず苦笑した。

 

 試すのが好きな精霊だ。けれど、その圧の底に、ほんのわずかな了承が混じっているのを感じた。

 

 まだ正式ではない。

 まだ認められたわけでもない。

 それでも、門は開いた。

 

 ラ・ギアスに降り立った異邦人は、いま確かに、空間の魔装機神へ辿り着いたのだ。

 

 そして次に来るのは、たぶん戦いだけではない。

 

 この世界そのものとの、最初の接触だった。

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