王の私室を辞したあと、水湊が通されたのは、王城外縁の保護区画にある個室だった。
牢ではない。
だが客室とも少し違う。
石造りの壁は厚く、扉の外には見張りの気配がある。窓は高い位置にひとつだけ。内装は簡素だが、必要なものは揃っていた。寝台、小机、椅子、水差し、そして壁際に埋め込まれた淡い魔力灯。落ち着いているとも言えるし、逃がさないために不足なく整えられているとも言える。
「……なんというか、絶妙だな」
扉が閉まってから漏らした言葉に、足元の影が揺れた。
ナインが這い出してきて、寝台の端へ軽く跳び乗る。白銀の毛並みが灯りを受けて、ぼんやりと淡く光った。
『保護と監視の中間、って感じだね』
「まさにそれだよ」
『最初から牢じゃないだけ、かなり温情だと思うけど』
「わかってる」
そう返しながら、水湊は椅子へ腰を下ろした。ようやく一人になれた、という感覚がある。正確には一人ではなく、一匹と、遠くに一柱だが。
胸の奥に沈んだ冷たい灯は、相変わらず消えない。
ヴェネフィス。
静かな海の底みたいな感触が、ずっとそこにある。王の前で気配を示してからは、むしろ少し輪郭がはっきりしたようにも感じていた。言葉を交わしたわけではない。ただ、遠い場所でこちらを見ている視線が、前より少しだけ“近い”。
「なあ、ナイン」
『うん』
「さっきの、どう思う」
何を、と言わなくても通じたらしい。ナインは尾を一度だけ揺らし、少し考えるように目を細めた。
『王様の前でヴェネフィスが気配を出したこと?』
「それもそうだし、全体的に」
『雑だなあ』
「俺も整理しきれてないんだよ」
ナインは寝台の上で丸くなりかけ、それをやめた。話すつもりらしい。
『たぶんだけど、ヴェネフィスは水湊だけを見てるわけじゃない』
「それは、王の前でわかった気がする」
『うん。あの時の感じ、あれは水湊の答えにだけ反応したわけじゃなかった。たぶん、“この国の中心にいる人間はどういう相手か”も見てた』
妙に納得できた。
ヴェネフィスは高位精霊だ。機体の向こうにいる何か、というだけではない。この国にとって無関係でいられる存在ではないのだろう。なら、王の前で気配を示したのも、単なる偶然ではないはずだ。
「……つまり、俺が試されてるだけじゃない」
『王様も、ラングランも、たぶん試されてる』
さらっと恐ろしいことを言う。
だが、ありえないとも言い切れなかった。
フェイルロード王は、水湊をただの危険物として切り捨てなかった。恐れて距離を置くだけでもなく、無条件に取り込もうとしたわけでもない。見極めて、使えるなら使う。その判断を、ヴェネフィスもまた見ていたのだとしたら――今日のやり取りは、単なる事情聴取以上の意味を持っていたことになる。
水湊は背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「とんでもないところまで来たな……」
『一日目にしては大活躍だよ』
「嬉しくない言い方するな」
でも、間違ってはいない。
死んで、神に会って、ラ・ギアスを選び、ナインが生まれて、ヴェネフィスと接触した。そこまではまだ、向こう側の話だった。けれどラ・ギアスへ落ちてからは、全部が現実だ。血の匂いも、裂け目のざらつきも、魔装機の重さも、王の視線の重さも、全部が現実だった。
「……逃げられないな」
独り言のつもりだったが、ナインはそれにも返した。
『いまさら?』
「いまさらだよ」
『でも、水湊。たぶんそれでいいんだと思う』
珍しく、ナインの声が少しだけ柔らかかった。
『最初から全部わかってて、全部割り切って動けるようなタイプじゃないでしょ』
「否定はしない」
『だったら、目の前のことを一つずつやるしかないよ。街道でそうしたし、市場でもそうした。王様の前でも、結局そうだった』
たしかにそうだった。
神の前でも、ヴェネフィスの前でも、王の前でも、結局その場その場で選んできただけだ。大きな理屈や使命感が最初からあったわけではない。けれど、そのたびに何かは返ってきた。
ヴェネフィルディアは応じた。
ヴェネフィスは切らなかった。
王もまた、即座に拒絶はしなかった。
それをどう受け取るべきかは、まだわからない。だが、少なくとも完全に間違ってはいないのだろう。
静かな沈黙が落ちた。
王城外縁区画の夜は、街の夜よりさらに静かだ。ときどき遠くで兵の足音がする以外、ほとんど音がない。その静けさの中で、水湊は胸の奥の灯へ意識を向けてみた。
冷たい。
深い。
変わらない。
だが今日は、その奥にほんのわずかだけ、別の色が混じっている気がした。
遠い肯定。
あるいは、まだ続けてよいという沈黙。
「……ヴェネフィス」
声に出したところで返事があるとは思っていなかった。
それでも、名前を呼ばずにはいられなかった。
しばらく何も起きない。やはり気のせいかと思いかけた、その時だった。
胸の奥へ、短い感覚が落ちる。
進め。
たったそれだけ。
けれど、水湊は思わず息を止めた。
王の前で気配を示した時とも違う。もっと短く、もっと静かだ。それでも明らかに自分へ向けられた意志だった。
『……へえ』
ナインが小さく目を見開く。
「聞こえたのか?」
『言葉じゃないけど、なんとなくね』
やはり自分の勘違いではないらしい。
水湊は少しだけ笑ってしまった。嬉しい、というのとは少し違う。だが、胸の中で張り詰めていたものが、ほんの少しだけほどけたのは確かだった。
「進め、か」
『単純だね』
「助かるよ。いまはそれくらいで十分だ」
その夜、水湊は久しぶりに、少しだけ深く眠れた。
夢は見なかった。
ただ、意識のどこかに白銀の巨体と、深い海みたいな静けさがずっとあった。
そして翌朝。
目を覚ますより少し早く、扉が控えめに叩かれた。
「久遠水湊殿。起きておられますか」
昨日の文官の声だ。
水湊は半身を起こし、短く返事をする。
「起きてます」
「では、失礼します」
入ってきたのは文官一人だけではなかった。その後ろにセレニアとエリシアもいる。朝だというのに、二人とももうきっちりと仕事の顔をしていた。
セレニアが扉を閉め、まっすぐ水湊を見る。
「昨夜の裁可が出たわ」
早い。だが王城なら、これくらいは普通なのかもしれない。
水湊が寝台から足を下ろすと、セレニアは淡々と告げた。
「あなたの当面の処遇が決まった」
部屋の空気が少しだけ張る。
ナインも寝台の端で耳を立てた。
「まず、あなたは引き続き王城管理下に置かれる」
そこは予想通りだ。
「ただし拘束ではない。保護区画内での生活を許可する。行動範囲は制限されるけれど、必要な設備と最低限の自由は与えられる」
「最低限、か」
「最低限よ」
きっぱりしている。
「次に、ヴェネフィルディアの召喚は申請制。無断召喚は禁止。ただし裂け目対応や訓練、検証の必要が認められた場合には許可される」
ここもまあ当然だろう。
「そして三つ目」
セレニアが一度だけ区切る。
「あなたには、王国協力者としての仮登録が与えられる」
水湊は少しだけ目を見開いた。
それは予想していたより、ずっと前向きな言葉だった。
もちろん無条件の歓迎ではない。だが少なくとも、“危険人物の一時留置”よりは明らかにましだ。
エリシアが腕を組んだまま付け加える。
「仮、だからね。まだ信用されたわけじゃない」
「わかってるよ」
「でも、協力者扱いまで持っていけたのは大きいわ。普通ならもっと揉める」
その言い方からすると、昨日の夜だけで相当な議論があったのだろう。王の一存だけで決まる話ではないはずだ。軍、術官、学者、そしておそらく王城中枢の人間たちが、それぞれに“この異邦人をどう扱うか”を考えた結果なのだ。
「それで、俺は何をすればいい」
問うと、セレニアは待っていたように答えた。
「今日からしばらくは、事情聴取と確認。あなた自身のこと、ファミリア、精霊感応、そしてヴェネフィルディアについて、わかる範囲で整理してもらう」
そこまではいい。
「加えて、裂け目対応に関する基礎協力。王国側は、あなたとヴェネフィルディアがどこまで対処能力を持つのかを知りたい」
「つまり実地訓練か」
「そういうこと」
エリシアがそこで軽く顎を上げた。
「で、その最初の案内役に、私が付くことになったわ」
水湊は思わず瞬きをした。
「おまえが?」
「不満?」
「いや、そうじゃないけど」
正直、少し意外ではあった。もっと中立的な術官や軍の教官が来ると思っていたからだ。
エリシアはやや面倒そうに肩をすくめる。
「最初の接触から今まで全部見てるの、私たち巡察隊なのよ。だったら最初の橋渡しもこっちがやる方が早いって話」
理屈は通っていた。
セレニアも頷く。
「あなたにとっても、その方がまだやりやすいでしょう」
否定はできない。エリシアは気が強いし容赦もないが、少なくとも何も知らない他人ではない。最初から完全な敵意でぶつかる相手でも、もうなくなっている。
水湊は小さく息を吐いた。
「……わかった」
その返事に、エリシアはほんの少しだけ表情を緩める。
「なら、朝食を取ったら動くわよ。今日はまず保護区画の説明と、王城側の術官への顔合わせ。そのあと、ヴェネフィルディアの再召喚確認」
「いきなり密度高くないか」
「あなたの一日目と比べれば、まだましでしょ」
それを言われると弱い。
ナインがくすりと笑う。
『順調だね』
「おまえは本当に気楽だな」
『だって、まだ始まったばかりだし』
その通りだった。
ラ・ギアスに来て最初の夜は終わった。
王の前にも立った。
当面の処遇も決まった。
ここから先は、ただ守られているだけではいられない。
この世界で暮らし、関わり、自分で選んでいくしかなかった。
水湊は寝台から立ち上がった。
胸の奥には、静かな灯が沈んでいる。
ナインは足元にいる。
ヴェネフィルディアはまだ狭間に待っている。
それで十分だ、と今は思えた。