ヴェネフィルディアの再召喚確認が終わったあと、水湊はそのまま別の部屋へ回された。
今度は会議室というより、作戦室に近い空間だった。壁一面に地図が貼られ、机の上には魔力灯で照らされた模型と、いくつもの書類束が並んでいる。保護区画の一室であることに変わりはないのだろうが、ここは明らかに“使うための部屋”だった。
アッシュ、セレニア、エリシア、ベルトラン教授。
顔ぶれはさっきと大きく変わらない。だが、全員の空気が少しだけ違う。
もう、水湊が何者かを探っているだけではない。
どう扱うかを決める段階へ進んでいる。
「座れ」
アッシュに促され、水湊は長机の一端へ腰を下ろした。ナインはその足元の影に沈み込み、白い耳だけを外へ出している。
机の中央には、ラングラン周辺の地図が広げられていた。
王都の位置、主要街道、地下水路、古い坑道、神殿跡らしき印。そこへ赤い印がいくつも打たれている。数は多くない。だが、少ないからこそ気になる打ち方だった。
「これが、最近確認された裂け目案件よ」
セレニアが杖の先で地図を指した。
「街道脇。南市場区画。西の旧搬送路。北外郭の監視塔近辺。……そして今朝方、もう一件」
杖先が、王都北側の少し外れた地点で止まる。
「旧貯水路跡」
水湊は地図へ身を乗り出した。
「増えてるのか」
「件数だけなら、いま急増というほどではない」
答えたのはアッシュだった。
「だが、質が変わり始めている。これまでは単発で終わっていた歪みが、最近は残留する。裂け目を閉じても、同じ周辺で再発する傾向が出ている」
それは嫌な話だった。
市場の件を思い出す。あのざらついた空気、空間の縫い目が雑になった感覚。あれが一過性ではなく、地形や流れとして残り始めているなら、ただ敵を倒せば済む話ではない。
ベルトラン教授が低く言う。
「通常の魔装機でも、出てきた敵性存在を排除すること自体は可能だ。問題はその後だな」
「閉じる方か」
「うむ」
教授は満足そうに頷いた。
「街道でも市場でも、おぬしはそこに関与した。ヴェネフィルディアの位相干渉が、裂け目そのものへ届いている」
つまり、それが水湊の役目になる。
王国が欲しがっているのは、単なる強い魔装機ではない。
裂け目そのものへ触れられる手だ。
セレニアが話を継いだ。
「王城側の結論はこう。あなたを通常戦力として扱うのではなく、位相異常対応の特務協力者として運用する」
言い回しは固い。だが意味ははっきりしている。
「前線の主力として常時出すつもりはない。けれど、裂け目や位相異常が絡む案件には優先的に参加してもらう」
「便利屋だな」
思わずそう返すと、エリシアが即座に口を挟んだ。
「自分で言うだけならまだしも、拗ねた言い方しないでくれる?」
「拗ねてるわけじゃない」
「ならいいけど」
そう言いつつ、彼女は机の上の別の紙束を水湊の前へ滑らせた。
見れば、王国側でまとめた仮の行動規定らしい。召喚申請、同行義務、王城許可なしの単独出動禁止、裂け目発生時の優先通達先。ずいぶん細かい。
「……思ったより本気だな」
「思ったより、じゃなくて、最初から本気よ」
セレニアが言う。
「あなたとヴェネフィルディアは、いま王城にとって最優先の不確定要素の一つなの。だから雑に扱うわけにも、放っておくわけにもいかない」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
歓迎されているわけではない。
だが、軽んじられてもいない。
王城は王城なりに、本気で管理し、本気で見極めようとしているのだ。
「それで」
水湊は紙束から顔を上げた。
「俺は何を覚えればいい」
アッシュがわずかに目を細める。
「話が早くて助かる」
そう言って、今度は彼が別の書類を開いた。
「当面の予定は三本立てだ。王国側の基礎知識。位相異常と裂け目の基礎講義。ヴェネフィルディアを用いた実地訓練」
「学校みたいだな」
「嫌か?」
「嫌っていうか、急だなと思っただけだ」
それにはベルトラン教授が小さく笑った。
「急でなければ困るのだよ、水湊君。おぬしは異邦人で、王国の常識を持たず、その上で高位精霊の器へ応じられておる。ゆっくり学ばせてから運用、という順番が取りにくい」
ごもっともだった。
王城としては、一刻も早く把握したい。
軍としては、一刻も早く使える形にしたい。
その両方が透けて見える。
エリシアが紙の束をめくった。
「王国側の基礎知識は私と術官側が分担。ラングランの地理、軍の系統、王城内の規則、出してはいけない失言集」
「最後のはいらないだろ」
「一番大事よ」
きっぱり言われてしまった。
セレニアも反論しないあたり、半分以上本気らしい。
水湊は肩を落とし、それからもう一つ気になっていたことを聞いた。
「……俺が異邦人だってこと、どこまで知られてる」
部屋の空気が少しだけ静まる。
アッシュとセレニアが、短く視線を交わした。
答えたのはセレニアだった。
「そこは切り分けるわ」
彼女の声は、いつも通り事務的だった。
「王城中枢――陛下、術官上位、教授、隊長級の一部には、あなたがこの世界の外から来たことは共有されている」
「神のことも?」
「そこまで含めて」
やはり、そこはもう隠れていない。
だがセレニアはすぐに続ける。
「ただし、それを外へ広げるつもりはない。一般兵や一般術官には“異邦から来た協力者”“王城預かりの特殊案件”で通す」
その方が自然だろう。
神様転移です、といちいち説明して回るのは、水湊からしても気が進まない。
アッシュが低く言う。
「おまえの出自は、使い方を間違えると余計な火種になる。奇異の目で見る者も出るし、逆に神託だの何だのと持ち上げる馬鹿も出る。そういうのは要らん」
「同感だ」
「だから、普段は異邦人でいい」
その一言で、少しだけ肩の荷が下りた気がした。
水湊にとって神の場は確かに始まりだ。
だが、毎回そこから説明し直したいわけではない。
ここではもう、そういう扱いではないのだろう。
ベルトラン教授が、机上の地図へ視線を戻す。
「そして訓練と並行して、早々に一件、現場を見せるつもりだ」
「早いな」
「早いとも」
教授はあっさり頷いた。
「知識は知識として必要だが、おぬしの場合、机上だけでは理解しきれぬ。何より、こちらもヴェネフィルディアが“落ち着いた状態の任務”でどう動くかを見たい」
エリシアが指先で、さっきの赤印の一つを叩く。
「北の旧貯水路跡。今朝方、微弱な位相歪みが確認された。まだ裂け目は開いてない。でも、空間が薄くなり始めてる」
「予備兆候ってことか」
「そう」
彼女の声は真面目だった。
「市場みたいに開いてから騒ぐんじゃ遅い。今回は、開く前に見に行く」
それはかなり大きい。
今までは、起きたことに対処していた。
だが今度は違う。王城と軍は、位相異常を“予兆の段階で処理する”方向へ動き始めている。
その中に、水湊とヴェネフィルディアが組み込まれる。
「今日の午後は資料と講義。明日の朝、旧貯水路跡へ出る」
アッシュが言う。
「規模としては小さい。だからこそ、おまえを出せる。大規模戦闘ではなく、観測と封鎖の予行だと思え」
「随伴は?」
「私の隊から二名。エリシア隊から二名。術官一名。おまえ」
少数だ。
だが、それで十分だという判断なのだろう。
「ヴェネフィルディアは必要なら召喚。現地の状況次第で決める」
セレニアのその言葉に、水湊はうなずいた。
無理に最初から出さない。
けれど必要なら出す。
運用としてはかなり慎重だ。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、水湊は地図の上の赤印を見つめた。街道、市場、西の旧搬送路、北の貯水路。ばらばらに見える。だが空間感応を通すと、何となく嫌な連なりが見えそうな気もする。
流れ。
あるいは、綻び方の癖。
胸の奥へ意識を沈めると、冷たい灯が静かに揺れた。
言葉ではない。
だが、地図の北側にある印へ、感覚がわずかに引かれる。
「……そこ、気になるな」
水湊がぽつりと漏らすと、アッシュが目を上げた。
「旧貯水路跡か」
「理由は、まだうまく言えない」
「それでいい。理由づけは後でやる」
軍人らしい返しだった。
エリシアも地図を見ながら眉を寄せる。
「前から思ってたけど、あなたの“嫌な感じがする”って、わりと当たるのよね」
「嬉しくない精度だな」
「私もそう思う」
やり取りのあと、セレニアが杖を机へ軽く当てた。
「では決まり。午前中は講義室へ移るわ。まずは裂け目と位相異常に関する王城側の整理から。そこで共通認識を作る」
「つまり、座学か」
「そう。嫌そうな顔をしない」
「してない」
「してるわよ」
それを横で聞いていたベルトラン教授が、少しだけ楽しそうに笑った。
「安心したまえ。最初から難解な理論を叩き込むつもりはない。今日は“何が起きていて、王国が何を掴めていないのか”を知ってもらうところからだ」
その言い方は、妙に印象に残った。
王国はまだ、全部を掴めていない。
だからこそ、水湊もヴェネフィルディアも必要とされている。
そして同時に、警戒もされている。
王城のやり方は、やはり容赦がなかった。
保護する。監視する。使えるなら使う。
その順番を崩さずに、きっちり全部やるつもりらしい。
だが、それを露骨に嫌だとも思わなかった。
少なくとも、見えないところで勝手に決められるよりは、目の前で方針を示される方がよほどましだ。
水湊は椅子から立ち上がった。
「わかった。付き合う」
「付き合う、ではなく参加する、ね」
セレニアがすぐに訂正する。
「もうお客ではないのだから」
その一言で、部屋の空気がほんの少しだけ変わった気がした。
歓迎されたわけではない。
けれど、外から来たままの客でもなくなった。
水湊は小さく息を吐く。
「……了解。参加するよ」
足元でナインが尾を揺らした。
『やっとそういう感じになってきたね』
胸の奥の灯もまた、静かに沈んでいる。
ヴェネフィスは何も言わない。
だが、その沈黙はもう、遠いだけのものではなかった。
明日は旧貯水路跡。
裂け目の予兆。
初めての、戦闘ではない任務。
それがうまくいく保証はない。
だが、ようやく水湊は、この世界の中で自分が何をするのか、その輪郭を少しだけ掴み始めていた。