王城の講義室は、思っていたよりずっと地味だった。
石を積んだだけの横長の部屋に、飾り気はほとんどない。前には黒板代わりの板があり、その脇に術式投影盤が据えられている。学校の教室に似ていなくもないが、流れている空気はまるで違った。ここで扱うのは知識だけではなく、王城が抱えている面倒そのものなのだろう。
水湊が入ると、前にはベルトラン教授とセレニアが立っていた。エリシアは少し後ろの席に腰を下ろしている。付き添いというより、最後まで目を離すつもりがない顔だ。
「座りたまえ」
教授に促され、水湊は前列の端へ腰を下ろした。足元の影に、ナインの気配が沈んでいる。
机の上には、薄い冊子が三冊置かれていた。表紙には王城術官局の印。開いてみると、地図や術式図、それに見慣れない分類表が並んでいる。
「今日は理屈を全部叩き込むつもりはない」
ベルトラン教授はそう言って、板に三つの言葉を書いた。
位相揺らぎ
境界薄化
裂け目
「王城では、空間異常を大きくこの三段階で見ておる」
杖の先が、最初の言葉を軽く叩く。
「位相揺らぎはもっとも軽い。視界の端がぶれる、空気の流れが不自然になる、魔力の筋が乱れる。自然に収まることも多い」
次に、二つ目。
「境界薄化。ここからが厄介だ。異常がその場に残り始める。見た目には何もなくとも、同じ場所で歪みが繰り返されるようになる」
最後に、三つ目。
「裂け目。向こう側がこちらへ食い込んだ状態だな。敵性存在が出るのも、位相汚染が起きるのも、ここまで進んでからだ」
水湊は冊子へ目を落とした。
街道で感じたざらつき。市場で見た空間の裂け方。あの時はただ嫌な感覚として受け取っていたものが、こうして言葉になると少しだけ輪郭を持つ。
「普通の魔装機は、どこまで対処できるんです」
問いかけると、答えたのはセレニアだった。
「裂け目から出てきた敵を倒すこと自体はできるわ。けれど、裂け目そのものへ触るのは難しい。閉じる方がずっと厄介なの」
「だから、俺たちが要る」
「そういうこと」
セレニアは投影盤に手をかざした。淡い光が立ち上がり、立体の図が空中に浮かぶ。地下水路の断面図らしきものの上に、細い線が何本も重なり、ところどころが赤く滲んでいた。
「これが旧貯水路跡。今朝方、観測班が拾った異常よ」
赤い滲みは、点のように散ってはいなかった。古い流路に沿って、じわじわと広がっている。
「水路沿いか」
「ええ。最近はこういう傾向が多い。水脈、古い坑道、使われなくなった術式線路。昔、何かが流れていた跡ほど、境界が薄くなりやすい」
セレニアはそこで水湊を見た。
「あなたも、そういう場所の違和感は拾いやすいはずよ」
拾いやすい、という言い方はたぶん正しい。正しいが、まだ自分の感覚として馴染んではいない。意識しなくても景色の継ぎ目がざらついて見えるのは、便利というより落ち着かないものだった。
後ろからエリシアが口を挟む。
「街道でいきなり当たりを引いたわけじゃなかったのね」
「運だけではあるまいな」
教授が穏やかに頷く。
「もっとも、再現性はまだわからん。だからこそ現場へ出る」
講義はそこから、もう少し現実的な話へ移った。
裂け目が出た時、王城術官がまず何を確認するか。軍はどう動くか。避難路はどの順で開くか。誰が封鎖を担当し、誰が敵を押さえ、誰が後始末に回るのか。
思っていた以上に細かい。
戦うだけでは終わらない。街の中で起きる以上、守ることも、封じることも、住民を逃がすことも全部込みだ。市場であれほど慌ただしかった理由が、ようやく少しわかった気がした。
「つまり、勝手に先走るなってことだな」
水湊がぼそりと漏らすと、エリシアがすぐに反応した。
「そう。やっとそこまで来た?」
「最初からわかってるよ」
「わかってる人は言われないの」
言い返したかったが、言い返せるだけの材料がなかった。
講義が一段落した頃には、外の時間も少し移っていた。空がないから昼は見えない。それでも王城の灯りや人の動きで、時間が進んでいるのはなんとなくわかる。
部屋を出ると、廊下の壁にもたれるようにしてアッシュが待っていた。
「終わったか」
「一応」
「一応では困る」
「みんな同じこと言うな」
ぼやくと、アッシュは気にした様子もなく歩き出した。ついて来い、ということらしい。
廊下を並んで歩きながら、彼は短く告げる。
「旧貯水路跡への出動は明朝だ。夜明け前に動く」
「随伴は?」
「私、エリシア、術官一名、兵二名。そこにおまえ」
昨日聞いた通りの編成だった。
「ヴェネフィルディアは現地判断。最初から出すとは限らん」
「その方が助かる」
水湊がそう返すと、アッシュはわずかに目を細めた。
「理由は」
「必要もないのに出したら、向こうもこっちも緊張するだろ」
「……悪くない」
それだけ言って、彼は少し黙った。
「旧貯水路跡は狭い。大部隊では動きづらい。今回は討伐任務ではなく、観測と封鎖の予行だと思え。戦うことになるなら、それはその時だ」
市場とは違う。
あの時は、すでに裂けていた。敵もいた。止めるしかなかった。
だが今度は違う。開く前のものを見る。そこにどう触れるかを試す。
「変な感じがしたら言え」
アッシュが前を向いたまま言う。
「勘でもかまわん。理屈は後からつける」
「外したら?」
「外したら一つ潰れるだけだ」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
軍人らしい。使えるなら拾うし、外れたら外れで終わらせる。そこに変な遠慮がないぶん、かえってやりやすい。
夕方から夜にかけては、また別の意味で慌ただしかった。
渡された資料を読み、保護区画内の通行許可の区分を覚え、王城の中で口にしていいことと悪いことを頭に入れる。異邦人であることは共有されている。けれど、その経緯までは外へ出さない。王城中枢止まり。そこははっきり線が引かれていた。
水湊としても、その方が助かる。
毎回、神の話から始めたいわけではない。いまこの場所で必要なのは、そこではないのだろう。
部屋へ戻るころには、さすがに肩が重かった。
「……思ったより面倒だな」
寝台へ腰を下ろすと、影の中からナインが這い出した。
『今さら?』
「今さらだよ」
『でもまあ、王城っぽいよね。雑にしない代わりに、全部拾う感じ』
その言い方が妙にしっくりくる。
雑にはしない。
だが甘くもない。
保護するなら管理するし、使うなら把握する。
王城のやり方は、だいたいそんな感じだった。
水湊は高い位置の窓を見上げた。外は見えない。ただ、壁の向こうで王城の夜が静かに息をしているだけだ。
「なあ、ナイン」
『うん』
「旧貯水路跡、どう思う」
ナインはすぐには答えなかった。少しだけ首を傾げ、それからゆっくり言う。
『嫌な感じはする。でも市場みたいな荒れ方じゃない』
「静かだってことか」
『うん。暴れる前に、下で広がってる感じ』
ぞっとしない言い方だった。
けれど、たぶんそういうことなのだろう。目に見えてからでは遅いものが、あそこではもうじわじわ進んでいる。
水湊は目を閉じ、胸の奥へ意識を沈めた。
冷たい灯は、変わらずそこにある。
しばらくそうしていると、短い感覚がひとつ落ちてきた。
見る。
ヴェネフィスだった。
それだけで十分だった。
戦えでも、断てでもない。
まず見ろ。
そう言われた気がした。
「……わかった」
『いまの、ヴェネフィス?』
「ああ。相変わらず短いけどな」
『でも、前よりは少し伝わるようになってる』
言われてみれば、その通りだった。
最初は、ただ圧が落ちてくるだけだった。
いまも長く語るわけではない。けれど、必要な時に届く意志は、少しずつ輪郭を持ち始めている。
それを信頼と呼ぶには、まだ早い。
それでも、ただ試されるばかりの距離ではなくなってきている気はした。
水湊は寝台へ横になった。
明日は旧貯水路跡。
裂け目になる前の異常を見る。
それが、自分にとって初めての「戦うためだけじゃない任務」になる。
王城のやり方はややこしい。けれど、そのややこしさの中で、自分がどこに立つのかも少しずつ見えてきていた。
異邦人。
王城管理下。
位相異常対応の特務協力者。
呼び方はどうでもいい。
明日、自分が何を見て、どう動くかの方がずっと大事だ。
そう思いながら目を閉じると、遠い場所で白銀の輪郭が静かに立っていた。