出動は、まだ街の灯りが眠たげに揺れている時間だった。
王城外縁の門を抜けるころには、ラ・ギアスらしい青白い明るさが石畳にうっすら落ちていた。空のない世界だから、夜明けそのものは見えない。それでも、街の空気が少しずつ動き始める気配で、朝はちゃんとわかる。
随行は昨日聞いた通りだった。
アッシュ。エリシア。術官のリシュア。兵が二名。そこに水湊が加わる。
ヴェネフィルディアはまだ呼んでいない。必要なら現地で召喚する。今日はその判断も含めての任務だった。
「眠そうね」
石段を下りながら、エリシアが横目で言った。
「眠いよ」
「言い切るのね」
「隠しても消えないだろ」
「まあ、それはそう」
軽口の形にはなっていたが、声の奥には少し張りがある。エリシアも、気楽というわけではないのだろう。
水湊の足元では、影が静かに揺れていた。ナインは姿を見せていないが、気配はいつもよりはっきりしている。
『水の匂いがする』
頭の奥に落ちてきた声に、水湊は小さく息を吸った。
たしかに、湿った匂いが混じっていた。街中とは違う。古い石と、長く動いていない水路の匂いだ。
旧貯水路跡は、王都の北寄りに残された古い施設だと聞いていた。いまはほとんど使われていないが、地下水脈と繋がる流路だけは残っているらしい。そういう、昔何かが流れていた場所に、最近は位相異常が出やすい。王城術官局の見立てはそうだった。
街を外れてからは早かった。
建物が少しずつ疎らになり、石の道が古びたものへ変わっていく。やがて前方に、半分崩れた円形の石造建築が見えてきた。井戸と貯水槽を合わせたような形で、壁面には古いラングラン文字らしきものが刻まれている。
「ここか」
水湊が呟くと、先頭を歩いていたアッシュが短く頷いた。
「ああ。旧貯水路跡の第一槽だ」
現地には、すでに先行の観測班が二人来ていた。簡易結界の杭が打たれ、細い術式糸が貯水槽の周囲に巡らされている。大騒ぎにはなっていない。だが、その静けさがかえって現場の緊張を際立たせていた。
「お待ちしていました」
観測班の術官がリシュアへ一礼する。
「変化は?」
「三刻前より、わずかに進行しています。まだ裂け目までは至っていません。ただ、槽底右側の歪みが少し広がりました」
報告を聞きながら、アッシュが水湊を見る。
「おまえも見ろ」
水湊は黙って頷いた。
崩れかけた石段を下り、貯水槽の縁へ寄る。中はほとんど空だ。底に浅く水が残り、壁のひびには青白い苔が張りついている。見た目だけなら、ただ古びた施設にしか見えない。
けれど、意識を少しずらした瞬間、景色の奥行きが不自然に揺れた。
槽底の右側。石壁と床の継ぎ目。そのあたりだけ、空間が薄い。
薄いというより、そこだけ世界の布地が擦り切れているような感じだった。
「……あるな」
思わず低く漏れる。
エリシアがすぐに反応した。
「どこ」
「右奥。壁際から床にかけて」
観測班の一人が持っていた術式板を確かめる。
「中心は一致しています」
だが水湊は、そのまま槽底を見つめていた。
「いや……そこだけじゃない」
アッシュの眉がわずかに動く。
「どう見える」
水湊は少し言葉を選んだ。
「一番濃いのはそこだ。でも、そこだけが傷んでる感じじゃない。もっと細いほころびが伸びてる」
「どっちへ」
リシュアが問う。
「外の流路側だと思う。底を沿って続いてる」
観測班の二人が顔を見合わせた。リシュアはすぐに結界糸の位置を見直し、何枚かの符を張り替える。術式が淡く脈打った。
「こちらの測定では、中心以外はまだ薄いですね」
「薄いけど、ある」
水湊はそう言い切った。
その瞬間、足元の影が揺れ、白銀の小狐が半身だけ現れた。ナインは槽の中をじっと見下ろしている。
『うん。点じゃない』
水湊は短く通す。
「ナインも同じだってさ」
エリシアが小さく息を吐いた。
「ほんとに便利ね」
『聞こえてるけど』
「聞こえて困ることは言ってないわよ」
軽口だったが、それで少しだけ空気がゆるむ。
アッシュはすぐに判断した。
「リシュア、外周も見ろ。流路の出口側まで広げる」
「はい」
「観測班は追跡に切り替えろ」
二人が散る。エリシアも兵を連れて外周へ向かった。現場の空気が一気に動き始めた、その直後だった。
槽底の水面が、ふっと震えた。
風ではない。誰も触れていないのに、水だけが一拍遅れて揺れる。
水湊の背筋に冷たいものが走った。
『水湊』
ナインの声が低くなる。
『ここ、開きかけてる』
その言葉で意味は足りた。石床の継ぎ目、その下で、何かが裏返りかけている。
アッシュが一歩前へ出る。
「召喚は?」
「待ってくれ」
水湊は反射的に言った。
「まだ全部は要らない」
言ってから、アッシュの視線を受ける。
「理由は」
「ここ、狭いんだよ。今の段階で本体まで出したら、押さえ込む前に余計に揺れるかもしれない」
少しの沈黙のあと、アッシュは短く頷いた。
「できる範囲でやれ」
水湊は息を吸った。
「同調《シンク》――局所接続」
空気が薄く鳴る。
水湊の前方に小さな光輪が生まれ、その向こうに白銀の装甲が一部だけ覗いた。ヴェネフィルディアの右腕部だけが、狭間とこちらの間に噛み合うように現れる。
観測班の一人が息を呑んだ。
「部分顕現……」
説明している余裕はない。
水湊は白銀の指先を槽底へ向けた。触れるというより、位相を合わせる感覚だった。石床の継ぎ目にそっと圧をかけると、ざらついていた感覚がわずかに止まる。
だが、それだけでは足りない。
「浅い……」
思わず漏らすと、胸の奥へ短い意志が落ちてきた。
足りぬ。
ヴェネフィスだった。
同時に、ナインが耳を立てる。
『下だよ。まだその下に続いてる』
水湊は眉を寄せた。
「二重か」
「何が見えてる」
アッシュの問いに、水湊はできるだけ早く言葉にした。
「表面だけ押さえても駄目だ。下に流れがある。ここを塞いでも、別の場所でまた薄くなる」
リシュアが術式板を覗き込みながら顔を上げた。
「反応が広がっています。槽外の旧流路へ続いています」
「やっぱりか」
アッシュの声が低く沈む。
市場のように、“ここを止めれば終わる”話ではない。もっと広い。もっと地形に染み込んでいる。
水湊は局所顕現した白銀の腕を通じて、もう一度石床へ感覚を沈めた。
細い。
けれど、確かに続いている。
ここから北側へ、古い流路に沿って静かに。
「アッシュ」
「言え」
「ここだけ閉じても意味がない」
水湊は顔を上げた。
「今は押さえられる。でも、元を追わないと別の場所でまた出る」
数秒の沈黙。
アッシュは槽底と水湊の顔を見比べ、それから短く決めた。
「ここは一時封鎖だ。観測班は流路の追跡を優先。リシュア、記録をまとめろ」
「はい」
「エリシア!」
外周へ出ていたエリシアが振り返る。
「立ち入りを止めろ。水路側も押さえる」
「了解」
指示が飛び、現場の空気が一段切り替わった。
討伐ではなく、調査と封鎖。
この任務の本来の形に戻る。
水湊は局所顕現を維持したまま、慎重に石床の表面をなぞった。完全に閉じるのではなく、表面だけを縫い止める。今はそれで十分だ。無理に押し潰せば、下の流れがどこで噴くかわからない。
やがて水面の震えが収まった。
ざらつきも完全には消えないが、さっきほど露骨ではない。
「一時安定しました」
リシュアが告げる。
「維持は半日程度が限界かと」
「十分だ」
アッシュはそう言い切った。
「今日はそれでいい。これ以上は現場でやることじゃない」
たしかにそうだった。
いまここで全部を片づけようとする方が危ない。
根がある。線がある。
それがわかっただけでも、今日は十分に重い。
局所顕現を解くと、白銀の腕は音もなく薄れて消えた。
観測班の視線が一気に集まる。完全召喚ではない。それでも十分に異質だったのだろう。
エリシアが戻ってきて、槽の中を見下ろした。
「応急処置ね。ほんとに」
「それでいい」
アッシュが答える。
「今日はそれを見に来た。閉じれば終わる案件じゃないとわかっただけで十分だ」
その言い方に、水湊は少しだけ息を吐いた。
最初から全部を片づけるつもりではなかった。そうわかるだけで、気持ちはだいぶ違う。
『嫌だね、こういうの』
ナインが影へ戻りながら言う。
『静かなまま広がるやつ、いちばん面倒』
「俺もそう思う」
水湊は槽の縁から離れ、外の古びた石畳へ視線を向けた。
朝はもう完全に明けている。王都の方角から、人の動きが少しずつ増えていく気配がある。けれど、その足元で何が進んでいるのかを知っている者は、まだ少ない。
アッシュが近くまで来て、低く言った。
「よく拾ったな」
「たまたまかもしれない」
「二度続けば、軍ではそれを能力と呼ぶ」
妙に軍人らしい言い方だった。
エリシアが小さく息をつく。
「これで仕事が減ると思ったのに、逆に増えたじゃない」
「おまえの仕事でもあるだろ」
「だから嫌なのよ」
そう言いながらも、声の調子は少しだけ軽かった。少なくとも今日は、戦わずに終われる。その事実が現場の空気を少し和らげていた。
だが、水湊の胸の奥には、まだ冷たいざらつきが残っていた。
旧貯水路跡だけでは終わらない。
あれはたぶん、入口にすぎない。
ヴェネフィスは何も言わない。
ただ静かに、遠いところで目を開けているような気配だけがある。
そして水湊は、今日ようやくはっきり理解した。
自分が相手にしているのは、裂け目ひとつではない。
ラ・ギアスの地の下を、静かに広がり始めている何かそのものなのだと。