旧貯水路跡から戻った頃には、王都の中もすっかり動き出していた。
石畳を行き交う人の数も増え、王城外縁の通路には兵や文官の姿が目につく。けれど、その足元に何が広がり始めているのかを知る者は、まだ多くない。
水湊は保護区画へ戻るなり、休む間もなく報告の場へ回された。
案内された部屋は、この前の作戦室よりひと回り広かった。長机の上には旧貯水路跡の見取り図と術式記録が並べられ、壁際には王城側の術官と軍務局の人間が何人も立っている。空気は静かだったが、穏やかではない。
視線の集まり方だけでわかる。
今日は、ただの経過報告では済まない。
アッシュが先に口を開いた。
「旧貯水路跡第一槽における異常は、一時封鎖に成功。裂け目そのものは未発生。ただし、異常は局所ではなく旧流路に沿って線状に広がっている可能性が高い」
短く、無駄のない報告だった。
その横でリシュアが術式記録を机に広げる。観測班が拾った波形、結界糸の反応、水湊の局所接続後に沈静化した数値。そのどれもが、“何かがある”ことまでは示していても、“何が起きているか”まではきれいに答えていなかった。
「可能性が高い、か」
長机の向こう側にいた中年の男が、低い声で言った。軍務局の人間らしい。肩章の重さだけで、末端ではないとわかる。
「つまり、確証はまだない」
言い方は静かだが、響きは冷たい。
水湊が答えるより先に、アッシュが返した。
「現場で確認できた範囲では十分な根拠です」
「十分かどうかを決めるのは現場ではない」
言葉がぴたりと返される。
そこでベルトラン教授が、机の端を指先で軽く叩いた。
「その言い方では話が進まんよ。旧流路に沿った異常の可能性が示された、それだけでも十分に重い」
教授の声は穏やかだったが、相手を立てる気はあまりなさそうだった。
「しかも今回は、裂ける前の段階で押さえた。市場の件とは意味が違う」
向かいにいた女術官が、記録へ視線を落としたまま口を開く。
「問題は、その判断の根拠が王城術官の観測だけでは足りなかったことです」
セレニアがすぐに引き継いだ。
「観測班は中心点を拾っていた。でも、広がりの筋を先に示したのは久遠水湊とそのファミリアよ」
部屋の視線が一斉に水湊へ向いた。
居心地がいいものではない。
だが、もう慣れ始めてもいる。
「……見えたものを言っただけです」
そう返すと、中年の軍務官がじろりと見た。
「その“見えた”が問題だと言っている」
言外に滲んでいたのは、警戒というより不信だった。
得体の知れないものに頼ることへの嫌悪。
あるいは、軍の理屈で測れないものを前にした苛立ち。
水湊は言い返しかけて、やめた。
ここで感情で返してもいいことはない。
代わりに、エリシアが先に口を開く。
「問題でも、役に立ったのは事実です」
「巡察隊は現場に寄りすぎる」
「現場で拾えなかったら、市場の次が来てたかもしれませんけど」
ぴしゃりと言い返す声は、いつもの少し棘のある調子そのままだった。
軍務官の眉が動く。
空気が少しきな臭くなりかけたところで、セレニアが机上の術式図を一枚ずらした。
「感情でやる話ではないわ」
落ち着いた声だった。
「論点は三つ。第一に、旧貯水路跡の異常が点ではなく線で広がっている可能性。第二に、ヴェネフィルディアの局所接続が初期封鎖に有効だったこと。第三に、久遠水湊の感応が通常観測より一歩先を拾う場面が続いていること」
簡潔で、逃げ場のないまとめ方だった。
「この三つを、戦力として組み込むか、危険要素として抑え込むか。それを決める場でしょう、ここは」
部屋が静まる。
誰もが、そこが本題だとわかっていたからだ。
軍務官が鼻で息をつく。
「抑え込めるものなら、そうしたいところだな」
「無理ね」
セレニアは即答した。
「少なくとも今の段階では。機体は高位精霊の器。操者との接続も安定し始めている。無理に封じれば、何が起きるか読めない」
「だから野放しにしろと?」
「誰もそんなことは言っていない」
今度の声は少しだけ硬かった。
王城術官側が欲しいのは、自由放任ではない。制御しながら使うことだ。そのあたりの線引きには、最初からかなり自覚的なのだろう。
アッシュが低く言う。
「現実的な線は出ている。王城管理下。召喚申請制。任務同行前提。単独行動は禁止。問題はそこから先だ」
「そこから先?」
水湊が思わず聞き返すと、アッシュは視線を向けてきた。
「おまえを、どこまで現場へ出すかだ」
その言葉で部屋の空気がまた少し変わった。
そうだ。
結局そこなのだ。
裂け目に触れられる。
異常の筋を拾える。
局所接続で初期封鎖までできる。
そこまでできるなら、軍は使いたい。王城も手放したくない。だが同時に、危険でもある。
だから揉める。
壁際にいた別の男が口を開いた。こちらは軍人というより文官に近い顔立ちをしている。
「専任化はどうだ」
その一言に、何人かが目を向ける。
「通常部隊とは切り離し、王城直轄の特務枠に置く。裂け目と位相異常案件に限って運用する。戦線への常用は避ける」
悪くない整理に聞こえた。
少なくとも“便利なら全部押しつける”という話ではない。
ベルトラン教授が小さく頷く。
「妥当だな」
「わたしも賛成です」
セレニアが続ける。
「今の段階で通常戦力と同列に置く方が危険よ。用途を限定し、王城側で管理しながら回すべきだわ」
軍務官だけが、まだ渋い顔をしていた。
「王城直轄の特務、か。聞こえはいいが、結局は制御の利かぬ札を抱えることになる」
そこで初めて、水湊は口を開いた。
「制御が利かないっていう言い方は、違うと思う」
部屋の視線がまた集まる。
さっきまで黙っていた異邦人が、ここでようやく自分から口を挟んだのだ。見られるのも当然だった。
水湊は机の上の図面を見たまま言葉を選ぶ。
「好きに動くつもりはない。王城の管理下にいることもわかってる。任務に合わせて協力する気もある」
それは本心だった。
「でも、便利だからどこへでも出す、みたいな扱いはたぶん無理だ」
「理由は?」
軍務官が聞く。
「ヴェネフィルディアは、ただの機械じゃない」
その一言で、部屋の空気が微かに張った。
水湊は続ける。
「俺が乗れば何でもやる、っていう相手じゃない。必要のないところで無理を通そうとしたら、たぶん応じ方が変わる」
脅しではなかった。
むしろ、これは正直な説明だ。
ヴェネフィスが何に反応し、何を嫌うのか。まだ全部はわからない。けれど、少なくとも“命令だけで従わせる”類ではないことは、もう十分わかっている。
ベルトラン教授が、面白そうでもあり真面目でもある顔で頷いた。
「そこは重要だな。王国が扱うのは兵器ではなく、精霊の器でもある」
「厄介ですね」
誰かが小さく漏らす。
「厄介だとも」
教授はあっさり言った。
「だが、厄介だから切る、で済む段階は過ぎておる」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ固まる。
市場。旧貯水路跡。
もう二度、結果が出ている。
しかも相手は高位精霊の器だ。危険だから遠ざける、だけで済めば誰も苦労しない。
やがて、部屋の奥の扉が静かに開いた。
全員の姿勢がわずかに正される。
入ってきたのはフェイルロード王その人ではなかったが、王の側仕えだと一目でわかる壮年の文官だった。無駄のない礼を一つだけして、机の脇へ歩み寄る。
「陛下より」
ただそれだけで、部屋の空気が一段落ち着く。
文官は短い書面をセレニアへ渡した。彼女は目を通し、内容を確かめたあと、部屋の全員を見回す。
「裁可が出たわ」
誰も口を挟まない。
「久遠水湊の扱いは、現状維持のまま一段進める。王城管理下、王国協力者(仮)のまま、裂け目・位相異常案件に限る暫定任務権限を与える」
水湊はわずかに目を見開いた。
協力者、という言い方だけではなかった。
任務権限。
つまり、出すと決めた案件には、正式に入れるということだ。
「任務ごとの都度承認は必要」
セレニアが続ける。
「ただし、現場で王城側指揮官と術官が必要と判断した場合、限定的な召喚と介入を認める」
アッシュが静かに息を吐いた。
「妥当な線だ」
軍務官はまだ不満そうだったが、王の裁可が出た以上、表立って反対はしないらしい。
「一点だけ」
その軍務官が言う。
「王城の外へ出す案件は、必ず軍務局にも事前共有を」
「当然です」
セレニアはその程度の要求は最初から織り込み済みだったように頷いた。
それで決まりだった。
部屋の空気が、ようやくひとつにまとまる。
全員が納得したわけではない。
だが、動かすための線は引かれた。
エリシアが腕を組んだまま、水湊を見る。
「よかったわね」
「……よかった、でいいのか?」
「少なくとも、檻に戻されるよりは」
それはたしかにそうだ。
アッシュが机から一枚の書類を抜き取り、水湊の前へ置いた。
「目を通せ。仮の任務規定だ」
見ると、簡潔だった。
任務範囲。同行義務。単独判断の禁止。局所接続の優先。完全召喚は現場指揮官と術官の双方が必要と認めた場合のみ。妙に現実的で、妙に細かい。
「……ほんとに、ちゃんと使うつもりなんだな」
水湊がそう漏らすと、アッシュは表情を変えずに言った。
「使えるものを使わないほど、王城も軍も余裕はない」
きっぱりした言い方だった。
だが続けて、少しだけ声を落とす。
「ただし、使い潰すつもりもない。そこを履き違えると、こじれる」
水湊は書類から目を上げた。
こじれる、の中にはたぶんいろいろ含まれている。
王城と軍の間。
人間と精霊の間。
そして水湊自身とヴェネフィルディアの間。
だから、そこを雑にしないための規定なのだろう。
ベルトラン教授が、やれやれという顔で椅子にもたれた。
「これで一応、立場は定まったな」
「一応、ね」
エリシアが言う。
「まだ“使えるかもしれない異邦人”の段階だけど」
「十分だろ。昨日までは“得体の知れない異邦人”だったんだから」
水湊がそう返すと、エリシアは少しだけ口元を緩めた。
「それはそう」
ほんのわずかな笑いが、部屋の張り詰めた空気を少しだけほどく。
けれど、問題が片づいたわけではない。
旧貯水路跡の異常は残っている。
流路の先も追わなければならない。
裂け目は、まだどこかで次を待っている。
セレニアが書類をまとめながら言った。
「次の案件は、旧貯水路跡の流路追跡と、周辺地図の洗い直し。それから王城下水路網との照合ね」
「また座学か」
水湊が顔をしかめると、彼女は平然と返す。
「まずはね。いきなり全部現場に出す方が無責任よ」
「それは否定しないけど」
「しなくていいわ」
その脇で、アッシュが短く告げた。
「現場もすぐ来る。のんびりはしていられん」
そう言われると、不思議と少し気が楽だった。
王城の思惑は複雑だ。
軍は軍で計算している。
術官も王城も、それぞれに別のものを見ている。
だが少なくとも、いまの自分はその中で完全に宙ぶらりんではなくなった。
王城管理下。
王国協力者(仮)。
裂け目案件への暫定任務権限あり。
肩書きだけ見れば、だいぶ面倒だ。
けれど、それでいいのだと思う。
曖昧なまま放っておかれるより、ずっとましだった。
胸の奥で、冷たい灯が静かに揺れた。
ヴェネフィスは何も言わない。
けれど、遠くからこの場の決まりを見ているような気配はあった。
水湊は書類を手に取り、小さく息を吐く。
ここから先は、王城の中で、軍の目の中で、ちゃんと役目を持って動くことになる。
流されるだけでは済まない。
だからこそ、ようやく地に足がついたとも言えた。