死んだのだと理解したのは、ずいぶん遅れてからだった。
痛みはなかった。恐怖も、思っていたほどではない。むしろ妙に静かで、自分だけが世界から半歩外れたような感覚の方が強かった。
目を開けると、そこは白かった。
本当に、白いだけの場所だった。
床も壁も空もない。ただ果てのない白が広がっていて、その中に自分だけが立っている。立っているはずなのに、足の裏には重さが曖昧で、自分がどこまで身体を持っているのかも少し怪しい。
「……これ、死後の世界ってやつか」
『そう考えてもらって差し支えありません』
返事は、背後から聞こえた。
水湊が振り向くと、そこには一人の男が立っていた。黒い服を着た、年齢不詳の男だ。若く見えなくもないし、ひどく老成しているようにも見える。顔立ちは整っているのに、視線を外すと印象が薄れる。不思議な存在感だった。
いかにも神です、という仰々しさはない。けれど、人間ではないのだろうと直感できる何かがあった。
「そういう……人?」
『人ではありませんが、いまはその認識で十分です』
「便利な言い方だな」
『ええ。便利でしょう』
水湊は思わず鼻で笑いかけて、途中でやめた。笑っていい場面なのか、自分でもよくわからなかったからだ。
最後に覚えているのは、夜の道路と、強い光と、身体が浮くような衝撃だった。そこから先の記憶はない。つまり、そういうことなのだろう。
「で、俺は死んで、ここにいる」
『はい』
「じゃあ、これから裁かれるとか?」
『その予定はありません』
「意外と軽いな……」
男――神は少しだけ目を細めた。
『あなたは死にました。ですが、そのまま終わらせるには少し惜しい縁がありました。ですから、ひとつ選択肢を用意しました』
その言葉で、水湊はようやくこの状況の“本題”を察した。
都合のいい話には、都合のいい裏がある。そういうものだ。少なくとも、自分の知っている物語ではたいていそうだった。
「もう一回、生きるとか?」
『ええ』
「代わりに何をしろって?」
『特別な使命を課すつもりはありません。ただし、行き先はこちらでいくつか用意します。あなたにはそれを選ぶ権利がある』
神が指先を軽く動かした。
白い空間のあちこちに、透明な板のようなものが浮かび上がる。いや、板ではない。窓だ。世界の断片が、その向こうに映っていた。
剣と魔法の国。荒れた大地を巨大兵器が進む戦場。未来都市。見たことのない空。知っている作品に似た世界もあれば、まったく心当たりのない景色もある。
どれも現実ではない。けれど、どれも現実になり得る場所としてそこにあった。
「……選べって、また雑だな」
『慎重に調整はしています』
「そうは見えないけど」
『見えないようにしています』
開き直ったような返答に、水湊は肩を落とした。
だが実際、選択肢を前にすると妙な高揚があった。怖さはある。あるが、それ以上に、ただの現実では終わらないという予感が胸の奥をざわつかせる。
視線が自然とひとつの窓に吸い寄せられた。
巨大な地下世界。石造りの街並み。魔法。精霊。魔装機。
白い機体が一瞬だけその奥を過ぎる。
ラ・ギアス。
魔装機神の世界。
水湊はしばらく黙って、その景色を見つめた。
『気になりますか』
「まあ……そりゃ」
『あまり生存性の高い世界ではありません。戦乱も多い。政治も複雑です。独自の文化圏でもあります』
「ロボットがいる」
『います』
「精霊もいる」
『います』
「魔法もある」
『あります』
水湊は小さく息を吐いた。
安全そうな世界を選ぶべきなのかもしれない。もっと穏やかに暮らせる場所も、探せばあるのだろう。けれど、どこまで考えても、視線はそこから離れなかった。
結局、自分はそういう人間なのだ。
「……ラ・ギアスで」
口に出した途端、胸の奥の何かが静かに決まる。
「そこにする。たぶん、一番後悔しない」
神は一度だけ瞬きし、それから穏やかに頷いた。
『では、行き先をラ・ギアスに確定します』
他の窓が消え、地下世界の光景だけが残る。
それを見ているうちに、水湊は妙な実感を覚え始めていた。まだ行ってもいないのに、そこがもう“次の世界”になっている感覚だ。
『ただし、そのまま放り込むわけにはいきません』
神の声が少しだけ硬くなる。
『ラ・ギアスは異邦人に優しい世界ではない。言葉、知識、立場、戦う力。そのどれもないまま送れば、長くは持たないでしょう』
「つまり、何かはくれるんだ」
『最低限の足場は与えます』
神の指先が水湊の胸元へ向いた。
『まず、高いプラーナ。魔装機神級の機体と繋がれるだけの素養を』
見えない何かが、胸の中心へ落ちた気がした。熱ではない。だが内側にもうひとつ灯がともるような感覚がある。
『次に、空間属性への親和性。あなたは世界を渡る素地が強い。その資質を、使える形へ整えます』
「世界を渡る、って……やっぱりそういう前提なんだな」
『可能性は高いでしょう』
それもまた、胸の奥へ沈む。
次は冷たかった。冷たいのに嫌ではない。目に見えない水の膜が、骨の内側へ沿うように広がっていく。
『そして、精霊感応』
その一言だけで、白い空間がわずかに揺らいだ。
『精霊や精霊機の意志を、意味として受け取る資質です。万能ではない。ですが、おそらくあなたには必要になる』
今度は痛みに近い刺激が走った。
視界の端で、何かの輪郭が増える。白い空間は変わらないはずなのに、見えていなかった“薄い継ぎ目”がそこかしこに現れる。空気の流れでも物の形でもない。ただ、世界が重なっている感じだけが増した。
水湊は思わずこめかみを押さえた。
「っ……これ、慣れるのか」
『慣れるでしょう。たぶん』
「神様が“たぶん”って言うなよ……」
抗議した声に、神は特に悪びれなかった。
『最後に、足元をひとつ』
神の足元から、静かに影が広がる。
白しかない場所に生まれた黒は、それだけで異様だった。水湊が見ている前で、その影は膨らみ、小さな獣の形を取っていく。
先に現れたのは、白い耳だった。
続いて小さな顔。細い四肢。青白い目。影の中から這い出してきたのは、雪ではなく銀でできたような、小さな狐だった。
白銀の小狐は、水湊を見上げたまま瞬きひとつしない。
「……狐?」
『あなたの精神、無意識、プラーナの一部を切り出して実体化させたファミリアです』
「すごい説明をさらっと言うな……」
小狐は神の説明など知ったことかと言わんばかりに、水湊へ近づき、足元を一周してから影の中へ半分だけ沈んだ。
『主人の認識と性質を反映します。高い知能を持ち、機体補助、精神的支援、戦闘支援を担うでしょう』
「つまり相棒か」
『そう理解して構いません』
小狐が足元の影から顔だけ覗かせる。白いのに影に馴染んでいるのが、妙に不思議だった。
『名前は、あなたが』
「いま決めるのか」
『いま決めます』
雑だな、と水湊は思ったが、しゃがみ込んで小狐と目を合わせる。
小さい。だが幼い感じはない。むしろ最初から完成された存在が、ただ小さく顕れているような違和感がある。白銀の毛並みの向こうに、かすかな残像のような尾の重なりが見えた気がした。
一つではない。ほんの一瞬だけ、複数に見えた。
「……ナイン」
思いつくより先に口に出していた。
小狐の耳がぴくりと動く。
『安直ですね』
「うるさいな」
神に言い返すと、小狐――ナインはようやく一度だけ目を細めた。嫌がってはいないらしい。
『では、その名で固定します』
「便利なシステムだな……」
ぼやいた水湊の言葉を最後まで聞かず、神は今度は別の方角へ視線を向けた。
白い空間の奥に、細い裂け目が走る。
それはゆっくりと広がり、やがて門のような形を取った。向こう側には、深い蒼が広がっている。海の底に似ているのに、水ではない。夜より暗く、それでいて静かな光が脈打っている。
その奥から、強い圧が届いた。
見ている。
そう感じた瞬間、胸の奥が大きく打つ。
『これが最後です』
神の声が、さっきまでより遠く聞こえた。
『あなたがラ・ギアスで掴むべき縁。その前段階として、ここでひとつだけ接触を許します』
門の向こうで、何か巨大なものが動いた。
全身は見えない。白銀の輪郭。装甲。門の骨組みめいた背部フレーム。機体――それも、ただの機体ではない。そこにあるだけで、世界の布が引きつるような存在感。
だが本当に水湊の意識を奪ったのは、その奥にいた“意志”の方だった。
静かだ。
薄くて、深くて、冷たい。
押しつけるような暴力性ではなく、こちらの芯まで見通すような鋭さを持つ意志が、門の向こうから差し込んでくる。
言葉ではない。
それでも、水湊には意味がわかった。
選んだのか。
胸の内へ直接落ちてきたその感覚に、思わず息が止まる。
『空間の高位精霊、ヴェネフィス』
神が名を告げた。
『そして、あれがその器――魔装機神ヴェネフィルディアです』
水湊は門の向こうの白銀機を見上げた。
呼吸ひとつするだけで、胸の灯と空間の冷たさが同時に震える。精霊感応。さっき与えられたばかりのその資質が、否応なくヴェネフィスの存在を拾っているのだとわかった。
再び、意味が落ちる。
まだではない。
この場では与えない。
その二つだけで十分だった。
神が代わりに言葉を継ぐ。
『ヴェネフィルディア本体を、いまここであなたへ渡すことはしません。あくまで、資格と接触だけです』
「……試されるってことか」
『ええ』
門の向こうから、もうひとつ意味が届く。
今度は、より明確だった。
ラ・ギアスで我が器へ辿り着け。
乗りこなしてみせろ。
挑発に近い意思だった。
命令とも、試練とも取れる。優しさはない。だが拒絶でもなかった。
水湊はしばらく黙って、その圧を受け止めた。
最初から全部もらえるわけではない。辿り着き、試され、認められて、はじめて手に入る。そういう話なら、むしろ納得できた。
「……わかった」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「そこまで言うなら、見つけて、乗って、使いこなしてみせる」
門の向こうの圧が、ほんのわずかだけ変わる。
笑ったようにも、気に入らなかったようにも感じる。どちらにせよ、こちらの答えは届いたらしい。
ナインが足元の影からぴょこんと顔を出した。
『言ったね、水湊』
「聞いてたのか」
『全部』
「なら手伝えよ」
『最初からそのつもりだよ』
神が一歩下がる。
『準備は終わりました』
白い空間が、ゆっくりと薄れていく。
世界が剥がれる前触れだった。
『ラ・ギアスは、あなたにとって始まりの世界になります。生き延びられるかどうかは、あなた次第です』
「またそういう言い方する」
『事実ですので』
神らしい容赦のなさに、水湊は苦笑した。
だが不思議と、嫌な気はしなかった。優しく送り出されるより、このくらいの方が自分には合っている気がしたからだ。
門の向こうのヴェネフィスは、最後まで何も言わなかった。
ただ、静かな意志だけがそこにある。
辿り着け、と。
証明してみせろ、と。
それだけが、胸の内に焼きついている。
「……行くか」
呟くと同時に、足元の白が崩れた。
落ちる感覚はない。世界の輪郭だけが反転し、自分という線がどこか遠くへ引き延ばされる。肩には軽い重み。ナインがいる。胸の奥には灯。骨の内側には空間の冷たさ。
そして、まだ見ぬラ・ギアスのどこかには、白銀の魔装機神が待っている。
そうして久遠水湊は、次の世界へ落ちていった。