別働隊としての初任務は、思っていたより早く来た。
翌々日の夕刻。
水湊が保護区画の資料室で、旧流路の図面を半ば睨むように眺めていた時だった。
扉が二度叩かれ、返事をするより先にエリシアが顔を出す。
「来たわよ」
「何が」
「任務」
それだけで十分だった。
水湊は机の上の紙を閉じる。足元の影が揺れて、ナインが小さく尻尾を動かした。
『早かったね』
「早い方が嫌な予感しかしないな」
『それはいつもだよ』
まったく慰めにならない。
作戦室へ入ると、もう全員揃っていた。アッシュ、リシュア、レオン、エリシア。長机の上には王都南西部の地図が広げられ、その一角に赤い印が三つ打たれている。
アッシュがすぐに本題へ入った。
「南西の旧搬送路だ。観測班が小規模な揺らぎを二件拾った」
「西側の続きか?」
「続きというより、同じ手口の疑いだ」
答えたのはレオンだった。
「人目の少ない古い路線。しかも、今夜は表で少し派手な動きがある」
その言い方で、水湊は察した。
「陽動か」
「その可能性が高い」
アッシュが頷く。
「表で目を引く動きがあれば、裏の異常は見落とされやすい。西でやられかけたばかりだ。同じ轍は踏まん」
机上の地図へ目を落とす。
旧搬送路は、王都外縁から資材搬入に使われていた古い通路らしい。いまは半ば放棄され、点検も最低限になっている。こういう場所は、たしかに何かを仕込むには都合がいい。
セレニアはいない。代わりにリシュアが術式板を示した。
「反応はまだ弱いです。裂け目と言い切るには早い。ただ、二点が近すぎます」
「偶然で済ませにくい、ってことか」
「そういうこと」
エリシアが壁に寄りかかったまま言う。
「今回は最初から別働隊案件。主戦線の増援は期待しないで」
「期待してないよ」
「ならよし」
水湊は地図を見ながら尋ねた。
「目的は?」
アッシュが短く答える。
「確認、封鎖、必要なら回収」
「回収?」
「西で見つけたような楔があるなら、今度は持ち帰る」
それはつまり、西側より一歩踏み込むということだ。
下手をすれば開く。
だが、放置すれば広がる。
だから今度は、見て終わりではない。
レオンが低く言う。
「二点同時に出てるのが厄介だ。片方が囮の可能性もある」
「分かれるのか」
「いや、まだ分けない」
アッシュが先に切った。
「最初は全員で南側へ入る。様子を見てから切る」
その判断は妥当だった。
初動で人数を割ると、片方が本命だった時に困る。別働隊は少数だ。少数である以上、最初の寄せ方を間違えたくない。
水湊は頷いた。
「了解」
出動は日が落ちてからになった。
王都の夜は、昼より静かだ。だが静かなだけで、眠っているわけではない。灯りは消えず、兵は巡回し、どこかで魔力灯の交換作業が行われている気配もある。その足元を、別働隊は目立たぬよう外縁寄りへ進んだ。
南西の旧搬送路は、思っていたより荒れていた。
幅の広い石路の両脇に、崩れた荷揚げ台や倉庫跡が並ぶ。使われなくなって久しいのだろう。石の継ぎ目には土が溜まり、ところどころ雑草のような地底植物が根を張っていた。
「こういう場所、ほんと好きよね」
エリシアが周囲を見回しながら言う。
「誰が」
「綻びを作る連中がよ。目が届きにくくて、人が寄らない」
「否定できないな」
水湊はそう返しつつ、意識を少しだけ開いた。
冷たいざらつきは、まだ遠い。
だが、何もないわけではない。
ナインが影の中で小さく言う。
『左の方が気になる』
「俺もだ」
前を歩いていたアッシュが振り向く。
「何かあるか」
「左の脇道。まだ薄いけど、空気が嫌だ」
それだけで全員の動きが変わる。レオンが先行し、リシュアが術式糸を解く準備に入る。エリシアは兵二人へ手短に位置を指示した。
こういう時、話が早いのは助かる。
脇道の先には、半ば崩れた搬入口があった。石の門柱だけが残り、その奥に短い通路が続いている。床には古い車輪の跡のような溝が刻まれたままだ。
水湊は入口の手前で足を止めた。
「ここだな」
レオンが一歩横に並ぶ。
「見えるか」
「見えるほどはっきりじゃない。でも、近い」
旧貯水路跡のように地の下へ染みる感じではない。
西側監視線のように風に混じる感じでもない。
もっと狭い場所に、無理やり押し込めたような歪み方だった。
「……奥だ」
水湊がそう言うと、リシュアの術式板にも反応が出た。
「拾えました。小さいですが、確かにあります」
「一つか?」
アッシュの問いに、水湊は首を振る。
「いや……待て」
通路の奥だけではない。もっと手前にも、かすかな違和感がある。一本ではない。間隔を空けて、二か所。
「二つある」
その瞬間、エリシアが短く舌打ちした。
「やっぱり」
レオンがすぐに周囲へ目を走らせる。
「片方が目印、片方が本命か」
「逆かもしれない」
水湊は眉を寄せたまま言う。
「こっちは、まだ判断しにくい」
アッシュが即座に決めた。
「分ける。エリシア、兵一名と入口側。リシュアは水湊と奥。レオンは私と外周」
「了解」
散るのが早い。
別働隊として決まったばかりなのに、動きそのものはすでに形になり始めていた。
水湊はリシュアと一緒に通路の奥へ進む。足音が石壁に小さく反響する。狭い。ヴェネフィルディアの全身を出す場所ではないと、入った瞬間にわかった。
「さっきの二つ、はっきりわかりますか」
リシュアが小声で聞く。
「奥の方が濃い。手前は薄いけど、嫌な感じがする」
「繋がっていますか」
「……たぶん」
言い切れない。だが、別物でもない気がした。
通路の最奥は、小さな荷置き場のような空間になっていた。壁が一部崩れ、古い木箱の破片が積もっている。その床のひび割れの一か所だけ、妙に暗く見えた。
見た目の暗さではない。
そこだけ、光が沈む。
「ここだ」
水湊がしゃがみ込む。
リシュアも術式板を床へ向けた。
「反応、上がってます」
水湊はゆっくり息を吸った。
ある。
間違いなく、ある。
しかも今度は西側の時のような“向こうへ開きかけている遠さ”ではなく、もっと手触りが近い。誰かが境界の継ぎ目へ、何かを押し込んで固定しようとしている感じだった。
「楔だな」
思わず口にすると、リシュアが顔を上げる。
「触れますか」
「触るだけなら」
「抜くのは」
「まだ危ない」
その返事をした直後、耳の奥で小さな音がした。
外だ。
アッシュたちのいる方角から、短い金属音が響く。
リシュアの表情が変わる。
「入口側で何か――」
「囮だ」
水湊は反射的に言った。
その言葉とほとんど同時に、床のひびの奥で何かが脈打つ。
「っ、来る」
水湊は右手をかざした。
「同調《シンク》――局所接続」
白銀の光輪が開き、ヴェネフィルディアの右腕部だけが現れる。狭い空間に白銀の装甲が差し込まれ、それだけで空気がぴんと張る。
水湊はその指先をひび割れの縁へ合わせた。
押さえる。
まだ抜かない。
まず、開かせない。
黒い靄が一瞬だけにじみかけ、そこで止まった。
「持ちこたえてる……」
リシュアが息を詰める。
その瞬間、外からエリシアの声が飛んできた。
「水湊! そっちが本命! こっちはただの撒き餌!」
「やっぱりか!」
返しながら、水湊はひびの奥へ意識を沈める。
楔そのものは小さい。
だが、その刺さり方が悪い。
無理に抜けば、一気に噛み合わせが崩れる。
胸の奥へ、短い意志が落ちてきた。
まだだ。
ヴェネフィスだった。
水湊は小さく息を吐く。
「リシュア、固定できるか」
「時間をもらえれば」
「どれくらい」
「三十秒」
「長いな」
「短くします」
その返しに、少しだけ笑いそうになった。
けれど、その三十秒が長いのも事実だ。
外ではもう足音が近づいてくる。アッシュとレオン、それにエリシアたちも戻ってくるのだろう。
水湊は局所接続を保ったまま、慎重に力を調整する。強く押さえればいいわけじゃない。少しでも噛み合わせを間違えると、そのまま開く。
『左に少し』
ナインが言う。
「わかってる」
『いや、わかってない。もうちょいだけ』
「細かいな」
『細かいのは得意なんで』
その助言に従い、白銀の指先をほんのわずかにずらす。
すると、ひびの奥のざらつきが少しだけおとなしくなった。
「いまです」
リシュアが術式糸を走らせる。床の周囲に細い光が幾重にも巡り、ひび割れの縁を囲い込んだ。
その直後、アッシュたちが奥へなだれ込む。
「状況は」
「本命はこっち。入口側は誘導だ」
水湊が言うと、エリシアが顔をしかめた。
「ほんとに趣味悪いわね」
「抜けるか」
アッシュの問いに、水湊はすぐには頷かなかった。
だが、さっきよりはましだ。術式固定が入ったぶん、楔の周囲が少しだけ見やすい。
「……いけるかもしれない」
「確実か」
「そんなの誰にもわからない」
思わずそう返すと、アッシュは短く頷いた。
「正直でいい。なら、おまえの判断でやれ」
その言葉は、思ったより重かった。
現場指揮官がそう言うということは、本当にこちらへ任せたということだ。
水湊はひび割れを見下ろし、胸の奥の冷たい灯へ意識を沈める。
ヴェネフィスは黙っている。
止める気配はない。
なら、やるしかない。
「少しだけ持ち上げる」
誰にともなく言って、水湊は白銀の指先をひび割れの奥へ滑り込ませた。
触れる。
硬い。
冷たい。
形が歪だ。
術具というより、削り出した何かを無理やり噛ませた感じだった。
「……抜くぞ」
静かに引く。
途端に、空間がきしむ。
全員の気配が張る。
だが、リシュアの固定が利いている。水湊は焦らず、ほんの少しずつ力をかけた。
やがて、黒ずんだ短い杭のようなものが、ひびの奥から姿を現した。
「抜けた!」
エリシアが叫ぶ。
同時に、ひび割れの奥から黒い靄が一度だけ噴きかける。だが水湊はそのまま白銀の腕を押し込み、縁ごと噛み合わせを戻した。
ぶつり、と音がした気がした。
そこで、ようやく静かになる。
全員が数秒、その場で動かなかった。
先に口を開いたのはレオンだった。
「……閉じたな」
リシュアが術式板を見て頷く。
「はい。完全ではありませんが、少なくともこの場は沈みました」
水湊はゆっくりと局所接続を解く。白銀の腕が薄れて消えると、ようやく肩から力が抜けた。
アッシュが水湊の手元を見る。
「それか」
抜き取った楔は、拳に収まる程度の大きさだった。黒く、ざらついた質感で、石とも金属ともつかない。見ているだけで落ち着かない。
「王城へ持ち帰る」
アッシュが言う。
「絶対に素手で触るなよ」
「言われなくても触りたくない」
それは本心だった。
エリシアが入口側を振り返る。
「こっちの撒き餌はもう消えてる。やっぱり時間稼ぎだけだったみたい」
「手慣れてるな」
レオンが低く言う。
「嫌になるくらいにな」
外へ出ると、夜気が少しだけ冷たく感じた。
旧搬送路の静けさは変わらない。だが、さっきまでそこにあった嫌な張りつめ方は、たしかに薄れていた。
『取れたね』
ナインが言う。
「ギリギリだったけどな」
『でも、前よりうまくなってる』
「どっちが」
『水湊も、ヴェネフィルディアも』
そう言われると、少しだけ考える。
たしかに最初よりは迷わなくなった。局所接続も、押さえ方も、どこまで踏み込んでいいかも。全部が手探りのままだが、それでも前へは進んでいる。
アッシュが歩き出しながら言う。
「これで一つはっきりした」
「何が」
水湊が聞き返すと、アッシュは振り向かずに答えた。
「敵は、こちらが綻びを追い始めたことに気づいている」
その一言で十分だった。
偶然ではない。
手口を変え、囮を置き、本命を隠した。
つまり向こうにも意図がある。
レオンも静かに続ける。
「しかも、こっちの動きを試してる」
「どこまで見えるか、どこで割れるか、か」
エリシアの声は少し低かった。
「性格悪いわね、ほんと」
否定する者はいなかった。
王都へ戻る道のりは短かったが、誰もあまり喋らなかった。
別働隊の初任務としては上出来だ。
囮を見抜き、本命を押さえ、楔も回収した。
けれど、それで楽になるわけではない。
むしろ逆だ。
向こうがこちらを見ていると、はっきりした。
それだけで十分に重い。
王城外縁の門が見えてきた時、水湊は手元の布越しに楔の気配を感じた。
小さい。
けれど、そこに詰まっている嫌なものは、西側の時より濃い気がした。
これはきっと、まだ入口に過ぎない。