回収した楔は、そのまま王城の術官区画へ運び込まれた。
布で二重に包み、その上から簡易封印をかける。たかが手のひらに収まる程度の大きさなのに、扱いだけは妙に大げさだった。もっとも、西側で見た感触を思えば、それでも足りない気がする。
「そんなに厳重にするのか」
水湊が言うと、隣を歩くリシュアが真面目な顔で頷いた。
「正体がわからない以上は、これでもまだ軽い方です」
「軽い方、ね……」
「嫌な言い方ですけど、嫌なものですから」
そこは否定できなかった。
術官区画の奥にある検証室は、旧貯水路跡の報告会に使った部屋より、さらに閉ざされた印象があった。壁と床には細かな術式が刻まれ、中央の石台を囲むように測定柱が立っている。ひとたび封鎖すれば、外から中の気配すら拾いにくくなる類の部屋だろう。
中にはすでにベルトラン教授とセレニア、それに王城付きの術官が二人いた。アッシュとエリシア、レオンも一緒だ。こうして顔が揃うと、別働隊だの暫定編成だのと呼んでいても、実際にはずいぶん深いところまで踏み込んでいるのだとわかる。
「置いて」
セレニアに言われ、水湊は石台の上へ包みをそっと置いた。
術官の一人が、封印を解く前に何重か確認の術式を走らせる。石台の周囲に淡い輪が浮かび、楔の輪郭だけを切り取るように光が走った。
「反応は」
アッシュが聞く。
「静かです」
術官はそう答えたが、表情は渋い。
「静かすぎますね」
ベルトラン教授が小さく頷く。
「うむ。悪い術具ほど、こういう顔をする」
顔、という言い方は少し変だが、意味はわかる。大きく暴れるものより、黙って沈んでいるものの方が厄介だ。
封印布が一枚ずつ外される。
最後に黒ずんだ本体が姿を見せた。
近くで見ると、やはり石とも金属とも違う。光を吸うような黒さの表面に、細かい筋がいくつも走っている。人工物だとは思う。だが、王城の術具とも、軍の装備とも、まるで雰囲気が違った。
「……気持ち悪いな」
水湊が漏らすと、エリシアがすぐに言った。
「それは同感」
「見た目の話じゃないわよね」
セレニアの言葉に、水湊は頷く。
「ああ。見てると、奥歯の裏がざらつく感じがする」
「言いたいことはわかる」
エリシアが嫌そうに顔をしかめた。
レオンは腕を組んだまま石台を見つめている。
「西で拾った時より濃く見えるな」
「仕込みが新しいからかもしれません」
リシュアが答える。
「劣化が少ない」
そこで、ベルトラン教授が杖の先を楔へ向けた。
「さて。まずは形を見る」
教授の声が少しだけ低くなる。さっきまでの柔らかい空気が、研究者の顔に切り替わったのがわかった。
「水湊君、おぬしが触った時の感触を、思い出せるだけ話してくれ」
問われ、水湊は少し考える。
「硬かったです。ただ、物として硬いっていうより、継ぎ目に噛み込んでる硬さだった」
「ふむ」
「そこにあるだけじゃなくて、無理やり押し込んで固定してる感じでした」
「術具としては、楔という見立てでほぼ間違いないな」
教授はそう言って、術官へ合図する。
細い光が何本も石台の上へ降り、楔の表面をなぞるように走った。黒い表面の筋が、その時だけ鈍く浮き上がる。
「文字ではない、か」
セレニアが目を細める。
「少なくとも、王城式の刻印じゃないわね」
「軍の封術とも違う」
レオンもすぐに言った。
アッシュは黙ったままだったが、その視線は鋭い。
ベルトラン教授が、顎に手を当てた。
「こやつ自体が力を生んでいるというより、綻びを維持するための噛ませものだな」
「維持?」
水湊が聞き返すと、教授は頷く。
「裂け目を開く術具なら、もっと露骨に暴れる。だがこれは違う。境界に生じた薄さを押し広げるというより、その“崩れかけた形”を保つ方に寄っておる」
それは、かなり嫌な話だった。
自然に閉じるはずの傷口へ、わざと薄い刃を差し込んで塞がらなくする。そういう印象に近い。
「じゃあ、西側の綻びも」
エリシアが言う。
「戦闘で偶然できたものじゃなくて、作って、そこへ差し込んだってこと?」
「今のところは、そう見るのが自然じゃろう」
教授の声は静かだった。
「ただし、これだけで全部を説明するのは早い。問題は、この楔がどこから来たかだ」
室内が少し静まる。
そこが本題だった。
誰が。
何のために。
どうやって。
アッシュが口を開いた。
「王城式でも、軍式でもない」
「はい」
リシュアが即答する。
「少なくとも、私が見てきた術式体系とは噛み合いません。綻びそのものへ合わせて作っている感じが強すぎます」
「精霊系でもない、か」
その問いには、ベルトラン教授が少しだけ考えてから答えた。
「普通の意味ではな。精霊機が境界へ干渉することはある。だが、こういう“閉じきらぬ傷口を保つための具”を好むものではない」
水湊は石台の上の黒い楔を見つめる。
嫌な気配はある。
だが、ヴェネフィスと似たものではない。
むしろ逆だ。
ヴェネフィスが静かに拒んでいるのが、胸の奥の灯から伝わってくる。
『好きじゃないみたい』
ナインが言う。
「わかるのか」
『うん。嫌がってるっていうより、触る価値もないって感じ』
その言い方が、いかにもヴェネフィスらしかった。
水湊がそれをそのまま伝えると、ベルトラン教授が面白そうに眉を上げた。
「ほう。それは興味深い」
「興味深いで済ませないでほしいんだけど」
エリシアがぼやく。
「済ませとらんよ。だが、高位精霊が明確に“同類ではない”と切っておるなら、それだけでも一つの材料だ」
そこへ、別の術官が新しい記録板を持って入ってきた。
「失礼します。下水路網との照合結果が出ました」
セレニアがそれを受け取り、ざっと目を通す。次の瞬間、その眉がわずかに動いた。
「……そう」
「何だ」
アッシュの問いに、セレニアは記録板を机の中央へ置いた。
「旧貯水路跡と旧搬送路、それに西側監視線。三点を地図に落とすと、王都外縁の古い流路と接続線の交点に近すぎる」
レオンが一歩寄る。
「繋がるのか」
「まだ線の途中までは推定よ。でも、偶然と片づけるには厳しい」
リシュアが地図の上へ術式投影を重ねた。
淡い光の線が、王都の外縁をぐるりと回るように浮かび、その一部に旧貯水路跡、西側監視線、旧搬送路が引っかかる。
「囲ってる……?」
水湊が思わずそう口にすると、部屋の空気がまた変わる。
完全な円ではない。
けれど、バラバラに見えた綻びが、ある範囲を縁取るように並び始めている。
「あり得るな」
アッシュの声が低くなる。
「王都の一部を囲って、何かを起こす準備か」
「もしくは、囲った内側を薄くするか」
レオンの言葉はもっと嫌だった。
エリシアが地図を睨む。
「冗談じゃないわね」
「冗談で済んだら楽なんだがな」
アッシュは短く息を吐いた。
ベルトラン教授が杖の先で、三点の中央寄りを軽く叩く。
「ここは何がある」
リシュアがすぐに答える。
「王都南外縁の旧工房区画、その北側に古い祭祀路、それから――」
彼は一度言葉を切った。
「封印庫跡、です」
その場の空気が、目に見えないところでぴんと張った。
封印庫跡。
王城の人間たちが、その言葉を軽く受け取らないのはすぐにわかった。
水湊はセレニアを見る。
「何だ、それ」
答えたのは彼女ではなく、ベルトラン教授だった。
「古い時代の術具や記録を、一時的に収めていた施設跡だ。いまは機能しておらん。だが、地脈と術式路が交わる場所にある」
「嫌な条件が揃ってるな」
「まったくだ」
アッシュが言う。
つまり敵は、意味もなく綻びを作っているわけではない。場所を選んでいる。そして、その選び方には明らかに意図がある。
セレニアが記録板を伏せた。
「決まりね」
「何がだ」
「次の場所よ」
その声は冷静だったが、迷いはなかった。
「旧工房区画から封印庫跡周辺まで、王城直轄で一斉確認を入れる。今度は見に行くだけじゃない。最初から“ある前提”で洗うわ」
レオンが頷く。
「監視線側からも人を回す」
「巡察隊も出すわよ」
エリシアが言う。
「今度は撒き餌に付き合ってる暇もなさそうだし」
水湊は石台の上の黒い楔を見つめた。
回収はできた。
手口も少し見えた。
だが、それで楽になったわけではない。
むしろ、敵が考えて動いているとわかった分だけ、話は重くなる。
胸の奥の冷たい灯が、静かに揺れた。
ヴェネフィスは何も言わない。
だが、封印庫跡という言葉が出た時から、少しだけ気配が近い。
「……気になるのか」
思わず漏らすと、ナインが影の中で小さく言う。
『水湊だけじゃないよ。あっちも見てる』
やはりそうか。
封印庫跡。
王都外縁を囲う綻び。
境界に噛ませる黒い楔。
全部が一本に繋がりかけている。
アッシュが最後に、部屋の全員を見回した。
「今日はここまでだ。楔の解析は続ける。別働隊は明朝から旧工房区画へ入る」
そこで一拍置く。
「次は、おそらく踏み込みになる」
誰も軽くは頷かなかった。
けれど、否定する者もいない。
ここまで来れば、もう後戻りの話ではないのだろう。
検証室を出たあと、廊下を歩きながらエリシアがぼそりと言った。
「回収して終わり、だったらよかったのにね」
「そんな簡単なら苦労しないだろ」
「わかってるけど、言いたくなる時くらいあるのよ」
それはそうかもしれない。
水湊も少しだけ苦笑する。
別働隊の初任務は成功だった。
だがその成功が、次の面倒を連れてきた。
この世界はそういう作りらしい。
足元の影が揺れる。
『封印庫跡って、いかにもだね』
「いかにもだな」
『たぶん、行ったら面倒だよ』
「おまえ、最近それしか言ってない気がする」
『だって本当にそうなんだもん』
ひどく真っ当な返事だった。
王城の長い廊下の先には、まだ夜の静けさが残っている。けれど、その静けさの下で、次の火種はもう形になり始めているのだろう。