旧工房区画へ入ったのは、翌朝だった。
王都の外縁にありながら、そこだけ時間の流れが違うように見えた。崩れた石壁、半ば埋もれた搬入口、屋根を失った工房跡。人の手が引いてから長いのだろう。金属の匂いも油の匂いも、もう薄い。代わりに残っているのは、乾いた石と古い魔力の澱みだけだった。
「思ってたより広いな」
水湊があたりを見回すと、レオンが前を向いたまま答えた。
「昔は南外縁の工房が集まってた場所だ。いまはほとんど使われてない」
「使われてない場所ばっかりね、最近」
エリシアがぼやく。
「目が届きにくいんだから、向こうからすれば使いやすいんでしょ」
言っていることはもっともだった。
別働隊は最初から二手に分かれていた。アッシュとレオンが外周寄りを押さえ、エリシアと兵が西側の通路を見張る。水湊はリシュアと一緒に、工房区画の中央から封印庫跡へ近づく役目になった。
上から見れば古い建物が並んでいるだけだ。だが、地図に落とした綻びの位置と照らすと、そこには妙な偏りがある。偶然荒れているのではなく、何かを避けるように、あるいは囲うように傷が並んでいる。
『嫌な静かさだね』
足元の影から、ナインが言った。
「わかる」
水湊も小さく頷く。
西側の監視線は風が鳴っていた。旧貯水路跡は水の匂いが濃かった。だがここは違う。静かすぎる。音がないというより、何かが息を潜めているような静けさだった。
工房跡を二つ抜けたところで、水湊は足を止めた。
「……ある」
リシュアがすぐに術式板を向ける。
「反応、出ていますか」
「弱いけど、まっすぐじゃない」
前方の石畳を見つめる。
綻びそのものは細い。だが、それが一本で走っている感じではなかった。途中でわずかに折れ、古い建物の角をかすめ、また別の方向へ向かっている。
「道なりじゃないな」
水湊が呟くと、リシュアも術式板を見ながら頷いた。
「確かに、流路に沿うなら少し不自然です」
「誘導してるのかも」
その可能性は高かった。
自然に薄くなった場所へ楔を打つのではなく、綻びる向きそのものを少しずつずらしている。そう考えると、いままでの点と線も少し見え方が変わる。
前方に、半ば崩れた石造りの通路があった。柱だけ残った門の先に、地面が少しだけ落ち込んでいる。工房区画のさらに奥、封印庫跡へ下るための古い搬送路らしい。
水湊はそこで、胸の奥が小さくざらつくのを感じた。
近い。
旧搬送路の時より、はっきりしている。
「この先だ」
「封印庫跡に近づいています」
リシュアが周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「嫌な意味で、わかりやすいですね」
「わかりやすいのは助かるけどな」
「その先が助かるかは別です」
ずいぶん正しい返しだった。
通路を下ると、空気が変わった。ひんやりしているのに、澄んではいない。古い術式が長く眠った場所にだけある、乾いた重さが残っている。
やがて、広くも狭くもない奇妙な空間へ出た。
石壁に囲まれた中庭のような場所だった。中央には円形の石台があり、その向こうに半地下の入口が見える。封印庫跡とは、おそらくあれだ。
だが、水湊の目を引いたのは建物ではなかった。
石台の周囲に、黒ずんだ杭が三本、等間隔に打たれている。
「……またか」
思わず声が漏れる。
リシュアの表情も変わった。
「三本……」
西で抜いた楔とよく似ている。形も、大きさも、表面の黒さも。ただ、今回は隠されてもいなければ、ひびの奥に差し込まれてもいない。むしろ見せるように置かれていた。
「罠か」
水湊が言うと、リシュアは首を横に振る。
「見せ札、かもしれません」
その可能性の方が高そうだった。
見つけてほしいわけではない。だが、見つけられることを前提に置いてある。そんな嫌らしさがある。
アッシュたちを呼ぶため、リシュアが通信符を走らせる。その間に、水湊は石台の周囲へ意識を向けた。
三本の楔。
その間を、細い綻びが結んでいる。
線というより、輪だ。
「囲ってるな……」
自分でもはっきりわかる形だった。
中央の石台を、三本の楔と綻びで囲っている。そこへさらに封印庫跡の入口が重なっているのだから、意味がないはずがない。
ナインが低く言う。
『真ん中、触っちゃ駄目』
「言われなくてもわかる」
『いや、水湊、たまにやるから』
「しないって」
そう返したところで、背後から足音が近づく。
アッシュとレオン、それにエリシアたちだった。
現場を見たアッシュは、すぐには口を開かなかった。石台、楔、封印庫跡の入口。その三つを順に見て、ようやく低く言う。
「露骨だな」
「そうね」
エリシアも顔をしかめる。
「ここまでくると、隠す気がないっていうか……」
「こっちに見せる段階に入ったんだろう」
レオンの声は静かだったが、重かった。
水湊は石台を見たまま言う。
「三本が繋がってる。輪になってる」
「中心は?」
アッシュの問いに、水湊は首を横に振った。
「まだ見きれない。けど、封印庫跡と重なってるのは間違いない」
リシュアが術式板を広げる。淡い反応が輪の形に浮かび、その中央だけが少し暗く沈んでいた。
「封印そのものを破るというより……」
「封印の上から境界を薄くしてるのかもしれないわね」
エリシアの言葉を、リシュアが引き取るように続ける。
水湊はゆっくり息を吐く。
嫌な発想だが、筋は通る。
古い封印がある場所なら、もともと境界や術式の継ぎ目が集中している。そこへ外から綻びを重ねれば、壊すのではなく“ずらす”ことができるかもしれない。
ベルトラン教授がこの場にいないのが、逆に惜しかった。たぶんこの構図を見たら、嫌そうな顔をしながら喜ぶ。
「どうする?」
エリシアがアッシュを見る。
アッシュは即答しなかった。
それだけ、この場が重いということだろう。
「一本ずつ抜くのは危ない」
やがて水湊が言った。
全員の視線が向く。
「輪ができてる。一本でも雑に外したら、中心に寄る」
「寄る?」
レオンが聞き返す。
「力が、だよ。西側の時みたいに一点を押さえるだけじゃ済まない」
水湊は石台の中央を見つめた。
まだ開いてはいない。
けれど、向こう側へ手をかける“口”がそこにできかけている。そんな感じがする。
胸の奥へ意識を沈める。
冷たい灯は、いつもより近かった。
そして、短い意志が落ちてくる。
断て。
ヴェネフィスだった。
水湊は思わず目を見開く。
いままでの警告や制止とは違う。はっきりとした方針だった。
「……切るしかない」
「何をだ」
アッシュが問う。
「輪そのものを。一本ずつじゃなくて、繋がりを先に断つ」
リシュアがすぐに反応した。
「可能ですか」
「やってみるしかない」
全身召喚までは要らない。
けれど、局所接続だけでは足りない気がした。
水湊は石台の手前へ進み、息を整える。
「水湊」
エリシアの声が飛ぶ。
「無茶はしないでよ」
「したくてするわけじゃない」
「そこが心配なのよ」
返しながらも、その声に少しだけ肩の力が抜ける。
アッシュが短く言う。
「やるなら、一度で決めろ。長引かせるな」
「わかってる」
水湊は右手を開いた。
「同調《シンク》――中位接続」
空気が震えた。
今度は右腕だけではない。白銀の上半身の一部と、背部フレームの輪郭までが狭間から噛み合うように現れる。ヴェネフィルディアの全身ではない。だが、局所接続より一段深い。
圧が強い。
石台の周囲の空気までぴんと張りつめる。
水湊は白銀の腕を、輪を作る綻びの一か所へ向けた。
斬るのではない。
繋がりだけを、切る。
難しい。だが、感覚としてはわかる。楔そのものではなく、その間に張られた見えない糸へ触れる。
「……そこだ」
白銀の指先が、見えない綻びを横からなぞる。
次の瞬間、空気が裂けるような小さな音がした。
一本、切れた。
同時に、残る二本の楔が鈍く震える。
「続けます!」
リシュアが術式糸を走らせ、揺れた輪の外側を押さえる。レオンとエリシアも石台の左右へ開き、何かが噴き出した時に備える。
水湊は額に汗をにじませながら、二本目へ意識を向けた。
重い。
さっきより明らかに抵抗が強い。
『急いで』
ナインが言う。
『真ん中、起きる』
ぞっとしない言い方だが、意味は伝わる。
石台の中央、封印庫跡の入口の前。そこに沈んでいた暗さが、ほんのわずかに持ち上がり始めている。
「二本目――!」
水湊は息を詰め、一気に綻びを断った。
今度はもっとはっきり音がした。
石を擦るような、嫌な音だ。
残る一本の楔が大きく震え、中央から黒い靄が一瞬だけ噴きかける。
「来る!」
エリシアの叫びと同時に光が走る。兵たちも前へ出て、レオンが脇から靄を叩き散らす。アッシュは一歩も引かず、石台の前で構えを崩さない。
「最後だ、水湊!」
「言われなくても!」
水湊は唇を噛み、最後の一本へ白銀の腕を向ける。
ここで終わらせる。
そう思った瞬間、胸の奥の灯が強く揺れた。
いま。
ヴェネフィスの意志が落ちる。
水湊は最後の綻びを、横から一息に断ち切った。
ぶつり、と今度こそはっきりした音が響く。
三本の楔が同時に力を失い、石台の周囲に張りついていた見えない輪が、音もなく崩れた。
次の瞬間、中央から噴きかけていた黒い靄も、急に行き場を失ったように散っていく。
静かになった。
あまりにも急に。
誰もすぐには動かなかった。
先に息を吐いたのはリシュアだった。
「……落ちました」
術式板の反応も、さっきまでとは別物だった。まだ残滓はある。だが、あの嫌な輪は消えている。
エリシアが肩を落とす。
「心臓に悪いわね、ほんと」
「毎回言ってる気がする」
水湊が言うと、彼女はすぐに睨んだ。
「毎回悪いからでしょ」
そこは否定できなかった。
アッシュが石台へ近づき、一本だけ残った楔の欠片を足先で裏返す。
黒い表面はもう、ただの汚れた石みたいに見えた。
「輪を作っていたのか」
「たぶん」
水湊は中位接続を解きながら頷く。
「封印庫跡の上から、境界をずらすための枠みたいなものだった」
「壊すんじゃなくて、歪める」
レオンが低く言う。
「やり方がいやらしいな」
その言葉が、いちばんしっくりきた。
壊すだけなら、もっと派手にやる。
だが相手はそうしない。気づかれにくく、見落としやすく、時間をかけて綻ばせようとしている。
正面から戦う敵ではない。
だからこそ厄介だ。
水湊は封印庫跡の入口へ目を向けた。
さっきまでそこにあった嫌な暗さは、かなり薄れていた。完全に消えたわけではないが、少なくとも“開きかけた口”のような気配はもうない。
『いまは大丈夫』
ナインが言う。
「いまは、か」
『うん。いまはね』
その答えが、妙に現実的だった。
完全解決ではない。
ただ、一手潰しただけ。
そういう段階なのだろう。
アッシュが周囲を見回す。
「今日はここまでだ。封印庫跡そのものの調査は王城術官に回す。こっちは外周の確認と、楔の残滓を拾う」
「やること多いわね」
エリシアがぼやく。
「減ったと思うなよ」
アッシュの返しは相変わらず容赦がない。
けれど、そのやり取りに少しだけ笑いが混じるくらいには、現場の空気も緩んでいた。
別働隊として、少なくとも今日は役目を果たしたのだ。
水湊は小さく息を吐く。
封印庫跡。
黒い楔。
境界をずらす輪。
敵の手口が、また一段はっきりした。
それは進展でもあり、同時に、もっと大きな面倒の入口でもある。
胸の奥で、冷たい灯が静かに沈む。
ヴェネフィスは何も言わない。
だが、さっきの“断て”だけで十分だった。
あれはたぶん、この戦い方の輪郭そのものだ。
サイバスターが風を切って正面の敵を払うなら、ヴェネフィルディアは綻びの輪を断つ。
同じ世界を守るとしても、役目は違う。
そう思うと、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。