封印庫跡の内部調査は、その日のうちには行われなかった。
石台の輪を断った直後の空間は、見た目こそ静かでも、まだ術式の残り火みたいなものが漂っていたからだ。王城術官が一晩かけて外周を安定させ、ようやく翌朝になってから、別働隊にも立ち入りが許された。
封印庫跡の入口は、昨日見た時よりもずっと古びて見えた。
輪が張られていた時は、そこだけ妙に暗さが濃く、何かが息を潜めているような気配があった。だが、いまは違う。もちろん安心できる空気ではない。けれど少なくとも、“こちらを見返してくる感じ”は薄れていた。
「昨日のうちに入りたかった?」
入口脇で封印の確認をしていたセレニアが、ちらりとこちらを見る。
「入りたくはない」
水湊が答えると、エリシアがすぐ横で鼻を鳴らした。
「嘘。ちょっとは気になってたでしょ」
「気にはなるけど、入りたいとは違うだろ」
「同じようなものじゃない?」
「違う」
そのやり取りを聞きながら、ベルトラン教授が少しだけ笑った。
「入る前に言い合う元気があるなら十分だ」
今日は教授も来ていた。封印庫跡の内部となれば、さすがに王城側も現場へ出すらしい。アッシュとレオンは外周側の確認を終え、すでに入口の前に立っている。リシュアは術式板を抱え、いつもより少しだけ顔が硬かった。
それも当然だろう。
封印庫跡という名前だけで重いのに、その周囲に黒い楔が打たれ、綻びの輪まで作られていたのだ。中に何もありませんでした、で済むはずがない。
「では開けるわよ」
セレニアの声で、全員の空気が少し引き締まる。
入口を塞いでいた封印板は、半ば崩れていた。そこへ王城式の解錠術が幾重にも重なっている。昨日のうちに応急の固定は終わっていたらしく、今日は最後の封じだけを外せばいいらしい。
光が走り、石板の継ぎ目が淡く浮かぶ。
ごり、と鈍い音がして、扉が内側へわずかにずれた。
そこから漏れてきた空気は、思っていたより冷たくなかった。
乾いている。
長く閉ざされていた紙と石の匂いがした。
「……牢じゃないな」
思わず漏らすと、教授がうなずく。
「そもそも封印庫という名前が少し誤解を招くのだよ。何かを閉じ込めるための牢ではなく、扱いの難しいものを一時的に収める術庫の類だ」
「もっと早く言ってくれ」
「聞かれとらんからな」
その返しに、少しだけ肩の力が抜けた。
中は、想像していたより広かった。
地下室というより、石造りの保管庫だ。左右の壁に沿って棚の跡があり、奥には低い台座が三つ並んでいる。床には円形の刻印が薄く残り、ところどころ欠けていた。古い魔力灯はもう死んでいるが、持ち込んだ灯りで照らせば構造は十分見て取れる。
「荒らされてるわね」
エリシアがすぐに言った。
たしかに、そう見える。
崩れた棚。割れた箱。床に散った黒ずんだ破片。時間で朽ちたにしては、傷み方に偏りがある。
レオンがしゃがみ込み、床の擦れ跡を指先でなぞる。
「昔の崩れ方じゃないな。新しい」
アッシュも頷いた。
「少なくとも、一度は人が入ってる」
その言葉に、室内の空気がわずかに変わる。
楔を打っただけではない。
中にも誰かが入っている。
水湊は入口の近くから一歩ずつ奥へ進んだ。胸の奥の冷たい灯は静かなままだが、完全に無関心というわけでもない。封印庫跡へ入ってから、ヴェネフィスの気配はずっと薄く近い。
『右の奥、気になる』
ナインが影の中で言う。
水湊はそちらを見る。
右奥の棚は半分崩れていたが、その下の床に、丸い跡が残っていた。何か箱のようなものを長く置いていたような痕だ。そこだけ周囲より色が薄い。
「ここ、何か置いてあったな」
そう言うと、リシュアがすぐに術式板を向ける。
「残滓があります」
「残滓って?」
「術式の名残です。かなり薄いですが、保管用の固定術に近いですね」
ベルトラン教授が近寄って、床の跡を見下ろす。
「箱型の保管具だろうな。大きさからして、武装ではなく術具か記録板の類か」
「持ち出されたってことか」
水湊の問いに、教授はすぐには答えなかった。
代わりに、奥の台座の方へ視線を向ける。
「そちらも見てみよう」
台座は三つあった。
左は空。中央は表面が割れ、右は半分だけ焼けたように黒ずんでいる。
そして中央の台座の上にだけ、奇妙な痕が残っていた。
円環状の溝。
その中心に、細い柱でも立っていたような跡。
水湊はそれを見た瞬間、妙に背筋が冷えた。
「……これ」
理由はすぐに言えなかった。けれど、その形には見覚えがある気がした。いや、正確には、ヴェネフィルディアの背部フレームや、局所接続の時に開く光輪と、どこか遠くで響き合っている感じがしたのだ。
セレニアが気づく。
「どうしたの」
「似てる」
「何に?」
「うまく言えないけど……門の形に」
その言葉で、教授とセレニアの顔つきが少し変わった。
「門、か」
ベルトラン教授が静かに繰り返す。
リシュアはすぐに台座へ術式板を向けた。
「中心部の残留反応、他と違います。固定や封印というより、座標指定に近い……?」
「あり得るわね」
セレニアが低く言う。
「古い時代の保管庫なら、単に閉じるだけじゃなく、別位相隔離の術具を扱っていてもおかしくない」
水湊は教授を見る。
「つまり?」
「この封印庫跡は、“危ないものをしまっていた場所”というより、“境界に関わる術具を保管していた場所”だった可能性がある」
その一言は重かった。
牢ではない。
保管庫だ。
しかも境界に関わるものを扱う場所。
なら、ここが狙われた理由も少し見えてくる。
「壊すためじゃなくて、利用するためか」
レオンの低い声に、アッシュが短く頷いた。
「その方が筋は通る」
エリシアが眉を寄せる。
「でも、何を持っていったの?」
それが一番大きい。
右奥の棚から持ち出された箱。
中央台座の上から消えている、円環状の術具らしきもの。
どちらか一つか、あるいは両方か。
水湊は中央台座の前へしゃがみ込んだ。
目を閉じて、意識を少しだけ沈める。
冷たい灯。
乾いた空気。
その下に、かすかな残り香のような気配。
ずっと昔のものだ。
でも完全には消えていない。
そこへ、短い意志が落ちてきた。
空。
ヴェネフィスだった。
「……もうない」
思わず口にすると、エリシアが怪訝そうに振り向く。
「何が?」
「ここにあったもの。たぶん、もうずっと前に中身はない」
自分でも少し曖昧な言い方だと思ったが、それ以上の言葉が出てこない。
教授はすぐに否定しなかった。
「ふむ」
「最近抜かれた感じじゃない。台だけ残ってる」
そう言いながら、水湊は右奥の床跡にも目を向けた。
「でも、あっちは違う気がする」
「棚の跡の方か」
アッシュが聞く。
「ああ。あっちは“持ち出された”感じがする。こっちは“もともともう空だった”っていうか……」
言いながら、自分でも少し整理がついてくる。
封印庫跡には、もともと境界に関わる術具があった。
だが中央台座のものは、かなり前の段階で失われている。
その後になって、最近誰かが入り、別の何か――少なくとも箱の一つは持ち出した。
セレニアが静かに言う。
「二段階ね」
「古い喪失と、新しい侵入」
リシュアが頷く。
「記録を洗い直す必要があります」
ベルトラン教授は台座の前で、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言う。
「嫌な仮説が一つある」
誰も軽くは促さない。
教授はそういう時、たいてい当たりたくない筋を引いてくる。
「聞こうか」
アッシュが言うと、教授は小さく息を吐いた。
「昔ここにあったものは、境界を渡るための門そのものではない。だが、“門を組むための核”だったのかもしれん」
室内が静まる。
水湊はゆっくり顔を上げた。
「核?」
「うむ。単体で世界を越えるような代物ではない。だが、座標を噛ませ、境界を薄くし、通り道を安定させるための要石だ」
それは、いままで見てきた黒い楔の使い方と、妙に噛み合った。
綻びを作る。
綻びを繋ぐ。
輪を作る。
そして最後に、どこかを“通せる形”にする。
「向こうは、それを探してた?」
水湊の問いに、教授は首を横に振る。
「探していた、とは限らん。もう失われているならな。だが、ここがどういう場所だったかを知った上で、代わりのやり方を試している可能性はある」
「黒い楔で無理やり再現する、ってことか」
レオンの声は低かった。
「粗いがな」
教授は頷く。
「粗い。危うい。だが、通り道を作るという目的だけなら、理屈としては通る」
エリシアが顔をしかめる。
「通したいものがあるってこと?」
その問いには、誰もすぐに答えなかった。
水湊は封印庫跡の中央を見つめる。
黒い楔。
境界を薄くする輪。
封印庫跡の上に重ねられた綻び。
全部をまとめると、一つの方向を向き始める。
――開けたいのだ。
何かを。
どこかを。
ラ・ギアスの内側へ押し込むのか、外へ抜けるのか、そこまではまだわからない。けれど、少なくとも“壊すだけ”ではない。
『水湊』
ナインが言う。
『ここ、終わってないよ』
「わかってる」
『まだ入口なんだと思う』
その通りだろう。
アッシュが封印庫跡の入口へ目を向けたまま言った。
「今日は内部の記録を回収する。術官は残滓の採取。レオンは外周をもう一度見ろ。ここへ近づく線が他にもあるかもしれん」
「了解」
レオンは短く答える。
リシュアとセレニアは、崩れた棚の残骸と床跡の測定に移った。エリシアは兵と一緒に入口の確保へ向かう。
その間、水湊は中央台座の前からしばらく動けなかった。
ここがただの保管庫じゃなかったこと。
向こうが境界に関わる場所を狙っていること。
そして、その先がもしかすると“外”へ繋がっているかもしれないこと。
全部が一本に繋がるには、まだ少し足りない。
けれど、足りないからこそ不気味だ。
ヴェネフィスはもう何も言わない。
だが、水湊にはわかった。
いま相手にしているのは、裂け目や綻びそのものではない。
それを使って、どこかへ道を通そうとしている意志だ。
水湊はゆっくり立ち上がった。
封印庫跡の空気は、もう昨日ほど重くない。
けれど、その軽さが安心には繋がらなかった。
むしろ、次の一手を考えるために静まっているように感じた。