封印庫跡から持ち帰った記録は、思ったより少なかった。
棚は荒らされ、箱は壊れ、肝心の中身は抜かれている。残っていたのは、湿気で端が波打った紙束と、割れた記録板の欠片、それに台座の下から見つかった古い管理票が数枚だけだった。
それでも、何もないよりはずっとましだった。
王城術官局の資料室は、夜になると妙に静かだ。人の気配が完全に消えるわけではないが、昼のような出入りはなくなる。灯りも抑え気味で、紙をめくる音だけがやけに響く。
水湊は長机の端で、古い管理票を一枚ずつ見ていた。
右端が焦げ、文字の半分は潰れている。読みやすい代物ではない。だが、そこに書かれている単語のいくつかは、さすがに見落とせなかった。
「……境界安定具」
思わず口にすると、向かいで記録板を見ていたベルトラン教授が顔を上げた。
「読めたか」
「このへんだけですけど」
紙を少しずらす。
「保管品目のところに、そう書いてある。たぶん」
教授は席を立ち、こちらへ回ってきた。肩越しに管理票を見下ろし、小さく頷く。
「間違ってはおらんだろう」
「やっぱり、封印庫跡にあったのはそういう類なんですね」
「だろうな。門そのものではないが、境界を安定させるための補助具。昔の術官は、ずいぶん際どいものを扱っておったらしい」
その言い方に、水湊は苦笑する。
「昔の術官って、だいたいそういうものじゃないですか」
「否定はせん」
教授はあっさり言った。
少し離れたところで、セレニアとリシュアが割れた記録板の欠片を並べている。光に透かし、欠けたところを合わせ、順に内容を拾っていく地味な作業だ。エリシアは最初の十分で飽きるかと思っていたが、意外にも大人しく壁際に立っている。もっとも、三回に一回くらいは欠伸を噛み殺していた。
「眠いなら戻っていいわよ」
セレニアが言うと、エリシアは即座に返した。
「こういう時に何か出るのって、たいてい私がいなくなった直後なのよ」
「変な経験則ね」
「外れてないから困るの」
そのやり取りに、資料室の空気が少しだけ和らぐ。
アッシュとレオンは奥の地図台を占領していた。王都外縁の地図の上に、旧貯水路跡、西側監視線、旧搬送路、封印庫跡を結んだ線がいくつも引かれている。四点だけ見ればまだ偶然にも見える。だが、そこへ古い流路と祭祀路を重ねると、嫌なほど筋が通ってしまう。
レオンが低く言った。
「この線、やっぱり南へ流れすぎだ」
アッシュが地図の端を押さえる。
「北の方が薄いな」
「薄いというか、まだ手をつけてないだけかもしれん」
水湊はその言葉を聞きながら、もう一枚の管理票を手に取った。
今度の紙はさらに状態が悪い。だが、下段にだけ比較的はっきりした文字が残っている。
搬出許可。
記録移送。
第三祭祀路――
「教授」
「ん?」
「これ、祭祀路って書いてますよね」
教授がすぐにこちらを覗き込む。セレニアも手を止めた。
「どこだ」
「ここ」
焦げた紙の下端を指で押さえる。
「第三祭祀路。たぶん、その前に“南外縁”って入ると思います」
リシュアがすぐに反応した。
「南外縁第三祭祀路……旧工房区画からなら、封印庫跡のさらに南ですね」
「繋がるのか」
アッシュが地図台の方から聞く。
リシュアは記憶を辿るように目を細めた。
「古い礼式用の通路です。いまは半ば埋まって、地下側しか残っていないはずですが」
その言葉に、水湊の胸の奥がわずかにざらついた。
地下。
祭祀路。
埋まっている。
嫌な条件が揃いすぎている。
セレニアが管理票を受け取り、ざっと目を通した。
「搬出許可の欄もあるわね」
「昔、封印庫跡からそこへ何か動かしたってことか?」
エリシアが聞くと、教授が首を横に振る。
「断定は早い。保管前かもしれんし、保管後の移送かもしれん。ただ、封印庫跡と祭祀路が文書の上で繋がっておるのは大きい」
レオンが地図台からこちらへ来る。
「祭祀路ってのは、いま入れるのか」
「入口は封じられているはずよ」
セレニアが答える。
「でも、完全閉鎖かどうかは別」
「つまり、調べろってことだな」
アッシュの声は変わらず低かったが、迷いはない。
そこへ、リシュアがもう一枚の欠片を持ってきた。
「こちらも繋がりました」
並べてみると、欠片の端に短い文が浮かぶ。
安定具一式、第三祭祀路仮置き。
室内が静まった。
水湊は小さく息を吐く。
「仮置き、か」
教授が頷く。
「封印庫跡から何かを移した痕跡としては十分じゃな」
「じゃあ、昔そこにあったものが、祭祀路側へ移された可能性がある?」
エリシアの問いに、セレニアが慎重に答える。
「可能性はある。でも、それが今もあるとは限らない」
「なくても困るし、あっても困るわね」
「だいたいそういうものよ」
そう言いながら、セレニアはもうすでに次の段取りを考えている顔になっていた。
水湊は管理票から目を上げ、地図台の方を見る。
旧貯水路跡。西側監視線。旧搬送路。封印庫跡。
そして南外縁第三祭祀路。
点が増えるたびに、線の意味が強くなる。
ただの荒らしではない。
ただの封印破りでもない。
何かを探し、何かを揃え、何かを通そうとしている。
『やっぱり次はそこだね』
ナインが影の中で言った。
「そうだろうな」
『行きたくない顔してる』
「行きたい顔にはならないだろ」
『それもそう』
そこで、壁際に置かれていた通信符が小さく光った。
全員の視線がそちらへ向く。
セレニアが受け取り、短くやり取りをしてから顔を上げた。
「南外縁の巡回班から」
「何だ」
アッシュが聞く。
「第三祭祀路の封鎖石板の周辺で、地鳴りに似た振動を拾ったそうよ」
その一言で、部屋の空気が一気に変わった。
エリシアが顔をしかめる。
「出来すぎでしょ」
「出来すぎなくらいでちょうどいい」
アッシュはもう椅子から立っていた。
レオンも地図を巻き取る。
「向こうも、こっちが気づいた頃を見計らってるな」
「いや」
水湊は、そこで自然に口を挟んでいた。
「見計らってるっていうより、向こうも急いでる気がする」
全員の目が向く。
言ってから、自分でも少しだけ考える。
「封印庫跡は、たぶん準備だった。黒い楔も、輪も。でも、肝心の“昔そこにあったもの”がないなら、向こうは別の場所を当たり始めるしかない」
「代わりを探してるってことか」
レオンが低く言う。
「たぶん」
水湊は頷く。
「こっちが追ってるからじゃなくて、向こうも向こうで止まれないんじゃないか」
ベルトラン教授が、少しだけ目を細めた。
「急ぎの理由がある、と」
「そう見える」
そこまで言ってから、水湊は胸の奥のざらつきに気づく。
嫌な感じがする。
だが、これまでと少し違う。
綻びや楔に触れた時の感覚ではない。もっと遠く、もっと薄いところで、何かがこじ開けられかけているような不安定さだった。
ヴェネフィスはまだ何も言わない。
けれど、沈黙の質が変わっている。
「……あんまり時間がないかもしれない」
思わず漏れたその言葉に、アッシュはすぐ頷いた。
「なら、なおさら待たん」
指示は早かった。
「別働隊は即応。南外縁第三祭祀路へ入る。王城術官は封鎖石板の状態確認。教授、同行を頼めますか」
「もちろんだ」
教授はもう杖を手にしている。
エリシアは軽く首を回しながら言った。
「今日は夜更かしコースね」
「いまさらだろ」
水湊が返すと、彼女は少しだけ笑った。
「まあね」
資料室の空気が一気に動き始める。
記録をまとめる者。
地図を持ち出す者。
出動許可を走らせる文官。
その中心を、別働隊が自然に横切っていく。
王城直轄の暫定編成。
そう呼ばれていたものが、もうほとんど形だけではなくなっているのがわかった。
水湊は最後にもう一度、机の上の管理票を見た。
第三祭祀路。
仮置き。
境界安定具。
古い記録の断片でしかない。
だが、そこへ黒い楔と封印庫跡の輪が重なれば、もう偶然とは言えない。
相手が狙っているのは、きっと“次の綻び”ではない。
綻びを通した、その先だ。