南外縁第三祭祀路へ向かったのは、日付が変わる少し前だった。
王都の南側は、北や西と比べると人の気配が薄い。古い礼式用の通路がいくつも埋もれていて、いま使われている道は限られているらしい。灯りの届かない石壁のあいだを進んでいると、王城のすぐ近くにいるはずなのに、別の街へ迷い込んだような気分になる。
「嫌な静けさね」
先を歩きながら、エリシアが小さく言った。
「最近ずっとそれだな」
「最近ずっと嫌だからでしょ」
返しが早い。
けれど声は低く、さすがに余裕たっぷりという感じではなかった。
第三祭祀路の入口は、崩れた石廊の奥にあった。
半分埋まった階段。その先を塞ぐように、大きな封鎖石板がはめ込まれている。高さは人の背丈ほど、幅もかなりある。古い時代のものらしく、表面には擦り切れた刻印が残っていた。
だが、水湊の目を引いたのは刻印ではなかった。
石板の右下。縁のあたりに、新しい傷がある。
「……こじ開けようとしたな」
水湊がそう言うと、レオンがしゃがみ込んで傷をなぞった。
「浅いが、新しい」
「今夜の振動はこれかもしれん」
アッシュが周囲へ目を走らせる。
「人の気配は?」
兵が首を横に振った。
「少なくとも、この場には残っていません」
逃げたのか、終えて去ったのか。どちらにしても気分のいい話ではない。
リシュアが術式板を石板へ向ける。淡い光が流れ、すぐに顔をしかめた。
「封鎖そのものはまだ生きています。ただ……」
「ただ?」
「下で別の反応があります。古い封印とは噛み合っていません」
水湊も石板の前へ立ち、意識を少しだけ沈めた。
ある。
はっきりと。
石板そのものじゃない。その向こう側、階段の先のどこかに、細くて嫌な筋が下りている。
「下だな」
アッシュが横へ並ぶ。
「開いてるか」
「いや、そこまではいってない。でも、放っておくとまずい」
言いながら、自分の声が少し固くなっているのがわかった。
旧貯水路跡とも、西側とも、封印庫跡とも違う。ここはもっと近い。綻びの先が、最初から“道”として作られている感じがある。
『これ、通路だよ』
ナインが影の中で言った。
「わかる」
『綻びっていうより、通れるように揃えようとしてる』
その言葉が、妙に腑に落ちる。
破れ目ではない。
入口でもない。
もっとはっきり、通路だ。
ベルトラン教授が石板の刻印を見上げた。
「第三祭祀路は、昔は儀式用の搬送路でもあった。封鎖されておるとはいえ、構造そのものは残っておるはずだ」
「残ってるから狙われた、ってことか」
「そう考えるのが自然じゃろうな」
エリシアが石板の傷を見て、眉を寄せた。
「これ、外からこじっただけじゃない気がする」
「どういう意味だ」
レオンが聞き返すと、彼女は傷の下を指差した。
「こっちは外。でも、そのすぐ脇の欠け方、内側から押されたみたいに見えない?」
全員が一度、黙った。
水湊はあらためて石板へ意識を向ける。
外からこじ開けた跡。
だが、それだけじゃない。
石板の向こう側にも、押し返したような鈍い歪みがある。
「……あるな」
思わず漏れる。
「向こう側からも力がかかってる」
アッシュの目が細くなった。
「開けようとした奴が二ついた、ってことか」
「人と向こう側、かもしれませんね」
リシュアの声が少しだけ硬い。
ぞっとしない話だった。
石板一枚を挟んで、こっちと向こうの両方から力がかかっていた。そう考えると、今夜の地鳴りみたいな振動も説明がつく。
セレニアがいない代わりに、教授がその場で決めた。
「石板は大きく開けるな。綻びが走っておるなら、扉ごと動かすのは危険だ。まずは隙間を作って、中を読む」
「局所接続だな」
アッシュが言う。
水湊は頷いた。
「やる」
石板の前へ進み、右手を開く。
「同調《シンク》――局所接続」
白銀の光輪が静かに開く。
ヴェネフィルディアの右腕部だけが現れ、石板の縁へそっと触れた。押し開けるのではなく、継ぎ目の位相を一段ずらす。噛み込んだ歯車を、わずかに浮かせるような感覚だった。
ご、と鈍い音がして、石板の縁に指一本分ほどの隙間が生まれる。
冷たい空気が、そこから流れ出た。
水湊は目を細める。
暗い。
けれど、何も見えないわけじゃない。
階段が下へ続いている。その途中、三段目あたりに何かが倒れていた。
「……人か?」
エリシアが身を乗り出しかけ、アッシュが手で制した。
「まだ近づくな」
水湊は隙間へ意識を通す。
倒れているのは人だった。外套を着た男。手には短い鉄具のようなものを持ったまま、階段の途中で崩れている。動かない。
「死んでる」
水湊が低く言う。
リシュアが息を呑む。
「下で何があったんですか……」
「まだある」
水湊はさらに眉を寄せた。
男の死体だけじゃない。その先、もっと下の方に黒い筋が見える。楔だ。一本ではない。左右の壁際に二本、階段の先に一つ。三角を作るように打たれている。
「また輪だ」
アッシュが舌打ちした。
「数は」
「見える範囲で三本」
「中心は?」
その問いに、水湊は少し黙った。
見えにくい。
だが、階段の先の床に、黒い穴のような暗さが沈んでいる。
「……まだ小さい。でも、ある」
その瞬間、ナインがぴんと耳を立てた。
『来る』
言葉と同時だった。
石板の向こう、階段の先の暗がりがふっと揺れ、黒い影が這い上がってくる。
「閉じるな!」
アッシュの声が飛ぶ。
水湊は石板の隙間を保ったまま、白銀の腕を一段奥へ滑らせた。隙間から飛び出しかけた黒い影を、横から叩き潰す。
ぐしゃりと嫌な音がして、影が散る。
だが一体では終わらない。階段の下から、同じような黒い靄が二つ、三つと持ち上がってくる。
「数、少し多い!」
エリシアが魔術を走らせる。細い光が隙間を抜け、階段口で影を裂いた。レオンも横から石板の隙間越しに短剣を差し込み、上がってきたものを払う。
派手には戦えない。
通路が狭すぎる。
その窮屈さが、逆に嫌だった。
「水湊!」
アッシュが叫ぶ。
「下まで見えるか!」
「無理だ!」
この隙間では足りない。だが広げすぎれば、一気に流れ込む。
胸の奥へ強い意志が落ちた。
断て。
ヴェネフィスだった。
水湊は息を吸う。
「石板はそのまま! 下の輪を切る!」
「できるのか!」
「やるしかない!」
局所接続のままでは届かない。
だが全身を出す場所でもない。
なら、もう一段だけ深く繋ぐ。
「同調《シンク》――中位接続」
空気が震えた。
白銀の腕に加え、肩口から背部フレームの一部までが石板の前に現れる。狭い通路の入口で、ヴェネフィルディアの輪郭が半ばだけこちらへ噛み合った。
圧が強い。
石板の隙間の向こうまで、空気が張りつめる。
水湊はそのまま、階段の先の見えない三角へ意識を伸ばした。
楔そのものじゃない。
楔同士を繋いでいる見えない線。
それを先に切る。
黒い影がもう一度這い上がってくる。エリシアの光がそれを裂き、レオンが二体目を落とす。そのわずかな隙に、水湊は白銀の指先を見えない綻びへ滑らせた。
「――そこだ」
空気の奥で、小さく何かが裂ける。
一つ。
影の動きがわずかに鈍る。
「続けろ!」
アッシュの声に押されるように、二つ目へ意識を向ける。重い。だが、一つ切れた分だけ流れが乱れた。
ナインが言う。
『もう少し下。左じゃない、右』
「細かいな……!」
『そこ外したらやり直しだよ!』
その物言いが妙に現実的で、逆に助かる。
白銀の指先をわずかにずらし、二本目の綻びを断つ。
今度は、もっとはっきり音がした。
石板の向こうで、黒い靄が一度に崩れる。
「最後!」
リシュアが叫ぶ。
階段の下の暗がりが、持ち上がりかけている。時間がない。
水湊は息を詰め、最後の線を一気に断ち切った。
ぶつり、と嫌な音が響く。
その直後、黒い影は糸を切られたように崩れ、階段の先の暗さも一段沈んだ。
静かになる。
誰もすぐには動かなかった。
先に口を開いたのはレオンだった。
「……いまのうちだな」
アッシュも頷く。
「石板をあと少し開ける。中を確認して楔を回収する」
「死体もあるしな」
エリシアの声は少し低かった。
さっきまでの影は消えたが、安心はまだ早い。
水湊は中位接続を保ったまま、もう一度石板へ手をかける。今度はさっきより滑らかに動いた。輪が切れたせいか、扉そのものの抵抗も弱くなっている。
人が一人通れる程度まで開いたところで、アッシュが先に入った。続いてレオン、エリシア、リシュア。水湊も白銀の光を散らしながら中へ踏み込む。
階段の途中に倒れていた男は、やはり死んでいた。
顔色は灰色で、目は見開いたまま。外傷は少ない。だが、胸元に黒い筋が走っている。綻びに呑まれかけ、その途中で輪が暴れたのだろう。
「こっち側の人間か」
レオンが男の懐を探り、細い札片を抜き取る。
「王城の者じゃない。印も消してある」
「使い捨てね」
エリシアが嫌そうに言った。
階段の先、床に打たれていた三本の楔は、輪が切れたことでただの黒い杭に戻っていた。だが嫌な気配までは完全に消えていない。
水湊はその一本を見下ろし、小さく息を吐く。
「またこれか」
「回収はできそう?」
リシュアが聞く。
「さっきよりは楽だ」
輪が動いていない今なら、西や旧搬送路の時よりずっとましだ。
アッシュが短く言う。
「三本とも持ち帰る。ここで余計なことはするな」
「教授なら分解したがるだろうな」
水湊が言うと、エリシアが肩をすくめる。
「そのために持って帰るんでしょ」
それもそうだ。
水湊は一本ずつ、慎重に楔を抜いていく。黒い杭は石とも金属ともつかず、触れているだけで指先の感覚が少し鈍くなる。三本目を抜き終えたところで、床の嫌なざらつきがようやく薄れた。
そのまま階段の先へ目を向ける。
通路はさらに下へ続いている。暗い。だが、さっきまでの“口を開けた感じ”はもうない。
『まだ先はあるよ』
ナインが言う。
「だろうな」
『でも、今日はここまででいいと思う』
珍しくまともなことを言う。
水湊がそのまま伝えると、アッシュも短く頷いた。
「同感だ。今日は祭祀路の入口を潰しただけで十分だ」
エリシアが死体の方へ目をやる。
「こっちは?」
「運ぶ」
レオンが答える。
「身元が割れれば少しは手がかりになる」
死体、楔三本、祭祀路の内部。
収穫としては大きい。
だが、それで終わる話でもない。
水湊は石板の向こう、さらに下へ続く暗がりを見つめた。
向こうはまだある。
今日は入口で止めた。
でも、その先に何があるのかまでは見えていない。
胸の奥の冷たい灯が、静かに揺れた。
ヴェネフィスは何も言わない。
けれど、さっきの“断て”はもう、はっきりこの戦い方になり始めている。
綻びを切る。
輪を断つ。
道になる前に止める。
それが、いまの自分の役目なのだろう。