旧神殿跡へ向かったのは、その日のうちだった。
夜が深くなるほど、王都の南外縁は静かになる。人の動きが減るぶん、石壁の間を抜ける風や、遠くの見張り灯の揺れがやけに目についた。別働隊は第三祭祀路の入口から地下へ入り、そのまま南へ伸びる古い通路を進んでいた。
祭祀路の床は、他の搬送路と違って少し幅が広い。
昔は人だけではなく、何かの台座や祭具も通したのだろう。壁のところどころに浅い彫り跡が残っている。だが長い年月で削れ、何を意味していたのかまではもうわからない。
「気味が悪いくらい静かね」
先頭寄りを歩くエリシアが、小さな声で言った。
「工房区画よりひどいな」
水湊が返すと、レオンが前を向いたまま言う。
「神殿跡なんてのは、使われなくなった後がいちばん面倒なんだよ」
「経験談か」
「嫌な意味でな」
それだけで十分だった。
松明ではなく魔力灯を絞って使っているせいで、通路の先はどこまでも暗い。明るくしすぎれば、遠くからこちらが見える。だから必要最低限。そういう歩き方にも、少しずつ慣れてきた自分が嫌だった。
足元の影で、ナインがぽつりと言う。
『前より近い』
「何が」
『嫌な感じ。祭祀路の入口より、こっちの方がはっきりしてる』
水湊も同じだった。
第三祭祀路では“この先にある”程度だった違和感が、いまはもっと近い。綻びそのものの気配というより、通そうとしている何かの“準備”に近い感じがある。
しばらく進んだところで、通路が左右に分かれた。
左は崩落。右はまだ通れる。だが問題はそこではない。分岐の手前、床の中央に薄い光の筋が走っていた。
リシュアがすぐに足を止める。
「術式痕です」
アッシュが短く問う。
「新しいか」
「ええ。かなり」
水湊もしゃがみ込み、その筋を見た。
王城式ほど整っていない。かといって黒い楔のような露骨な異物感とも違う。もっと雑で、急ごしらえで、けれど“揃えよう”としている意志だけは見える。
「試した跡だな」
思わずそう言うと、ベルトラン教授が後ろから頷いた。
「おそらくな。通路の安定を測ったか、あるいは座標の噛み合わせを見たか」
「成功はしてない」
水湊が続ける。
「ここはまだ浅い。途中で切れてる」
「だから先へ進んだ、か」
アッシュの声は低い。
つまり、向こうも手探りだということだ。
最初から完成した術式で押してきているわけではない。古い場所を使い、綻びを寄せ、何度も試しながら前へ進んでいる。
「少しは救いがあるわね」
エリシアがぼそりと言う。
「完璧な相手じゃないって意味では」
「同感だ」
レオンも珍しくすぐに返した。
分岐を右へ取る。
そこから先は、空気がさらに変わった。
祭祀路の石壁が少しずつ広がり、通路そのものが丸みを帯びていく。人工の通路でありながら、どこか自然洞窟に寄っているような形だ。昔の神殿へ向かう道だからなのか、あるいはもっと古い空間に後から道を通したのか。
やがて前方に、低い天井の広間が見えた。
旧神殿跡だった。
完全な建物の形は残っていない。柱の半分が折れ、祭壇らしき段差も崩れている。だが中心がどこだったかは、いまでもひと目でわかった。
中央に、円形の台座がある。
その周囲の床へ、白い粉のようなものが細く撒かれていた。等間隔ではない。だが意図のない散り方でもない。いくつもの線が交わり、中央へ向かって寄っている。
「……これ、昨日の輪とは違うな」
水湊が言うと、リシュアも頷いた。
「楔ではなく、術式線です。即席の祭場を組んだように見えます」
ベルトラン教授が、ゆっくりと周囲を見回す。
「祭祀路、封印庫跡、旧工房区画。ばらばらだったものが、ここで繋がるか」
その時、水湊の目に、祭壇の奥の壁が映った。
正面は崩れている。だが、その奥にもう一段、小さな祠のような空間がある。その前に、黒いものが立っていた。
「……人か?」
エリシアが小さく言う。
全員が身を固くする。
だが、水湊はすぐに首を横に振った。
「違う。像だ」
近づくと、それは人の形をした石像だった。顔は削れ、腕も片方しか残っていない。古い神像か守護像か。けれど、その足元にだけ新しい痕があった。
黒い粉。
割れた楔の欠片。
それに、円環状の細い金属片。
水湊の背筋が冷える。
「ここで組んでたのか」
アッシュが低く言う。
「何をだ」
「通路の試作品、ってとこかしらね」
セレニアが追いついてきて、足元の痕を見下ろした。
「封印庫跡で抜かれていた“境界安定具”の代わりを、ここで雑に再現しようとした形跡に見える」
「できるのか、そんなこと」
水湊が聞くと、教授が苦い顔をした。
「できておるなら、もっとひどいことになっておるよ」
その返しに、少しだけ救われる。
つまり、まだ完成はしていない。
向こうもまだ途中だ。
だが、その希望はすぐに別の不穏さに押し流された。
中央の円形台座。
白い粉で引かれた即席の線。
神像の足元の黒い残滓。
そして、そのすべてが、旧工房区画からの綻びの流れと噛み合っている。
偶然ではない。
ここが中心だ。
『水湊』
ナインの声がいつもより低い。
『真ん中、もう少しで噛み合う』
その言葉と同時に、胸の奥がざらついた。
台座の中央。
見た目には何もない。
だが、そこだけ空間の厚みが違う。
「……あるな」
思わず漏れる。
アッシュが横に並ぶ。
「何が見える」
「穴じゃない。まだ」
水湊は台座を見つめたまま答えた。
「でも、座標だけ先に揃えようとしてる感じがある」
「座標、か」
レオンが低く繰り返した。
「門を開く前に、行き先だけ定めるみたいなものか」
「そんな感じだ」
その表現はかなり近かった。
門そのものではない。
通路の完成でもない。
ただ、“どこへ通すか”だけはもう定めようとしている。
そこへ、強い意志が胸の奥へ落ちてきた。
壊せ。
ヴェネフィスだった。
水湊は一瞬だけ目を見開く。
断て、ではない。
壊せ。
それだけ、この場が危ういということだろう。
「アッシュ」
「言え」
「ここ、切るんじゃ足りない」
水湊は台座を指す。
「中心そのものを壊す」
エリシアがすぐに反応した。
「大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないかもしれない。でも、これ残したらまずい」
教授が中央台座へ視線を据えたまま、静かに言う。
「やるしかあるまいな」
「術式固定、入れます」
リシュアが前へ出る。
「外周は私たちが押さえる」
エリシアとレオンも位置を取る。アッシュは水湊のすぐ後ろに立った。
もう迷う時間はない。
水湊は円形台座の正面に立ち、右手を開いた。
「同調《シンク》――中位接続」
白銀の光輪が静かに開く。
ヴェネフィルディアの上半身と背部フレームの一部が、旧神殿跡の広間へ半ばだけ現れる。石床が低く震え、白い粉の線がわずかに揺れた。
水湊は白銀の腕を、台座の中央へ向ける。
切るのではない。
押さえるのでもない。
今度は、本当に壊す。
見えない座標の噛み合わせへ、横から白銀の指先を差し込む。合わせようとしている継ぎ目を、先に砕く。
次の瞬間、広間の空気が大きくきしんだ。
白い粉の線が一斉に浮き、黒い残滓が巻き上がる。神像の足元から、黒い靄が噴きかけた。
「来るぞ!」
アッシュの声と同時に、エリシアの光が走る。レオンが神像の前へ回り込み、這い上がる影を斬り払う。リシュアの術式糸が広間の床を走り、外周を固定した。
水湊は歯を食いしばる。
重い。
今まででいちばん重い。
綻びの輪を断つのとは違う。これは、向こうが揃えかけた“通り道の芯”そのものへ手を入れている。
『まだ!』
ナインが叫ぶ。
『真ん中だけじゃない、下に繋がってる!』
「見えてる!」
たしかにそうだった。
台座の中心だけ壊しても、その下へ伸びている細い筋が残る。これを折らなければ、また別の場所で繋ぎ直される。
ヴェネフィスの意志がもう一度落ちる。
深く。
水湊は息を詰め、白銀の腕をもう一段だけ沈めた。
そこは、ラ・ギアスの石床ではなかった。
もっと薄い、もっと不安定な層だ。
触れた瞬間、ぞっとするほど遠い感覚が返ってくる。
でも、踏み込む。
「――ここだ!」
白銀の指先が、見えない芯を横から打つ。
ひび割れたような音が、広間いっぱいに響いた。
台座の中央が割れる。白い粉の線が一斉に黒ずみ、神像の足元の残滓も崩れた。噴きかけていた靄は、その場で形を保てずに散る。
その直後、広間そのものが一度だけ大きく揺れた。
「下がる!」
アッシュの声に押されるように、全員が一歩引く。
だが崩落は起きなかった。
揺れは一度で止まり、その後は急速に静まっていく。
やがて、旧神殿跡には乾いた静けさだけが残った。
誰もすぐには口を開かなかった。
最初に息を吐いたのはエリシアだった。
「……今の、心臓に悪いってレベルじゃないんだけど」
「毎回更新されるな」
水湊が言うと、彼女は本気で睨んだ。
「笑いごとじゃないわよ」
「笑ってない」
「顔がちょっと笑ってるの」
そこへ、レオンが神像の足元を蹴って黒い欠片を裏返した。
もう嫌な反応はない。
ただの汚れた残骸に見える。
「成功、か」
その問いに、リシュアが術式板を確認して頷く。
「中心反応、消えました。下への筋も切れています」
教授がようやく肩の力を抜いた。
「ひとまずは、な」
その言い方は慎重だったが、間違ってはいないだろう。
ここを壊した。
けれど、向こうがこれで諦めるわけではない。
水湊は中位接続を解きながら、割れた台座を見つめた。
通り道の芯。
試作の祭場。
旧神殿跡で揃えられかけていた座標。
敵の狙いは、もうかなりはっきりしている。
何かを越境させようとしている。
それも、偶然できた裂け目に乗るのではなく、ラ・ギアス側で“通せる形”を作って。
胸の奥の冷たい灯が、ゆっくり静まっていく。
ヴェネフィスはもう何も言わない。
けれど、さっきの“壊せ”だけで十分だった。
水湊は小さく息を吐く。
この戦いは、裂け目を閉じるだけでは終わらない。
向こうが作ろうとしている“道”そのものを、先回りして潰さなければならない。
そしてその先には、たぶんまだ、もっと大きな本体がある。