旧神殿跡を離れたのは、夜がいちばん深くなった頃だった。
割れた台座はそのままにはできず、王城術官が急ぎで仮封鎖を施した。神像の足元に散った黒い残滓も、拾える分は拾い集める。慎重すぎるくらい慎重だったが、それでも誰一人、やりすぎだとは言わなかった。
あの場にあったものは、そういう類だった。
帰路の空気は重かった。
任務そのものは成功している。通り道の芯を壊し、旧神殿跡で揃えられかけていた座標も潰した。けれど、終わったという感じは薄い。むしろ、向こうにとって“やられた”のが今夜だったのだろうと思うと、これからが嫌だった。
前を歩くアッシュも、後ろを気にしているレオンも、いつも以上に無駄口がない。エリシアでさえ、さっきまでの軽口が引っ込んでいる。
『静かだね』
ナインが影の中で言う。
「静かな方がいい時もある」
『でも、今はちょっと違う』
その通りだった。
第三祭祀路へ戻る途中、水湊は二度ほど足を止めかけた。
綻びの気配ではない。
誰かの視線でもない。
ただ、道の先にうっすらと“待たれている”感じがある。
嫌な勘だ。だが、最近はそういうものほど外れない。
「アッシュ」
小さく呼ぶと、前を行く背中が止まった。
「何だ」
「この先、少し変だ」
アッシュは振り向かないまま、短く言う。
「綻びか」
「違う。たぶん人だ」
その一言で、周囲の動きが変わる。
レオンが即座に壁際へ寄り、エリシアも兵へ手信号を送った。リシュアは術式板を抱え直し、教授はそれ以上前に出ない位置へ下がる。
「人数は」
アッシュの問いに、水湊は目を閉じ、通路の先へ意識を伸ばす。
はっきりとは見えない。だが、空気の重なりがある。
「三……いや、四かもしれない」
「祭祀路の先に?」
「たぶん曲がり角の先」
レオンが低く言う。
「待ち伏せだな」
「向こうも露骨になってきたわね」
エリシアの声は低かったが、妙に落ち着いていた。こういう時、彼女は強い。
アッシュは一拍だけ考え、それから決めた。
「水湊とリシュアは後ろ。教授は中央。エリシア、右。レオンは左から回れ」
「了解」
動きが早い。
ついこの前まで暫定編成だの別働隊だのと言っていたのに、こういう時のまとまりはもう出来上がりつつある。
曲がり角へ近づく。
水湊は息を浅くした。胸の奥の灯は静かなままだ。ヴェネフィスはこういう“人の気配”にはあまり口を挟まないらしい。
代わりに、ナインの声が低くなる。
『来る』
次の瞬間だった。
曲がり角の先から、短い光が走る。
「伏せて!」
エリシアの声とほとんど同時に、水湊は身を低くした。光は頭上の石壁を削り、乾いた破片が散る。
魔術だ。
しかも殺しに来ている。
アッシュが前へ出る。
「前だ! 押し返す!」
レオンはすでに左側の壁を蹴って走っていた。正面から受けず、横へ回るつもりらしい。エリシアも光の術を短く返し、敵の顔を上げさせないように撃ち込む。
水湊は曲がり角の先を覗き込んだ。
いた。
黒っぽい外套を着た男が三人。もう一人は通路の奥、後衛に下がっている。軍装ではない。王城の術官でもない。顔を隠してはいないが、逆にそこへ意味がないという顔だ。
使い捨て。
そんな言葉が頭をよぎる。
「狙いは足止めか」
水湊が言うと、リシュアが顔をしかめる。
「あるいは回収阻止でしょうね」
祭祀路から持ち出した残滓、神殿跡の記録、そして今の別働隊そのもの。向こうからすれば、潰せるならどれでもいいのかもしれない。
正面の男の一人が、また短い光を放つ。
だが今度はアッシュが剣で弾いた。狭い通路で真正面から受け止めるその姿に、やはりこの人は前衛なのだと妙に納得する。
「エリシア!」
「わかってる!」
彼女の光が今度は足元を払うように走り、男の一人がバランスを崩す。
そこへレオンが横から滑り込んだ。
速い。
短剣の一撃は深くない。だが、相手の姿勢を崩すには十分だった。
「っ!」
男が声を漏らし、後ろの二人が一瞬だけ視線を動かす。
「水湊!」
アッシュの声が飛ぶ。
そこまで来れば、何を求められているかはわかる。
正面突破ではない。
この狭さでヴェネフィルディアの全身を出す必要もない。
欲しいのは一瞬だ。
「同調《シンク》――局所接続」
白銀の光輪が開く。
ヴェネフィルディアの右腕部だけが曲がり角の手前へ現れ、その指先が石床を一度だけ弾く。
轟音ではない。
だが、通路そのものが短く震えた。
敵の足元が揺れ、前にいた二人が同時に体勢を崩す。
「それで十分だ!」
アッシュが踏み込み、剣の柄で一人の顎を打つ。エリシアの光が二人目の腕を払う。レオンは後衛へ一気に距離を詰めた。
戦闘は長く続かなかった。
四人とも、正面から死ぬまで戦うつもりではなかったらしい。一人が倒れた時点で、後衛の男が何かを床へ投げた。
「下がって!」
リシュアが叫ぶ。
床で弾けたのは煙ではなく、黒い粉だった。さっき旧神殿跡で見た残滓に似ている。けれど楔ほど濃くはない。即席の撹乱札だろう。
視界が一瞬だけ濁る。
その隙に、後衛の男が壁際の割れ目へ飛び込んだ。
「逃がすか!」
レオンが追いかけかけて、アッシュが制する。
「追うな!」
「しかし――」
「罠だ」
その一声で、レオンは止まった。
煙のような黒い粉はすぐに薄れた。だが、追い込むためではなく、引き離すために使ったのは明らかだった。
残ったのは、気を失った一人と、腕を押さえてうずくまるもう一人。あと二人は逃げた。
エリシアが息を吐く。
「最悪じゃないけど、最高でもないわね」
「十分だ」
アッシュは倒れた男の懐を探りながら言う。
「生きたのが二人いれば口は割れる」
「そう簡単に割れるかしら」
「割らせる」
その短さに、無駄な感情はなかった。
水湊は局所接続を解き、散らばった黒い粉の跡を見下ろした。
綻びを作る楔とは違う。
だが、同じ手の内から出てきた匂いがする。
「向こう、もう隠す気がないな」
思わず言うと、リシュアが小さく頷いた。
「少なくとも、私たちを見逃すつもりはなくなったようですね」
教授が通路の壁を見回す。
「旧神殿跡を潰された以上、こちらが邪魔だと認識したのだろう」
それは納得できた。
今までは場所を荒らし、綻びを育て、楔を打つ。こちらがどこまで気づくかを見ている段階だった。だが今日は違う。祭祀路で待ち伏せし、帰り道まで狙ってきた。
それはつまり、別働隊そのものが敵の視界に入ったということだ。
『見られてるね』
ナインが言う。
「ああ」
『嫌だね』
「同感」
短く答えると、ナインは少しだけ黙った。
『でも、向こうも焦ってるよ』
「どうしてそう思う」
『丁寧じゃないから。もっと隠せたはずなのに、出てきた』
その言葉は妙に刺さった。
たしかにそうだ。
祭祀路の石板をこじるのも雑だった。旧神殿跡の祭場も粗い。帰り道の待ち伏せも、成功すれば大きいが、失敗した時の痕跡を消しきれていない。
向こうは向こうで、急いでいる。
「……急がされてるのかもしれないな」
水湊がぽつりと言うと、エリシアが顔を向けた。
「誰に?」
「そこまではわからない。でも、末端だけが焦ってる感じじゃない」
アッシュは答えなかったが、否定もしなかった。
倒れた男の懐から出てきたのは、削られた札片と、短い記録紙だけだった。記録紙には走り書きで、地名の頭文字のようなものが並んでいる。
第三祭祀路。
封印庫跡。
西監視線。
そして最後の一つだけ、まだ見覚えのない文字があった。
「“東祠”……?」
リシュアが読み上げる。
「東の祠堂か、祠跡か」
「そんな場所があるのか」
水湊が聞くと、レオンがすぐに答えた。
「王都東外縁に小さな祠跡が点在してる。だが、主な祭路からは外れてるはずだ」
「“はず”ね」
エリシアが眉を寄せる。
「嫌な言い方」
「嫌な予感しかしないからな」
水湊も同意するしかなかった。
南を押さえられた。
なら、次は東へ手を伸ばすかもしれない。
それが陽動なのか、本命の切り替えなのかはまだわからない。
アッシュが最後に言う。
「王城へ戻る。生きている二人は引き渡す。東外縁の確認はその後だ」
「休ませる気ないわね」
エリシアが言うと、アッシュは一瞥だけ返した。
「休んでいる間に動かれたらもっと面倒だ」
「正論なのが腹立つのよ」
その返しに、少しだけ場がゆるむ。
けれど、それも長くは続かなかった。
帰路についた別働隊の足取りは早い。祭祀路の空気はさっきよりさらに冷え、石壁の影が妙に濃く見えた。
もう綻びを追うだけではない。
向こうもこちらを見始めている。
その事実は、水湊の胸のどこかを静かに重くした。
別働隊はもう、王城の裏手で火を消すだけの集まりじゃない。
敵にとっても、無視できない相手になり始めている。