東外縁へ出た時、王都の空気はまだ夜の側に残っていた。
空のないラ・ギアスでも、朝が近いことくらいはわかる。灯りの白さが少し薄くなり、街の奥で眠りきれない気配が動き始める。だが今夜の別働隊にとっては、そんな変化を味わっている余裕はなかった。
夜明け前に揃わなければならない。
祭祀路で捕らえた男が口にした、その曖昧な一言が、ずっと頭の隅に残っている。
「東って、やっぱりこっちよね」
先を行くエリシアが、外縁の石道を見回しながら言った。
東側は南や西よりもさらに静かだった。古い祠や石碑は点々と残っているが、人が寄る空気がない。忘れられた礼式の残り香だけが、道の端に薄く溜まっている感じだった。
レオンが地図を畳みながら答える。
「祠跡はこの先だ。表の祠は崩れてる。問題は下に残ってる方だな」
「半地下の小部屋、だったか」
水湊が聞くと、アッシュが短く頷いた。
「規模は大きくない。だが、隠すにはちょうどいい」
まったく嬉しくない条件だった。
足元の影で、ナインが小さくあくびをした。
『眠いのに、嫌な感じだけははっきりしてる』
「便利なんだか不便なんだか」
『どっちもだよ』
それもそうかもしれない。
祠跡は、東外縁の小さな崖地の下にあった。
地上に残っているのは、半ば崩れた石祠と、その周囲を囲っていたらしい低い石垣だけだ。けれど、その背後にある斜面の下へ回ると、暗い口が見える。石段が二十段ほど、地の中へ落ちている。
入口の脇には古い灯台の跡があり、その足元に新しい土の削れがあった。
「最近、人が入ってるな」
レオンがしゃがみ込んで土を見た。
「しかも一人二人じゃない」
アッシュが周囲へ視線を走らせる。
「見張りは?」
兵が短く首を振った。
「この場にはいません」
それを聞いても、安心はできなかった。見張りがいないのは、終わったからか、あるいは中へ引っ込んだからか、そのどちらかだ。
水湊は石段の前で立ち止まり、ゆっくり息を吸った。
ある。
これまでとは少し違う。
綻びの気配も、楔のざらつきも、たしかにある。だがそれより先に、古い木箱か何かを動かした後の、空っぽの重さみたいなものが残っていた。
「……箱、ここを通ったな」
思わずそう漏らすと、エリシアが横目で見る。
「わかるの?」
「はっきり見えるわけじゃない。でも、そんな感じがする」
教授がそこで少しだけ眉を上げた。
「封印庫跡から持ち出されたものと関係がある、かもしれんな」
「かも、じゃなくて、そう考えた方が自然でしょ」
エリシアが言う。
「夜明け前までに何かを揃える、東の祠、祭祀路の箱。ここまで来て別件の方が気持ち悪いわよ」
その通りだった。
アッシュが短く決める。
「降りる。レオン、先。エリシアは後衛。水湊とリシュアは中央。教授はその後ろだ」
石段は狭い。二人並ぶには少しきついくらいだった。下から吹き上がってくる空気は冷たいが、乾いてはいない。むしろ、長く閉ざされていた小部屋へ人が出入りして、古い澱みがかき回されたような匂いがする。
段を下りきると、そこは小さな前室になっていた。
左右の壁には供物台のような石棚があり、正面の低い扉の先にもう一部屋ある。問題は、その前室の床に、黒い砂のようなものが散っていることだった。
「楔の残りか」
リシュアがしゃがみ込む。
「いえ……粉に近いですね」
「撒いたのか」
水湊が聞くと、リシュアは指先に術式糸を絡め、少しだけ掬い上げた。
「たぶん。印を描くための補助材かもしれません」
アッシュが正面の扉へ目を向ける。
「本命はその先だな」
水湊も同じだった。
前室の嫌な感じは薄い。だが扉の向こうは違う。小さく、狭く、でも明らかに空気の密度が違っている。
『いるね』
ナインが言う。
「人か?」
『人だけじゃない』
その返答で、背筋が冷える。
アッシュは一拍だけ考え、すぐに動いた。
「扉を開ける。水湊、見える範囲で拾え。無理に踏み込むな」
「了解」
レオンが扉の脇へ寄り、エリシアも光を溜める。リシュアの術式糸が床を這い、前室の外縁を軽く固めた。
ごり、と鈍い音を立てて扉が開く。
中は、祠というより地下の祭室だった。
広さは旧神殿跡の半分もない。中央に低い台座が一つ、その向こうに壁龕がある。だが目を引くのは、そのどちらでもなかった。
台座の上に、黒い布で巻かれた細長い箱が置かれている。
水湊は思わず息を呑んだ。
「……あれか」
封印庫跡の右奥に残っていた箱の痕。
祭祀路で聞いた“運んだ箱”。
たぶん、間違いない。
そして、その箱を囲むように、床に細い術式線が組まれている。
黒い楔はない。代わりに、白と黒の粉で引かれた線が、台座の下で輪を描いていた。旧神殿跡で見たものより粗いが、意図ははっきりしている。
箱を中心に、通り道を組もうとしている。
「まだ終わってない……」
水湊が低く言う。
その直後だった。
壁龕の陰から人影が動いた。
黒い外套を羽織った男が二人。さらに、その後ろに女が一人立っている。三人とも王城式でも軍式でもない装いだ。顔を隠してはいない。だが、その顔の半分以上が疲労と焦りで削れているように見えた。
「来るのが早いな」
男の一人が言った。
初めてだった。
向こうから、まともに言葉を投げてきたのは。
アッシュの声が低くなる。
「下がれ。その箱を置いてな」
だが男は笑わなかった。脅しにも怯まない。ただ、心底うんざりしたように息を吐く。
「置いて帰れば済むなら、とっくにそうしてる」
その言い方に、水湊は少しだけ目を細めた。
末端の手駒とは違う。
少なくとも、自分が何をしているかはわかっている顔だ。
後ろの女が、箱へ片手を触れたまま言う。
「あと少しだったのに」
その声は落ち着いていたが、穏やかではない。焦りを押し殺している種類の冷たさだ。
エリシアが小さく舌打ちする。
「喋る余裕あるのね」
「余裕じゃない」
女がすぐに返した。
「遅れただけよ」
その一言で、水湊の胸の奥がわずかにざらつく。
やはり向こうは急いでいる。
しかも、それを隠す気がない。
レオンが一歩前へ出る。
「箱の中身は何だ」
男は答えない。だが女の視線が一瞬だけ箱へ落ちた。
それだけで十分だった。
重要なのは箱そのものであり、中身だ。
「運ぶだけの連中を何人捨てた?」
アッシュの問いにも、返事はなかった。
代わりに、床の術式線がふっと薄く光る。
「下がって!」
水湊は反射的に叫んでいた。
同時に、台座の周囲から黒い靄が立ち上がる。影だ。旧神殿跡や祭祀路で見たものと似ているが、もっと細く、鋭い。
エリシアの光が走る。レオンが左の男へ踏み込み、アッシュは正面を抑えた。
水湊の目は箱から離れなかった。
あれが中心だ。
術式線は未完成だが、箱を起点に綻びを“合わせよう”としている。
ここで動かされたらまずい。
「同調《シンク》――局所接続!」
白銀の光輪が開き、ヴェネフィルディアの右腕部だけが前へ出る。
水湊は台座の縁へ白銀の指先を突き立てた。狙うのは箱ではない。その下の輪だ。箱を支えるための見えない綻びの筋を、先に止める。
空気がきしむ。
女の顔が初めてわずかに変わった。
「……っ」
そこまでか、と思う。
つまり向こうにとっても、水湊の干渉は無視できないのだ。
「そいつを止めなさい!」
女が鋭く言うと、後ろの男が札を投げた。黒い粉が散り、視界が一瞬だけ濁る。
だが今度はリシュアが早かった。
「その手は二度目ですよ!」
術式糸が扇状に広がり、粉の流れそのものを押し返す。視界が完全に潰れる前に、エリシアの光が台座の右側を薙いだ。
男の一人が肩を押さえて崩れる。
レオンがもう一人へ回り込み、壁際へ追い込んだ。
それでも、女だけは箱のそばから離れない。
「水湊!」
アッシュの声が飛ぶ。
「箱を持っていかれるな!」
「わかってる!」
局所接続のままでは足りない。
けれど中位接続をこの狭さで使えば、部屋そのものがもたないかもしれない。
迷った瞬間、胸の奥へ意志が落ちた。
箱ではない。
ヴェネフィスだった。
水湊は息を呑む。
そうか。狙うのは箱じゃない。向こうが箱を動かせる形を作っている、その下の“合わせ”の方だ。
「リシュア! 台座の左下、固定できるか!」
「左下?」
彼女は術式板を見て、すぐに顔を上げた。
「そこが噛み合いの始点ですね!」
「そこだけ押さえて!」
「やります!」
術式糸が床を走り、台座の左下へ絡みつく。
その瞬間、白銀の指先を台座の縁から少しだけずらす。箱の真下ではなく、輪の起点へ横から差し込む。
ぶつり、と小さな音がした。
術式線の一角が黒ずみ、台座の下で回っていた綻びが一度だけ大きく揺れる。
「いま!」
エリシアの光が、箱の前の床を正確に打ち抜いた。
線が切れる。
女が初めて、本気の舌打ちをした。
「下がるわよ!」
命令は速かった。
男二人のうち一人はレオンに抑え込まれたが、もう一人はその場に黒い布を投げつけ、女と一緒に壁龕の奥の割れ目へ飛び込んだ。
「逃がすか!」
レオンが動きかけて、アッシュが止める。
「追うな! 箱を確保する!」
その判断は正しい。
ここで追って散れば、箱を持ち逃げされるか、別の綻びを起こされる。
レオンも一瞬で切り替え、捕らえた男の腕をねじり上げたまま壁へ叩きつけた。
祠の小部屋に、急な静けさが落ちる。
水湊は局所接続を解かず、台座の前に立ったまま息を整えた。まだ安心はできない。術式線は切れたが、箱そのものに残っている気配が消えたわけではない。
「……止まったか」
アッシュが低く言う。
リシュアが術式板を見つめたまま頷いた。
「はい。少なくとも、いまは」
その言い方が現実的だった。
完全に終わったわけではない。
ただ、“運ばれる直前”は止めた。
それだけでも大きい。
エリシアが息をつく。
「あと少し、って本当にあと少しだったのね」
「みたいだな」
水湊も小さく頷く。
箱を前にして、胸の奥の冷たい灯が静かに揺れている。嫌っている。だが、それだけではない。ヴェネフィスはあの箱の中身を、かなり明確に警戒している気がした。
『触るの、やめた方がいい』
ナインが言う。
「そう見えるか」
『うん。まだ開けない方がいい』
それは水湊も同感だった。
箱は黒い布に包まれ、その下に細い金具が渡されている。見た目だけなら大げさな保管具だ。だが、その周囲の空気だけが妙に硬い。
教授が祠へ着いたのは、そこから少し遅れてだった。入口の狭さのせいで、後方支援のまま待機していたらしい。
箱を見るなり、さすがに表情が変わった。
「……なるほどな」
「何かわかるのか」
アッシュが聞くと、教授はすぐには頷かなかった。
「確信はまだない。だが、封印庫跡で失われていた類のものと無関係とは思えん」
水湊は箱から目を離さずに言う。
「向こうはこれを運びたかったんだな」
「たぶんな」
アッシュの声は低い。
「そして、夜明け前に“揃える”必要があった」
そこまで来れば、だいぶ輪郭が見えてくる。
綻びを作り、輪を組み、祭祀路で通路を試し、旧神殿跡で座標を揃え、最後に箱を運ぶ。
全部が一本に繋がっている。
何を通すのか。
あるいは、何を呼ぶのか。
まだ答えは出ていない。けれど、少なくとも向こうの手順は見えた。
水湊はようやく局所接続を解き、小さく息を吐いた。
箱は回収するしかない。
捕らえた一人も引き渡さなければならない。
そして何より、この箱の中身を知らなければ、次に何が起きるか読めない。
王城の仕事は、また一段増えそうだった。