箱の検証が一段落した頃には、王城の中もようやく朝の気配を帯び始めていた。
とはいえ、別働隊の空気はまるで軽くならない。
旧貯水路跡。西側監視線。旧搬送路。封印庫跡。第三祭祀路。旧神殿跡。東の祠跡。
点は増えた。箱も押さえた。けれど、そのぶんだけ「次」がはっきりしてきたからだ。
水湊は作戦室の長机に肘をつき、広げられた地図を見下ろしていた。
王都外縁をぐるりと囲うように、いままで潰してきた地点が印されている。そこへ旧流路、祭祀路、工房区画、封印庫跡の記録を重ねると、さすがに偶然では済まない並び方になっていた。
「南と東は見えた」
レオンが地図の端を押さえたまま言う。
「西も、もう向こうは使いにくい。なら、残るのは内側だ」
アッシュが短く頷く。
「外縁で綻びを育て、祭祀路で通路を試し、旧神殿跡で座標を合わせる。箱はその先に置くための半製品。そこまではいい」
「問題は、その“先”よね」
エリシアが言う。
彼女も疲れているはずだが、こういう場ではむしろ目が冴えるらしい。
「どこに置けば、あの輪が完成するのか」
セレニアは箱から写し取った術式図を机へ広げた。途切れた輪。内側へ伸びる爪。単体では閉じない半端な構造。だが、どこかへ噛ませる前提だと考えれば、逆に形の意味が見えてくる。
水湊はその爪の向きをしばらく見つめていた。
「これ、外へ向いてないな」
ぽつりと言うと、全員の視線が向く。
「どういう意味だ」
アッシュが問う。
「箱の輪だよ。綻びを広げるなら、外へ噛む形の方が自然だろ。でもこれは逆だ。内側へ、何かを掴みにいく形に見える」
ベルトラン教授がゆっくり顎に手を当てる。
「ほう」
「外から押し開けるんじゃなくて、中にある何かへ繋ぐための形ってこと?」
エリシアが聞く。
「たぶん」
水湊は頷いた。
「向こうは門そのものを作るんじゃない。もうある“何か”を使いたいんじゃないか」
その一言で、部屋の空気が変わった。
セレニアがすぐに地図へ向き直る。
「王都の内側に、境界へ関わる古い施設が残っている場所」
「封印庫跡は外したわ。旧神殿跡も違う」
エリシアが指を滑らせる。
「残るとしたら、もっと中心寄り?」
「中心寄りでも、王城そのものは違う」
レオンが言う。
「向こうがそこまで食い込めているなら、もっと早く別の形で出ている」
「だろうな」
アッシュも同意した。
王城直下まで既に手が届いているなら、綻びを外縁から育てる回りくどいやり方を取る意味が薄い。
そこで、リシュアが地図の北東寄りを指差した。
「……ここは」
全員がそちらを見る。
古い地図には、かすれた文字で小さく印が残っていた。
転位観測座跡
水湊は思わず聞き返す。
「何だ、それ」
答えたのは教授だった。
「かなり古い施設だよ。境界観測と、遠方位相の読み取りに使われていた座だ。いまは閉じられておる。記録だけ残って、場所自体はほとんど忘れられておるはずだ」
「忘れられてる場所、好きよねえ、ほんとに」
エリシアがうんざりしたように言う。
だが、嫌味より先に納得が来る。
古い。
境界観測に関わる。
いまは閉じられ、普段は誰も見ない。
向こうが狙う条件としては、たしかに揃いすぎていた。
セレニアがすぐに記録板をめくる。
「北東寄りなら、東の祠跡と古い観測路が地下で繋がっていてもおかしくないわね」
「旧神殿跡からの座標合わせとも、位置関係が噛み合う」
リシュアも術式線を重ねた。
淡い光が地図の上を走る。
外縁で育てた綻び。
祭祀路で試した通路。
旧神殿跡と東の祠跡で揃えかけた座標。
それらが最後に寄っていく先として、その場所は妙にきれいだった。
「……ここだな」
水湊がそう言うと、今度は誰もすぐには否定しなかった。
アッシュが短く息を吐く。
「筋は通る」
「でも、“通る”で突っ込むには危ないわよ」
エリシアが言う。
「危ないからこそ、先に押さえる」
アッシュの返しは変わらず短い。
部屋の空気がそこで決まる。
推定でしかない。
だが、いままでの相手は、こちらが一歩遅れるたびに次の手を打ってきた。なら、今は推定でも踏み込むしかない。
水湊は地図の北東寄りを見ながら、胸の奥へ意識を向けた。
冷たい灯は静かだ。
けれど、その静けさが否定ではないことは、もうだいぶわかる。
『どう?』
ナインが言う。
「たぶん当たりだ」
『うん。私もそんな感じ』
それをそのまま口にすると、教授が面白そうに眉を上げた。
「ファミリアも同意見か」
「いや、そんな軽く言われても」
「軽くは言っておらんよ。おぬしとそやつの感覚がずれておらんのは重要だ」
その言葉には、少しだけ重みがあった。
最初の頃なら、“何となくそう思う”で終わっていた話が、いまはもう現場の判断材料として数えられている。
それ自体は悪くない。
悪くないが、気楽でもない。
セレニアが箱の写し図を畳んだ。
「問題は、向こうもそこへ向かってる可能性が高いことね」
「先回りされるか」
レオンが言う。
「あるいは、もう入ってる」
アッシュの言葉はもっと嫌だった。
けれど、十分あり得る。
東の祠跡まで箱を運び込んでいたのだ。そこから先へ進む足がないとは思えない。
エリシアが机に手をつく。
「つまり、急ぐのは確定ってことね」
「そうなるわね」
セレニアが頷く。
「ただ、今回は今までより危ないわよ。観測座跡が本当に境界観測施設だったなら、向こうが箱を噛ませた時点で、綻びの話じゃ済まなくなる」
「門になるかもしれん」
教授が静かに言った。
誰もすぐには喋らなかった。
門。
その言葉を、冗談として流せる段階はもう過ぎている。
水湊は無意識に、箱の写し図へ目を落とした。
途切れた輪。
どこかへ噛み合う爪。
あれが完成した先にあるものを、想像したくはない。
けれど、避けても通れない。
「行くか」
ぽつりと漏れる。
アッシュは短く頷いた。
「ああ」
その返答に迷いはなかった。
王城直轄の別働隊。
綻びを追い、輪を断ち、道になる前に潰す役目。
なら、最後の座に行かない理由はない。
エリシアが水湊を見る。
「顔、また固くなってるわよ」
「毎回言うな」
「毎回そうなるからでしょ」
「否定しづらいな」
「でしょうね」
いつものやり取りだった。
けれど、少しだけ助かる。
この先が軽くないことは、誰だってわかっている。だからこそ、いつも通りの一言があるだけでだいぶ違う。
レオンが地図を巻き取る。
「北東外れなら、表通りは使わん方がいい。古い監視路から入る」
「王城側へは?」
リシュアが聞く。
「封印班を待機させる」
セレニアが答えた。
「でも、最初に入るのはこっち。向こうが何を組んでるか確認しないと、王城式も打ちようがない」
そこまで決まれば早かった。
指示が走る。
地図が畳まれる。
封印具と術式板が持ち出される。
作戦室の空気が、一気に“次”へ向いていく。
水湊は最後にもう一度だけ、北東寄りの印を見た。
転位観測座跡。
忘れられた古い境界観測施設。
もしそこが本当に向こうの終点なら、次はもう“綻びを潰す”だけでは足りないかもしれない。
その場その場の火消しではなく、向こうの狙いそのものへ手をかけることになる。
胸の奥で、冷たい灯が静かに揺れた。
ヴェネフィスは何も言わない。
だが、水湊にはそれで十分だった。
行けと言われているわけじゃない。
それでも、いま向かうべき場所はそこなのだと、もうわかっている。