「15分の怪物」   作:熊々

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前話、覇黒は絵心から「本物」と指名されました。
だが、覚醒モードの代償は、必ず翌日に請求書を送ってきます。

一次選考・最終戦。
対戦相手はチームW、鰐間淳壱。
今日の覇黒は——走れません。

覚醒が出せない日、"二割引"の身体で、彼はどう戦うのか。


※ブルーロックの二次創作です
※前話を未読の方は第1〜5話からどうぞ


第六話 今日の俺は、二割引

天井が、遠い。

 

目を開けて最初にそう思った。

普段より、たぶん三十センチくらい遠い。

天井までの距離は昨日と変わっていないはずだから、遠いと感じる側が壊れているんだろう。

 

俺は、壊れている側だった。

 

手を、上げてみた。

上がらなかった。

正確には、上がったのだが、肩の筋肉が油の切れた蝶番みたいな音を立てた気がした。

音は実際には鳴っていない。

ただ、俺の頭の中で、そう聞こえた。

 

(——借金のある日だ)

 

胸の奥でだけ、呟いた。

 

覚醒モードのあと、体は必ず翌日に請求書を送ってくる。

昨日使った分のエネルギーを、倍にして持ってくる。

前世の死にゲーにもあった。ボス戦で体力を削り切ったあとの帰り道、ザコにやられて死ぬパターン。

俺のいまの体は、たぶんそのザコにやられる側の体だ。

 

カーテンの隙間から、光が一本だけ落ちていた。

朝だった。

 

廊下の向こうで、足音が近づいてきていた。

複数。

全力疾走ではない。

だが、誰かがわざと音を立てて歩いている。

 

(——はぁ)

 

俺はまだ布団の中で、目だけを天井に向けたまま、長く息を吐いた。

 

◇ ◇ ◇

 

「覇黒ォ! 起きろって!」

 

扉を叩いたのは、たぶん五十嵐だった。

拳じゃなかった。掌だった。

拳で叩かないあたりが、あいつらしい遠慮の仕方だった。

 

「飯、行くぞ!」

 

雷市の声が、扉の向こうから飛んできた。

こっちは拳だった。

扉が、ドン、と一度鳴った。

 

「……」

 

俺は返事をしなかった。

返事をするエネルギーが、まだ戻ってきていなかった。

 

「おい、生きてんのかあいつ」

 

我牙丸の低い声。

我牙丸は、こういうとき一番後ろに立っているくせに、声だけは前に出てくる。

 

「生きてる」

 

短い返し。國神だ。

 

「……扉、開けるぞ」

 

潔の声だった。

扉の外で、誰かが他の誰かを止めた気配がした。

たぶん五十嵐を止めた。潔は勝手に開けるタイプじゃない。

 

「覇黒、入るぞ」

 

潔はもう一度、俺の返事を待たずに、待つ素振りを見せてから扉を開けた。

俺は天井を見たまま、片手だけを上げて応えた。

手はやはり、半分しか上がらなかった。

 

潔が部屋の中に入ってきた。

その後ろから、五十嵐と雷市が覗き込んだ。

 

「うわ、死んでるじゃん」

「生きてるって言っただろ」

「生きてる、の顔じゃねぇだろコレ」

 

五十嵐と國神の短いやり取りを、俺は寝たまま聞いていた。

 

潔が、ベッドの脇に立った。

腕を組んで、俺を見下ろした。

見下ろすというより、観察している目だった。

昨日、試合のあとにベンチで隣に座って、何も言わずにドリンクのキャップだけ閉めた潔とは、少し違う目だった。

 

「……動けねぇのか」

 

潔が言った。

 

俺は目だけで、潔を見た。

(——どう見ても動けねぇだろ、この姿)

内心でそう返してから、口を開いた。

 

「……二割」

 

言った。

言ったら、喉が乾いていることに気づいた。

 

「二割?」

 

潔が眉を寄せた。

 

「……二割引」

 

俺は、そう付け足した。

ちょっとふざけた言い方に聞こえたかもしれない。

だが、そう言うのが一番正確な気がした。

昨日の俺を十割とすれば、今日の俺は、そこから二割安くなっている、じゃなくて、そこの二割しかない。

バーゲンセール札が貼られた、割引商品の俺。

 

潔は、一秒、俺の顔を見た。

それから、短く笑った。

笑うと言うより、息が漏れた。

 

「……食え」

 

潔は言った。

 

「だから、動けねぇんだ——」

「食わないから、動けねぇんだ」

 

潔は俺の言い訳を最後まで待たなかった。

ベッドの下に落ちていた俺のジャージを拾い、枕元に置いた。

それだけ置いて、踵を返した。

 

「五分後、食堂」

 

潔は振り返らずにそう言って、出ていった。

扉が閉まった。

 

(——あいつ、たまに兄貴っぽいな)

俺は内心でだけ短く呟いた。

(——兄貴がいたことねぇから、知らねぇけど)

 

◇ ◇ ◇

 

食堂は、普段より静かだった。

 

普段も静かといえば静かだが、今朝のそれは種類が違う静かさだった。

みんな食っていた。

みんな、ちゃんと噛んで、飲み込んで、次を口に運んでいた。

いつもならくだらない軽口が飛び交うテーブルで、今朝は誰も軽口を叩かなかった。

 

ただ、それぞれのトレーの上で、音だけがしていた。

 

(——一次選考、最終戦の朝か)

 

俺は列に並んでトレーを受け取った。

受け取ったはずのトレーが、両手に重かった。

昨日まで感じなかった重さだった。

ご飯と、味噌汁と、焼き魚と、卵。

それだけの重さが、今日の俺には石を載せたような重さだった。

 

潔たちのテーブルに、俺は腰を下ろした。

腰を下ろすというより、沈み込んだ。

椅子の背もたれに後頭部を預けた。

 

正面に潔。

斜め前に五十嵐。

隣に雷市。

テーブルの端に蜂楽。

蜂楽は食っていなかった。

蜂楽はスケッチブックを開いて、食堂の天井を描いていた。

(——なんで天井)

 

「覇黒、ちゃんと食えよ!」

 

雷市が俺の方を向いて、怒鳴るわけでもなく、ただ声を押し出した。

雷市は普段怒鳴る男だが、こういうとき怒鳴らないやつでもあるらしい。

 

「……食う」

 

俺はそう言って、箸を取った。

箸も、昨日より重かった。

 

「今日の覇黒、マジで二割じゃん……」

「うるせぇ」

「怒る元気はあんのかよ!」

 

五十嵐が笑った。

五十嵐は、場が重くなるとふざけるタイプだった。

そのふざけ方が、今朝は少しだけ助かった。

 

俺は、卵だけ先に口に入れた。

噛むと、噛む音が自分の頭の中にだけ大きく響いた。

体の中の水が、少しだけ戻ってきた気がした。

 

潔は、それを見ていた。

見ていたが、何も言わなかった。

ただ、自分の焼き魚の骨を、黙って外していた。

 

◇ ◇ ◇

 

廊下を歩いていたら、前から来た。

 

凪だった。

 

凪はジャージを半分しか着ていなかった。

上のファスナーが下の方まで開いていて、中のシャツがよれていた。

あの顔で半目のまま歩いているので、寝起きか、寝ていないのか、どっちなのかも分からなかった。

 

すれ違う直前、凪が俺の横で立ち止まった。

俺も、止まらされた。

 

「……」

 

凪は何も言わなかった。

半目のまま、俺を上から下まで、一度だけ見た。

 

「……昨日の」

 

凪の口が、開いた。

 

「昨日の、面白かった」

 

凪は、そう言った。

言い終わってから、ちょっとだけ自分の口の端を指で触った。

言ったこと自体が、自分でも意外だった、みたいな触り方だった。

 

俺は、半目のまま凪を見返した。

 

「あ、そ」

 

それしか返さなかった。

返せなかった。

喋るエネルギーが、まだ足りなかった。

 

凪は、一秒そのままだった。

それから、うっすら笑った。

笑いと言うには、笑いの三割くらいしか顔の筋肉が動いていなかった。

 

「でも、今日のお前」

「……」

「弱そう」

 

凪は短くそう言って、俺の肩を軽く叩いた。

叩かれた肩が、昨日のスパイクが当たった脛より重かった。

 

「知ってる」

 

俺は言った。

 

凪は笑い損なったみたいな顔をして、そのまま歩いていった。

歩いていく凪の背中を、俺は半目のまま見ていた。

 

(——あいつ、今の、からかいに来たのか)

(——からかいに来る元気、凪にあんのか)

(——あったら困る)

 

俺は廊下を、潔たちの背中に向かってまた歩き始めた。

歩き始めたら、凪に叩かれた肩が、少しだけ軽くなっていた。

(——ふざけんな)

 

◇ ◇ ◇

 

ロッカールームの前面に、大きなモニターが吊られていた。

 

絵心は、そこにはいなかった。

映像だけが流れていた。

 

チームWの試合映像。

昨日までのランキング戦のダイジェストだった。

ボールを持つやつが、一人、画面の中央でずっとドリブルしていた。

周囲のDFが倒されていくのではなく、弾かれていく映像だった。

ドリブルというより、ブルドーザーが道を作っているような映像だった。

 

「……でけぇ」

 

我牙丸が、画面を見て呟いた。

我牙丸が「でけぇ」と言うとき、それは相当でけぇときだ。

 

鰐間、と画面の下にテロップが出ていた。

 

(——鰐間、な)

 

俺は、モニターの正面の椅子に座って、脚を投げ出していた。

椅子の背もたれに後頭部を預けて、天井を見ていた。

映像は視界の下半分でだけ流していた。

 

「覇黒、お前ちゃんと見てんのか!」

 

雷市が俺の肩を叩いた。

 

「……見てる」

「目、閉じてんじゃねぇか!」

「目、閉じても見える」

 

「は?」

「……聞こえるから、音で分かる」

 

俺は、実際に音で分かっていた。

踏み込みの音、倒れ方の音、ボールが弾く音。

目で見なくても、映像の中の鰐間がどう走っているかはだいたい分かった。

(——でかい、重い、速い、上手くはない)

 

「……覇黒」

 

斜め向かいから、潔が言った。

 

「今日、覚醒できんのか」

 

潔が直球で聞いてきた。

 

俺はうっすら目を開けて、潔を見た。

潔の目が、真剣だった。

あいつ、こういうことを聞くのが本当に下手なくせに、聞かずにいられない目をしていた。

 

「……たぶん、無理」

 

俺は言った。

言ってから、自分で「言った」と思った。

潔たちに、覚醒の話を、自分から明言したのは初めてだった。

 

潔の眉が、一瞬だけ上がった。

雷市が「は?」と口を開けた。

五十嵐が「えっ、じゃあ、じゃあ今日どうすんだよ」と声をひっくり返した。

我牙丸が画面から視線を外して、俺を見た。

伊右衛門は、いつも通り無言で、ただ俺のほうに顔を向けた。

久遠は——糸目のまま、モニターを見ているふりをして、耳だけこっちに向けていた。

 

蜂楽が、スケッチブックの鉛筆を止めた。

止めたが、何も言わなかった。

ただ、俺のほうにちらりと視線を寄越して、また鉛筆を動かし始めた。

 

俺は、長く息を吐いた。

 

「……無理だから、頼む」

 

言った。

言ってから、(——なんだこの台詞)と自分で思った。

 

「覇黒——」

「今日は俺、二割引」

 

俺は、また同じ言葉を使った。

 

「今日は、お前らの試合にしてくれ」

 

そう言って、目を閉じた。

 

ロッカールームが、静かになった。

一秒。二秒。

潔が息を吸う音が聞こえた。

 

それから、潔が言った。

 

「……分かった」

 

短かった。

短くて、でも、噛み締めた言い方だった。

 

「じゃあ、二割分は出せ」

 

潔は続けた。

 

「二割でいい。その二割、今日はどこに出すか、お前が決めろ」

 

俺は、目を閉じたまま、短くうなずいた。

 

(——こいつ、ホント切り替え早ぇな)

(——昨日もそうだった)

(——こいつ、本当に兄貴肌だな)

(——兄貴、いたことねぇけど)

 

蜂楽が、鉛筆を止めた音がした。

スケッチブックを持ち上げて、紙を一枚破いた音もした。

 

「千歳」

 

蜂楽が、こちらへ紙を差し出した。

 

俺はうっすら目を開けて、紙を見た。

鉛筆で、適当に描かれた、ピッチの図だった。

選手の位置が、丸でいくつか描かれていた。

丸の中に、名前は書かれていなかった。

 

ただ、一つだけ、二重丸になっている場所があった。

 

俺の位置、じゃなかった。

それは、ピッチの中央、少し後ろ寄り。

いわゆる、司令塔の位置だった。

 

「千歳、今日はここ」

 

蜂楽は言った。

 

「走らなくていい。見てるだけでいい」

 

俺は、その二重丸を、一秒だけ見た。

それから、短く笑った。

笑ったら、昨日の脛の痛みが、少しだけ薄まった気がした。

 

「……蜂楽、お前、絵、上手くねぇな」

「そ?」

「でも、そこ、当たりだ」

 

蜂楽は、首を傾げた。

首を傾げたままで、スケッチブックを自分の膝に戻した。

 

◇ ◇ ◇

 

ロッカーのドアが開いた。

 

絵心が入ってきたわけじゃなかった。

試合開始を告げるスタッフだった。

無言で一度だけロッカーを見回して、無言でドアを閉めた。

 

雷市が立ち上がった。

 

「お前ら!」

 

雷市が、胸を張った。

 

「まとまるぞ!」

 

雷市の声が、いつもより少しだけ小さかった。

小さかったが、耳にはまっすぐ届いた。

 

「——覇黒が、今日、二割らしい」

 

雷市は、そう言った。

言ってから、周囲を見回した。

 

「——じゃあ、八割は俺らだ!」

 

雷市の声が、少しだけ跳ねた。

我牙丸が「うるせぇ」と短く言った。

五十嵐が「やってやるぜぇ!」と裏返った声を出した。

成早が「俺に出してくれりゃ、問題ねぇから」と自分のロッカーを閉めた。

千切は、黙って首を一度だけ縦に振った。

國神は、ペットボトルのキャップを締めて、俺の横を通るとき、俺の肩に一度だけ触れた。

触れただけだった。

触れて、そのまま廊下へ出ていった。

(——國神、お前、そういうの上手くなってきたな)

 

潔が、最後にロッカーを閉めた。

閉める音が、いつもより小さかった。

 

「覇黒」

 

潔が、振り返って言った。

 

「二割、どこに出す」

 

俺は、椅子から立ち上がった。

立ち上がるのに、三秒かかった。

三秒かけて、立ち上がった。

 

「——目と、足首」

 

言った。

 

潔が、一秒、俺を見た。

 

「分かった」

 

潔は、それだけ言って、出ていった。

 

◇ ◇ ◇

 

ピッチに出ると、風が吹いていた。

 

昨日は降りそうで降らなかった雨が、今日は降っていた。

細い霧みたいな雨だった。

ジャージの肩が、じんわり濡れた。

 

整列の位置に歩いていくと、向こう側のチームWも整列していた。

 

中央に、でかいのが一人、立っていた。

 

鰐間だった。

 

画面で見たより、たぶん一回り、でかかった。

肩幅が、普通の選手の一・五倍くらいあった。

首が、あまり見えなかった。首が太すぎて、肩と一体化していた。

目が、細かった。

細い目で、こっちの列を、左端から右端までゆっくり見渡した。

 

そして、俺のところで止まった。

 

止まって、一秒、見た。

 

(——あ?)

俺は、半目のまま、鰐間の目線を受け止めた。

受け止めたが、体はまだ二割引だった。

今、この目線に殺気の二割でも混ざっていたら、正直、俺は立っていられなかったかもしれない。

 

だが、鰐間の目には、殺気はなかった。

あったのは——

 

興味。

 

それだった。

 

鰐間は、俺を一秒見て、それから視線を外した。

視線を外しながら、口だけが動いた。

 

「……昨日の、あれか」

 

低い声だった。

聞こえるような、聞こえないような声だった。

だが、俺の耳には、確かに届いた。

 

届いたのは、その声の奥にあった含みのほうだった。

——昨日の、あれか。

——あれで、今日も出てきたのか。

——へぇ。

 

俺は、返事をしなかった。

返事をするエネルギーは、ピッチで使うために、温存しておく必要があった。

 

ただ、半目のまま、鰐間の視線を一秒、追い返した。

それだけだった。

 

鰐間は、もう俺を見なかった。

ただ、ピッチの中央に向けて、ゆっくり歩き出した。

ブルドーザーが、エンジンをかけ始めた、そういう歩き方だった。

 

(——今日は、こっちにエンジンがねぇんだ、悪いな)

(——だから、八割のほう、頼むぜ)

 

俺は、視線だけをチームZの列に流した。

雷市が拳を握っていた。

我牙丸が肩を回していた。

五十嵐が、足踏みしていた。

成早が、軽く跳ねていた。

千切が、無表情のままスパイクの紐を確認していた。

國神が、胸に手を当てていた。

伊右衛門が、無言だった。

久遠が——糸目のまま、鰐間のほうを見ていた。

蜂楽が、空を一度見上げた。

潔が、俺を見ていた。

 

潔の目が、一度だけ、俺にうなずいた。

 

俺は、うなずき返さなかった。

代わりに、半目のまま、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

それで、潔には伝わったらしかった。

潔も、口の端を、一度だけ上げた。

 

レフリーが、中央に歩いてきた。

 

◇ ◇ ◇

 

ホイッスルが鳴った。

 

ボールが、中央で転がった。

最初に触れたのは、潔だった。

潔は下げた。

千切にも成早にも出さず、後ろの國神に戻した。

國神はそれを左右に振った。

 

俺は、ピッチの中央少し後ろに立っていた。

蜂楽の描いた二重丸の位置に、ちゃんと立っていた。

 

立っていただけだった。

 

前の方で雷市が怒鳴った。

右で成早が走った。

左で千切が走った。

我牙丸は最終ラインで構えていた。

伊右衛門は、我牙丸の横で、無言で構えていた。

 

俺は、走らなかった。

 

走る代わりに、見ていた。

——目。

——足首。

 

目で、全員の位置を、一秒ごとに更新していた。

足首で、自分の重心を、ほんの少しだけ、動かしていた。

 

動かすと、俺の影が、ピッチの芝の上で、ほんの少しだけ、動いた。

その影の動きを、潔が視界の端で見ていた。

潔は、その影の向きに合わせて、ボールを出す方向を変えた。

 

俺は、ボールを受けなかった。

 

受けなかったのに、ゲームは、動いていた。

 

俺の影が、ゲームを動かしていた。

たぶん、傍から見たら、俺は今日、ずっとサボっているように見えるだろう。

ピッチの中央で、ぼーっと立って、ほとんど歩きもしない。

昨日の試合の後遺症で動けないやつが、立ち位置だけ守って休んでいる。

それだけに見えるはずだった。

 

(——それでいい)

 

俺は、胸の奥でだけ呟いた。

 

(——今日は、それでいい)

(——今日の俺は、二割引だ)

(——二割の俺で、どこまで行けるか、ちょっと見てやる)

 

鰐間が、ボールを持った。

 

最終ラインで持った。

中盤まで、ドリブルで、そのまま上がってきた。

誰にも止められなかった。

國神が寄せたが、肩で弾かれた。

雷市が体を入れたが、押し返された。

我牙丸が、最後の壁のつもりで、正面に立った。

 

鰐間が、我牙丸のほうへ、正面から突っ込んだ。

 

ぶつかる直前、俺は——

 

影を、少しだけ、右に動かした。

 

足首で、ほんの五センチ、体重を右に移した。

それだけだった。

 

だが、俺の影の右への動きを、国神が視界の端で拾った。

國神は、それを合図にして、我牙丸の右側から、横に走り込んだ。

 

鰐間が我牙丸に肩をぶつけた瞬間、國神が鰐間の右足に、足の裏を引っかけた。

鰐間はバランスを崩した。

ボールが、鰐間の足元から、ほんの三十センチだけ、右に流れた。

 

その三十センチに、千切が突っ込んだ。

 

千切はそれをかっさらった。

 

俺の影は、もう次の動きに入っていた。

足首が、今度は、左に五センチ。

 

千切は、その左への動きを拾った。

拾って、そのまま左サイドに流した。

左サイドには、成早はいなかった。

成早は、逆サイドに走っていた。

代わりに、蜂楽がいた。

いつの間にか、蜂楽が、左サイドの最前線に、一人で立っていた。

(——お前、なんでそこにいるんだよ)

(——絵で見たのかよ)

 

蜂楽が、ワンタッチで、中央に戻した。

戻した先に、雷市がいた。

雷市は、ヘディングで叩いた。

 

ボールは、キーパーの真正面に飛んだ。

 

キーパーが、弾いた。

 

弾いた先に、五十嵐が、走り込んでいた。

 

「——やってやるぜぇ!」

 

五十嵐が、裏返った声で、蹴った。

 

ボールは、ゴールネットに、吸い込まれた。

 

◇ ◇ ◇

 

1-0。

 

電光掲示板が、そう表示した。

 

チームZのスタンドの、見えない誰かが、声を上げた気がした。

ピッチの上でも、雷市が吠えた。

我牙丸が拳を天に突き上げた。

成早が「俺、走ったのに!」と逆サイドから怒鳴った。

千切が、珍しく口の端を少し上げた。

蜂楽が、無表情のまま、スケッチブックを——いや、スケッチブックはベンチに置いてきていた。代わりに、ジャージの袖で、自分の鼻を一度だけ拭った。

國神は、静かに胸に手を当てた。

伊右衛門は、無言のまま、中央に戻ってきた。

久遠は——糸目のまま、俺のほうを見ていた。

 

潔が、俺の隣を通るとき、短く言った。

 

「覇黒」

「ん」

「二割、効いてる」

 

潔はそれだけ言って、中央に戻っていった。

 

俺は、ピッチの中央少し後ろに立ったまま、短く息を吐いた。

(——八割、いけるじゃねぇか、お前ら)

 

鰐間は、中央で、俺のほうを見ていた。

さっきの「興味」の目が、少しだけ、別の温度になっていた。

 

鰐間の口が、動いた。

 

「……お前、走ってねぇな」

 

低い声だった。

さっきより、少し近くに届いた。

 

俺は、半目のまま、鰐間を見た。

 

「……」

 

俺は、返事をしなかった。

返事をするエネルギーが、まだ勿体なかった。

 

代わりに、半目のまま、鰐間に向かって、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

 

鰐間の、細い目が、ほんの少しだけ、大きくなった。

 

「……」

 

鰐間は、それ以上、何も言わなかった。

言わずに、くるりと踵を返した。

踵を返して、自分の最終ラインに向かって、歩き出した。

歩き出す鰐間の肩が、さっきの整列のときより、少しだけ、盛り上がって見えた。

 

(——ブルドーザー、エンジン、上げたな)

俺は、胸の奥でだけ呟いた。

(——悪いな、こっちは、二割のままだ)

 

◇ ◇ ◇

 

ホイッスルが、もう一度鳴った。

 

試合は、まだ残り七十分、あった。

俺の二割は、まだ一割五分、残っているかもしれないし、三分くらいしか残っていないかもしれない。

それは、どこまでサボるかで決まる。

 

(——サボろう)

 

俺は、決めた。

決めてから、ほんの少しだけ、足首を、また動かした。

 

影が、右に、ほんの三センチ、動いた。

 

國神が、それを、視界の端で、拾った。

 




第6話、お読みいただきありがとうございました。

覇黒「今日は、お前らの試合にしてくれ」
潔「じゃあ、二割分は出せ」

走らない。取らない。喋らない。
ただ、足首の重心と視線だけで、國神・千切・蜂楽・雷市・五十嵐を動かす。
覚醒なしの司令塔——二割でチームが、初点を捥ぎ取りました。

潔「覇黒」
「二割、効いてる」

だが、鰐間のブルドーザーは、まだエンジンを上げ始めたばかり。
残り七十分、覇黒の二割はどこまで保つのか。
——そして、覚醒の条件は、今日も揃ってしまうのか。

覇黒「(——サボろう)」

次話、チームW戦・中盤〜後半。
一次選考、決着の回です。

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