お疲れ、穴突かれガール   作:虫野律

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 僕が職員室の開けっぱなしの引き戸を叩いた時、村田は自分のデスクに着いて赤本──大学入試の過去問題集とにらめっこしていた。一箇月後に控える期末テスト、その問題作りの参考にしようというのかもしれない。

 村田は僕らの姿を認めると、一瞬、チャーシューの代わりにチョコレートが乗ったラーメンを不意に見つけたかのような不可解そうなしかめ面になった。なぜその組み合わせ? 渡辺は歓迎だが、佐藤はいらない。そう言わんばかりだった──村田への聞き込み捜査は赤萩がしてくれていて、僕らバディーとの対面は初めてのことだったのだ。

 渡辺は苦笑一つ零すことなく硬い表情のまま歩を進め、村田の前に立つと、

 

「お忙しいところ申し訳ありません」

 

 といった社交辞令はそこそこに、赤萩のときと同じように、耳目のない所で相談したいことがある、と述べた。

 

「おれに?」村田は僕をちらちら見ながら聞き返した。「ええ、佐藤君も同席してってことですか?」

 

 昼にカップラーメンでも食べたのか、村田の息はニンニクくさかった。なのに、鼻腔にまつわりつく甘いにおいもまざっている。足元のゴミ箱にチョコレート菓子の空き箱が見えるから、そういうことなのだろう。

 

「はい」と渡辺は答えた。「難しいでしょうか」

 

「そんなことはないですが……」

 

 村田は当惑しがちに煮え切らない様子ながら了承を口にした。

 生徒相談室という名称の小部屋に入ると、ニンニクとチョコレートのにおいがより顕著に感じられるようになった。

 テーブルを挟んで奥の上座に村田が、ドア側の下座に僕らが並んで座った。三者面談の構図が近い。

 

「それで、ええ、相談というのは」

 

 そう話の口を切った村田の目には、怪訝と警戒がありありと浮かんでいた。

 

「村田先生は──」応じたのは渡辺だった。「一昨日の六時間目の授業中に二年C組の教室を離れてトイレに行っていたそうですね。放課後にも、わたしに第二理科室の鍵を貸した後すぐにトイレに行き、しばらくこもっていたという。そして、そのどちらも証明してくれる人はいない」

 

 村田は不審そうに眉をひそめ、渡辺の顔をまじまじと見返した。「ええ、先ほども赤萩先生からそのことについて聞かれましたが、ええ、あれは渡辺さんの差し金だったんですか?」

 

「はい」

 

 と答える渡辺の声が、狭く静かな部屋に冷淡に響く。

 

「ええ、その時間に何かあったのですか? ええ、刑事ドラマの取り調べじみていて──まさかおれが疑われているのですか?」

 

 渡辺が膝の上の拳を握りしめるのが目の端に映った。白々しい、とでも思っているのだろう。彼女はいかりを抑えるように唇を震わせながらゆっくりと呼吸すると、

 

「実は──」と強姦のことを伝えた。

 

「それは本当ですか」村田は目を丸くして驚愕を露わにした。

 

「はい。樹生君が現場を目撃しています。わたしは彼に助けられました」

 

 村田は得心がいったというふうに二度うなずいた。「佐藤君を連れているのは、ええ、そういうわけだったんですね」

 

「単刀直入に言います」渡辺は氷のような態度で言葉を紡ぐ。「わたしは村田先生が犯人だと考えています」

 

 村田は一瞬だけ黒目を揺らした後、「──ええと、それはなぜですか? おれは、ええ、本当にトイレに行っていただけですよ」

 

「けれど、それを証言してくれる人はいないのですよね」

 

「ええ、はい、そうですね」

 

 そして渡辺は、推理を、その犯人の条件を語り、村田だけがすべての条件をクリアしていることを説明した。

 

「──以上です。何か弁明はありますか」

 

 そう尋ねた渡辺の双眸は、席に着いてからずっと変わっておらず、氷の矢で射るように容疑者を見据えつづけている。

 

「ええと……おれには渡辺さんを強姦することは無理です」

 

 村田は失った言葉を、反駁あるいは弁明の端緒を探すように虚空に視線をさ迷わせたけれど、それも瞬く間のことにすぎず、動揺しているわけではなさそうで、普段の情けない姿には不釣り合いな落ち着きぶりだった──少なくとも僕にはそう見えていた。

 そんな村田は言う。

 

「ええ、知ってのとおり、職員室から第二理科室まではほとんど一本道ですよね? 渡辺さんは寄り道したわけではないのでしょう? ──そうすると、ええ、後から向かったおれが、見咎められないように注意しつつ制服に着替えて渡辺さんを追い抜き、ええ、待ち伏せるのは時間的に不可能です」

 

「いいえ、可能です」

 

 その反論は予想済みだった。渡辺はすぐさま再反論を口にした。

 

「職員であれば、屋外側からも非常口を解錠して通ることができるはずです。非常階段と非常口を使わなければ、第二理科室までは無計画に増改築された校舎の曲がりくねった長い廊下を進まなければなりませんけれど、それらが使えるのなら職員室から第二理科室までほぼ直線の最短ルートで行けます。待ち伏せは十分可能です」

 

「ええ、それは机上論というものです」村田は再々反論を試みるみたいだ。「ええ、非常口の鍵の拝借、制服への着替え、移動──これらすべてを人目に触れずに実行しようとすれば慎重にならざるを得ないというのは想像できるでしょう? どうがんばっても、ええ、渡辺さんより早く第二理科室に行き着くことはできませんよ」

 

「難しいのは事実でしょうけれど、不可能とまでは言えないはずです」渡辺も負けじと切り返す。「であれば、犯人性の否定にはなっていません」

 

「ええと……」村田は困ったような声を出した。「可能性だけでいいならそう言えますが、ええ、そんなことを言い出したら誰でも犯人になってしまいますよ。例えば、ええ、警備員と通じて侵入してきた外部の人間ですとか。ええ、切りがありませんね」

 

 たしかに一理ある。

 ぎりり、と歯軋りする音がした。渡辺だ。

 

「それは詭弁です!」

 

 とうとう彼女は激情をさらけ出した。その証拠に声が強まり、上擦りかけている。「外部の人間が警備員と通じるだけでも非現実的なのに、わたしの性格や持ち物を把握し、今年度に一新されたばかりの制服を入手し、授業のスケジュールまで調べ尽くし、第二理科室の鍵がたまたま上手く掛からなかった時に折よく侵入してきて、しかも誰にも目撃されない──これはいったいどんな手品ですか?! あまりにも低確率すぎます!」

 

「ええ、だからそういう蓋然性の著しく低い事象は、ええ、特段の事情がない限り論に組み込むべきではないと言っているんです」村田の口ぶりは、まさに物わかりの悪い生徒に諄々(じゅんじゅん)と教え諭す教師のものだった。「ええ、おれの場合ですと、舞台俳優並みの早着替えや忍者並みの隠密行動が可能だった証拠を示せないのなら、ええ、やはり不可能とみなすのが地に足の付いた推理というものです」

 

「あなたと外部犯とでは確率が全然違うでしょうが!!」渡辺は両の手のひらでテーブルの天板を叩いた。バンッと硬い音が立った。「現実的にありうる犯人がほかにいないことが何よりの証拠です!! 犯人は村田先生、あなたしかいないんだからいい加減認めなさい!!」

 

「ええ、そう言われてもですね、ええ、無実では認めら

れないですよ」

 

「ではどうして、『制服の購入記録と警察の実況見分調書を調べれば制服が盗まれていないことがわかるはずだ』と抗弁しないのですか?! 制服の数にズレがないことを証明しさえすれば、あなたへの疑いは晴れるのに!!」

 

 村田は小さく溜め息をつくと、

 

「やはりそういうふうに、ええ、考えますよね、気持ちはわかります。しかし、ええ、その抗弁は成り立たないのです。なぜなら、情緒不安定だった高橋君が、ええ、購入したばかりの制服の一着を切り刻んでしまっていたからです。ええ、その制服は捨ててしまったそうで、証拠はありません。ええ、つまりですね、自殺時に制服が一着足りなかった理由が、おれが盗んだからではなく高橋君が自ら反故(ほご)にしたからだと証明できないのです。ですから、ええ、この抗弁は採用しませんでした」

 

「要するに、記録のうえでもあなたが制服を盗んだ可能性を否定できないということじゃないですか!!」

 

「しかし、ええ、おれは盗みなんて働いていません、これが真実で──」

 

「ああもうっ、うるさいっ!!」渡辺は腹立たしげに喚いた。「高橋君が自分で切り刻んだから制服が足りないのは当たり前? ──ふざけないでっ!! そんな言い訳が通用するわけないでしょっ!! 女を舐めるのも大概にしてっ!!」

 

「舐めてなんかいませんよ。ええ、真実を語っているだけです」

 

 どうにも水掛け論の様相を呈してきた。村田は弱り切ったように眉を曇らせ、こちらに目を向けてきた。その眼光は同情心に訴えるようでもある。

 別に僕は村田の味方じゃないんだけど、とあきれる。彼を助けてやる義理はない。

 とはいえ、言い掛かりめいたヒステリック推理をBGMに、情けなくも生徒を当てにするハゲオヤジを鑑賞する趣味もない。

 

「ちょっと!」と渡辺の鋭い声がこちらにも飛び火する。「黙ってないで樹生君も何とか言ってよ!」肩を揺すらんばかりの語勢だ。

 

「今、考えてたとこ」

 

 僕がそう答えると、村田の手入れの行き届いていない毛虫眉がいっそう歪んだ。僕の援護射撃は期待できないと思ったのだろう。その一方で渡辺からは信頼のようなものが見て取れた。こちらは、当然自分に加勢するものだと信じて疑っていないみたいだった。

 容疑者と被害者、両者の視線に射すくめられながら僕は、顎に手を当てて数秒後、

 

「──あっ」

 

 と声を発した。ふた組の眼球が対照的に色めき立つ中、僕は言った。

 

「ごめん、乃愛、重大な証拠をすっかり忘れてた」

 

「いいわ」高揚ぎみの渡辺は、取り繕う余裕がないからか居丈高に答えた。「思い出してくれたなら赦してあげる」

 

「いや、そうじゃないんだ」僕は噛んで含めるようにおもむろに言う。「改めてあの時のことを思い返してみて、村田先生が非常階段を上ってショートカットしていない状況証拠に気付いたんだ」

 

「はぁあ?」

 

 渡辺の語尾が喧嘩腰に跳ね、その感情に反比例するように村田の顔には期待の色が浮かんできて、

 

「流石は佐藤君です。ええ、星影学園一の美少年と言われるだけのことはありますね」

 

 なんて、今まで一度も聞いたことのない調子のいい賛辞まで飛び出す始末。

 僕の秀麗な眉目のことは嫌いじゃなかったっけ? 欠陥遺伝子を押しつけて生き地獄確定の重度障害者にしておきながら嘲笑と嫌悪を向けて虐待したうえ、挙げ句の果てに被害者面して無責任に失踪した親に対するのに負けず劣らずの強い憎しみと敵愾心を抱いてたよね? と内心で首をひねるけれど、まぁいいよ、村田の手のひら返しなんか、どうでも。

 僕は頭を切り替え、(いか)れる──と同時に心細そげな──長いまつ毛で睨めつけてきている渡辺に臨む。

 

「あの時間の第二理科室前の廊下では、決まってあることが行われている。何だかわかる?」

 

 渡辺だけに聞いたつもりだったんだけど、村田までかぶりを振って答えてきた。

 

「村田先生はともかく、乃愛が知らないのは無理もない。校舎四階の廊下は、放課後に毎日お掃除ロボットが掃除しているんだ」

 

 渡辺と村田が揃って、それがどうした、という顔をする。

 

「君ら本当は仲良かったりしない? ──するわけない? ああ、そう。

 話を戻すけど、僕が旧音楽室に向かう時に──」

 

「旧音楽室?」村田が、自身を弁護しようとする話にもかかわらずその腰を折ってきた。「そういえば、佐藤君はなぜあんな所にいたのですか?」

 

「ああ」と、その説明を忘れていたことにたった今気付いた、というふうに発して僕は、「呼び出されたんですよ。古式ゆかしい言い方をすれば艶書(えんしょ)とか懸想文(けそうぶみ)とかいうやつですね。まぁ差出人は不明で、姿を現しもしなかったんですけどね。直前で怖気付いたか、そもそも悪戯だったかってところでしょう。たまにあることです」と、しれっと虚言を吐いた。

 

「そういうことだったんですか」村田はあっさりと納得したみたいだった。「女好きするというのも大変ですね」

 

 再び本題に還る。

 

「そういうわけで、放課後に教室の掃除が終わるとすぐに旧音楽室のほうへ向かったんだけど、ロボットもちょうど掃除をしようと移動を開始したんだ。彼──でいいのかな、そのロボットと肩を並べて進んでいる時、最後の角を曲がって後は直進するのみというところで僕はこう洩らした。

『汚れなんかほとんどないだろうに毎日毎日ご苦労なことだ』

 すると、お掃除ロボットは反応し、見渡せる範囲の廊下すべてをスキャンして汚れやゴミの有無をチェックした。僕の発言が正しいか確めたんだ。彼はしかつめらしくその結果を報告してきた。

『たしかに旧音楽室よりこちら側しか汚れておらぬうえにその汚れも微々たるものだが、命令されておるゆえやらぬわけにはいかぬのだよ』

 ってね」

 

 うん、だから何?

 そう言わんばかりの聴衆の顔色には困惑がまじりはじめていた。

 僕が訳のわからない妄言を吐いていると疑いかけているのだろうか。ここまで説明しても察せられないとは、こいつらも〈はぁやれやれ〉な人種なのかもしれない。はぁやれやれ。

 

「いい? 強姦時刻には横殴りの土砂降りだった。それこそ、傘を差していても濡れてしまうくらいのね」

 

 ここに至って、まず渡辺がハッとして口元を手で覆い、一瞬遅れて村田も理解の色を見せた。

 

「そう、それほどの悪天候の中、乃愛に先んじようと屋根も壁もない非常階段を四階まで慌ただしく駆け上ってきたのなら少なくない雨滴(うてき)が付着していたはずで、廊下にも水滴が落ちてないとおかしいんだ。にもかかわらず、お掃除ロボットは『旧音楽室よりこちら側しか汚れておらぬ』と断言した。お掃除ロボットが壊れるなんてことはそうあることじゃない。実際、そんな話は聞いていないし、用務員なりに尋ねればその旨を証言してくれるはずだよ」

 

 僕は息継ぎをすると、

 

「よって、村田先生が非常階段を利用してショートカットした可能性は完全に否定され、犯人にはなりえないと結論付けられる」

 

 静まり返った小部屋に秒針の音が二回、刻まれると、

 

「すばらしい!」村田の、「ええ、よくぞ思い出してくれました。ええ、ありがとうございます」高調子の謝辞と、

 

「そんな……」渡辺の、「それなら誰が犯人なの……?」戸惑いのつぶやきがほとんど同時になされた。

 

「そこまではわからないけど」

 

 と小さく答えた僕を、いかりと失望、あるいは悲しみがない交ぜになった、まるでとんでもない裏切りに遭ったかのような渡辺の視線が襲った。

 

「じゃあ何でわたしの推理を否定したのよ。あなたはわたしの味方ではなかったの?」

 

「何でも何も冤罪が嫌いだからだけど。誰だってそうでしょ? もちろん乃愛も」

 

「それはそうだけど……」納得とは程遠い、不貞腐れてさえいるような唇。

 

「乃愛は今、犯人へのいかりとか、また襲われるんじゃないかっていう恐怖とか、傷付けられた自尊心を一刻も早く回復させたい焦りとか、いろんな感情が胸裏で渦巻いてて少しだけ心が弱くなってるんだよ。そうでなきゃ、犯人じゃない人間を無理やり犯人に仕立て上げてまで事件を終わらせようとはしないはずだ。だってさ、自分を騙して得る上辺だけの納得でもいい、なんて(さか)しい方便は、君にとっては〈正しくないもの〉なんじゃないの? 忌み嫌っているはずのそれを是としていることが、本来の自分を見失っている何よりの証左だよ。一応の、ではあるけど味方としては、乃愛が後悔すること請け合いの推理はそりゃあ否定するさ。

 もちろん、僕自身の好き嫌いとか価値観とか──大げさに言えば美学が一番の動機だけどね」

 

 僕と渡辺が見つめ合う沈黙があって、ふと彼女のほうから視線を逸らした。

 

「ごめんなさい、どうかしてたわ」渡辺はうつむきがちに言う。「村田先生も、すみませんでした」

 

 生徒相談室を出て村田と別れた僕たちは、昇降口のほうへ向かった。渡辺は、今日はもうお開きにしたいらしい。頭を冷やしたいそうだ。僕に否やはなかった。

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