いじめが始まってからというもの、渡辺は以前にも増して捜査に
僕は一歩引いた目線でそれを鑑賞しつつ、そして周囲から嘲りの眼差しで鑑賞されつつも、捜査への協力はやめなかった。まぁ僕にとっては、利用価値のある道具でもないモブどもの評価なんか、忘れたころにネタにされる遠い日の戦争の悲劇くらいどうでもいいし。原子爆弾だか水素爆弾だか知らないけど他人が何人死のうが後遺症でどれだけ苦しもうが、だから何? である。お国のための自爆特攻? 馬鹿みたい、まさに日本の恥だね、死ねば? あ、もう死んでるのか、ならよかった、でしかない。
そうして七月の無駄に
渡辺の精神はいよいよもって崩壊しかけていた。
懸命に捜査しているという事実それ自体が不安を紛らわしていた部分もあったのだろう。不意の自然災害で抗不安薬を断たれた精神病患者の離脱症状みたいに不穏な様子で、爪を噛んだり貧乏揺すりをしたりといった仕草にもそれは表れていた。
夏休みが始まって数日が経った夏らしく暑い夜のことだった。
『明日はお母さん日勤でいないから。』
渡辺から卒然とメッセージが送りつけられてきた。明日はアパートで会おうというお誘いらしかった。
捜査できないなら会う必要はないんじゃないの?
なんて意地悪で野暮な言葉はすんでのところで呑み込んだ僕は、誘われるままにアパートを訪ねた。その敷居を跨いだのはこの時が初めてのことだった。
ダイニングキッチンに洋室が一つくっついた、2DKと呼ばれる間取りのようだった。ワンルーム+ひと部屋と述べればイメージしやすいかもしれない。どちらも六帖ほどで、母娘の二人暮らしには十分、と言えるかはわからない。
他人の住みか特有の違和感のあるにおいに鼻腔を満たされながら僕は、勧められたクッション座布団に腰を下ろした。
出された麦茶を飲んでひと息ついたところで、奇妙に切迫した顔付きの渡辺がおもむろに口を開いた。
「夢を見たの」
他人の夢の話など、天気の話の次くらいに退屈なわけだけど、彼女は至極真剣みたいで、白ける僕の心には思い及ばない。
「樹生君がわたしの下から離れていく夢だった」
そうとうショックだったのか、おびえの発露のように渡辺の声はか細く、かすかに震えてさえいた。
でも所詮夢でしょ? 胡蝶になって
「樹生君はこんなふうに言って去っていったの。
『これだけ捜査しても何の手掛かりも出てこないのはおかしい。あのレイプはみんなが言うように自作自演だったんじゃないか。そう考えないと現状と整合しない。嘘つき。僕を騙したんだね。もう付き合ってられない。じゃあね。もう僕に関わらないでね』」
「リアル僕はそんなことひと言も言ってないんだけどね」
なんて事実
「ねぇ、樹生君」
と渡辺は洋風座卓に身を乗り出すようにする。
「わたしは嘘なんかついてない。今も昔も真実しか語っていない。本当よ、信じて。だからお願い、わたしを一人にしないで」
「わかってる。あれが演技だとしたら真に迫りすぎていた。とても狂言だったとは思えない。ちゃんと信じてるさ。だから今日も暑い中、午前中からわざわざ来たんだよ」
虚実入り交じった、コンドームより薄っぺらい慰めだと女の勘とやらで見破ったからか、四面楚歌めいた状況に心が耐えられなくなっているからか、渡辺の不安はなおも色濃いままで、
「わたしの体でいいなら好きにしていいから」
なんて言い出した。
例のスレを思い出し、ほとんど書き込みのとおりの展開だな、と思う。スレ民もたまには明察するみたいで侮れない。
「いや、それはやめとくよ」
と拒絶したら自殺でもしそうなくらい思い詰めた表情だったけれど、僕はそう口にした。
「どうして」
渡辺の声は難詰するようで、けれどその表情は泣き笑いのようで、心のアンバランスが伝わってくる。
「どうして?」
と渡辺は繰り返し、その途端に最後の箍が外れたのか、
「わたしのどこが嫌なの? 顔? 体? 性格? 育ち?」
と息継ぎさえ忘れたように言い立ててくる。
「あ、わかった。本当はあの時に性病に感染させられたかもって疑ってるんでしょ? ──大丈夫よ、心配しないで。何にも罹ってないから。わたしは至って健康です。病院に問い合わせて聞い──」
「疑ってないって」
「それなら、病院の検査に間違いがあったかもって思っているのかしら? ──それも大丈夫よ。念のためほかの病院でも検査したことは前に話したでしょう? 結果は同じだったって。二箇所の病院のお墨付きなんだから心配いらないわ」
「もちろん覚えてる。医療ミスの心配なんかしてないよ」
「じゃあ、やっぱり何回もレイプされた女だから? 小学二年生で何もかも経験してるような異常な女は嫌なんでしょ? 本当はずっと汚いって思ってたんでしょ? ねぇ、そうなんでしょ? 樹生君が全然性的な目で見てこなかったのは、そういうことだったんでしょ?」
「それも違うから。落ち着きなよ」
「嘘つかないでっ!!」
渡辺はヒステリックな金切り声を上げ、薄い壁の向こうで聞き耳を立てているかもしれない住人に修羅場と勘違いされて通報される確率を僕は思わず考える。
「だったらどうしてシてくれないのっ?! それこそ不整合じゃないっ!!」
論旨がすり変わっているというか、手段の目的化というか、一見そんなふうに見えて、その実、必要とされて──対価を差し出して、と換言してもいい──安心したいだけのシンプルな構造なんだろうな、と僕は当たりを付け、さてどうしようか、もう少しいじめてあげてもいいんだけど、と少しだけ逡巡し、でもこれ以上焦らすと痛い思いをする羽目になるかもなぁ、
ので、僕は、はぁやれやれ的な恩着せがましい動作をしてみせてから、
「わかったよ」
と首肯した。「別に何もしてくれなくても夢の展開にはならないと思うけど、それで乃愛が納得するなら、いいよ、シようか」
に続く、「セックスなんて、ただの単純作業だし」という無機質なつぶやきは無意識のことだった。
渡辺に聞こえただろうか、とその顔を窺っても、安堵の、そして罪悪感や
文学的あるいは
もぞもぞと服を着直した渡辺が寄ってきて、クッション座布団を枕にして僕の隣に横になった。照れくさそうに口元をニヨニヨさせててキショウザい、と僕は思うのだけど、一般的には初々しくてかわいいという感想になるのかもしれない。
絶妙に腹立つ表情だよなぁ、何とかして合法的にぶん殴る方法はないものだろうか? 信頼と実績のガラス製灰皿で鼻頭をグシャッと叩き潰す感じで一つお願いできないかな、などと思案しながら天井の木目を見るともなく見ていると、渡辺の声が耳に掛かった。
「樹生君て、カッコいいよね。芸能人みたい。女装メイクしたら美少女アイドルとしてもいけそう」
横から僕の顔を見上げるようにしてうれしそうにそう言う渡辺に、殺意にも負けず劣らずの強い苛立ちを覚えた。思わず舌打ちが出そうになる。
僕は僕の容姿を褒める人間が嫌いだ。侮蔑さえしている。
僕は、すっかり声が変わり背が伸びた今でこそ女子と間違われることはほとんどなくなったけど、中学二年生のころまでは会う人会う人に、「女の子? 男の子?」と性別を聞かれていた。それだけでも煩わしいのに、正直に男だと答えると、女は特に、「嘘~! かわいすぎでしょ~! 羨ましい~!」などと甲高い声でピーピー騒ぎ立てるのだ。クソ猿どもが。不快極まりない。
僕は自分の顔を嫌悪するようになっていった。
けれど、未熟で鈍感な、あるいはひたすらに自分本意で視野の狭いゴミクズ低能女どもは、僕の気持ちなど理解するはずも配慮するはずもなく、本能のままに持て囃しつづけた。
例えば中学生の時。
当時の僕は陸上部に所属していたのだけど、積雪の多いこの地域では冬季には練習で校内の廊下を走らされるところが多く、僕の通っていた公立中もそうだった。
それが意味するところは、同学年だけでなく、他学年の獣どもの好奇にして好色の目にもさらされ、愛玩動物扱いされるということだ。
更にエスカレートしていくと、勝手に盛り上がって告白してくる迷惑な女になったり、中にはストーカーに昇格してしまう
そして、敵は女だけじゃなかった。チヤホヤされる僕に嫉妬した男どもが敵愾心を向けてきていたのだ。隣の芝生は青いって言うけどさ、いくら何でも物事が見えてなさすぎる。
どいつもこいつも下半身で生きる性獣ばかり。今、思い出してもムカムカする。消し去りたい過去というやつだ。人嫌い──孤独好きが決定的になった最後のひと押しでもある。
──あれ?
と思い至った。
僕は今、落胆しているのか。渡辺もやっぱりあいつらと同じだったことを残念に思っている……?
そんなまさか。
僕は渡辺に期待していたのか。僕と同じく容姿に恵まれた彼女ならば、説明せずともわかってくれると無意識のうちに思い込んでいた……?
自分の頬が、引きつるようにひくひくと動いたのがわかった。
その時、
「──あ、ごめん、嫌だった?」
渡辺が言った。横目で一瞥すれば、てらてらした笑みは引っ込んでいた。
「わたしも顔のことばかり言われるの嫌だからさ。理想の美少女でいなきゃいけない気がしてきて疲れるし、素を出したら嫌われるんじゃないかって不安にもなるし」
少し驚いた。
「乃愛もゴーイングマイウェイな人だから嫌われるのとか気にしないと思ってたよ」
「樹生君と違って孤独を愛してるわけじゃないから普通に気にするわよ」
「それはごめん」
「わたしが嫌われるのを受け入れているのは、やむを得ずよ。正しくあろうとしていたらいつの間にかこうなってたの」
「大変そうだね」
「馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ。不器用でかわいいなとは思ったけどね」
「やっぱりしてるじゃない」
とはいえ、機嫌は良さそうだった。
その艶やかな黒髪を梳いてやると、渡辺はくすぐったそうに目を細めて可憐な笑みをたたえた。
これが唯一の味方である僕に媚を売るための演技なのか、そうでもないのか、しばらくしてアパートを辞去し一人になった後にもわからなかった。
さて、
〈高校生〉〈夏休み〉〈田舎〉〈孤立〉〈いじめ〉〈美少年〉〈美少女〉〈依存〉〈肉体関係〉〈クラスメイト以上恋人未満〉
この夏の僕と渡辺の関係にはこういった検索タグが付けられるわけだけど、これらだけを見ると、どうにも
あの日から渡辺はセックスをせびるようになり、回数を重ねるごとにその頻度は増していった。さながら薬物中毒者のように──というか、セックス依存そのもの。
だからすべて渡辺が悪い。
と他責百パーセントにするには、僕に予測可能性があったことがネックになる。実際、予想は付いていた。あの状態の女が抱かれたら、そりゃあズブズブと依存の沼に嵌まっていくよ。わかっていてズブズブと蜜肉の沼に挿入したんだから、文句はあるけど、口にはしない。
そう、僕は、ね。
夏休みの終わりが迫ってきた八月の下旬。
雨が降っていないことだけが救いの、やかましいだけで風情なんて一片すら感じられない蝉時雨の降りそそぐ夕暮れのことだった。自室で、文庫本に棲息する文字の群れの生態を観察していると、
『今、仕事終わった』
赤萩からメッセージが入った。何の脈絡もなく、というわけではないけれど、不意打ちぎみではあった。メンヘラ語から人間語に翻訳すると、〈今から会いたい。会ってくれないとどうなるかわからないよ?〉といったところだろうか。
「出てくる。たぶん朝帰りになる」
台所に立つ小柄なシルエットにそう伝え、「そう」とも「はい」ともつかない、うめき声にも似た曖昧な返事を背に受けつつ、家を出た。
赤萩のマンションではなく、僕の家の近所の公園に向かう。そこで落ち合い、一緒にマンションへ行くのだ。
ものの五分と掛からずに到着すると、程なくして高級感のあるダークグレーのSUVが十字路の角から現れた。赤萩の愛車だ。
「ごめんね、急に」
人目を警戒しつつ後部座席に身を滑り込ませると、赤萩は申し訳なげにそう言った。ルームミラー越しに眉尻が下がっている。我を通しておきながらその態度とは、メンヘラというのは人の気を逆撫でするのが本当に上手いのだな、と、いつも感心させられる。
SUVが発進する。
それで、今日はどうしたのさ。
そう尋ねはしないで僕は、結論から述べた。「大丈夫だよ」と。
「渡辺さんのことでしょ?」
「うん……」しっとりと答えた赤萩の視線は、前方に固定されたまま一瞥さえくれない。「あの子に盗られるんじゃないかって思うと不安が止まらなくて」
「盗られないって。渡辺さんに対して恋愛感情はないし。わかってるとは思うけど。僕が好きなのは陽菜子だけだよ」
茜色の空の彼方を車窓から見やりながら僕は言った。
「ごはんまだでしょ?」赤萩は話のハンドルを切った。無理やり感のある明るい声だった。「たまには外で食べない?」
僕らの関係をおおっぴらにするわけにはいかない。だから、赤萩と外食など言語道断だ。人混みに紛れられる都会ならまだしも、この、人のいない町では尚更認められない──全部わかったうえでこの女は聞いているのだ。僕を試すためか、自棄っぱちみたいになっている可能性もあるか。
「そんなことしたら、会えなくなっちゃうかもしれないよ」
やんわりと翻意を促すと、諦め顔の吐息。
「うん、そうだよね、変なこと言ってごめんね」
「うん、いいよ」ご機嫌取りではないけど、代替案を提示する。「寿司か何かテイクアウトしていこうよ。途中にあったよね──」僕は、大手回転寿司チェーンの名を口にした。
赤萩は了承すると、口を閉ざした。エンジン音と蝉の鳴き声ばかりが耳に入ってくる。かといって、車内の空気を盛り上げようと僕が躍起になる理由もない。抗せず沈黙に身を委ねる。
少しすると安っぽい看板──店名と共に『回転寿司』の文字が記されている──が見えてきた。
と、不意に赤萩が口を開いた。
「駆け落ちの約束、ちゃんと守ってね」
静かな、しかし重たい口調だった。
赤萩は名家の人間だ。彼女の一族はいくつもの事業を展開していて、星影学園のオーナーでもある。十年ほど前に買収したのだ。
赤萩の両親には僕との交際のことは話していないのだけど、それは機を窺っているからではなく、何のメリットもないからだ。
赤萩の両親は一族のことに関してはひどく保守的で、今時なかなか見ないくらい血筋を重んじている。だから、間違いなくいい顔をされない。即刻、別れるように命じられるかもしれない。だけにとどまらず、物理的に引き離そうとする可能性さえないとは言えない。赤萩を
元々、赤萩にはタイムリミットがあった。本来ならもっと早いうちに、両親が選考した然るべき相手と結婚し、可及的速やかに子つまりは跡継ぎを
だからこその駆け落ちだった。
最初にそれを口にしたのは僕のほうだった。嘘じゃない。これでも僕は本気なのだ。本気で赤萩を気に入っている。嘘じゃない。駆け落ちだって実際にしてもいいと思っている。嘘じゃない。
「わかってる」僕は鹿爪顔と厳かな声を作って言う。「何度も言ってるじゃないか。僕は、ほかの誰でもなく陽菜子を愛してるって」
なんてね。嘘だよ。当たり前でしょ?
「……信じてるからね」
赤萩の声は
怠。
まったくもって、はぁやれやれ、である。
『今、話せない?』
『待ってるから、都合が付いたら連絡下さい。』
『今日は無理ですか。』
『寂しい。』
『苦しい。』
『少しでいいから声を聞かせて。』
『ねぇ、わたしのこと捨てないでね。わたしにはもう樹生君しかいないんだから。』
『大好きだよ。』
『愛してる。』
『樹生君はわたしのこと嫌い?』
『ごめん、ウザかったね。』
「ひもちいい?」
半ば仰向けに寝そべるようにだらしなくソファーに身を沈めスマートフォンをいじっている──渡辺からのメッセージを眺めている僕の陽根を、床に膝を突いて舐め啜っていた赤萩が、口淫を続けつつも上目遣いに尋ねてきた。
「気持ちいいよ。もう少しだからそのまま続けて」
「んん」
赤萩は一物を含んだまま小さくうなずくと、吸いつくようにして深く咥え込み、じゅぼじゅぼと卑猥な音を立てて
その口内に精を放つ瞬間、少女の顔が脳裏をよぎり、思わず女の頭を強く押さえつけてしまった。
「んんっ」
亀頭に喉を抉られた女が、嬌声めいて高く鳴いた。