【⑭】
二学期が始まり、いじめが収まっているかもしれないという希望的観測は
九月も半ば。
とはいえまだまだ残暑と言える日、その昼休みのことだった。僕は渡辺を問い質していた。
「これ、どういうこと?」
いつもどおりの旧音楽室には、しかしいつになく剣呑な雰囲気が漂っていた──というか、それを醸し出しているのは、『検査結果報告書』と題された無愛想な紙を渡辺に突きつけている僕だ。
表題の下には主要な性病の一覧とその陰陽が載っていて、そのうちの一つ、新型HIVの項目にプラス記号がある。つまりこれは陽性──余命三年もないとされるウイルスに僕が感染したことを示している。
渡辺は驚愕の表情を浮かべ、
「知らない。わたしは何も知らない」
と凍えたような小声で言う。
「知らないわけないだろ!」
僕は声を荒らげて紙を机に叩きつけた。渡辺がビクッと震えた。
「新型HIVの心当たりなんか君しかいない! つまり君は嘘をついていたわけだ。何が、性病は大丈夫だった、だよ。何が、わたしにはもう樹生君しかいない、だよ。まるきり嘘じゃないか!」
「ち、違う」渡辺は絞り出すように反論を口にした。「わたしじゃない。病院でもそう言われた。樹生君以外には指一本触れさせてもいない。本当よ」
「そんなわけないだろ! 君から移されなければ感染しようがないんだから犯人は君しかいないんだよ! 罹患を隠してたか節操なく男漁りをしてたか知らないけどね、どっちにしろ君は自分の孤独を紛らわすためなら僕が死のうがどうでもいいって考えてたってことだ。とんでもない屑じゃないか! 最低だ! 最低最悪の屑女だ!」
僕が怒鳴りつけると、渡辺はとうとう涙をたたえた。
「違う、お願い信じて、何かの間違いよ──そうよ、その検査が間違ってるんだわ、そうとしか考えられない」
「その程度の可能性、僕だって考えたさ! 馬鹿にしないでよ! この検査は二回目のものなんだよ!」
「そんな……」
渡辺は二の句が継げないようで、ただただ、信じられないものを見るように目を見開いている。
僕は大きく舌を鳴らした。「白々しい演技はやめなよ。不愉快だ」
「演技なんかじゃないっ、嘘なんてついてないっ」
「だったら、君のほうの検査に手落ちがあったっていうの?」
渡辺はうなずこうとしたけれど、僕はそれを遮って、
「そんなわけないよね? 君だって二重に検査したんだから。単純な性病検査ごときで連続して医療ミスが起こされる確率はどのくらいあると思ってるのさ? とてもじゃないけど現実的な数字じゃない。それよりは君が嘘をついて僕を巻き添えにしたって考えたほうが辻褄が合う。というか、それ以外ありえないでしょうが。とんだ嘘つき少女だったというわけだ」
「違う、違うわ、わたしは──」
涙まじりの渡辺の声を断ち切るように、
「みんなが言うように、あのレイプは本当は自作自演の狂言だったんじゃないの」
僕は言い放った。
渡辺は意表を衝かれたように潤んだ目を大きく開いた。わなわなと唇を震わせている。
「おかしい点はあった」僕は努めて冷静に、いつも以上に非情な面持ちになって語る。「まず、スタンガンの痕以外の傷がなかったことだ。普通、レイプされそうになったら必死に抵抗するはずだよね? それが一切なかったというのはいかにも怪しい」
「怖くて体が動かなかったのっ」渡辺は心外そうに、悲痛そうに語気を強くした。「昔のことがフラッシュバックしてきてたのっ」
「それに、毛髪や体液とかの犯人の痕跡がまったくなかったのもおかしい。でも、君と犯人が結託して気を付けていたのなら十分にありえることだ」
「そんなことしてないっ!」
渡辺は強くかぶりを振った。涙が飛び散り、机の弁当に掛かったのが見えた。汚い。
「消去法によって、犯人にとって好都合な事象の連続により犯行が仕遂げられたっていう偶然説に行き着いたわけだけど、正直言ってそんなの納得いかない。だって、物に執着する君が偶然大切なシャーペンを失くし、偶然その事実に犯人が先に気付き、あるいは気付いていなかったにもかかわらず偶然第二理科室を犯行現場に決め、偶然第二理科室に鍵が掛かっておらず、上手い具合に強姦できたっていうのはあまりにも逆ご都合主義がすぎるじゃないか。いくら何でもできすぎてる。
でも、狂言だったとすれば話が変わってくる。
つまり、君の協力があれば、君がシャーペンを失くすという幸運も、それに先に気付くという幸運も、君が第二理科室を訪れる前に鍵の掛かっていなかった第二理科室に身を潜めるという幸運も、すべて必要なかったことになる。これなら事件は現実的な範疇に収まる」
「わたしはやっていない、狂言なんかじゃない」
などと涙を流しながら
「誰に聞いたって偶然説より狂言説のほうが信憑性があるって言うと思うよ? 嘘を重ねてばかりいないで、いい加減真実を語ったら?」
苦渋の色にまみれた表情でうつむいていた渡辺は、しかしまだ折れていないみたいだった。ふと気付いたように顔を上げて充血した目をこちらに向けた。
「仮に狂言だったとして、その動機は何だと考えているの」挑むように尋ねかけてくる。
「それも掲示板にあったとおりさ。同情され注目されたいってのと慰謝料をせしめることだよ」
「だとすると、合理的でないわ」渡辺の声には、完全にではないにせよ、張りが戻っていた。「それが目的なら、わざわざ樹生君に目撃させなくてもいいはずよ。狂言の協力者の男子に『渡辺乃愛が強姦されているところを見た』と偽証させて、今の樹生君の役どころを演じてもらえば同じじゃない。ワンクッション置く意味はないわ」
「そんなの、説得力を持たせるためでしょ」
「説得力?」渡辺は怪訝そうにする。
「そう。同じ証言内容でも、嘘だと自覚しているのと無自覚なのでは、受け取る側に与える印象が違ってくるはずだ。演技の素人なら特にね。そういう細かいところから疑われる可能性をできるだけ低くするために、何も知らない僕を利用したんだ。顔のいい僕であれば美少女様のアクセサリーとしても申し分ないし、何より、自ら進んで孤立している僕を捉えて君との共謀を疑う者も少ない──そんなふうに君は考え、狂言の小道具として僕が適任だと判断したわけだ」
渡辺の眉間に悩ましげな縦皺が寄り、短い沈黙の後、考えがまとまったのか再び口を開いた。
「樹生君を利用する必要があったということは、樹生君に目撃されることも狂言の計画に組み込まれていたということよね?」
「そうなるね」
「それでは整合しないわ。樹生君は放課後には毎日のようにこの旧音楽室を訪れていたようだけれど、わたしはその事実を知らなかった。樹生君やほかの誰かに目撃させる必要があったなら、誰も来ないと思っていた第二理科室なんかじゃなくてほかの場所にしていなければ理屈が合わないのよ」
「なるほど筋は通ってるね──なんて言うと思ったの? その反論は、本当は知っていたのに知らなかったと嘘をついている可能性を排除しない限り有効に成立しない。君にそのロジックはあるの?」
渡辺は痛いところを衝かれたというようにぐっと唇を噛みしめると、
「……孤独を愛するあなたは平成文学同好会の存在を知られないように細心の注意を払っているわ。その甲斐あって森君以外には知られていない。それこそが、わたしが知りえなかった証拠にほかならないわ」
断定的な言い回しとは裏腹に、その語勢は自信のなさを表すように萎んでいた。
「そんなの何の証明にもなっていないじゃないか。君だってわかってるんでしょ? 僕が警戒していたという事実は知ることが難しかったことを意味しているだけで、知ることが不可能だったことまでは示していない。特に、僕はただの高校生でどこぞの工作員でも本職の探偵でもないんだから、いくら気を付けていても限界はある。何かの拍子に君が平文同の存在を認識していても不自然とまでは言えないんだよ」
「こんなの悪魔の証明じゃない」渡辺は不服そうに、そして弱り切ったように言った。「その前提条件での不可知の証明なんて、そんなの無理よ」と力なくうなだれる。
「だったらほかの論拠によって狂言説を否定しなよ。本当に君が黒幕じゃないというんなら、できるんじゃないの」
「……わたしには強姦犯役の男子を用意する手立てがないわ」やはり渡辺の語調に鋭さはなかった。
「体で釣ったんじゃないの? 星影学園きっての美少女と評される君を抱けるんなら狂言の片棒だって喜んで担ぐっていう馬鹿な男子もいるでしょ。特に、モテない童貞君なんかだとチョロいんじゃ──」
「わたしはそんなことしないわっ!!」渡辺は、聞くに耐えないとばかりにヒステリックに声量を、感情を爆発させた。「わたしがそんな女に見えるの? ひどい。味方だって言ったのは何だったの? 優しいこと言って、本心ではそんなふうに思ってたの? ひどいっ、ひどすぎるわっ」
はぁ。
僕はこれ見よがしに溜め息をつき、
「論点のすり替えはみっともないよ」冷めた口調で切り返し、「これだから女は」とあえて差別的な表現を使って口撃した。
胸裏で激情が吹きすさんでいるのだろう、頬を紅潮させ小刻みに震える渡辺は、今にも叫び出しそうで、深手を負った獣みたいだ。つまりは、滑稽で見苦しく危険な下等生物。
「反駁はないみたいだね」僕は、上等生物たるヒトであることを示すためにも努めて冷淡に言う。「これ以上の議論は時間の無駄だ」
渡辺の瞳におびえの色がはっきりと浮かび上がった。
「待って」
と取りすがる声を遮り、
「僕は狂言だったと思ってる。けど、君はそうじゃないと言う。でも、僕はもう君のことを信用できない。かといって、君は明確な論拠を示すことができない。交わらない平行線だ。だから──」
「嫌、一人にしないで」
と弱々しく抵抗する渡辺を呆気なく無視して続けた。
「──もうやめる。バディーは今日をもって解散するから、今後は僕に関わらないでね」
渡辺が唇を噛んでうつむいた。
「別にいいでしょ?」と僕は軽く言う。「元々何の関わりもなかったんだから。ある意味、元鞘に収まるだけだよ。悲しむ道理はない」
「……お弁当は」渡辺は視線を落としたままぽつりと言った。死神に取り憑かれたかのような生気のない声だった。「これ、食べていかないの。せっかく作ったんだし」
僕は、机にある手作り風弁当をちらと見た。大きな弁当箱には牛丼が敷き詰められ、その傍らには玉子焼きとブロッコリーそして紅生姜が添えられている。なかなかに、食べ盛りの男子高校生を理解するようになったなとは思うけれども、
「要らない」僕はにこりともせずに渡辺の問いを押し返した。「それは本来、捜査協力の対価だ。僕の債務──反対給付がなくなる以上、受け取る根拠はもうない。それに何より、君の作ったものなんか僕はもう口にしたくない」
「そう……」
予想していたのだろう、
「理解したなら早く片付けて出てってよ。目障りだ」
渡辺は何も言わずにのろのろと弁当箱に蓋をした。扉を開けると、最後に一度だけ振り返り、けれど言葉を発することはなかった。
こうして僕らの探偵ごっこは幕を下ろした。めでたしめでたし。
少女が去り、一人きりになった旧音楽室は、その名とは裏腹に何のメロディーもなく、死そのもののような清々しい静寂に包まれていた。
嘘だけどね。
だって、少しだけだけど窓を開けてるんだもん。昼休みの校舎だよ? 耳を澄まさずとも生徒たちの楽しげな喧騒が遠くから聞こえてくるさ。
実に不愉快だ。
【⑮】
渡辺が自殺した。
『わたしは嘘なんかついてない。』
実に愉快だ。