僕はオカルトを信じない。
宗教──神だか仏だか知らないけど──はもちろん、幽霊や超能力も存在しないと思っているし、信じている人を、妄想に囚われた痛々しくて気持ち悪い存在、つまりは統合失調症などの精神病又はその予備群のガラクタだと蔑視している。当然、祭事なんてのは無駄の極みだと確信していて、何なら文化遺産とかいうカビくさい自己満補助装置も不快だし、全部この世からなくなればもっと効率的で実際的なすばらしい社会になるのになぜ存続させているのか、と大いに首をかしげてもいる。
けれど僕は今、嘘偽りのないその価値観の真逆をいくことをしていた。自分でも自分が不可解でならないのだけど、墓前に立っているのだ。
『風本家之墓』
その灰色の御影石にはそう刻まれていて、すぐ横に板状の墓誌がある。そしてそれには顔も声も知らない先祖代々の名前に連なって、『風本櫂』と記されている。
僕は、墓場にたまに湧くキチガイみたいに故人を偲んで墓石に向かって大きな独り言を投げかけたりはしないけれど、心の中で元死刑囚に報告してはいた。
──渡辺乃愛は死んだよ。父さんと同じように自殺だった。僕がそう仕向けたんだ。すべて計画どおりってわけさ。すごいでしょ。
「……」
墓石とは、物言わぬ無機物である。
──未来ある若者を追い込んで自殺させるなんてすごいじゃないか! 流石は死刑囚の息子だ! よくやった!
なんて、いい感じの返事はない。
この墓場は、郊外の外縁とでも称すべき場所に位置しており、それに加えて現在は十月、墓参りシーズンでもないから周りには人っ子一人おらず、乾燥した肌寒い秋空の下を色なき風が吹き抜けていくだけの、とても閑散とした空間だった。
ぼんやりと墓石の文字を眺めて佇む。金縛りにやられているわけじゃないけど、移動するのも何となく億劫だった。疲れているのかもしれない。犯罪疲れだ。
そう、僕は──刑法典の構成要件に該当するとかじゃなくもっと形而上学的な意味での──犯罪者だ。悪人と言い換えてもいい。もっとはっきりきっぱり言ってしまえば、人殺し。
とはいえ、道徳心を押し殺すことに疲弊してるわけじゃない。反社会性パーソナリティー障害の疑い濃厚な僕にそんなものがあるかわからないしね。実際、今も罪悪感なんかどこを探しても見当たらない。それどころか、凍てつく孤独と深い絶望の中、自ら手首を裂いて果てしない闇に堕ちていった渡辺を思うと、
だからそういうのじゃなくて、計画をやり遂げるために神経を酷使してきたせいで疲れているんだろう。そうに違いない。
けど、やらないという選択肢はなかった。
父さんをあらゆる意味で殺し、僕ら家族の幸せをぶち壊した少女を、渡辺乃愛をどうしても赦せなかったんだ。
これが父さんの自業自得だったら、そうと確信できたなら、〈親の因果が子に報い〉というふざけた諺もあるみたいだし、身に降りかかる不幸を甘んじて受け入れてあげてもよかった。
でも、違った。
父さんはやってない。
彼は最期までそう主張していたし、その根拠だって説得力のあるものだった。
前にも述べたけど、裁判でも争点になった渡辺の証言の矛盾──「(結局は殺して滅失させるのだから
明らかにおかしいのだ、渡辺の主張は。
だから、弁護士の言うように慰謝料目当ての偽証冤罪と考えるのが道理に適った解釈というもののはずだ。万が一そうではなく本当にレイプがあったのだとしたら、赤いスマートフォンを所持する別人を父さんと勘違いしたものと見るべきだろう。そうでなければ論理的に破綻してしまう。
なのに、父さんは敗訴し、自殺させられた。
当時小学二年生だった僕からしても、何の冗談かと思わずにはいられなかった。ありえない、こんなことあってはならない──理不尽に対する、それを良しとする社会に対する憤りが腹の底から湧き上がってきていた。
僕は、社会の至る所に
とはいえ幼すぎて具体的にどこへ行って異議を唱えればいいのか知識がなかったから、母親に尋ねた。
「そんなことをしても無駄よ。やめておきなさい」
母さんも同じ気持ちに決まっていると信じて疑っていなかった僕は、諦めたような暗い顔で気怠げにそう答えた彼女にひどく驚き、そしてそれ以上に失望した。後になって理解したことだけど、あの女の心はその時にはすでに──あるいは初めからだったのかもしれない──父さんや僕には向いていなかったんだ。
社会からのバッシングが激しさを増し、家に火を点けられた日の翌日、あの女は忽然と姿を消した。負け犬の巻き添えは御免だとばかりに失踪したのだ。それ以降は何の音沙汰もなく、置き手紙の一枚すらなかったから推測ではあるけど、そんなふうに考えてのことだったのだろう。子供心にも母親だった女の身勝手さにあきれたのを覚えている。渡辺のことで芽生えていた女という性への不信感や嫌悪感が花開いた瞬間でもあった。
そうして両親を失った僕は、母方の祖父母に養子として引き取られた。父方のほうは糖尿病を患う祖母しかおらず、小学生のガキの面倒なんか見てられないからという消去法的な理由によるもので、歓迎されているというわけでは決してなかった。
それも当然だと当時から思っていた。だって僕は、法的にはペド野郎の血を引くとされてるんだもん。そりゃあ、いい気はしないでしょうよ。金も手間も掛かるしね。
だから最悪ネグレクトのような虐待もありうると覚悟していたけど、事あるごとに嫌な顔をされたり、冷たい態度で接されたりするだけでそこまでではなかった。こちらから何か言わない限り無干渉で、何か言えば負担にならない範囲で応える、自動販売機みたいな保護者。居心地は悪いけど、面倒が皆無なことだけは幸運だった。
小学生時代は平和だった。名字が変わったのがよかったのだろう、祖父母宅の近くの新しい小学校では加害者家族いじめはなく、僕のかわいらしいマスクの虜になった性獣どもにキャーキャー言われる煩わしさはあれども、何とかして父さんの汚名を返上できないか頭を絞る余裕さえあった。
けれど、妙案は浮かばなかった。
考えれば考えるほど、調べれば調べるほど無理難題であることが明らかになっていき、行き詰まるまでに時間は掛からなかった。
僕は方針転換を余儀なくされた。
──名誉を回復させられないのなら、せめて復讐してやろう。
そんなふうに考えたのだ。この思考は極めて自然なものだろう。だってムカつくし。僕でなくても同じ結論に至ったはずだ。実際に行動に移すかは別としても。
復讐のターゲットは、第一に主犯たる渡辺乃愛の母親、第二に実行犯たる渡辺乃愛。
方法は、社会的に凌辱し、精神をいたぶり、もって自殺させるというもの。父さんと同じ苦しみを味わってもらおうというのだ。
順番としては、娘を前菜に、母親を主菜にすべきだと考えた。最も苦しめたいのは主犯の母親なのだから、娘の自殺を目の当たりにさせたうえで母親自身にも自殺を強要するのがベスト。僕はそれをゴールに設定した。
早速、被害者とされた少女の調査を始めた。
けれど、それも容易ではなかった。
何となれば、性犯罪の被害者はプライバシーを厚く保護されていたからだ。制度的にも一般市民の法感情的にもそうで、要するに少女の個人情報を入手することができず、文字どおり親の仇がどこの誰かすらわからなかった。
社会はアンフェアでできているのだ。これは性犯罪に限ったことではないけど、多数派の都合で一方的に人を悪とみなして罰しようとしておきながら、復讐されるリスクは負いたくないというのだから狂っていると言ってもまだ足りない。最低でも、被害者及びその関係者の氏名、顔、年齢、住所並びに職業は公表すべきだろう。
ぐつぐつと煮えたぎる憤りと憎しみを抱きながら、けれど具体的な復讐計画を立てることもできずに時は流れ、僕は中学生になり、そしてあっという間に高校──星影学園に進学した。
転機の訪れは突然だった。
クラスメイトにやたらと性的魅力にあふれる女子がいるなと思っていたら、どうやらその美少女──渡辺乃愛こそが父さんの仇らしかった。人の口に戸は立てられぬということなのか、入学から間もないというのに星影生専用のSNSでそんなふうに──つまりは、渡辺は例の事件の被害者である、と──囁かれていたのだ。
もちろん、ろくなソースもなしにネットの噂を鵜呑みにするほど愚かじゃない。僕は裏取りのために渡辺の情報を集めはじめた。
すると、疑いようもない直接証拠をすぐに得られた。
授業の合間の休憩時間のこと、渡辺を尾行していると、人通りの途切れた廊下の片隅で彼女が担任の村田に呼び止められる場景を目撃した。僕は物陰から耳をそばだてた。
「ええ、渡辺さん、大丈夫?」
村田が渡辺の顔をまじまじと覗き込んで尋ねた。耳慣れないタメ口で、なおかつ睾丸由来の生殖的かつ合理的な優しさがにじむ猫撫で声だった。
一瞬だけ嫌そうに顔をしかめた渡辺は、表情こそ咄嗟のうちに取り繕ったものの体は正直で、さりげなく身を引きつつ、「何がですか?」と聞き返した。
村田は内緒話をするように顔を寄せ、しかし声はそれほど落とさずに、
「ええ、たくさんの男子に言い寄られてるんでしょう? ええ、男子のそういう欲望を休む間もなく浴びせられつづけると、ええ、廃ホテル監禁事件の時のことを思い出してつらくならないかい?」
渡辺は──たぶん反射的に──顔を引きつらせて一歩後ずさり、
「い、いえ、そのくらいなら大丈夫です。風本のようにひどいことをしてくるわけではないので」
と答えていた。
決定的だった。噂は真実だったのだ。
これで矛先を向けるべき相手は判明した。あとは、どうやってなすか。僕は盤面と駒──僕らを取り巻く環境と人物を改めて見渡した。
まず目に留まったのは、佐々木綾海だった。自己顕示欲が強く、常に自分がコミュニティーの中心にいなければ気がすまない彼女は、自分よりも優秀で美しく、特に男子から注目を集めている渡辺を入学当初から目の敵にしていた。上手く転がすことができれば、都合のいい毒──と言うと
とはいえ、その時点では具体的にどうするかまでは思いついていなかった。朧気ながら全体像が見えてきたのは、赤萩と関係を持ってからだった。
初めて赤萩のマンションを訪れた時、十代も半ばを過ぎた肉体的には健康な男子が、女盛りに差し掛かりつつある二十代の
まさか処女でもあるまいし、何をカマトトぶってんだか、と僕は訝ってあきれつつも、優しい口調でその訳を尋ねた。
「ごめんなさい。わたし、樹生君に──ううん、みんなに嘘をついてるの」赤萩は申し訳なさそうな面持ちでもったいぶると、「実はわたし──」と驚愕の事実を打ち明けた。
「本当なの?」
僕にしては珍しく、表情筋ごと驚いていたと思う。にわかには信じられなかった。
赤萩はこくりとうなずいてソファーから立ち上がると、羞恥と不安を全身にたたえながらスキッパーネック──襟付きVネックの──ブラウスのボタンを外していき、淡いピンク色のレースのブラをも取り払った。
染み一つない象牙色の体に、大きくも垂れることなくつんと上向いた胸乳が張り付いていた。
僕の視線にはにかみ笑いを返して赤萩は、ちょっと得意そうに胸を張り、自慢なんだと言う。
僕が適当な褒め言葉を口にすると、
「でしょ?」
と赤萩は小さく応じ、意を決したように口を引き結んでテーパードパンツに手を掛けた。
そうして全裸になったわけだけど、赤萩の股関には、彼女の言のとおり、男性器──陰茎と睾丸がぶら下がっていた。顔も体付きも完全に女のそれなのに、そこだけ男でちぐはぐ感がすごく、僕は生理的嫌悪感に似た据わりの悪さと知的好奇心に似た興味を同時に感じた。それはきっと、グロテスクな深海魚を見たときに抱く感情に近いものだったのだろう。
その人魚擬きの秘密は三つあった。
一つは、彼女が星影学園を所有する一族の本家筋の人間であること。これは以前にも述べたとおりだ。
肝心なのは残りの二つ、赤萩が
性分化疾患とひと口に言ってもその実情は様々だ。赤萩の場合はクラインフェルター症候群のモザイク型で、細胞の奇跡的なバランスによりサブカルチャーで見られるような女性ベースの両性具有みたいな状態になっている──そう、あくまで〈みたいな〉である。パッと見だけのフタナリ、つまりは彼女には膣などの女性器はなかったのだ。生まれた時の外形は普通の男児と変わらない。成長するにつれ女性化していったというわけだ。
赤萩の一族の人間は、当初は当然、彼女を何の問題もない男児だと認識したし──したがって彼女には一般的な男性名が与えられた──赤萩自身も自分のことを何の問題もない男児だと認識していた。
ところが、そうは問屋ならぬ染色体異常──彼女の体に多分に含まれるXXY細胞たちが卸さない。赤萩の体は女性的に成長していき、それに加えて彼女の場合、心の性の天秤も女性のほうに傾いてしまった。いわゆる性同一性障害なんだけど、これが遺伝的な問題に由来する先天的なものなのか、肉体の変化に引きずられた後天的なものなのかは判然としないらしい。とはいえその点は重要ではなく、赤萩が女として生きることを望むようになったことが問題だった。
前時代的な血縁主義に囚われている赤萩の両親は、彼女の性転換手術を認めなかった。彼らは、赤萩に男として生きて然るべき娘とその血を
わかりました、では男として生きます。
などと従順にうなずけるほど赤萩は意志の弱い人間ではなかった──あるいは、彼女の障害はそんなに簡単ではないのかもしれない。圧倒的な権力を持つ両親とそれに反旗を翻した赤萩との話し合いは平行線をたどり、やがて現当主すなわち実の父親から譲歩を引き出すことに成功した。
「お前が何を言おうと性転換手術はならぬ。が、女として生きることは認めよう。ただし、三年だけだ。大学を卒業してからの三年間は、我が一族とは無関係のただの女として生きることを許す」
つまりは、それ以降は男として一族のために生きなければならないということ。
赤萩は不満だった。三年間なんていう限定的な期間ではなく、生涯を女として過ごしたかった。
けれど彼女は、
「わかりました、認めていただきありがとうございます」
と低頭した。勘当された場合の逸失利益を考えると、ここで折れるのがベターだと判断したからだった。
こうして赤萩は、赤萩陽菜子という通名を取得し、一族の運営する星影学園に一新米教師として赴任することとなった。一族と無関係といっても、目の届く範囲に置いておきたいということらしかった。
ここで重要なのは、学園において赤萩の真実を知る者がごく限られているという点だった。理事長などの一部の理事以外の目には、ただのスタイルのいい童顔の女としか映じていなかったのだ。
──これは利用できるかも。
ほとんど直感的にそう思った。
一見して女にしか見えず、周りからもそう認識されている人物を使えば──すなわち強姦の実行犯として動かすことができれば、渡辺を出口のない推理の迷宮に閉じ込め、その精神を
論理的に考えても結論は同じだった。赤萩こそが復讐のためのキーパーソン、最高の凶器たりえると確信した僕は、
「あの、やっぱりわたしみたいなのは嫌だよね……」
と、うつむき加減に指先をもじつかせながらも隠し切れない期待をその上目遣いににじませて問いかけてくる赤萩に、
「そんなことないよ」
と真摯そうな顔を作り、
「体がどうあれ、陽菜子さんが陽菜子さんである限り僕の気持ちは変わらないよ」
と彼女の望む甘言をくれてやった。
赤萩が額面どおりに受け取ったかはわからない。けれど彼女は、その童顔をうれしそうに綻ばせ、僕の胸に飛び込んできた。
僕は持てるすべてを駆使して赤萩を依存させようとした。そして、都合がいいことに特殊な障害のせいで劣等感と孤独に苛まれていた彼女は、案に相違せず簡単に堕ちていってくれた。
やがて僕は、渡辺への宿怨を打ち明け、赤萩に協力を願った──という体裁を成した命令を下した。僕なしでは生きられなくなっていた──そう思い込むようになっていた──彼女に断るという選択肢などあろうはずもなかった。
程なくして計画は完成した。そのアウトライン──といっても前述のとおりだけど──は、こうだ。
①僕の予備の制服により男子生徒に扮した赤萩に渡辺をレイプさせ、
②僕が唯一の目撃者となり、
③僕は善意の協力者のふりをしつつ、渡辺に犯人捜しをさせ、しかしその都度その推理を否定し、
④それを悟らせた佐々木にSNS等を通して渡辺のいじめを誘発させ、又は佐々木が動かなければ彼女が誘発したように見せかけて僕がいじめを誘発し、
⑤精神的に追い詰められた渡辺を甘言や性交等を用いてよりいっそう僕に依存させ、
⑥隙を見て新型HIV罹患者の血液を摂取させたら偽の性病検査の報告書を叩きつけて渡辺を突き放し、もって学園というコミュニティーで完全に孤立させ、
⑦徹底的に精神を病ませて自殺に追い込む。
渡辺のシャープペンシルを盗んだのも文芸部の部室に置いたのも、当然、赤萩だ。これは藤原を捜査線上に浮上させ、しかしあらかじめ用意しておいた否定ロジックにより決して犯人にはさせないための、要するに渡辺に希望を見せつつも目の前で取り上げて精神的に疲弊させるための仕込みだ。上げて落とされると落胆もひとしおだろう。それを森と村田でも繰り返した。
新型HIV罹患者の血液はSNSで知り合った医療従事者の女を介して購入したもので、渡辺に感染させたのは再々検査によっても身の潔白を証明できないようにするため。また、余命幾ばくもないという負荷を与えるためでもあった。
もちろん、危ない橋を渡らなければならないところもあった。
例えば、最初のレイプ。赤萩が実行犯であることを示す痕跡を残さないようにしなければならないところ、絶対確実な方法があったわけではなかった。髪の毛などなら言い訳できるけれど、精液や抵抗された際に爪の隙間などに付着する皮膚や血液は完全にアウトだ。それぞれコンドーム並びにスタンガン及びガムテープで対策できるが、確実とは言えなかった。
例えば、変装した赤萩が第三者に目撃されてもマズい。強姦犯──あるいはそれらしき人物──が実在したことが証言されてしまうと、佐々木の狂言説が成立しにくくなる。それでは、いじめを正当化するのに十分な根拠を、絶対的な安全圏から他人を一方的に攻撃することが大好きな、人間らしさ満点の善良なる屑どもに与えられないかもしれなかった。
例えば、新型HIVへの不自然な感染。渡辺の日記なんかにそのことへの言及があれば、警察に目を付けられる虞もなくはなかった。僕が害意を持って渡辺の飲食物にウイルスを混入させた疑いを掛けられるかもしれない。僕が非罹患者だと知れると、検査報告書が偽造と推定され、その容疑は現実味を帯びてくる。とはいえ、渡辺の日記以外に偽造の証拠はないはずだから、鬱ないしノイローゼ状態の女には特にありがちな被害妄想だと抗弁すればそれですむ公算が大きいだろうし、ウイルス混入についても関係者が自白しない限り決定的な証拠は出てこないはずだ。けど、嫌な不安が精液みたいに喉の奥にこびりついて拭い切れなかった──否、まだ少し残っている。
ほかにも細かく探せば小さなリスクはいくらでも見つかった。懸念点はたしかにあったのだ。
けれど、止まることなんて考えられなかった。赤萩も、僕のためならと覚悟を決めてくれていた。
僕らは計画を実行した。
結果は上々、今回ばかりは醜悪な欲にまみれた狼少女に幸運の女神は味方しなかったみたいだった。
完璧と言っても差し支えない出来じゃないかな。
強いて不満点を挙げるとすれば、渡辺の死に顔をカメラに収められなかったことくらいだ。腐敗が進み、夥しい蛆虫に蝕まれる彼女の裸体を、溶けてどろどろになった汚い臓物を、生前の美しさなど見る影もなくなった
──どう思う? 父さん。
「……」
墓石には脳も声帯もない。
──俺も美少女JKのじゅくじゅくした腐乱死体を拝みたかったぜ。残念だ。
なんて、
ふと、
もう行こうか。
「じゃあね。母親を始末したら、また来るよ」
知らず知らず声に出していた非合理性にあきれ、自分自身にしかめ面をくれると僕は、墓場を後にした。
令和中葉に建てられたというレトロな一戸建てに杖を片手に独居する年老いた
「よく来てくれたねぇ。疲れたべ。さぁ上がって」
皺だらけの顔に笑みをたたえ、よりいっそう皺を深くした祖母が、僕を出迎えた。
父さんの墓参りのついでに、老い先短いほうが世のため人のためになる糖尿系独居老人の家に立ち寄ったところだった。
僕を引き取りはしなかった彼女だけど、疎ましく思っているわけではないらしく、近くに来たら顔を見せてほしいと以前から言われていた。使い道のない皺くちゃ半死人の戯れ言なんか普段ならスルーするんだけど、今日は土曜日ということで時間もあり、何より気分が良かったから特別にそれに応えてあげたというわけ。
訪問の連絡はあらかじめしてあった。
「ターの好きなアイス、買っておいたよ」
祖母は得意げにそう言って、冷蔵庫から、ターつまりは僕が特段好きでも嫌いでもないシャーベットアイスを出してきた。自分を疑い否定することをやめた人間がやりがちな独善の押しつけにほかならない。
「ありがと」
一ミリも心を込めずに、しかし外面だけはそれっぽく飾り付けて答え、そのちゃちなカップの蓋を開けた。
シャーベットアイスをしゃくしゃくやりながら、何の生産性も、かといって娯楽性もない唾棄すべき会話に応じていくと、やがて僕の容姿の理想的な成長具合に話題が移り、勢い色恋についても詮索され、次第に、来たことへの後悔が湧いてきた。しかし僕とは対照的に、祖母の機嫌は右肩上がりだった。しかもどうやら彼女は、僕が泊まっていくものだと思い込んでいるみたいで、彼女なりに僕に合わせた献立──これまた絶妙に外した内容だった──を考えてあるらしかった。
どうしようかな、と迷うくらいには心にゆとりがあった。だからだろう、気まぐれを起こし、祖母の自己満足に付き合ってやることにした。冥土の土産をくれてやろうじゃないか、的な、ね。ちなみに、意訳すると〈老害はさっさとくたばりやがれ〉だ。
そうして夜が更けていき、寝床として宛てがわれた部屋は、父さんがこの家を出るまで使っていた六帖の洋室だった。要は、子供部屋である。木製ベッドや学習机などの家具、それからテレビやゲーム機などの家電がそのまま残されている。それらすべてが古色蒼然としていて、この部屋だけが三十年くらい昔にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。
本棚にあった文庫本から適当なものを選び、学習机に着き、開いた。虚構世界に沈んでいく。
読みおわり、パタリと本を閉じた。壁掛け時計に目をやれば、すべての針が仲良く天辺を指したところだった。けれど、いまいち眠くない。でも、連続して本を読もうという気分でもスマホをいじろうという気分でもない。
何かちょうどいい手慰みはないかな、と室内に視線を巡らし、テレビ台の中に収納された黒っぽい物体──レトロゲーム機に目を留めた。
テレビゲームで遊ぶ習慣がなく、したがってこのゲーム機に興味を持ったこともプレイしたこともなかった僕だけれど、ちょっとやってみようかな、と思い立ち、無骨なそのゲーム機本体を引っ張り出した。随分と昔のものみたいで、表面が黄ばんでいて汚らしい。ソフトも何本か置かれていたが、カードタイプではなくカセットタイプで、文庫本ほどもあろうかという大きな代物だった。下手をすると、令和どころか平成生まれかもしれない。
このゲーム機は何て名前なんだろう。
というレベルで知識がなかったものの、何とかセッティングを終えると、適当なカセットを挿入し、これまた古風な、つまみ式の電源スイッチをオンにした。
しかし──
「……?」
テレビ画面は暗いままで何も映さない。やり方が間違っていたのだろうか──いや、そんなことはないはず。
壊れてるのかな、と当たりを付けると、化石みたいなものだし、それもそうか、と納得感が胸に満ちた。
諦めて、片付けていく。カセットを仕舞い、コードを外して丸め、ゲーム機本体を手に取り、特に何の意図もなくひっくり返して裏面を見てみた。
──と、
「……ネジが一本ない?」
ゲーム機の上下の外装ケースを繋ぎ止めるネジを受けるタップ穴の一つが空洞だったのだ。メーカーが販売した時点からなかったとは考えにくいから、誰か──相対的には、所有者だった父さんの可能性が高いか──が分解した際に紛失してしまったんだろう。
「……」
ふいと好奇心が鎌首をもたげた。暇だからだろう、ゲーム機の中を見てみようと思ったのだ。
学習机のペン立てにしれっと差し込まれているドライバーを取り、ネジ穴に合わせてみる。すると、ピタリと嵌まった。このドライバーはこのゲーム機のために用意されたものなのかもしれない。だとすれば、父さんがネジを失くした犯人である可能性が高まる──ま、だから何だって話なんだけど。
くるくるとネジを回していき、ものの三分と掛からずにすべてを外しおわった。
ワクワク──というほどの高鳴りはなく、僕の精神は凪の日の湖面みたいに静かなものだった。単なる気まぐれで、暇潰しだからね。
ひっくり返したゲーム機を床に置いたまま、外装の下部を持ち上げて外した。脇に置き、目をゲーム機に戻すと、
──ん? 何だこれ?
僕は訝った。ゲーム機の内部に、簡単に手のひらに収まるくらいの小さな赤い物体と充電アダプターらしきものがあったのだけど、基盤のどこかに接続されているわけでもなく、単にテープで貼り付けられている。というか、それらを収めるために基盤の一部が切り取られているようだった。そりゃあ起動しないわ。納得。
テープを剥がしてその物体を手に取り、観察してみる。
「……固定電話の子機? でも何で折り畳み式?」
僕は首をひねってそう独りごちた。
折り畳み式の子機、そんなもの見たことなかった。しかも親機とセットじゃなくて子機だけというのも意味不明だし、まるで
──あれ?
と気付いた。サボっているんじゃないかってくらい落ち着き払っていた鼓動が、速く、大きくなってきていた。
なぜ?
と自分自身の体の反応を疑問に思うと同時に、じっとりと腋ににじむ嫌な汗を知覚した。
そして間髪を容れずに、無意識の底から僕の体に悪さをしてきていたある推測が、意識の領域に急速に浮上してきて、僕は耐えがたい喉の渇きを覚えた。
この赤い子機のようなものの正体に心当たりがあった。これは、僕が
一度そう疑ってしまうと、そうとしか思えなかった。ガラケーで間違いない。赤いガラケーだ。実物は初めて見た。
どこが電源なんだろ。
観察すると、パソコンと同じマークが描かれたボタンを発見した。長押ししてみる──が、うんともすんとも言わない。充電が切れているみたいだ。考えてみれば、当たり前だった。
気が逸りすぎている。
深呼吸をして気を落ち着けようとするけれど、焼け石に水だった。震える手で充電アダプターを差し込み、電源を入れようともう一度試みた。
すると、小さな液晶画面が光を放った。機種を示すロゴだ。固唾を呑んで見つめる僕の目に、次いで立ち上がった待ち受け画面──何のおもしろみもない淡い単色の、たぶんデフォルト画像の一つだろう──が映った。
十字キーを操作しようとすると、パスワードを要求された。これにも心当たりがあった。父さんの遺品の中に、パスワード類を記したメモがあり、その中にパソコンやスマホのどれにも当て嵌まらないものがあったのだ。幸か不幸か僕はそれらを記憶していた。一つずつ──といってもそれほど多いわけじゃないけど──試していき、正解は二つ目だった。
ロックが解除されると僕は、動画や画像のフォルダを探し、それはすぐに見つかった。
と同時に目眩に襲われた。脳髄を直接揺さぶられているかのような、あるいは突如として足元が崩落してできた真っ暗な
そしてそれは、絶対的な恐怖。
なぜか。
『コハル』『マシロ』『エマ』などと聞き覚えのない人名を名称として付けられたフォルダの連なりがあり、それだけでも十二分に衝撃なのに、その中に『ノア』というフォルダが含まれていたからだ。
この時点で僕の推測が正鵠──真実を射ていることはほとんど確定していた。
けれど僕は、往生際悪くも父さんの潔白をまだ諦めていなかった。そうでなければ僕は何のために……。
激しく胸を叩く心臓に苛立ちながら、おそるおそるそのノアフォルダを開いた。
と、
「──っ」
僕は息を呑んだ。
ガラケーの小さな液晶画面にずらりと並んだ、更に小さなサムネイルは、やはり小さな女の子の、あるいは血に彩られた裸体の画像だった。その七、八歳ほどの幼女は僕が自殺させた美しい少女によく似ていた。
すべてだ。すべてのサムネイルがそうだった。
たまらず嘔吐いてしまう。いまだ消化し切れていない胃の中身──やたらとたくさん出された小汚くてさして旨くもない手料理──が込み上げてくるのを、何とか飲み込み、神経が遮断されたみたいに感覚を失った指を無理やり動かしてサムネイルの一つを選択した。短い動画ファイルだ。すぐに再生が始まった。
「痛いぃぃぃっ!!」
まず耳に飛び込んできたのは、仰向けにさせられた幼女の悲痛な叫びだった。一人称視点のその動画は、いわゆるハメ撮りと呼ばれるもので、正常位での男女の性交を収めていた。
幼女はその顔を苦悶に歪ませながら、「やめてっ」「赦してっ」と必死に訴え、対して男のほうは──僕もよく知るその声はひどく昂り、「あ゛あ゛っ」だとか「気持ちい゛い゛っ」だとか、チープなAVの男優がするオーバーアクトのように濁っていた。当然、幼女の懇願なんか歯牙にも掛けない。獣欲に任せた荒々しい突き上げに、たびたび映像がぶれる。
半ばまで茫然自失に陥りながらも、幼女と男の正体を見定めようと視聴を続け、その動画が終わると別の動画をと何度か繰り返し──この強迫行為めいた愚かな反復はおそらく、都合のいい反証を求めてのものだったのだろう──やがて僕はガラケーを床に伏せた。
もう認めるしかないみたいだった。
犯され、殴られ、泣き叫ぶこの少女は渡辺乃愛で、犯し、殴り、快感に愉悦するこの男は風本櫂──父さんに違いなかった。
かつての事件──廃ホテル誘拐監禁事件は実際にあったことだったのだ。
僕は冤罪だと、渡辺母娘の
つまりはこういうことだ。
当時小学二年生だった渡辺は、この赤いガラケーを見て赤いスマホだと勘違いした。致し方ないことだろう。平成文学、ひいては平成風俗への造詣が深い僕でさえガラパゴス携帯の実物を見たのはこれが初めてだ。シニア世代でもなければそもそも存在を知らない人だって珍しくない。当時の渡辺もそうだったのだろう。あまつさえ危機的状況にあっては冷静な観察なんて期待できようもない。彼女が赤いスマホの存在を主張したのは必然だった。
そう、これは仕組まれた必然だったのだ。
父さんは渡辺が錯誤に陥ることを見越して、この忌まわしき骨董品を撮影機材に選んだ。すると、仮に逮捕され法廷に立たされたとしても、被害者である渡辺の証言は事実と合致せず疑われることとなる。令和最後期に開発されたレアメタルの代用品が使われているわけのないガラケーが、その代用品の使用が前提の探知機で見つかるわけもなければ、半世紀も昔の電子機器がまさか現役だとも犯行に用いられたとも誰も考えないからだ。当時はまだ被害者女性優位だったとはいえ、その証言に看過できない重大な瑕疵があると、それでもなお対等とは言えなかったけれど、多少は戦える。冤罪嫌悪──女性を取り巻く司法の見直しの気運が高まりつつあったことも計算ずくだったのだろう。要するに、小賢しい保険を掛けていたのだ、父さんは。まぁ結局は無駄に終わったわけだけど。
そしてもう一つの矛盾──証拠隠滅のために体を洗うという、二度手間になるだけで無意味に思える行為にも合理的な説明が付けられそうだった。
その確証を得るために僕は、ノアフォルダ以外にも目を通す。
『コハル』というフォルダの幼女は見たところ渡辺よりも更に幼く、下手をすると就学前の可能性すらあった。彼女も容赦のない暴行を加えられていた。
『マシロ』というフォルダの少女は、十歳に届くかどうかという年頃だった。相対的には熟しているが、絶対的には幼いとしか言えない。彼女も父さんの餌食になっていた。
『エマ』というフォルダの少女も同じく幼かった。渡辺と同学年くらいに見えた。父さんのストライクゾーンの中心はこの辺りなのかもしれない。その高揚は上記二名よりも顕著で、渡辺の場合にも匹敵するほどだった。
ほかにも何人かの幼女あるいは少女の嬌態すなわち地獄が記録されていた。
僕は自分の推理の正しさを確信し、ガラケーから目を上げた。
父さんは何人もの幼女をその毒牙に掛け、自分が犯した幼女たちをつぶさに記録していた。致命的な証拠物件になるにもかかわらず、だ。これらの事実は、彼が真性の
つまり、父さんがリスクを押してまで被害者を入浴させていたのは、彼が幼女たちを愛していたからだったのだ。
わかるわけないよ、と言い訳を垂れたくもなる。だって僕はペドじゃないし、と。
だいたい、ガラケーで撮影って何さ? 何でそんなもの持ってるのさ? 想定外もいいとこだってば。わからなくても仕方ないでしょ。仕方ない。
けど、その弁解は誰に向けて?
渡辺はもういないのに誰に対して言い訳するんだろう。意味ないじゃん。
静かな夜だった。自分の心音がよく聞こえる。
それを押しのけるように、ふと渡辺の言葉が耳に蘇ってきた。
──わたしは嘘なんかついてない。今も昔も真実しか語っていない。本当よ、信じて。
気が付けば、目の前に美しい少女が立っていた。一糸まとわぬ姿で、表情もなく、まばたきさえせず、抜け作を見下ろしている。黒目がちの大きな瞳が、じっと僕を見据えて放さない。その左手首からは真っ赤な液体が滴り落ちていた。
自嘲の念に駆られ、「ははっ」と嗤いが零れた。ごく自然な心持ちで、「本当にそうだね」と少女に語りかけていた。「君の言うことに嘘はなかった。やっとわかったよ」
少女の紅い唇がかすかに蠢いた。「約束」と口にしたようだった。
「ああ、約束ね」と僕はうなずいてみせた。この、渡辺の形を成した幻影──あるいは、心の内奥に封じていたはずのもう一人の僕──に逆らおうという気はなかった。けど、約束って?
「わたしを一人にしないという約束、ちゃんと守って」幻影は起伏のない静かな口調で言う。「約束、守って」
約束、約束、約束……と譫言のように、あるいは壊れたオーディオのように繰り返す。無表情に繰り返しつづける。それはまるで言の葉の雨。冷たく、身を凍えさせ、熱く、心を焦がす。
「そうだね、約束は守らないとね」
そう応じると、不協和音めいた約束の雨はピタリとやんだ。
僕は立ち上がった。
鼻先で見つめ合った
──なんてね。
何がもう一人の僕だよ、くだらない。
僕は錯乱しているのだろう。信じたくない真実を出し抜けに眼前に叩きつけられたショックが見せた悪い夢のようなもの──鳥瞰気取りの冷静な僕はそう分析し、落ち着きなよ、とあきれまじりになだめてくる。
その一方で、でもさ、とも思う。落ち着いたところで何になるのさ、と疑問だった。現実は巻き戻せない。僕が復讐のために費やした時間も労力も金も、そして心も戻ってこない。渡辺だって……。
僕は幻影の、血の滴る手を取った。どちらからともなく指を絡める。冷たく、ぬめりとした感触が手のひらに満ちた。
「行こうか」
そう言うと、幻影の口元がほほえんだ。
赦されたような気がして──そんなふうに都合良く考えた時にはもう、迷いは消えていた。
(了)
以上で完結です。
お付き合いくださり、ありがとうございました!