小学生のころから思っていることがある。
──この社会はおかしい。
当時の裁判所はいまだ前例主義のスパイラルから抜け出せずにいて、性犯罪においては女の証言を最重視していた。大昔、平成以前はそこまでじゃなかったみたいだけど、令和時代にあった刑法改正を境にしてその傾向がエスカレートしていったらしい。具体的には、女が「同意なんかなかった」とひと声上げれば、推定無罪の盾は一瞬で貫かれ、事実上、立証責任は被告人の男に移る。被告人側が自身の無実ないし無罪を証明しなければならなくなるということだ。多くの場合、それは困難を極めた。たとえ女の証言に矛盾があったとしても、「性被害に遭ったショックで記憶が混乱しているのだ」と解釈され、その証明力にはいささかの影響も与えないことがほとんどだった。
小学二年生の渡辺が誘拐された事件でもそうだったのをよく覚えている。
渡辺の廃ホテル誘拐監禁事件は、
その廃ホテルは国道沿いにあるんだけど、海沿いでもあってほとんど車しか通らない。とはいえ、警察も馬鹿じゃないから当然調べた。ところがその廃ホテルには、嬌声と体液の飛び交っていた往時に非合法的な取引に使われていた隠し部屋があったらしく、そこに囚われていた渡辺を発見することができなかった。海風や野良犬、野良猫が痕跡を
だけど、渡辺は当時から賢かった。自分を傷付け、犯した男に笑みを向け、時には愛を囁き、さもストックホルム症候群に罹ったかのようにミスリードした。
そう、信用を得て、その隙を衝いて逃げ出すために。
その作戦は奏功した。彼女は脱出に成功し、最寄りのコンビニに駆け込んだのだ。
事件はセンセーショナルに報道され、お茶の間を賑わした。渡辺が美幼女だったことも国民のニーズに合っていたのだろう──ヒトというのは、未来あるかわいらしい幼女が凄惨な目に遭うのが、あるいはそういう目に遭わせた犯人を正義ヅラして安全地帯から一方的に叩きのめすのが大好きな、どうしようもなく利己的な
そんな、カタルシスへの期待と自己欺瞞に満ちた夥しい耳目に鑑賞される中、裁判が始まった。
冒頭手続で裁判官から起訴状の内容に誤りがないか、要は犯行を認めるか尋ねられた被告人は、そのすべてを否認した。
「そんな事実はない。俺は何もしていない。渡辺乃愛という少女のことも逮捕状を読み上げられた時に初めて知った」
しかし検察官──押し出しのいい老紳士の──は、それを罪から逃れるための嘘と断じた。
「被害者少女の体には複数の打撲痕があった。処女膜も裂けており、これらの事実は彼女の証言と一致する。そも、八歳の少女が偽証冤罪のために自らの体にここまでするというのは考えられない。せいぜいが嫌いな教師に体を触られたなどと偽装工作もせずに騒ぐ程度だろう」
弁護士──アンダーリムの眼鏡を引っ掛けた妙齢の──はこう切り返した。
「今、検察官殿が挙げた論拠には重大な
被害者少女の家は母子家庭です。母親は多額の借金を抱えており、かろうじて露命を繋いでいる状態だそうです。少女が自主的にやったというのはたしかに不自然さが拭い切れませんが、貧困に喘ぐ母親が主導して画策したとしたら辻褄が合います。被害者少女からすれば唯一の家族の願い、あるいは命令には逆らいがたいでしょう。被害者少女の年齢では親は神に等しい。片親であれば唯一神です。その言葉に従うのはむしろ当然と言えます」
性犯罪の慰謝料は年々増加しており、物価の変動分を加味しても事件当時の時点でその相場は半世紀前の数倍にまで跳ね上がっていた。
高額な慰謝料が動機だと主張した弁護士は、更に
「加えて、被害者少女の体には打撲痕と処女膜の裂傷こそあれ、被告人の体液は検出されませんでした。これこそまさに性交のなかった、すなわち虚偽証言の証左でしょう」
検察官も黙ってはいない。
「そちらこそ
『おぼしき』と濁したのは、移動時と入浴時には睡眠薬で眠らされており、どこに連れていかれたのかわからなかったからだ。
検察官は、
「わざわざ発覚のリスクを犯してまで体を洗ったのは証拠隠滅のためにほかならない。被害者少女の体に体液が残っていなかったことは要証事実を反証するものではなく、犯行の計画性や悪質さを証明するものである」
と雄弁を振るった。
一見、説得力のあるロジックだけど、これには明確な
「今、『証拠隠滅』とおっしゃいましたか?」弁護士は冷笑するように、挑発するように言った。
「ふん、それが何だというのだ? 何を言いたいのかわからんな」
検察官も自説が実際のデータに反する理想論に立脚していることを承知していないはずがなかった。しかし、それがまかり通るのが当時の司法だった。だから、彼の強気な態度は崩れない。
「
しかし弁護士も負けていなかった。強烈な皮肉を返すと、
「この場に、近年の性犯罪の極端な厳罰化が招いた嘆かわしい事実を知らない方はまさかいらっしゃらないと思っていましたが、どうやら検察官殿はご存じないようなので改めて説明して差し上げましょう。
──強姦被害者の生還率はわずか三パーセントにも満たない。
捕まったら文字どおり人生が終わってしまう加害者が口を封じようとするためです。したがいまして、今回の事件でも犯人は──そんな人物がいればですが──最終的には被害者少女を殺害して完全な証拠隠滅を図る心積もりだったのでなければおかしいのです。つまり、発覚のリスクを犯してまで入浴なりをさせて証拠を洗い流す必要はなかったはずなのです。殺害して燃やすなりすればそれですむ話、被害者少女の『体を洗われた』という証言は論理的に矛盾しているのです」
これは被害者女性の証言を重視してきた司法の背理──前例主義に甘んじ冤罪を量産してきたその怠慢をも指弾した言葉だった。本当に犯された人間は、「犯された」などと訴えることは不可能なのだから。
「それは違うな」検察官はいけしゃあしゃあと言ってのけた。「たまたま今回がその三パーセントだったというだけのこと、何も矛盾などしていない」
「可能性で語っていいのは推定無罪の盾を持つ我々被告人側だけです。立証責任を負う検察側は蓋然性で語らなければならない──そんな初歩的なこともお忘れですか?」
検察官は言葉の代わりに肩をすくめて答えた。まさに人を食ったような態度──明らかな嘲弄だった。
弁護士の弁舌は勢いを増していく。
「現場廃ホテルが灯油を撒かれて燃やされていたこともそうです! 検察官殿は先ほどの冒頭手続で被告人が証拠隠滅のためにそうしたとおっしゃっていましたが、これも根拠皆無の憶測にすぎません──いえ、憶測ですらない、結論ありきのこじつけです! 被害者少女の証言が嘘だとすると、火を点けたのは少女の母親としか考えられません! そこに被告人の痕跡が残っていないことがバレたらまずいのですから、少女の母親はそうしなければならなかったのです!」
一瞬の沈黙の後、
「『証明は主張する者にあり、否定する者になし』」
検察官は口を開いた。
「古典ローマ法の有名な法格言だ。君も学んだだろう? いくら推定無罪の原則があるといっても無実を主張するからにはポシビリティーだけでは足りない」
前例体質に胡座をかいている老獪な検察官は、自分のことは棚に上げて余裕綽々で反論する。
「『少女の証言が嘘』と仮定すればそういう結論にもなろうが、確率が高いからといってそれがただちにその事象の成立を示すわけではない以上少女の殺害は必然とは言えず、したがって少女の〈体を洗われた旨の証言〉は偽証の決定的な証拠にはならない。わかるかね、その前提条件には論理的必然性がないのだよ。
それとも、臆面もなく都合のいい嘘をつくのが女のサガとでもいうおつもりか? なるほど、それなら納得だ。あなた自身が女性なのだからな」
とんでもないセクハラ発言をかまされた若き弁護士は──感情的になっても心証が悪くなるだけというのは当然理解していただろうけど──怒髪天を衝かんばかりに声を荒らげた。
「生還率以外にも根拠はあります!!
被害者少女は『性交時か否かを問わず何度も動画を撮影された』旨の証言をしています!
しかしながら、しかしながらです!
彼女が撮影の道具として挙げた赤いスマートフォンなど、どこにもなかったではありませんか! 警察当局の捜査においては、被告人の自宅、実家、パートナーの実家、友人の自宅、勤め先の会社、行き付けの飲食店、これらの周辺、果ては下水道まで調べ回ったというのに!
動画ファイルだってそうです! 被告人のスマートフォンどころかパートナーや子供のスマートフォンまで取り上げて検めたというのに、そんなデータは見つからなかった! 削除されたものを含めてもです!
それどころかそもそも、被告人も家族の誰も今現在赤いスマートフォンを所持していないというだけでなく、過去に購入した記録もありません!
もちろん警察当局は、小型のカメラと見間違えた可能性も視野に入れ、そちらの捜索も並行して行いました! それでも何も出てこなかったのですから、これはもう少女の証言が
検察官が
「精神の混乱が見せた幻だったのだ、などとは言わせませんよ」
弁護士はすかさず遮った。
「それが確かな記憶であることは被害者少女自身が強く主張していることです。
おそらくはこういうことでしょう。
被害者少女の母親は入念な調査を経て偽証冤罪のシナリオを拵えました。
しかし、そこで三つの錯誤がありました。
第一にターゲットとした被告人のスマートフォンの色を見間違えたこと、第二に削除したデータでも記憶媒体が物理的に破壊されていない限りほとんど完全に復元できることを知らなかったこと、そして第三に令和最後期に起きた技術革新いわゆるレアメタル革命にて誕生したレアメタルの安価な代用品が市場を席巻した結果、ほとんどのハイテク機器の隠蔽が不可能になったことを知らなかったことです」
どういうことかというと、その代用品のいくつかは特殊な性質を持っているらしく、それを専用の探知機で検知することでどこに隠そうと見つけることができるのだ。従来の金属探知機では不可能とされた状況でもお構いなしで、確実性だけでなく探知範囲も広いというのだから犯罪者からすればたまったものではない。その探知から逃れるには隠蔽レベルでは駄目で完全に隠滅しなければならないが、残骸の一片すら残さずというのは素人にはほとんど不可能なんだそうだ。
弁護士は続ける。
「少女の母親は以上の思い違いにより、少女の証言の信憑性が疑われる事態を正しく想定できませんでした。データが見つからなければ『被告人が削除したのだ』と、スマートフォン自体が見つからなければ『被告人がどこかに捨てたのだ』と、そう解釈されると考えていたのです。
だから母親は、証言の曖昧さにより信憑性が疑われるリスクを排除するだけで足りると考え、少女に固く言い聞かせたのです。
『嘘をつくときはそれが嘘ということは忘れ、自分の中にその記憶があると信じて堂々と、はっきりと言いなさい』
という具合に。
少女がそれを素直に実行した結果、証言の信憑性を損なうこととなったのだからこれ以上の皮肉はありませんね」
そう締めくくった弁護士の顔には、自身が優勢だという確信が浮かんでいたという。
たしかに、聞いていると渡辺の証言が矛盾していて、こいつ嘘ついてるんじゃないか、と思えてくる。傍聴していたギャラリーもそう思ったことだろう。ネットでも偽証冤罪と見る向きに傾いていた。
しかし、結果は違った。
〈第一審判決主文〉
被告人を死刑に処する。
〈第二審判決主文〉
本件控訴を棄却する。
〈第三審判決主文〉
本件上告を棄却する。
ウォータースライダーみたいななめらかさで死刑が確定した。
そして、ああ無情といった感じに世の不条理を嘆いたのか、いつ来るかわからない死におびえて過ごすのを嫌ったのか、はたまた異世界転生を待ち切れなかったのか、被告人改め風本死刑囚は拘置所内で首を吊って自殺した。
流石にどうかと思った人が多かったのか、ネットでは番外戦術があったのではないかと囁かれていた。つまり、あのセクハラじじいもとい老巧検察官が美人弁護士のあらぬ噂──弁護士はその若さと美貌を駆使して捜査機関と通じ、不利な証拠を闇に葬ったという──を流し、裁判官の心証を誘導したのではないか、というのだ。
しかし、それこそ根拠がない。娯楽を求めた暇人たちの創作と考えるのが妥当だろう。
真相は、結局のところ、前例主義に則ったいつもの判決だったという、それだけのことなんじゃないかって僕はにらんでいる。
──おかしい。すごく変。
平等性とか予測可能性とか、とどのつまりは法的安定性が大切ってのはわかるけどさぁ、怪しいにおいがプンプンの事例にまで判例の基準──女性の証言最重視という慣習をそのまま当て嵌めるのは違うんじゃないのって僕は思うわけ。せめてもうちょい調べてから判決出そうよ。
ただ、納得していない国民がいた一方で、この判決を支持する人もいたのは紛れもない事実なのだからおかしいのは僕のほうなのかな、と思い直しかけたりもしたけれど、その数年後に例の判例変更だよ。女は自己中で嘘つきだから云々ってやつ。
──いや極端すぎでしょ!!
僕はネットニュースを見ながら一人突っ込んだものだ。
こんな男女不平等認められるか!!
という感じに暴動でも起きるかとおびえ半分期待半分で過ごしていた僕の予想は、しかしあっさりと裏切られた。疑問を呈する声はあれど、概ね受け入れる方向でまとまっているみたいだったのだ。
──やっぱりおかしいよ、この社会。
というか、人間だ、おかしいのは。
僕は常々そう思う。
でさ、結局何が言いたいかというと……まぁ特に伝えたいことはないんだけどさ、どうしても意味を見出だしたいというなら冗長すぎる自己紹介とでも思ってくれたらいいよ。実際、僕が世の中をどういうふうに見てるか何となくわかったでしょ?