放課後。時刻は午後四時十五分を回ったところ。
教室の掃除が終わると僕は、校舎の端のほうにある旧音楽室に向かった。
これでも僕は平成文学を嗜む。
で、石の裏で蠢くダンゴムシみたいなジメジメした根暗どもの群がる平成文学同好会に入っているのだ。旧音楽室はそれ用の部屋だ。今日は平成の女流文学──主観と客観の区別が付かず自分のことしか書けない愛すべき低学歴デブスババアのまったく共感できない脳内エッセイ&お気持ち垂れ流しかまちょオナニー小説すなわちゴミでも読んで寿命をドブに捨てようかなと思っている。
嘘だけど。
いや、平成文学が好きなのは本当。それ以外が嘘。
というのも、平成文学同好会というのは僕が読書や勉強のために無断で旧音楽室を使っているのを暫定的にそう呼んでいるだけだし、今日は馬鹿女の似非小説を読む予定でもない。自分を取り巻くすべてへの不満と自分に関するすべての正当化を汚らしい愛液で綴ったような駄文も味わい深くて嫌いじゃないけどね。
旧音楽室という呼称からもわかるとおり今は授業には使われていないわけだけど、通常そういう教室は施錠されているものだし、ここも例外ではなかった。
ではどうやって無断使用しているのか。
答えは、例のお喋り女に合鍵を作らせた、だ。
ま、都合のいい共犯者ってやつだ。顔がいいとこういうときにお得である。
また、バレる心配も基本的にはない。実際、今のところはありがたい教育的指導を賜る憂き目には遭っていない。さっきも述べたけど、旧音楽室は端っこも端っこにあって全然人が来ないうえに、ドアが窓も隙間もない防音仕様になっていて外からは中の様子がわからない。そして、内側から施錠しておけばわざわざ中を確認しようとする生真面目な職員もいない。
階段を上り、四階に着くと、平文同(仮)のある、人けのないほうへと足先を向ける。
すると壁際の充電器から円盤状のお掃除ロボットが発進し、僕の横に並んだ。これから掃除するのだろう。この時間はいつもこの廊下を掃除しているのだ。
無計画な増改築のせいでジグザグと曲がりくねっていて無駄に長い迷路みたいな廊下の最奥には固く閉ざされた非常口──内からは鍵なしで開けられるよくあるタイプの──があり、その少し手前が旧音楽室なんだけど、お掃除ロボットは非常口の所から階段に向けて、要は奥から手前にかけて掃除するようになっている。サボっているところは見たことがない。
汚れなんかほとんどないだろうに毎日毎日ご苦労なことだ。
──ピピ。
最後の角を左に曲がったところで、突然、電子音と共にお掃除ロボットから平べったい光が前方と左側の二方向に伸び、廊下を這った。思わず足を止めると、
『たしかに旧音楽室よりこちら側しか汚れておらぬうえにその汚れも微々たるものだが、命令されておるゆえやらぬわけにはいかぬのだよ。ご理解いただけたかな?』
止まってスキャンし汚れを確かめたお掃除ロボットが、渋い声で答えてきた。心の声が知らず知らずのうちに洩れていたみたいだ。
「理解したとも言えるし、そうでないとも言える。事象を理解するとはそういうことだよ、ロボット君」
などと、わざと、哲学っぽいだけでよく考えなくても意味不明なことを言って再び歩きはじめると、お掃除ロボットも進みはじめる。会話はない。混乱してたらいいな。
二十メートルほど進んだところで、僕の耳が物音を捉えた。歩を緩め、お掃除ロボットを見送りながら耳を澄ます。
──タンタン、タンタン
とも、
──がさごそ、がさごそ
とも取れるようなくぐもった音が一定のリズムを刻んでいるのが、確かに聞こえる。
足音を殺してその音のするほう──旧音楽室の手前の第二理科室にそろりと近付く。本来なら施錠されていて誰もいないはずだけど、人の気配がする。
閉められたドアの小窓から慎重に中を窺う。
「──おおう」
思わず嘆声が洩れてしまった。だってさ、こんな光景、画面越しにしか見たことないんだもん。そりゃそうなるって。
まず目に飛び込んできたのは、制服のスラックスを半ばまで下げてピストン運動をする後ろ姿だった。その中心に視線を移せば、睾丸が規則正しく揺れ、その奥では陰茎が膣に挿入され、行きつ戻りつしていた。
腰を振っているほうは、肥満体でないことは瞭然としているけど、テンプレ銀行強盗みたいな目出し帽を被っていて頭髪どころか首筋すら見えない。
一方、見るからに痛そうな、理科室によくある実験台も兼ねた大きな黒い机の上に組敷かれ、大きく開かされた股ぐらを突き上げられているほうは、お高く止まった嫌み美少女こと渡辺乃愛だった。喘ぎ声がないのはサービス精神がないからではなく、ガムテープで口を塞がれているからだ。両の手首もひとまとめにぐるぐる巻きにされており、ニトリルゴム製らしき黒い手袋をした手にそれを押さえつけられ、仰向けのまま万歳をするような格好をさせられている。ブレザーとブラウスははだけ、形のいい
出血の類いはどこにも確認できないが、渡辺は激しい痛みに耐えるように瞼をきつく閉じていて、眉間や鼻梁にはこれきりというほど深い皺ができている。よく見ると、目尻に涙をあふれさせてもいた。
ほかには誰もいない。目出し帽の腰振りマシーンと涙目の穴突かれマシーン、そして
「……」
僕はそっと頭を引っ込めた。
さて、客観的に見て、これをレイプ風のプレイと考える人はどのくらいいるだろうか。おそらくいないのではないか。プレイ風のレイプというか、レイプ風のレイプと思うことだろう。もはやプレイプレイプ(?)である。
もっとも、レイプなり人が倒れているところなりに遭遇しても、厄介事は御免だ! 俺も勝手に生きるからお前も勝手に死ねやボケ! ということで、スルーするか、適当に鑑賞してから立ち去るのが一般的だ。その常識を打ち破ってまでヒーローになろうとする、言い換えればある種の反社会的思想を持った危険な安全人物は十人に一人もいないに違いない。今みたいに顔を見られていないなら尚更だ。そして、僕もその例に洩れない。つまり、ご立派なヒーロー願望なんか持ち合わせていないってこと。
──と、その時、音が変わった。
ゆっくりと再び覗き見る。
と、
「!?」
渡辺が目を見開いた。ばっちり目が合ったのだ。今まさに射精されている真っ最中という雰囲気の彼女と。
渡辺は何やら訴えかけるような目付きになったが、それに気付いたのは僕だけではなかった。目出し帽の人物が、敏活な挙動で首をひねってこちらを振り返った。こう、バッという感じに。その目元は競泳用ゴーグルで隠されていて口元も目出し帽で覆われているが、僕と同じブレザーに同じ青色のネクタイをしているのは見えた。
「やほー」
と小窓越しに小さく言いつつ手を振ってみせた僕に、
──おう!
というように手を挙げて気さくに答えてくれることもなく目出し帽の人物は、目にも留まらぬ速さでスラックスを上げ、ずり落ちないように片手で押さえながらこちらに突撃してきた。
──ガララッ!
乱暴に引き戸が開けられた。至近距離で向かい合う一瞬すらなく、目出し帽の人物は僕を弾き飛ばすようにして廊下へ駆け出し、逃げていく。
尻餅を突いた僕は、それを呆然と見ていることしかできないのであった──
というのはもちろん嘘で、実際にはのっそりと立ち上がり、尻を撫でつつ渡辺のほうへ向かっていた。
おもむろに歩み寄り、特製ベッド(机)の上で、横になったまま体を抱き隠すようにして丸まる、要は海老のような体勢で小刻みに震えつづける渡辺を見下ろす。
「大丈夫?」
僕は心配そうな表情を作るでもなく尋ねた。明らかに大丈夫じゃなさそうだけど、ここはそう言うのがマジョリティーな場面だろう。多数派が間違っている事例の一つと言えるかもしれない。
渡辺の黒目がちな大きな瞳だけが緩慢に動き、僕を見た。
「……」
何も答えない彼女の口は、ガムテープで塞がれたままだった。
「剥がさないの?」
と聞いたのは、両の手首がガムテープで縛られているとはいえ腕はそれなりに動かせるだろうし、手自体は自由だからだ。
「?」
問われた渡辺は、そうとう混乱しているのか、何を言われたのかわからないというような戸惑いの色をその瞳に浮かべ、僕が「口のそれ」と指差したところでようやく理解したようだった。
渡辺はおもむろに腕を動かし、指先で口のガムテープをつまもうとする。
が、指が震えて上手くできないみたいだった。
渡辺の眉間が再び険しくなり、こんな簡単なこともできない自分を情けなく思ったのか、強姦を現実のものとして改めて実感したのか、泣きそうな顔になった。
「剥がしていいなら剥がすけど?」
渡辺は小さくこくりとうなずいた。
ので、口のやつから剥がした。ビリッと勢い良く。痛そうだな、と他人事そのものの感想を抱きつつ手首も容赦なく解放した。
渡辺はいかにも重たそうに身を起こし、机の上で横座りになった。セミロングの黒髪が乱れて幽霊みたいになってるけど、手櫛で整えるでもない。そのまま、赤くなった手首を見て、次いで僕に目を向けた。
「あ、ありがと」
渡辺でもレイプの直後くらいはしおらしくできるみたいだ。意外と言えば意外だけど、道理と言えば道理でもある。
「うん」と答えて僕は、静かに尋ねた。「被害届出すの?」
渡辺の供述とそれに証明力を依存した証拠だけではレイプの実行行為は認められず受理されない。つまり、有効な物証がなかった場合、第三者の立場からレイプが事実であることを証明する人証たる僕の目撃証言も必要となる。同伴して警察に説明するのだ。さらに、公判にも召喚されるだろう。
渡辺は悩ましそうにその柳眉を歪めるも、
「出す」
逡巡するそぶりもなく首肯した。
「だよね」
優秀ゆえに高慢で、プライドもすこぶる高そうな渡辺が泣き寝入りなんてするわけないと思っていた。
僕は視線を第二理科室全体に巡らせ、
「ざっと見たところ遺留品とかの手掛かりは見当たらないね──となると、君の体に残っているであろう証拠がいやがうえにも重要になってくる。
そうとわかれば、こんな所でのんびりしてるメリットはないよ。早いとこ産婦人科行きな。たしか、避妊とか性病検査だけじゃなくて証拠保全もやってくれるんでしょ?」
「うん……」
しかし渡辺は、僕の視線から逃げるように目を伏せたし、動き出そうともしないし、唇をまごつかせてもいるし、意味のある言葉を発しもしないし。
「何?」
僕はぶっきら棒に聞いた。苛立っているわけではない。嘘じゃない。
「ごめんなさい、その、一人だと不安で」
「僕に付き添えっていうの?」
我ながら言い方はあれだが、ちょっと面倒だなと思う程度で不服があるわけではない。
「佐藤君には悪いと思うのだけど……」
と僕の顔色を窺う瞳は、母親にはぐれた幼子のように不安そうに揺れていた。
「親に連絡すれば?」
「お母さん、今日はこれから夜勤だから来てくれないと思う。人手不足な職場で、今からだと休ませてもらえない」
「彼氏とかいないの?」
「いないわよ、そんなの。いたこともないし」
じゃあ友達は? と質問を重ねると、今度もかぶりを振られた。
「それで成り行きで巻き込めそうな僕を利用しようとしてるわけだ──めちゃくちゃ自分都合だね」
いっそう困り眉になった渡辺が言葉を継ごうとするのを、
「──ま、別にいいけどね」と遮り、「あんまりうちにいたくないし」
「家に帰りたくない?」渡辺は小首をかしげた。「親と上手くいってないの?」
「まぁね」と嘘を返し、「さ、病院行くならさっさと行くよ」と優しさの欠片もない催促をくれてやった。
だのに渡辺ときたら、
「佐藤君って、意外と優しいんだね」
なんて言って、強張った顔のまま口元を緩めるとかいう妙技を披露した。
「人に興味ないんだと思ってた。いつも一人だし」
ブラを直しながら言う渡辺に、
「一人が好きなだけだよ。興味がないわけじゃない」
と、そんな益のない会話をぽつぽつと交わしているうちに渡辺の準備が整った。揃って第二理科室を出ると、彼女はプリーツスカートのポケットから鍵を取り出して施錠した。
「この鍵」と渡辺は古びたそれを示し、「返しに寄ってっていい?」
「いいけど、そもそも何でこんな所にいたの?」職員室に向かって歩きはじめながら僕が尋ねると、
「捜し物してたの」渡辺も横で足並みを揃えながら答えた。「シャーペンを落としたみたいで」
シャーペン? それくらいでわざわざ捜し回ってたの? と疑問に思う人が多数だろう舌足らずな物言いだと気付いたのか、渡辺は付け加えるように、
「雑貨屋で見つけたお気に入りのやつだったのよ。わたし、結構、神経質なほうで、あるべき物があるべき所にないと落ち着かないのよ。流石に今は仕方ないから後回しにするけど」
「そういえば前にもそんなことがあったね」
というのも、僕らは一年生のころも同じクラスだったのだけど、ヘアピンだかヘアゴムだかを落としたとかで、昼休み中ごはんも食べずに捜し回っていたことがあったのだ。その時は、五時間目の国語のために村田が入ってきたところで捜索は強制終了となった。佐々木からからかいまじりに「お弁当そっちのけでずっと捜してたんですよー」と事情を説明され、村田もたいそう驚いていた──たしかに神経質と言っても過言ではない。あるいは、病的に物に執着していると言うべきか。
「失くしたら大変なのに、よく失くすよね」
これは率直な感想である。完璧美少女が聞いてあきれる。
「別に完璧なんかじゃないし──てか、うるさいよ」
横目で窺うと、渡辺は朱唇──といってもガムテープのせいで薄紅が落ちかけているけど──を軽く尖らせていた。
「そんな態度でいいの? 帰りたくないとは言ったけど、僕はいつ帰ってもいいんだよ? 何なら、目撃証言だってしなくても特に困らないし」
断っておくけど、僕は渡辺が好きで気を惹こうと意地悪なことを言ったわけじゃない。そんな、素直になれない男子小学生みたいな真似はしない。思ったことを何の配慮も遠慮もなく素直に口にしてしまっただけだ。
──と、突然、手首を掴まれた。
少し驚いて僕の足が止まると、渡辺も立ち止まり、見れば、泣き出しそうな顔に逆戻りしていた。
「ごめんなさい、お願いだから一人にしないで」
細腕のくせにいい握力をしている。けれど、かすかに震えてもいる。
「冗談だよ」と言っておく。「手、放してよ。まぁまぁ痛いから」
疑わしそうに僕を見る間があって、渡辺は力を緩めた。やはりそうとうメンタルに来ているようだった。
「すごい降ってるね……」
昇降口から
今日は午後から、まだ梅雨入り前ながら車軸を流すような、しかも横殴りのやつが降りつづいていた。
「傘は?」僕は自分の傘を広げつつ──この雨で傘が役に立つかは甚だ疑問だけど──尋ねた。
「……ない」渡辺は、悪戯の見つかった小僧みたいなか細い声で答えた。
「天気予報、見なかったの?」
昔と違って今の天気予報の精度はすさまじい。見ていれば、今日みたいな日に雨具を持ってこないという選択はないはずだった。
「寝坊しちゃって急いでたから」渡辺は場都合が悪そうだった。「朝は晴れてたから傘のことなんて頭になかったのよ」
そして沈黙。
「……え、これ、僕のに入れてあげなきゃいけないってこと?」
「雨に濡れると証拠が流されちゃうかもしれないし……」
「タクシー呼びなよ」
「うん、そうなんだけど……」渡辺は恥ずかしそうに視線を爪先に落とした。「あんまりお金なくて」
「……まさかとは思うけど、今僕、立て替えるか、相合い傘かの二択を迫られてる感じ?」
渡辺ははにかんで顎を引いた。
結局、僕らは徒歩で最寄りのクリニックに向かった。相合い傘をしたかったからでも、
道中、星影の生徒に見られて驚いた顔をされたが、変わったことといえばそれくらいで、とりわけて伝えるべきイベントは起きなかった。
そのクリニックは、外壁の所々にレンガ調タイルが用いられていたり、正面がガラス張りになっていたり、立て看板の病院名がローマ字表記だったりと、一見して病院とはわからない外観をしていた。ヨーロッパ建築風の小洒落た、つまりは気取っていて鼻に付く建物だな、という感想が最初に湧き、続いて、二流私立医大出のいけ好かない雰囲気イケメンの医者を想像した。
結論から言うとそんなことはなかったわけだけど。
医院長だという中年女性──アンチエイジングに心血をそそいでいるのが窺えるちょっとイタい美容外科医みたいな──に渡辺のことを任せ、僕はというと待合室のソファーに腰掛け、文庫本──メインの叙述トリックがバレバレなのに新本格のパイオニア的作品と称賛されているミステリー──を開いていた。渡辺は今、検査なりを受けているところだ。
壁掛け時計を見ると、午後六時になろうとしていた。 再び活字だけの虚構世界に沈もうとしたところで、通路の奥の診察室から渡辺が出てくるのが目の端に映った。
浮かない、というか難しい顔をした渡辺は、待合室まで来ると僕の隣に尻を下ろした。
「新型HIVにでも罹ってた?」僕は尋ねた。
新型HIVとは、近年発見された、感染から三年生きられればいいほうと言われるヒト免疫不全ウイルスだ。一般にウイルスの毒性と感染力は反比例すると言われているけれど、新型HIVは例外で、致死率がカンストしているのに極めて不活化しにくいという死神と悪魔がタッグを組んだかのような性能をしている。救いは感染経路が限られていることくらいで、それが隔離措置に至っていない理由なんだけど、具体的には、潜伏期間を過ぎた感染者の血液、精液、膣分泌液又は母乳を摂取しない限り感染することはない。とはいえ裏を返せば摂取するとほぼ確実に感染し、すなわち死亡するということであり、それゆえ遅効性の毒として使用でき、効率的幸福追求を図った感染者が血液なりを販売する事案が後を絶たない。
そんなのを移されたら誰だって今の渡辺のように憂慮の顔をするだろう。
渡辺はかぶりを振った。
「性病の類いは大丈夫だった。そうじゃなくて、なかったの」
「何が」
「証拠が」
「体液とか体毛とかのこと?」
渡辺は首肯した。「それらしいものが何も出てこなくて……」
「ああ」と理解の声を出して、「それで疑われたんだ?」
渡辺は再びうなずいた。
被害者女性本人の申告とその知り合いの証言だけでも被害届を受理させられるが、現実には慰謝料狙いの偽証を疑われてしまうことがほとんどだ。つまり、本人とその知人の共謀による狂言だと──たとえ傷があろうと──思われるのだ。警察はまともに動いてくれない。狼少年ならぬ狼少女。半世紀──あるいはそれ以上──にわたって積み重ねられてきた偽証冤罪の実績のなせる業だった。
こうなると冤罪じゃない被害者は大変だ。犯人を捕まえてほしければ、自分で調査するか大枚をはたいて探偵を雇うかして証拠を集めなければならない。
けれど渡辺には、近距離でのタクシー代すら出し惜しむくらいだ、後者は無理だろう。
となると自分の靴底を磨り減らすしかないが、しかしその場合、犯人の尾を踏んで手痛い反撃を食らうかもしれない。せっかく奇跡的確率を突破して助かった命なのにそんなリスクを負いたがる被害者は少ないと聞く。
であれば、泣き寝入りしかないわけだけど──
「渡辺さんはどうしたいの?」
「わからない。まだ混乱してて頭が上手く働かないのよ」
と言いつつ渡辺は、目付きを険しくさせ、
「でも、あの男のことは絶対に赦せない。野放しになんかしたくない。できることならわたしがこの手で殺してやりたいくらいよ。でも……」
「怖い?」
「ま、どうするかはゆっくり決めればいいんじゃない? 焦ったところで駄目なときは駄目なものだしね」
「うん、わかってる」
とはいえ僕は、ほとんど確信していた。
優秀な能力に見合った強い自尊心を持つ渡辺のことだから、易きに流れ、踏みにじられた尊厳に見て見ぬふりをし、自分を
これは直感に近いのだけど、少しだけ僕に似ているな、と思う。きっとこの美しい少女は不器用なのだ、と。
「──あのさ」
だから、渡辺が覚悟を決めたように眼差しに強さを取り戻したのにも驚きはなかった。
「お願いがあるんだけど」
そう言う美しい少女の美しい声から、まぁまぁ鼻が利くと自任する僕は若干の醜い媚のニュアンスを嗅ぎ取った。
「何?」
「捜査を手伝ってほし──」
「やだよ──」僕は言下に拒絶した。けれどそれは本当は嘘で、「と言いたいところだけど、いいよ」
渡辺は、自分から頼んでおきながら色よい返事が貰えるとは思っていなかったみたいで、「嘘、ホントにいいの?」と目を丸くしている。
「僕さ、古い小説が好きなんだよね」
「
「それも嫌いじゃないけど、治ちゃんじゃあせいぜい愛人枠ってとこだね」
「太宰治が愛人……」憮然としてつぶやいた渡辺は、「つまり佐藤君はゲイなの?」
とんでもない誤解──普通にノーマルなので、
「違うから。ただの比喩でしょうが」
渡辺は破顔一笑、悪戯っぽく笑い、「嘘嘘、わかってるわよ」
「なら、いいけど」
弛緩した空気が落ち着くと、それで、というように目顔で説明の先を促された。
「僕が本当に愛してるのは、そのもうちょい後、平成生まれの子たちなんだけど、その中には当然ミステリーも含まれてる」
渡辺は、ああ、と得心がいった顔になり、
「たしかに、目出し帽の正体を捜すっていうのは探偵小説みたいだね」
僕は、「そういうこと」とうなずいてみせた。「君には悪いけど、ちょっとおもしろそうだなって思ってる」
「それでも全然いいよ」と言う渡辺は、前を見たまま悲しそうに視線を下げた。「現状だと、証拠もなく信じてくれるのは佐藤君だけだから」
「僕じゃ不満?」
「そういう意味じゃないってば」と、渡辺のほうこそ不満げな口調で、けれど棘はない。「ありがたいと思ってる。一人だとやっぱり心細いもの。推理に自信もないし」
「──じゃ、決まりだね」
「うん、よろしくお願いします」
というわけで、この日、美男美女のバディーが結成された。
支払が終わり、僕の本音としてはこのまま渡辺を宵闇の町に置き去りにして一人になりたいところだったのだけど、その気色を察知したらしき彼女が機先を制するように僕の手首を掴んできた。言葉はなくともその目は、一人にしないで、怖いの、うちまで送って、と饒舌に訴えていた。
産婦人科のクリニックの前で少年にすがる泣き出しそうな少女とそれを無表情に見返す少年の組み合わせは、傍目にはどう映るだろうか。きっとホームズとワトスンには見えない。それどころか、訳ありだと邪推もとい真相を穿った推理をするに違いない。端的に言って、とても見場が悪かった──ま、それはどうでもいいんだけど。
「誘ってるの?」
などと軽口を叩いてみた。
が、返ってきたのは、潤みかけた眼差しと、深刻そうな声の、
「ごめんなさい、今夜は甘えさせて」
その言い方だとどちらとも取れるということにも気付けないほど追い詰められているみたいだった。
僕は、渡辺を彼女の自宅──母親と二人で暮らしているというアパートに送り届けた。
手首が痛かったから。
というのは嘘だけど、あるいは嘘ではないかもしれない。
というのは嘘ではない。
アパートの中に渡辺が消えると、ようやく一人になれた。ほっと息をつく。空を見上げれば濁った月、すっかり夜だった。
僕は来た道を引き返そうと
──ピコン♪
スマートフォンが鳴った。メッセージの通知音だ。
嫌な予感がして、記憶に心当たりを探したら、それはすぐに見つかった。相合い傘だ。あれは失敗だったかもしれない。
僕は歩きはじめながらメッセージを開いた。
『今すぐ会いたい』
案の定、予感は的中していた。
送り主は例のお喋り女──
ちなみに、赤萩はお隣、B組の担任教師である。
平成純文学風に今の僕の気持ちを表現するならば、〈はぁやれやれ〉だ。