【造られた妖精の少年】は、異能学園で“魔”を滅ぼす――ⅩⅢ 現代群像戦線 作:神野あさぎ
「これは……いったい……」
壁に浮かぶ赤い文字――血のように濃く、しかし乾いて鈍く光っている。
『きょうくんへ、ぼくも、かんかされちゃったよ!』
(きょうくんへ……きょう……か)
風悪は胸の奥でその名を繰り返した。
“きょう”――
風悪はすぐにスマートフォンを取り出し、その文字を写真におさめた。
文字の線は震え、滲み、どこか苦悶にも似た歪みを帯びている。
「風悪君、どうでした?」
少し離れた場所で待っていた
風悪は写真を見せ、低く答えた。
「きょうって……凶のことかな?」
「彼にも伝えましょう!」
黒八の提案に頷き、風悪は夜騎士へと写真を送信した。
◇
──同刻、夜騎士宅。
夜騎士凶は自室で机に向かっていた。
静かな部屋に、ペンの走る音だけが響いている。
彼の右眼には淡い光が宿っていたが、左眼は前髪の下で沈黙していた。
その眼は、中学の頃の戦闘で傷を負い、二度と光を取り戻すことはなかった。
スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前は――風悪。
添付された写真を開いた瞬間、夜騎士の表情が固まった。
見覚えのある筆跡。
震える指先が、無意識にその名を呟く。
「……海豚悪天《いるか あくてん》……」
彼の脳裏に、中学時代の記憶が蘇る。
海王《かいおう》中学――そこには、夜騎士、王位、妃、そして三井野がいた。
海豚悪天もまた、その同級生のひとりだった。
高校進学を機に道は分かれた。
彼は別の学校へと進み、この
なのに、なぜ――この学園の壁に、あの筆跡が。
夜騎士は眉を寄せ、スマートフォンを握りしめた。
「……侵入した、のか?」
だが、わざわざ他校の生徒が危険を冒してまで残した理由が分からない。
挑発か、あるいは何かの警告か。
答えのないまま、夜騎士は長く息を吐いた。
◇
──翌日。
昨日の“赤い文字”の件は、すでに学園中の話題になっていた。
休み時間のたびに、誰もが噂を交わす。
「血で書いたらしい」「呪いじゃないか」――そんな声が廊下に広がる。
七乃朝夏は心配そうに二階堂
彼女の視線に気づいた二階堂は、微笑んで「大丈夫だよ」と短く返す。
その声は穏やかだったが、どこか無理をしているようにも聞こえた。
教室の後方では、風悪、夜騎士、王位が小声で話していた。
「凶、昨日の……」
「ああ、多分オレ宛だ」
夜騎士は風悪の言葉を遮り、低く答えた。
視線は机の上の一点に落ちている。
「あの文字、海豚悪天のだよね」
王位が静かに続けた。
「いるか、あくてん?」
風悪は聞き慣れない名を繰り返す。
「同じ海王中学だった奴。高校は別だ。
わざわざ書きに来たってことは……挑発、だろうな」
夜騎士の声には、警戒と怒りが滲んでいた。
「この、“かんかされた”ってのは?」
風悪が問うと、王位がゆっくりと口を開いた。
「多分だけど、“魔”に感化された、じゃないか?」
目を閉じたままの王位の声が、静かに教室に落ちる。
この世界の人間は、誰もが“魔”の影響を受ける可能性を持っている。
しかし、暴徒と化して暴れる者ばかりではない。
理性を保ち、静かに、しかし確実に“魔”の意思を遂行する者もいる。
海豚悪天――それはまさに後者だった。
理性を残したまま、冷酷に標的を追い詰める“異常な正気”の持ち主。
「また……か。本当に厄介だ」
夜騎士が低く呟く。
その声には、怒りよりも哀しみに近い色が混じっていた。
窓の外では、曇天の雲が風に流れていく。
黒八空はそんな三人を、心配そうに見つめていた。
その瞳には、微かな不安と、何かを予感するような光が宿っていた。
◇
小休憩の時間。
教室のざわめきが一瞬ゆるむ。
その中で――
「風悪君、ちょっといいかな?」
三井野
風悪は首を傾げながらも立ち上がり、彼女と一緒に廊下へ出る。
「三井野、どうした?」
「風悪君、凶君と仲良さげだから……言っておこうかと思って」
「?」
三井野の表情はどこか沈んでいた。
言葉を探すように小さく息を吸い込み、話し始める。
「私、中学の後半だけ、凶君と王位君と同じ海王中学に行ってたの」
その声には、少しの緊張と躊躇いが混じっていた。
彼女は窓際に視線を向ける。
午後の光が差し込んで、頬に柔らかな影を作っていた。
「私が来た時にはもう、事件は起こった後だったの」
「事件?」
風悪が問い返す。
三井野は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、ゆっくりと続けた。
「転校してきた私は、詳しくは知らないの。
でも、海豚悪天って人とひと悶着あったって聞いた」
「海豚悪天!」
風悪の目が見開かれる。
今朝、王位の口から出た名が頭をよぎった。
「そう、文字の……」
三井野が小さく頷き、続けた。
「凶君も王位君も大変な目に遭ったって聞いた。
凶君が左眼を隠しているのも、その時の……らしい」
声がかすかに震えていた。
風悪は黙ってその言葉を受け止める。
窓の外で風が木々を揺らし、光が一瞬翳った。
「そっか、教えてくれてありがとう」
「う、うん」
三井野は短く返し、胸の前で指を絡めた。
何かを言いかけて、言葉を飲み込むように俯く。
「私の異能は戦闘系じゃないから……
私の分も、力になってあげて」
その声には、祈りにも似た響きがあった。
そう言い残すと、三井野はくるりと背を向け、教室へと戻ろうとする。
「三井野……」
風悪が小さく呼び止めた。
「どうして、そこまで……」
ふとした疑問が口をついて出る。
三井野が振り返り、目を泳がせる。
「あ、いや、これは!」
慌てて手を振り、顔がみるみる赤くなる。
「深い意味はない! 深い意味はないから!」
その必死な声に、風悪は思わず苦笑した。
わざとらしく視線を逸らし、ぽつりと呟く。
「あの顔立ちだもんな……」
その一言に、三井野の頬がさらに真っ赤に染まった。
胸の奥に隠していた気持ちが、風の音に混じって消えていく。
彼女はそっと背を向け、教室へ戻っていった。
──風悪はその背中を静かに見送った。
あの赤い文字の謎と、夜騎士の過去。
どちらも、まだ風の向こうに隠されたままだった。