【造られた妖精の少年】は、異能学園で“魔”を滅ぼす――ⅩⅢ 現代群像戦線   作:神野あさぎ

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第二十八話 影、忍び寄る声

「これは……いったい……」

 

 風悪(ふうお)は声を失っていた。

 壁に浮かぶ赤い文字――血のように濃く、しかし乾いて鈍く光っている。

 

『きょうくんへ、ぼくも、かんかされちゃったよ!』

 

(きょうくんへ……きょう……か)

 

 風悪は胸の奥でその名を繰り返した。

 “きょう”――夜騎士(よぎし)凶。彼のことしか思い浮かばない。

 

 風悪はすぐにスマートフォンを取り出し、その文字を写真におさめた。

 文字の線は震え、滲み、どこか苦悶にも似た歪みを帯びている。

 

「風悪君、どうでした?」

 

 少し離れた場所で待っていた黒八(くろや)空が声をかける。

 風悪は写真を見せ、低く答えた。

 

「きょうって……凶のことかな?」

「彼にも伝えましょう!」

 

 黒八の提案に頷き、風悪は夜騎士へと写真を送信した。

 

 ◇

 

 ──同刻、夜騎士宅。

 

 夜騎士凶は自室で机に向かっていた。

 静かな部屋に、ペンの走る音だけが響いている。

 彼の右眼には淡い光が宿っていたが、左眼は前髪の下で沈黙していた。

 その眼は、中学の頃の戦闘で傷を負い、二度と光を取り戻すことはなかった。

 

 スマートフォンが震えた。

 画面に表示された名前は――風悪。

 添付された写真を開いた瞬間、夜騎士の表情が固まった。

 

 見覚えのある筆跡。

 震える指先が、無意識にその名を呟く。

 

「……海豚悪天(いるか あくてん)……」

 

 彼の脳裏に、中学時代の記憶が蘇る。

 海王(かいおう)中学――そこには、夜騎士、王位、妃、そして三井野がいた。

 海豚悪天もまた、その同級生のひとりだった。

 

 高校進学を機に道は分かれた。

 彼は別の学校へと進み、この切ノ札(きりのふだ)学園にはいないはず。

 なのに、なぜ――この学園の壁に、あの筆跡が。

 

 夜騎士は眉を寄せ、スマートフォンを握りしめた。

 

「……侵入した、のか?」

 

 だが、わざわざ他校の生徒が危険を冒してまで残した理由が分からない。

 挑発か、あるいは何かの警告か。

 答えのないまま、夜騎士は長く息を吐いた。

 

 ◇

 

 ──翌日。

 

 昨日の“赤い文字”の件は、すでに学園中の話題になっていた。

 休み時間のたびに、誰もが噂を交わす。

「血で書いたらしい」「呪いじゃないか」――そんな声が廊下に広がる。

 

 七乃朝夏は心配そうに二階堂秋枷(あきかせ)を見つめていた。

 彼女の視線に気づいた二階堂は、微笑んで「大丈夫だよ」と短く返す。

 その声は穏やかだったが、どこか無理をしているようにも聞こえた。

 

 教室の後方では、風悪、夜騎士、王位が小声で話していた。

 

「凶、昨日の……」

「ああ、多分オレ宛だ」

 

 夜騎士は風悪の言葉を遮り、低く答えた。

 視線は机の上の一点に落ちている。

 

「あの文字、海豚悪天のだよね」

 

 王位が静かに続けた。

 

「いるか、あくてん?」

 

 風悪は聞き慣れない名を繰り返す。

 

「同じ海王中学だった奴。高校は別だ。

 わざわざ書きに来たってことは……挑発、だろうな」

 

 夜騎士の声には、警戒と怒りが滲んでいた。

 

「この、“かんかされた”ってのは?」

 

 風悪が問うと、王位がゆっくりと口を開いた。

 

「多分だけど、“魔”に感化された、じゃないか?」

 

 目を閉じたままの王位の声が、静かに教室に落ちる。

 

 この世界の人間は、誰もが“魔”の影響を受ける可能性を持っている。

 しかし、暴徒と化して暴れる者ばかりではない。

 理性を保ち、静かに、しかし確実に“魔”の意思を遂行する者もいる。

 

 海豚悪天――それはまさに後者だった。

 理性を残したまま、冷酷に標的を追い詰める“異常な正気”の持ち主。

 

「また……か。本当に厄介だ」

 

 夜騎士が低く呟く。

 その声には、怒りよりも哀しみに近い色が混じっていた。

 

 窓の外では、曇天の雲が風に流れていく。

 黒八空はそんな三人を、心配そうに見つめていた。

 

 その瞳には、微かな不安と、何かを予感するような光が宿っていた。

 

 ◇

 

 小休憩の時間。

 教室のざわめきが一瞬ゆるむ。

 その中で――

 

「風悪君、ちょっといいかな?」

 

 三井野(さん)の声が、控えめに響いた。

 風悪は首を傾げながらも立ち上がり、彼女と一緒に廊下へ出る。

 

「三井野、どうした?」

「風悪君、凶君と仲良さげだから……言っておこうかと思って」

「?」

 

 三井野の表情はどこか沈んでいた。

 言葉を探すように小さく息を吸い込み、話し始める。

 

「私、中学の後半だけ、凶君と王位君と同じ海王中学に行ってたの」

 

 その声には、少しの緊張と躊躇いが混じっていた。

 彼女は窓際に視線を向ける。

 午後の光が差し込んで、頬に柔らかな影を作っていた。

 

「私が来た時にはもう、事件は起こった後だったの」

「事件?」

 

 風悪が問い返す。

 三井野は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、ゆっくりと続けた。

 

「転校してきた私は、詳しくは知らないの。

 でも、海豚悪天って人とひと悶着あったって聞いた」

 

「海豚悪天!」

 

 風悪の目が見開かれる。

 今朝、王位の口から出た名が頭をよぎった。

 

「そう、文字の……」

 

 三井野が小さく頷き、続けた。

 

「凶君も王位君も大変な目に遭ったって聞いた。

 凶君が左眼を隠しているのも、その時の……らしい」

 

 声がかすかに震えていた。

 風悪は黙ってその言葉を受け止める。

 窓の外で風が木々を揺らし、光が一瞬翳った。

 

「そっか、教えてくれてありがとう」

「う、うん」

 

 三井野は短く返し、胸の前で指を絡めた。

 何かを言いかけて、言葉を飲み込むように俯く。

 

「私の異能は戦闘系じゃないから……

 私の分も、力になってあげて」

 

 その声には、祈りにも似た響きがあった。

 そう言い残すと、三井野はくるりと背を向け、教室へと戻ろうとする。

 

「三井野……」

 

 風悪が小さく呼び止めた。

 

「どうして、そこまで……」

 

 ふとした疑問が口をついて出る。

 三井野が振り返り、目を泳がせる。

 

「あ、いや、これは!」

 

 慌てて手を振り、顔がみるみる赤くなる。

 

「深い意味はない! 深い意味はないから!」

 

 その必死な声に、風悪は思わず苦笑した。

 わざとらしく視線を逸らし、ぽつりと呟く。

 

「あの顔立ちだもんな……」

 

 その一言に、三井野の頬がさらに真っ赤に染まった。

 

 胸の奥に隠していた気持ちが、風の音に混じって消えていく。

 彼女はそっと背を向け、教室へ戻っていった。

 

 ──風悪はその背中を静かに見送った。

 あの赤い文字の謎と、夜騎士の過去。

 どちらも、まだ風の向こうに隠されたままだった。

 

 ◇

 

 夕暮れの校舎。

 生徒たちの声が消え、廊下に静けさが戻る。

 放課後の光は赤く傾き、窓の外では雨雲がゆっくりと広がっていた。

 

 三井野(さん)は、ひとり教室に残っていた。

 明日の発表に向けて、ノートをまとめていたのだ。

 窓の外では風が鳴り、校舎の壁がかすかに震えている。

 

「……ちょっと、寒いな」

 

 小さく呟いて窓を閉めようとした瞬間、背後で音がした。

 

 ――コツ。

 

 机の脚が床を鳴らすような、かすかな音。

 三井野は反射的に振り返る。

 教室の入り口には、誰の姿もなかった。

 

(……気のせい?)

 

 息を呑み、再び前を向く。

 だが、次の瞬間――耳元で誰かの声がした。

 

「……三井野っち」

 

 ぞくりと背筋が凍る。

 振り向いた時、すでにその影は目の前にいた。

 

 黒いフードを被った人物。

 性別も年齢も分からない。

 ただ、赤い光が瞳の奥で揺らめいていた。

 

「だ、誰……?」

 

 三井野が後ずさる。

 影は答えず、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

 足元から黒い靄が漏れ出し、床を這った。

 

「やめて――!」

 

 瞬間、三井野の口から歌が漏れる。

 彼女の異能が、音波が空気を震わせ、影の動きを止めようとした。

 

 だが、相手は動じなかった。

 その靄から黒い無数の茨が這い出る。

 三井野の歌声を意に介さず。

 

「っ――!」

 

 黒い衝撃波が走り、窓ガラスが砕けた。

 三井野は吹き飛ばされ、教室の隅に叩きつけられる。

 痛みと恐怖で視界が歪む。

 

「……やっぱり、歌うだけ」

 

 影が冷たく呟いた。

 そして、懐から何かを取り出す。

 白い紙切れ――血のような赤文字が書かれている。

 

『きょうくんへ ぼくからのプレゼントだよ』

 

「ま、待って……あなた、誰なの……?」

 

 問いは届かなかった。

 影は窓の外へ消えるように飛び出していった。

 

 ◇

 

 ――その夜。

 

 風悪(ふうお)のスマートフォンが鳴った。

 画面には黒八(くろや)空からのメッセージ。

 

『三井野さんが……襲われました!』

 

 風悪は一瞬、呼吸を忘れた。

 夜騎士(よぎし)と王位へ即座に連絡を入れる。

 

「……三井野が!?」

 

 夜騎士の表情は沈み、冷たく光る。

 

 彼らが駆けつけた時、教室には砕けた窓と血の跡。

 床には、あの赤い紙が落ちていた。

 

『きょうくんへ ぼくからのプレゼントだよ』

 

 王位が紙を拾い上げる。

 指先に、微かに残る“魔”の反応。

 

「……やっぱり、悪天、奴が……」

 

 夜騎士の声が、氷のように冷たく響いた。

 

 風が教室を抜ける。

 割れた窓の向こう、黒い雲が低く垂れ込めていた。

 雨が降り出す――嵐の前触れのように。

 

 

 夜の医療棟。

 窓の外では、冷たい雨が静かに降り続いていた。

 消毒液の匂いがわずかに漂い、機械の電子音が規則的に響いている。

 

 風悪、夜騎士、王位、そして黒八が駆けつけた時には、

 三井野燦はすでに運び込まれ、処置を受けていた。

 

 命に別状はなかった。

 だが、その身体には深い裂傷と痣がいくつも刻まれていた。

 あの穏やかな笑顔からは想像できないほど、酷い傷だった。

 

 辻(せん)が病室の奥から現れる。

 まだ包帯の残る腕を押さえながら、静かに問うた。

 

「何かあった?」

「三井野が襲われた」

 

 風悪の声には怒りと焦りが入り混じっていた。

 

「命は大丈夫らしいのですが、怪我がひどいらしくて……」

 

 黒八が心配そうに言う。

 握り締めた手は小刻みに震えていた。

 

「もしかして“魔”?」

 

 辻が顔を上げる。

 その問いに、風悪が唇を噛みながら答えた。

 

「“魔”によって狂気に飲まれた人の仕業……かな?」

「暴徒?」

「いや……」

 

 風悪の言葉を受け、辻が眉をひそめる。

 その様子を見ていた王位が、低く口を開いた。

 

海豚悪天(いるか あくてん)ってやつの仕業。”魔”の狂気にあてられ、悪事を行っている。

 奴は理性を保ったまま、静かに、ゆっくりと周囲から攻めている」

 

 淡々とした声。

 けれど、その奥には確かな怒りがあった。

 

「暴走しない人か。逆に怖いタイプ」

 

 辻がぽつりと呟く。

 その目には、自分の“暴走”を重ねた複雑な影があった。

 

「昔からそうだ。あいつは、直接オレを狙わない」

 

 夜騎士が腕を組み、冷静に言い放つ。

 その口調には抑えた怒気がにじんでいた。

 

 その時、三井野を診察していた医師が近づいてきた。

 五人の前で静かに告げる。

 

「外傷はガラス片だけではありません。

 まるで何かで切り裂かれたような傷跡が複数あります」

 

 切り裂かれた――その言葉に、夜騎士の目が鋭く光る。

 

(悪天の異能じゃ、あんな切り傷はできない……)

 

 夜騎士は考えた。

 ならば、別の誰か――悪天の“駒”が動いたということだ。

 

「悪天の奴、誰かを差し向けたか」

 

 低く呟くその声に、室内の空気が一瞬張りつめた。

 

「切り裂かれているなら……魚ノ目憂(うおのめ ゆう)、彼女か」

 

 王位が静かに告げる。

 その瞼の奥に、確かな怒りが灯っていた。

 

「魚ノ目さん?」

 

 黒八が驚きの声をあげる。

 

「悪天に従ってる生徒。憂も中学が同じだったんだ」

 

 夜騎士が答えた。

 言葉の端に、わずかな苦さが混じる。

 

 魚ノ目憂(うおのめ ゆう)――海王(かいおう)中学出身。

 海豚悪天とともに、今は海皇(かいおう)高校に籍を置く。

 異能は《黒茨《くろいばら》》――足元から無数の黒い茨を生やし、

 それを鞭のように操る能力。

 鋭く、容赦なく、空間を裂く。

 捕縛も可能なそれは、敵を逃さぬ“罠”だった。

 

「なるほど」

 

 王位が短く言い、状況を整理する。

 

 三井野(さん)は、海豚悪天の手下・魚ノ目憂によって襲撃された。

 そして、悪天はその影から笑っている――。

 

「“魔”さえいなければ……」

 

 辻が震える声で呟いた。

 自身が“魔”の影響で暴走したことを思い出していた。

 それが、誰かを傷つける恐ろしさを知っているからこそ出た言葉だった。

 

「まあ、辻はもう少し休め。こっちはオレがなんとかする」

 

 夜騎士が低く、しかし力強く言った。

 

「“オレ達”だろ」

 

 風悪と王位の声が同時に重なる。

 黒八も隣でこくりと頷いた。

 

「……すまん、そうだな。“オレ達”でなんとかするぞ!」

 

 決意のこもった夜騎士の声が医療棟に響く。

 その時――

 

「医療棟ではお静かに」

 

 担当医が柔らかく制する声をかけた。

 空気が少し和らぎ、全員の表情にわずかな笑みが浮かぶ。

 

 だが、その夜。

 外の雨は止まなかった。

 

 冷たい風が窓を叩く音の奥、

 “魔”の気配は確実に、この学園へと近づいていた。

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