【造られた妖精の少年】は、異能学園で“魔”を滅ぼす――ⅩⅢ 現代群像戦線   作:神野あさぎ

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第六十話 夏の幻、描きかけの空

 夏の午後、蝉の声が遠くで鳴いている。

 部屋の中は静かで、扇風機の風が絵の具をかすかに揺らしていた。

 

 机の上にはスケッチブック。

 白いページの上に、途中まで描かれた“空”がある。

 雲の端だけを残して、筆が止まっていた。

 

「……んー、どうしても“音”が足りないなぁ」

 

 鳩絵(はとえ)かじかは、あごを手に乗せて呟いた。

 描いた風鈴が鳴るように見せたい。

 でも、音は描けない。

 どんなに色を重ねても、風の“匂い”までは映らない。

 

「ねえ、どうしたら、“風の音”って描けるんだろ」

 

 独り言に、返事はない。

 部屋には鳩絵と、乾きかけた絵の具の匂いだけ。

 

 いつの間にか、まぶたが重くなっていた。

 筆を握ったまま、鳩絵は机にうつ伏せる。

 

 *

 

 ――夢を見ていた。

 

 スケッチブックの中の空。

 描きかけの雲が動いていた。

 風鈴が鳴り、短冊が風にそよぐ。

 

 その音が、耳ではなく“胸”に届いた。

 

「わ……動いてる」

 

 鳩絵は夢の中で立ち上がる。

 足元は白い。

 地面のない空の上を歩くような感覚。

 

 風鈴が、ひとつ、目の前に浮かんでいた。

 透明なガラスの中に、絵の具が渦を巻いている。

 

「……あたしの描いたやつ、だ」

 

 短冊には自分の字があった。

 『みんなが笑っていられますように』

 

 音が鳴るたび、短冊の文字が少しずつ薄れていく。

 そして、音の形をした光が、空の方へ吸い込まれていった。

 

「待って、どこ行くの……?」

 

 鳩絵は手を伸ばす。

 届かない。

 その光は、まるで“願い”そのもののように、どこかへ消えていく。

 

 足元の空がひび割れた。

 音が逆に鳴る。

 

 ――チリン、リン。

 

 風鈴が裏返って、色が反転する。

 青い空が、夜の群青に変わっていく。

 

「……夢?」

 

 誰かの声がした。

 聞き覚えのある声。

 でも、姿は見えなかった。

 

『“描いたもの”は、時々、見返してくるんだよ』

 

 その声とともに、風が吹いた。

 風鈴の音が鳩絵の胸に重なり、光の粒が弾けた。

 

 *

 

 ――目を覚ます。

 

 机の上には、乾ききったスケッチブック。

 描きかけの空の上に、知らない筆跡で小さな線がひとつ増えていた。

 それは、風鈴の糸のような細い線。

 

「……え?」

 

 鳩絵は小さく息を呑む。

 部屋の中に風はない。

 それなのに、どこかで風鈴が鳴った気がした。

 

 ――チリン。

 

 窓の外の空は、昼と夜のあいだ。

 雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。

 

「夢、だったのかな」

 

 鳩絵は笑って、筆を握り直した。

 もう一度、風鈴の絵に手を伸ばす。

 

「ううん、夢でもいいや。

 だって、描けたもん。“風の音”――ね!」

 

 夏の午後の光がスケッチブックを照らす。

 鳩絵の筆が紙の上を走り、透明な空の音が、そこに宿っていった。

 

 ――チリン。

 

 小さな音が、部屋の空気を震わせた。

 風もないのに、どこかで風鈴が鳴った。

 

 鳩絵かじかは、スケッチブックの前で目を瞬いた。

 さっき夢の中で見た“風鈴の音”が、まだ胸の奥に残っている。

 

「……もしかして、これ?」

 

 机の上に広がった絵の中で、

 描きかけの風鈴の糸が――ゆっくりと、動いた。

 

 まるで、風に触れたみたいに。

 

「わっ……動いた!」

 

 鳩絵は慌てて筆を握り、目を凝らす。

 絵の具が光を反射し、風鈴の輪郭が淡く揺れていた。

 次の瞬間、音が――逆に鳴った。

 

 ――リン、チリ……。

 

「……逆鳴り?」

 

 鳩絵は息を呑んだ。

 どこかで、何かが“返してきた”音だった。

 

 *

 

 同じころ。

 切ノ札学園・寄宿舎(アパート)の屋上。

 

 風悪は夜の風を浴びながら、空を見上げていた。

 夏の終わりの風が、どこかざらついていたのだ。

 

 ふと、耳の奥に小さな音が届く。

 

 ――チリン。

 

 それは、鳩絵が夢で聞いたのと同じ音。

 けれど、風悪にとっては“風そのものの声”のように聞こえた。

 

「……誰だ?」

 

 風悪は呟く。

 翅が微かに光り、風が一瞬だけ逆流した。

 

 音がまた、返ってくる。

 今度は少し遠く、しかし確かに届いた。

 

 ――リン……チリ。

 

 風悪は目を細め、空気の流れを読む。

 どこかで、“誰か”が風を鳴らしている。

 けれどその波形は、自然の風ではなかった。

 

「鳩絵……?」

 

 無意識に名前を呼んでいた。

 翅が応えるように震える。

 風が上へと伸び、空に描かれた見えない線を撫でていく。

 

 夜空の向こうで、わずかに光が走った。

 それは、誰かの願いがまだ消えていない証。

 

 *

 

 翌朝。

 鳩絵はスケッチブックを開いたまま机に突っ伏していた。

 眠りながらも、笑っている。

 

 そのページの上には、完成した“風鈴の絵”。

 透き通るガラスの中に、淡い風の線が描かれていた。

 

 ページの隅に、知らない筆跡で小さく文字が残っていた。

 

 『ありがとう、かじかちゃん』

 

「……?」

 

 鳩絵は寝ぼけまなこでそれを見つめ、

 そして小さく笑った。

 

「どういたしまして、だよ」

 

 風がカーテンを揺らす。

 どこかで、風鈴が一度だけ鳴った。

 

 ――チリン。

 

 夏の幻は、静かに終わりを告げた。

 

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