転生ビーストテイマーは競馬場で伝説を刻む
第二話
プロローグ ――旅立ちの朝――
四月の朝、まだ日の出には時間があり、空は霞がかかって白かった。
颯真は荷物を肩に掛けて馬房棟へ向かった。砂利を踏む音が朝の静寂に響く。鞄の中身はシンプルだ。着替えと、黒猫のミーが前夜に連れて行けと入り込んだ温もりの記憶と――数枚の写真。十二歳の夏、アストラルと初めて勝った日に藤堂が無言で撮ってくれた一枚は、神馬のレイをまとったアストラルの首に抱きついていて、アストラルも少し嬉しそうに見つめている。三年経った今もその構図は変わらないが、アストラルの目の色だけは確実に変わっていた。
馬房の前に来ると、アストラルが柵の外に顔を出して、颯真の匂いを吸っている。鹿毛の馬体が薄明かりの中でゆっくりと呼吸している。隣の房ではヴァルガスが静かにこちらを見て立っていた。漆黒の馬体に、春の朝光がうっすら滲んでいる。
颯真はアストラルの頬に手を当てた。伝わってくるものがある。言葉ではない。でも確かな意味を持つ流れが、掌に流れ込んでくる。
(いくのか)
問いかけというより確認だ。もうわかっている、という前提を持った確認。颯真が頷くと、アストラルは鼻先を颯真の肩に押し当てた。重い。温かい。三年間、朝ごとに感じてきた重さだった。
二頭と颯真の三年間を振り返ると、ずいぶん濃密な時間だったと思う。
ヴァルガスがこの牧場に来たのは、颯真がアストラルに出会った翌月のことだ。あの秋駆け神事でのレースの後、颯真がヴァルガスに話しかけるのを隣で見ていたヴァルガスのオーナー――元調教師の老人――が、翌週、藤堂の牧場に電話を入れてきた。
「あの少年に、ヴァルガスを譲りたい」
藤堂は受話器を持ったまましばらく沈黙して、颯真に目線を送り「預かります」とだけ答えた。その夜、二人で短く話し合った。
「ヴァルガスを引き取る。お前がいる間はアストラルと併せて面倒をみろ」
「望むところです。あの子が、また走りたいと思うかもしれないから」
颯真はその時、ヴァルガスから感じた「かすかな揺れ」を思い出した。空虚の奥の奥、真っ平らな感情の底に、水滴が落ちた瞬間。あれを見捨てることが颯真にはできなかった。
こうして二頭が牧場に揃い、颯真の訓練が始まった。
翌年の秋駆け神事から、アストラルとヴァルガスはライバルになった。
二頭ともに乗馬として調整を続けながら、アストラルは障害馬術馬として、ヴァルガスは馬場馬術馬として、それぞれのセカンドキャリアを積んでいる。
年に一度の神事レースだけが颯真にとっての実戦だった。二年目、颯真はヴァルガスに騎乗しアストラルに挑戦した。ヴァルガスはスタートから迷いなく前へ出て、参道の直線を颯真と二人で駆け抜けた。アストラルに騎乗したのは藤堂の依頼を受けた現役の調教助手、通称攻め専。競り合いの末、ハナ差でアストラルが連覇した。お互いに出せる力を出した。そしてヴァルガスから立ち昇る「悔しさ」、指示を待つだけの空虚が薄くなり、代わりに熾き火のような熱を颯真には確かに感じていた。
そして昨年――中学三年の夏祭り。ヴァルガスが、勝った。
颯真がアストラルに乗り、調教助手がヴァルガスに乗ったレースだった。ラスト二百メートル、ヴァルガスと並んだ瞬間、颯真には感じ取れた。ヴァルガスの奥から来るもの。
(かちたい!)
それは、三年前にアストラルから感じたあの言葉と、まったく同じ熱を宿していた。
ゴール後、颯真はアストラルを降りて、ヴァルガスの首に手を当てた。伝わってきたのは疲労と、それを上回る充実だった。颯真は笑いながら言った。
「やっと走れたな」
ヴァルガスは動かなかった。でも耳の向きが、颯真の方へ傾いていた。
ただ颯真は前回も今回も勝てなかった。アストラルにもヴァルガスにも、自分が一番うまく乗れると思っていた。騎乗技術の差は体重差というハンデをもらっても埋められなかった。
「・・・・・・悔しいよう」
アストラルとヴァルガス両馬の首を両手で抱え、顔をサンドイッチするように壁を作り、滲む涙を隠す。
その様子を藤堂と調教助手の小宮が遠目に見ていた。
「先生、必ず勝て、本気で走れって言うから最初はなんの冗談かと思いましたが、今年も約束を守れてよかったです。ギリギリでしたけど・・・・・・というか、なんなんですあの子? ヤバい」
「だからだ。栗東で一番の攻め専であるお前に来てもらう必要があった」
藤堂の目はまっすぐ颯真を見つめていた。
二頭とのレースは今年で終わりだ。颯真が競馬学校に入学するから。そしてこの先、颯真が二頭と走ることがあるとすれば、それはもっと別の形になる。
颯真の頭の中に、三年分の記憶が流れる。
学校に行く前、毎朝五時に自転車で向かい馬房作業をした。最初は騎乗訓練の日だけと言われたが結局、毎日通うようになってしまった。放課後は週四で藤堂に叩き込まれた基礎騎乗。残りの日は机に向かって、競馬法規、馬学、レース映像の分析。そして前世の記憶と今世の感覚を照合するような、ビーストテイマーとしてのスキルを、こっそりと磨いた時間。
まず、この世界には魔力というものが無い。今思えばなんという万能性だろう。魔力で頭に術を描き念じれば、炎が飛ぶ、風が障壁となり、怪力を発揮し、人を癒す。魔獣との繋がり、契約にも魔力の補助が不可欠だった。
魂と魂を強固に結びつけるパスを構築し、指示を送る、感覚の共有や会話を含めた意思の疎通、身体強化を始めとする各種のバフを送り、魔獣が持つ特性を受けることもできた。
もしかして黒猫のミーは自分と同じでミミスの生まれ変わりなのではと思い、契約を結ぼうとしたが何度試してもパスの構築が全くできないし、魔力を練り上げることも感じることもできなかった。色々調べて世界の魔術師や錬金術師の伝承なども調べた末、残念ながらこの世界には魔力が無いという結論に達した時は本当に落ち込んだし、ミーがミミスの生まれ変わりかどうかも結局、解らなかった。
ただ、魂同士の絆は魔力と関係がない。ビーストテイマーとしての才能の部分だからだ。強固なパスが無くとも視界や聴覚の共有はある程度こなすことができるようになり、考えていることも単純ながら感じることができる。その難易度が魔力の補助がない分、隣の部屋に移動するのと月に降り立つくらいの差があるとしても、颯真には関係がなかった。
藤堂には、馬の感情を感知できることを話していた。だがその深さや、かつての契約獣たちの記憶については話していない。前世でのソーマとしての記憶は、三年かけてほとんど取り戻していた。銀狼のライム。蒼鷹のシア。翠竜のロック。闇猫のミミス。白鹿のキラ。彼らが最後に伝えてくれた温もりを、颯真は今も胸の奥に持っている。騎乗するたびに、その温もりが少しずつ姿を変えて蘇る気がした。
藤堂が事務所から出てきたのは、それから十分後のことだ。
白髪がここ三年でさらに増えたが、背筋は相変わらず真っ直ぐで、煙草の煙が春の朝気に白く溶ける。ちなみに颯真の頭は、昨夕に藤堂に刈ってもらったばかりだ。さっぱりとした丸坊主。昨日まであった前髪の感覚が、もうない。最初は少し驚いたが、洗髪が楽になった分、馬房作業に早く向かえると前向きに考えることにした。
「行くか」
「はい」
短い。いつも通り、余計なことを言わない男だった。
そして一冊のノートを颯真に差し出した。颯真は知っている。昨夜、灯りの消えない事務所で藤堂が長いことノートに何かを書いていたことを。
「三つだけ言う」
藤堂が煙草を地面に踏み消して、颯真の顔を正面から見た。
「お前の力は武器にもなるし足枷にもなる。委ねるな考えろ」
「勝てない時期、壁にぶつかる時が必ず来る。その時に腐るな」
三つ目は少し間があった。
「卒業して見習いが取れるまで、ここには来るな」
颯真は少し考えた。見習い騎手が一般免許に切り替わる条件は百一勝。
「卒業して、一年で帰ります」
藤堂の眉が、わずかに上がった。現在の年間最高記録は九十一勝だ。
「・・・・・・大きく出たな」
「アストラルとヴァルガスに早く会いたいんで。更新しますよ」
「そう簡単にいくと思うな」
「楽しみにしていてください」
藤堂はため息をついた。しかしその呆れの奥に、温かいものが混じっているのがわかる。颯真には、三年間でそれが分かるようになっていた。
アストラルが一声、低く鳴いた。
ヴァルガスは鳴かなかった。ただ颯真の背中を見ていた。その目に、三年前と違うものが宿っていることに、颯真は気づいていた。あの「空虚」はほとんど分からない程、薄くなっている。
(また来る)
颯真は心の中で伝えた。言葉ではなく、感情として。
二頭の馬が、朝日が登る春の光の中に佇んでいる。
颯真は一度だけ振り返って、歩き出した。
第一章 競馬学校への道 ――両親の反対と藤堂の一言――
話を少し遡らなければならない。
颯真が「騎手を目指す」と両親に告げたのは、中学二年の秋駆け神事の後のことだ。
父親の神谷拓也(かみや たくや)は、一般的なサラリーマンだ。競馬には縁がない。母親の絵里(えり)は小学校の養護教諭で、優しいが過保護な部分がある。二人ともが、颯真の言葉に最初は固まった。
「競馬学校?」
「うん。JRAの騎手候補生の学校。来年の八月に一次試験、十月に二次試験」
テーブルを挟んで向き合った家族の夕食が、静止した。
「・・・・・・騎手って、テレビで日曜日にやってる競馬の?」
拓也が確認するように言った。颯真は頷いた。
「うん。中央競馬の騎手に、僕はなります」
沈黙が続いた。それからほぼ同時に、両親が口を開いた。
「危なくない? 馬から落ちたら・・・・・・」と絵里。
「コネはないぞ。親が騎手だったり牧場や馬主の関係者でないと難しいんじゃないか?」と拓也。
颯真は準備していた答えを、一つずつ丁寧に話した。騎手の転落リスクの統計。JRAの候補生学校の選考基準と倍率。コネのない一般家庭からの合格実績。藤堂恒一という人物のこと、その指導のこと、アストラルとヴァルガスのこと。
でも、両親の顔は晴れなかった。
「颯真」と絵里が言った。「あなたの気持ちはわかるわ。馬が好きなのもよく知っています。でも・・・・・・騎手って、何年続けられるかわからないでしょう。それで食べていけるの? 世間様が見たら高校にも行っていない中卒よ? 馬に乗るなら、今やってる秋駆け神事だけでいいじゃない」
「食べていける人間になります」
「なります、じゃなくて」
「なります」
颯真は繰り返した。断言した。断言できるだけの確信が、三年間の積み重ねの中にあった。でも親に伝えることのできる言葉では、それを証明できなかった。
その夜は物別れに終わった。
翌週の土曜日、藤堂恒一が神谷家を訪ねてきた。
颯真は何も言っていなかった。だが藤堂は来た。いつも通りの作業着ではなく、高級そうなスーツをまとって。
両親は戸惑いながら藤堂をリビングに通した。颯真は自室にいるよう言われたが、ミーにリビングで聞いてもらい共有していた。
「颯真君の師匠をしております、藤堂と申します。JRAで調教師をしておりました」
調教師のバッジと経歴書、厩舎の成績。日本ダービー、ジャパンカップ、有馬記念。誰もが聞いたことがあるレース名が馬の口取り写真と共に机に広げられた。
「・・・・・・先生から、直接おいでいただけるとは」
「颯真君からは聞いてはいません。ただ、黙っていられなくなったので来ました」
藤堂の声は平静だった。いつも通りの、感情を交えない、しかし嘘のない声だ。
「私が言えることを言います。神谷颯真は、馬に乗ることへの才能があります。それは数字で証明できない類のものですが、私が六十年この世界を見てきて、これほどの資質を持つ子供に会ったことはない」
リビングが静まった。
「危険かどうかについては、危険です。正直に言います。落馬はある。怪我もある。競馬中の事故については生命保険に入ることも出来ません。しかし訓練を積んだ騎手が受ける怪我と、素人が受ける怪我は別物です。競馬学校でそれを学ぶための三年間があります」
「コネについては、関係ありません。JRAの選考は実技と学科、身体測定が主です。颯真君の体格と実力なら、受かります」
「食べていけるかどうかについて。私が保証はできません。この世界で生き残れるかは本人次第です。ただ、諦める理由が才能の欠如でないなら、チャンスを与えてやってほしい」
そう言って頭を下げ、ただ続けた。
「私の教え子でこれだけの子は、初めてです。これだけのことを言いに来たのも、初めてです。以上です」
絵里が何か言いかけたが、藤堂から立ち上がる気配がした。
「もう一つだけ」と拓也の声が聞こえた。「あなたは・・・・・・颯真を、信じているんですか」
少し間があった。
「信じています」
短い。六十年の経験が凝縮された言葉だった。
その夜、両親は颯真の部屋に来た。拓也が頭を掻きながら言った。
「・・・・・・わかった。受けてみろ。落ちたら別の話をしよう」
絵里は何も言わなかった。でも颯真の頭を一度だけ撫でて、部屋を出た。
颯真はその後しばらく、ベッドの上で黒猫のミーに頬を押し付けていた。ミーが発信してくる感情は穏やかで、満足していて、少しあたたかかった。
(ありがとう)
ミーには伝わっているのかいないのか、黒猫は何も答えずに颯真の膝の上で丸くなった。
競馬学校の合格通知が来た日、絵里は颯真の好きな料理を一品多く作った。拓也はいつもより一杯多くビールを飲んだ。それだけで十分だった。
今では二人とも、颯真の応援をしている。絵里は競馬の本を買い込んでいる。拓也はこっそりJRAのサイトで騎手成績の見方を調べていた。颯真はそれを知っているが、黙っていた。
第二章 滑走路 ―― 競馬学校・入学 ――
JRA競馬学校は、千葉県にある。
最寄りの駅からバスで七分。丘の上に切り開かれた敷地に、騎手候補生のための施設一式が揃っている。調教コース、馬房棟、寮、食堂、教室棟、体育館。外界との接触は大きく制限される。携帯は原則禁止。外出及び面会は許可制。家族との連絡は手紙か、決められた時間の電話に限られる。
そして男子は丸坊主、女子はベリーショートだ。
これは入学案内に書いてあった。頭では分かっていた。でも実際に校門前に集まった十人の入学者を見渡すと、ずらりと並んだ坊主頭が妙な統一感を持っていて、颯真はなぜか少し笑いたくなった。自分も同じ格好なのだ。
四月の朝光の中、少年少女が十人、黙って立っている。
颯真はその光景を見て、ふと前世の記憶が浮かんだ。勇者を中心に、それぞれの役割を持った者たちが決戦前夜に一列に並んでいた場面。あの時の張り詰めた静けさと、今のこの妙な連帯感は、どこか似ていた。もっとも今回は魔王討伐ではなく、騎手候補生の入学式だが。
入学式も終わり、両親との別れも済ませ、入寮の案内を待っていると最初に目についたのは、背の高い少年だった。
川越勇矢(かわごえ ゆうや)。颯真と同じ十五歳。父親は現役トップジョッキー、川越勇将(かわごえ ゆうしょう)。全国の競馬ファンが知っている名前だ。
坊主にしても整った顔立ちは変わらない。無駄のない動作、まっすぐな姿勢。マスコミや関係者の中で自然に中心になっている。近くにいた教官に話しかけられても、礼儀正しく、しかし必要以上に愛想を振らない。
「川越勇矢だ。騎手の息子だからって騒ぐ気はない」
自己紹介でも冷たくなるような声で、はっきりそう言うのを、颯真は聞いた。
(ああ。この人は、疲れているんだな)
馬の感情を読むのとは違う。でも三年間の牧場暮らしで、多くの人間とも交流し気配というのもそれなりにわかるようになった。あの静けさは落ち着きではなく、消耗だ。期待され続け、成功しても「当たり前」と言われ、失敗すれば批難される。勝利を義務として背負ってきた人間の重さが、坊主頭の後ろ姿に滲んでいた。
前世の勇者がそうだった。伝説の血筋、最後まで勇者の使命を全うすることを誰もが当然のように求め、失敗すれば批難し、成功しても「勇者なら当たり前」と言った。川越勇矢が今まさに歩いている道は、あの勇者が歩いた道とよく似ている気がした。
次に目に入ったのは、入口の柱にもたれて分厚い本を読んでいる少年だった。
相良流玲(さがら ながれ)。一歳上の十六歳。手元のそれは『世界サラブレッド名鑑・欧州篇』だった。その後ろに隠れるように立っているが、隠れられていない。顔立ちが、派手すぎる。整った目鼻立ち、細い顎のライン、坊主にした後の頭の形まで不思議と様になっている。アイドルのような容姿でサラブレッド名鑑の後ろに隠れようとしている。絵的に無理がある。
「・・・・・・キセキ産駒の欧州適性は過小評価されてると思うんですよね。父ルーラーシップを経由した持続力が母系の血脈と共鳴して・・・・・・あっ、でもジャパンカップのデータを見るとやっぱりここのラップが違って・・・・・・」
気づいたら声に出して独り言を言っている。颯真が近づくと、ばっと本で顔を隠した。坊主頭が本の縁からのぞく格好になって、それはそれで隠れられていなかった。
「あ、すみません。独り言、うるさかったですよね」
「いや。続き、聞きたいなって」
流玲はしばらく颯真を見て、それから少しだけ表情が柔らかくなった。それでもまだ本を離さない。
颯真は前世の記憶を重ねた。パーティーの賢者も、こういう人間だった。知識は誰より豊かで、愛情も深い。ただ、それを「外に向ける」ことに慣れていなかった。孤独の中で磨いてきた知性には、他者と共鳴する経験が足りていなかった。それでも、勇者パーティーで誰より深く状況を理解し、誰よりも的確な道を示したのはあの賢者だった。しかし彼は高校でいじめられたから競馬学校を受験して逃げてきたと語った。人は理解できない者を排除しようとする。それは前世も今世も変わりがない。過去が彼の歩幅を小さくしていたが、本当は誰より大きな歩幅で歩ける人間だと、颯真は最初から思っていた。彼とはすぐに友達になった。
三人目は、向こうの方から歩いてきた。
多々桜子(たた さくらこ)十八歳。高校卒業後の入学だから、三つ年上だ。颯真の肩をばんと叩いて、満面の笑顔を向けた。ベリーショートでも笑顔の威力は衰えない。むしろスッキリして存在感が増している。
「神谷くんね。調べたよ。秋駆け神事で元競走馬乗っての奇跡の逆転、みたいな話があった子でしょ。地方紙のウェブ版に出てたよね」
「・・・・・・そんな記事があったんですか?」
「あったあった。あたし、馬関係のメディア露出は全部チェックするようにしてて。あなた、ネタになるかなと思って」
「ネタ」
「女性騎手って少ないでしょ。そこそこレアなんだけど、テレビや雑誌で人気コメンテーターになるために、もっと目立たなきゃいけないの。で、一緒に目立てる仲間がいるといいな、って。私のバラ色な人生設計の為に打算込みで友達になりましょ!」
これだけ正直に言う人もめずらしい、と颯真は思った。悪意はない。むしろ清々しいくらいだ。前世の僧侶も、そういう人間だった。自身に強化魔法と癒しを施しながら前衛で殴り役を担う、「血雨の聖女」と呼ばれていた。なぜ戦うかについては驚くほど打算的で正直だった。「報酬がいいから」「あなたたちと一緒にいれば死なないと思うから」「でも気がついたら本気で守りたくなってた」という順番でその理由が変わっていった。桜子さんの仮面みたいな笑顔の裏に、颯真はあの僧侶と同じ種類の強さの予感を感じた。
「よろしくお願いします」
「あたしのことは桜子さんって呼んでいいわよ。代わりにあたしは颯真って呼ぶから」
その後、何人かと挨拶を交わし、最後の一人は入口前のスペースでただ黙々とスクワットをしていた。
閃牙烈(せんが れつ)彼も颯真と同じ十五歳。息を切らしながらもスクワットを続け、目がぎらついている。坊主が余計に厳つく見える顔立ちだ。
「おっ、よろしく! 俺、絶対一番になるから。で、お前は二番でも落ち込むなよ! 一緒に頑張ろうぜ!」
「・・・・・・なんで僕が負ける前提?」
「一番は俺だから! 決まってんだろ!」
カカッと笑い、理屈はなかった。根拠もない。ただ彼には自信と確信があった。前世の槍使いも、こういう人間だった。すべて感覚で動き、すべて勢いで突撃した。その一点突破の強さが、何度パーティーを救ったかわからないが同じくらいピンチも招いた。後から気付くことになったが逃げから先頭を走り続ける烈の騎乗スタイルはハマると強い、前線で果敢に突撃し続けた槍使いの戦いぶりと、どこか重なる気がした。
寮の部屋割りが発表された。三人部屋が基本で、上級生一人と下級生二人の組み合わせになる。
颯真の部屋は三〇二号室。流玲と、三年生の桐島という上級生との三人部屋だった。
廊下を挟んだ向かいの三〇三号室には、勇矢、烈、そして二年生の橋本という上級生が割り当てられた。
桜子さんは女子寮に入り、颯真たちの棟とは別の建物だ。
三〇二号室の第一夜は、沈黙から始まった。
颯真がベッドに腰掛けて藤堂のノートを開いていると、流玲がすでに本棚の組み立てを始めていた。入学荷物の中に本棚の部品が含まれているのに颯真は軽く驚いた。さらに段ボールから本が出てくる出てくる。
「・・・・・・流玲、それ全部持ってきたの?」
「これでも絞りました。米国、欧州、日本血統書と、ジャパンカップ全レース分析が二冊と、あとは各国の馬学と競馬法規と・・・・・・」
「何冊あるの?」
「ん~、数えた事ないかも」
上級生の桐島が引き戸を開けて部屋を見渡し、流玲の荷物の量を確認して、そっと引き戸を閉めて出ていくと夕食まで戻ってこなかった。
向かいの部屋の勇矢は、初日の夜に荷物を整然と片付け、翌朝の実習に備えて早々に就寝したらしい。烈は「明日のために今夜から全力モードだ!」と宣言した三十分後に盛大ないびきをかき始め、勇矢と橋本が手足を持って廊下に放り投げたのに起きなかったという話は、翌朝の食堂で伝説のように広まった。
第三章 重さを量る
入学翌朝、寮では五時前に起床のベルが鳴る。
颯真の目覚めは早い。牧場での三年間が染み込んでいる。薄暗い三〇二号室を見渡すと、流玲が本を抱えたまま眠っていて、桐島が「もう起きなきゃ」とため息をついていた。
廊下に出ると、勇矢がすでにいた。制服のボタンを全部留めて、まっすぐ立っている。
「早いね」
「遅い方が損だ」
短い返答。颯真はそれ以上何も言わなかった。
最初の一週間で分かったことがある。この場所の厳しさは、声でなく数字で来る。毎朝の体重測定。グラムの単位で管理される。颯真は最初の測定で、あと二キロの体重管理余裕があると告げられた。問題ないように聞こえるが、成長期の十五歳が二キロ以上の余裕を「増やさない」ために何をするかというのは別の問題だ。
食堂のメニューは各人ごと専門の栄養士によって計算されている。おいしい。でも量が、ない。烈が三日目に颯真に耳打ちした。
「俺、昨日夢の中でカツ丼食ってたんだけど、これって普通?」
「普通だと思います」
「よかった。発狂しかけてるかと思った」
桜子さんは食事制限を「ダイエット」と呼んでいたが、七日目から呼ばなくなった。笑顔の質が少し変わった。計算で笑っていた顔に、はじめてリアルな苦しさが混じった。
騎乗実習は午前中に行われる。最初の課題は「基礎騎乗評価」だった。
担当教官は四人いたが、颯真が一番気になったのは一人の男性教官だった。四十代後半くらい。細身で、どこか削げた印象がある。笑顔を見せない。でも馬の扱いを見ると、その手がひどく丁寧なことがわかった。
佐和武士(さわ たけし)後で調べた。かつて中央競馬で三十年以上騎手を続けた人物だ。成績は平均以下。しかし特定の馬主や調教師から「あの騎手に頼みたい」と言われるほど、馬の状態を読む名手として知られていた。それ以上の情報は、ほとんど出てこなかった。
各候補生の評価が始まった。
勇矢の騎乗は、完璧だった。フォーム、バランス、指示の明確さ、仕掛けのタイミング。すべての動作が無駄なく、教科書の理想形に近い。馬も的確に応えている。教師陣が頷き、佐和だけが無表情で見ていた。評価が出た後、勇矢は誰の賞賛にも頷かなかった。できて当然、という顔だった。その「できて当然」の重さを、颯真は知っている。
流玲の騎乗は、馬が落ち着いているのに技術が追いついていなかった。知識は間違いなくある。でも身体が言うことを聞かない、という感じだ。座学の評価が抜群なだけに、その差が際立って見えた。
烈の騎乗はフォームが不安定だったが、一瞬だけ完璧に馬と噛み合う瞬間があった。その瞬間の速さは、教師の何人かが目を細めるほどだった。
桜子さんの騎乗は安定していた。平均以上、しかし「勝ちにいく」感じがない。穏やかにこなす騎乗だった。
颯真の番になった。学校が用意する基礎練習馬は穏やかで従順な馬だった。颯真の感知には、複雑な感情が来ない。穏やか。少し退屈している。走りながらあくびをする、仕事として走る、という気配。
(一緒に走る感覚じゃない)
(ケツかゆい)
こんな子もいるんだと、その「差」を考えながら乗っていたら、評価が終わっていた。
佐和が颯真に近づいた。
「神谷」
「はい」
「馬は走りやすそうだったし、落ち着いている」
「・・・・・・はい」
「だがそれだけで主導性がない。どこで仕掛けるか、どこで抑えるか。判断の主体が、お前でなく馬にある。いいか、騎手は馬のリュックサックではない。その騎乗では進級できず退学になるぞ」
そう言って、立ち去った。颯真は馬の上で、その言葉を反芻した。
(違う。判断を馬に任せているんじゃない。馬の判断を尊重して、それに合わせているんだ)
でも、言葉にならなかった。勇矢が颯真の横を通り過ぎながら言った。
「合わせるだけじゃ勝てない。競馬は馬の発表会じゃないから」
言い方がきつい。でも間違っていると思えなかった。颯真もそれはわかっていた。
第四章 黒猫は知らぬ間に現れる
競馬学校の敷地に黒猫がいる、という話が最初に出たのは入学から二週間後のことだ。
馬房棟の裏で誰かが「黒猫いた」と言った。その翌日、校舎の入り口で「また黒猫がいる」という声が上がった。翌々日、食堂の外窓に黒い影が映った。
「・・・・・・黒猫だよな?」と烈が言った。
「黒猫ですね」と流玲が確認した。
「どこから来たんだろう」と颯真が言いながら、あちゃーと天を仰いだ。
(待っててって言ったのに!)
黒猫は一週間後には食堂前の縁石に座って候補生たちを出迎えるようになっていた。誰かが「ミーちゃん」と呼び始め、いつの間にかそれが定着した。本来、学校の敷地に猫がいること自体は管理上好ましくないはずなのだが、教師陣が誰も追い払わなかった。佐和に至っては、翌週にはポケットに小袋の猫オヤツを忍ばせていた。
颯真は黒猫が縁石に座るのを見るたびに、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。馬ほど明確な感情発信ではない。でも確かに何かが伝わってくる。穏やか。満足。少しいたずらっぽい気配。
(ミー・・・・・・、お前なぁ)
ミーは答えなかった。ただ颯真の方を一瞬見て、それからそっぽを向いて尻尾をゆらり。
絵里から「ミーちゃんが帰ってこない」と緊急の電話連絡があった日、颯真が心で呼びかけると思った以上に近距離から反応が返ってきたので、「こっちに来たみたい。寮で保護した」と嘘をついた。
SNSではちゃっかり新幹線に乗り込む黒猫、山手線から京成本線に乗り換えていく黒猫等の動画や画像が大バズリしていたが、通信機器を持ち込めない寮生達にこの情報は全く届かなかった。
最初に陥落したのは流玲だった。
自習室でサラブレッド名鑑を読んでいたら黒猫が膝に乗ってきて、そのまま丸まったことで動けなくなってしまった。翌朝、起床前に戻ってきた流玲の目の下には大きなくまがあった。
「流玲、遅くまで本読みすぎじゃない?」
「・・・・・・黒猫が、どいてくれなくて」
「それはつまり、黒猫を優先したと」
「馬より猫を優先したのは人生初です。あの毛並み、フサフサなんですよ・・・・・・?」
流玲はしみじみと言った。顔は真剣だった。
勇矢も早かった。
朝の体重測定が終わった直後、勇矢は食堂前の縁石の黒猫と十分間、にらみ合った。勇矢は何も言わなかった。黒猫も何も言わなかった。そして勇矢のポケットからちゅーるが一本出てきたのを烈が目撃した。
「かわいいじゃない、勇矢」と桜子さんが言った。
「黙れ」と勇矢は言ったが、次の日もポケットにちゅーるがあった。
それ以降、校内の黒猫陥落順位を候補生たちがひそかに観察するようになった。最後まで素知らぬふりをしていた桐島が、ある土曜日の朝に黒猫の腹に顔を埋めて「よし、よし」と言っているところを発見された時、三〇二号室は静かに祝福した。
第五章 佐和武士という人間
最初の三ヶ月が過ぎた頃、佐和に呼ばれた。
指導室は小さな部屋だ。壁に古い騎乗分析の資料が貼ってある。佐和はそこで腕を組んで待っていた。
「神谷。座れ」
颯真は言われた通りにした。
「お前の騎乗の話をする。聞きたくなければ聞かなくていいが、聞いた方がいい」
「聞きます」
佐和は机の上のファイルを開いた。颯真の騎乗記録だった。
「馬への影響が、他の候補生と違う。乗る前と乗った後で、馬の表情が変わる。担当獣医も気づいていた。神谷が乗った後の馬は、決まって様子がいい。騎乗による不調がほとんどないと驚いていた」
「・・・・・・それは」
「聞いていない。ただ事実を言っている。そしてこのままではお前に退学を勧告することになる」
佐和はそう言ってファイルを閉じた。
(退学勧告・・・・・・? なぜ? どうして?)
「俺も似たようなことができた。昔」
颯真は黙って聞いた。
「馬の状態がわかった。疲れている。嫌がっている。無理をさせるべきでない。そういうことが、乗った瞬間にわかった」
「・・・・・・それで」
「それで、俺は馬の言う通りにした。馬が嫌なら無理をさせない。馬が疲れているなら追わない。その結果どうなったか、わかるか」
「・・・・・・勝てなかった」
「そう、勝てなかった」
佐和は窓の外を見た。調教コースが見える窓だ。
「馬に優しい騎手というのは、評判になる。ただし二種類の評判がある。馬を理解する優れた騎手、という評判と。追わない怠慢騎手、という評判だ。俺は後者を取った。三十年以上、あがき続けた末に」
「でも佐和教官、馬の状態に問題があったんじゃないですか?」
佐和がゆっくり颯真を見た。
「そうだ。俺が正しかった。馬は俺の判断の通り、無理をさせなかったことで怪我を避けた例もある。だがそれが評価されることは、なかった」
言葉が重くなった。
「競馬は結果の世界だ。レース前の追い切り調教で馬の異変を感じ取って出走変更を申し出ても、獣医が問題ないといえば誰も信じない。それでもダメだと異議を言えば外される。乗らなかったという事実だけが残る。そして他の騎手で勝てば、それが結果になる。たとえその馬がその後どうなろうとも」
「・・・・・・三十年、続けたんですか」
佐和はしばらく黙っていた。
「ああ、続けた。勝つことだけが全てではない。"人がいて馬がいてそしてまた人がいる"、そう言われて騎乗させて頂いた。それだけのことだ。そしてその方はもういない」
颯真はその言葉を、しばらく飲み込んでいた。前世でもこういう人間がいた。勇者パーティーのお目付け役であった弓使いは、確かな技術と正確な判断を持ちながら、報われない時間を長く過ごした。それでも矢を持ち続けた人だった。遠くから届く矢は、年若い勇者パーティーの指導役として苦言も厭わず、誰も気づかないところで何度もパーティーを救っていた。しかしパーティーの一員としては認識されておらず、あくまでも勇者たちを支える道を選んだ。佐和武士は、その系譜にいる人間だと颯真は思った。
「だから俺はお前に言う。馬に優しいのはいい。だがそれで勝てるかどうかは別だ。勝てない騎手は選ばれない。選ばれない騎手は馬と関われない。守りたい馬がいるなら、勝たなければならない時がある・・・・・・、未勝利となった馬がどうなるか、知っているな?」
「・・・・・・はい」
佐和は立ち上がった。
「今日はそれだけだ。下がっていい」
颯真が部屋を出ようとした時、後ろから声がかかった。
「お前が乗った後のアストラルの話は、藤堂先生から聞いた。あの馬の一度勝利、ダート千四、鞍上は俺だ」
颯真は振り返らなかった。でも、一度だけ頷いた。
第六章 模擬レース――全員に負けた日――
佐和との面談から一週間が過ぎた。
学校での日常は変わらない。朝の体重測定、馬房作業、午前の騎乗実習、午後の座学。ただ颯真の中で、何かが引っかかったままになっていた。
「退学になるぞ」という言葉ではない。
「勝てない騎手は選ばれない」
その言葉だ。
(でも間違っていない。馬を尊重することは正しいはずだ)
頭で整理しようとするほど、答えが遠ざかる気がした。
その週の金曜日の午後、全候補生が調教コースに集められた。
「今日は模擬レースを行う」
佐和が候補生たちの前に立って言った。声は平常と変わらない。でもコースの向こうに整列した五頭の馬を見て、候補生たちの間にピリリと空気が流れた。
「騎乗馬はくじで決める。コースは八百メートルの短距離一本。まず騎乗するのは、神谷、川越、相良、多々、閃牙の五名。それ以外は観察と記録の実習。終わったら役割を交代する。目的は順位ではない。お前たちが今、何ができて何ができないかを確認する場だ」
(八百メートル)
颯真は心の中でコースを描いた。ゲートを出て、コーナーを一つ回って、直線が続く。直線は短い。スタートの判断と仕掛けのタイミングと残りの計算。展開を読む時間はほとんどない。
くじで馬が決まった。
颯真の担当馬は「ルーカス」。鹿毛の牡馬で、実習では他の候補生が担当することが多い馬だ。颯真はルーカスの顔を見た。
(どんな子だろう)
手を伸ばして頬に触れた。伝わってくるものがある。穏やか。落ち着いている。悪くない。ただ、アストラルのような「走りたい」という熱が薄い、という感じの馬だ。
(この子は、指示されれば走る。でも自分から走ろうとはしない)
それは悪いことではない。扱いやすい馬だ。
颯真はルーカスに感情で話しかけた。
(今日は一緒に走ろう。無理はさせないから、行きたい時に教えてくれ)
ルーカスは耳を少し動かした。
勇矢は「バリスタ」という名の栗毛の牡馬だった。見るからにバネが強い。勇矢が手綱を取ると、馬は素直に頭を下げた。
烈は「ゴッドハンマー」。名前の通り大柄な鹿毛で、烈が「よし行くぞ!」と言うと馬の耳がぴんと前を向いた。息が合っている。
流玲は「スーベニア」。流玲が「よろしくお願いします」と言うと、スーベニアがじっと流玲を見てから噛みついた。
桜子さんは「カナートス」。バランスのいい馬で、桜子さんが「やるわよ」と言いながら手綱を取ると、馬がひと鼻息ついた。
ゲートが開き、烈が飛んだ。最初の一歩から全速力だ。ゴッドハンマーが応えて先頭に飛び出す。
勇矢が二番手につけた。バリスタを内側に寄せながら、じっと前を見ている。動かない。でもその静けさは待機ではなく、準備だ。
桜子さんが三番手。外から勇矢の動きを見ている。
流玲が四番手。ラップを刻んでいる顔だ。
颯真のルーカスは最後方から入った。馬群を前に見て、馬の行くペースに合わせる。
(焦らなくていい)
ルーカスから来る感情は穏やかなままだ。走っている。でも「行きたい」という熱が来ない。
(まだかな?もう少し待とう)
コーナーを曲がった。直線が始まる。
その瞬間、勇矢が動いた。
バリスタが加速した。教科書の仕掛けタイミングより、わずかに早い。でも完璧だ。あの馬の加速の性質と残りの距離を計算した上での、一点の迷いもない判断。桜子さんが続いた。カナートスが内から外に持ち出され、内が空いた瞬間、流玲が動いた。スーベニアが急加速する。
残り三百メートル。颯真はルーカスに問いかけた。
(行けるか)
ルーカスから来るのは、穏やかさのままだ。悪くない状態。でも「行く」という意志が来ない。待った。馬が行きたいというまで。
ルーカスから来るものが、少し変わった。「走る」という感覚が強まった。でもそれはまだ全力ではない。
(今だ!)
颯真が促した。ルーカスが加速した。
でも、遅かった。
前を走る四頭はすでにはるか先で弾けていた。烈のゴッドハンマーが先頭を粘っている。勇矢が外から差してくる。桜子さんはさらに外を突く。流玲のスーベニアが鋭い加速で内ラチ沿いを追い上げる。颯真がルーカスで伸びた先には、もう勝負の決まりかけた背中しかなかった。
一着、勇矢。二着、桜子さん。三着、流玲。四着、烈。
五着、颯真。
全員に、負けた。それも大差で。
手入れが終わって候補生たちが馬房から出てきた頃、佐和が颯真のそばに来た。
「神谷」
「はい」
「今日の騎乗を評価する。悪くない」
颯真は思わず佐和を見た。悪くない、という言葉を予想していなかった。
「馬は最後まで落ち着いていた。無理もさせていない。フォームも崩れなかった。だが」
佐和は一度止まった。
「勝てない騎乗だ」
「・・・・・・」
「ルーカスはお前が促すまで力を出さなかった。お前は馬が行くのを待った。馬は行くと決めるまで待った。その間に、勝負は決まった」
「でも、馬の判断を尊重するのは」
「正しい」
颯真は止まった。
「お前の考えは正しい。無理に追えばルーカスは走った。だが疲れる。嫌がる。次に繋がらない。お前はそれを知っているから追わなかった。それは正しい。だが競馬は、正しいだけでは勝てない。馬が行きたいと思う前に、行きたくなる状況を作るのは騎手の仕事だ。待つのではなく、誘う。馬の意志を引き出す。それができなければ、どれだけ馬を理解していても、スタートラインには立てない」
そう言って、佐和は踵を返した。
しばらく一人で立っていると、勇矢が颯真の隣に来た。
何かを言うつもりで来た、という雰囲気ではなかった。ただ、同じ方向に歩いていた。しばらく二人で無言のまま歩いた。
「・・・・・・悔しい?」
珍しいことに、勇矢の方から話しかけてきた。
「悔しいかどうかより、納得できてない」
「何が」
「負けたことは受け入れる。でも、なぜ負けたかがまだはっきり分かってない。馬を無理に追えばよかったのかって言ったら、それは違う気がする」
勇矢は少し歩いてから、止まった。
「それが限界だ」
「え?」
「今のお前の限界だと言った。馬に任せることしかできない。そこから先に進めていない。だから負けた」
言い方は硬い。でも批難ではない。
「俺は馬を動かすことができる。馬が行きたいかどうかに関係なく、タイミングで仕掛けて、馬を動かす。それで今日も勝った。だがお前は、それをしなかった。できなかったのか、しなかったのか」
颯真はしばらく黙った。
「・・・・・・しなかった、と思う。馬が嫌なら無理させたくなかった」
「そうか」
勇矢はそれだけ言って、歩き去った。
颯真は一人でルーカスの馬房に戻った。
水を補充して、藁の状態を確認した。ルーカスは静かに颯真を受け入れた。今日のレースの話をするわけでも、責めるわけでもない。ただ、そこにいる。
(お前は、走りたかった?)
颯真はルーカスに問いかけた。ルーカスから来るのは、いつも通りの穏やかな感情だ。走った。でも走りたかったかどうかは、よく分からない。そういう馬だ。
(そうか)
颯真は手のひらをルーカスの首に当てたまま、今日のレースを振り返った。
(僕は間違っていない)
そう思う。馬を無理に追わないことは正しい。馬の判断を尊重することは正しい。でも。
(正しいだけじゃ、足りない)
佐和の言葉がもう一度浮かんだ。「馬が行きたくなる状況を作るのは騎手の仕事だ」
それは、何だ。
馬を追い立てることではない。でも馬に全部委ねることでもない。その間に、何かがある。
(誘う、と教官は言った)
颯真はその言葉を、もう一度頭の中で転がした。前世でのビーストテイマーとしての自分を思い返す。契約獣たちに指示を出すことはあった。でも最良の動きが引き出せた時は、命令ではなかった。感情を共鳴させた時だ。ライムが疾風のように走った時も、シアが嵐の中で翼を広げた時も、こちらが「行ける」という確信を持って、その確信を感情として送り出した瞬間に、彼らも動いた。
(それだ)
確信の手前だ。馬が行こうとする一瞬前に、その気持ちを後押しする何かを送る。それが「誘う」ということかもしれない。
まだ、輪郭しかない。でも、方向は見えた気がした。
颯真はルーカスの首から手を離した。馬房の戸を閉めながら、颯真は決めた。
今日から、変える。
夜の部屋に戻ると、流玲が本棚に新しい本を並べていた。どこから出してきたのか、今日また段ボール一箱分が届いていた。
「流玲」
「あ、颯真くん。どうしました?」
「理論を教えてほしい」
流玲は少し驚いた顔をした。颯真から勉強を頼んできたのは初めてだった。
「・・・・・・何を、ですか?」
「馬を誘う方法。待つでも追うでもなく、馬が行きたくなる前に行きたくなる状況を作る方法。そういうことを理論にできる?」
流玲は一瞬黙って、それからノートを開いた。
「できます。というか、颯真くんがやってることを分析すれば、たぶん答えが出ます」
「今日のレース、最後尾だった」
「知ってます。見てました」
「正しかったけど、足りなかった」
「・・・・・・うん」
流玲は少し声のトーンを落とした。
「僕も今日、スーベニアで三着でした。ただ理論通りのタイミングで動けても二着だったと思います。でも正直に言うと、颯真くんみたいに馬の感情を直接受け取りながら走れたら、もっと違う結果になるかもしれないって今日見てて思いました」
「お互いに、足りないものがある」
「そうですね」
流玲がノートをテーブルに広げた。
「じゃあ一緒に作りましょう。颯真くんの感覚と、僕の理論で」
第七章 理論と感覚
更に二ヶ月が過ぎた。騎乗評価は少しずつ上がった。フォームが整った。体重管理も軌道に乗った。座学の成績は中位。実技の評価コメントが「主導性がない」から「判断が遅い」に変わってきた。
(前進している)
そう思えるようになったのは、流玲のおかげでもあった。
流玲は颯真の「感覚的理解」を、言語化しようと試み始めていた。
「颯真くんがやってることって、要は馬のリズムに同期してるんですよ。そのリズムの中に、最適な仕掛けポイントがある。これを理論的に見ると、こういうラップになるはずで・・・・・・」
夜の自習室で、流玲が書いたノートを見ると、颯真の感覚が図解されていた。馬の脚の動きと仕掛けタイミングの関係。コーナーでの遠心力の使い方。ペース配分の理想値。流玲の知識量は正直すごいと颯真は思った。まさに賢者の系譜だ。知識の海から必要なものを引き出す速度が、常人と違う。いじめられた過去が彼の自信を削っていたが、こうして誰かの役に立つ場面では、流玲の目に確かな輝きが戻ってきた。
「・・・・・・これ、全部僕がやってること?」
「やってることを言語化したものです。颯真くん、たぶん無意識に、でしょ?」
「じゃあ逆に、これを意識してやったらどうなる?」
「理論的には、もっと再現性が上がるはずです。感覚だけじゃなくて、考えて選択できるようになるはずです」
颯真と流玲の夜間勉強会は、それから週三回になった。
烈が「俺も混ぜろ」と言って入ってきたのは翌週のことだ。
「流玲、俺にもわかるやつで頼む」
「・・・・・・烈くんは~、もっと基礎の基礎から始めた方が~」
「俺は感覚派だから小難しい理論はいらん!」
「感覚派でも最低限の知識は要ります!」
烈と流玲が言い合うのを横目に、颯真は隣で静かに流玲のまとめたノートを読んだ。桜子さんが「うっさい」と言いながら入ってきて、気づいたらいつも四人で座っていた。
「あたしはここでメディア対策の勉強するから。邪魔しないで」
「それはここでやる必要ないんじゃ・・・・・・」
「も~、一人でいると寂しいじゃん」
「にゃ」
「「「「にゃ?」」」」
声の方に一斉に視線が向くと黒猫のミーが窓の外から静かにのぞいていた。流玲がすかさず窓を開けると、するりと自習室に入ってきて颯真のノートの上に座った。ここが気に入ったらしい。
「ミー、そこは困まるんだけど」
ミーはびくともしなかった。尻尾だけ、ゆっくりと揺れた。
白熱した議論に喉が渇き自販機に向かうと、トレーニング終わりの様相で水分を補給していた勇矢がおり、颯真は声をかけた。声が掛かると思っていなかったのか勇矢は、少し驚いたような顔をした。
「何か用か?」
「自習室、賑やかになってるんだけど。一緒にどう?」
勇矢は少し間を置いた。
「俺は自分のやり方がある」
「うん。来てもいいってだけ。条件は何もないから」
勇矢がその夜、自習室に来ることはなかった。でも翌日の実習で、颯真に初めて話しかけてきた。
「お前の仕掛けタイミング、なんで遅くしてるんだ?」
「馬が行きたいタイミングを待ってる」
「・・・・・・それで勝てる計算が立つのか?」
「今はまだ立ってない。でもそれを立てるために、考えてる」
勇矢は少し黙って、颯真を見た。
「ところで昨晩、黒猫を見なかったか?」
「自習室でくつろいでたよ。みんなのノートに座ったり邪魔されたり・・・・・・」
「そうか」
それだけ言って歩いて行った。その日の夜、自習室に勇矢の姿があった。誰も何も言わなかった。ただ流玲だけが、本で顔を隠しながら耳だけ真っ赤にして「あの川越勇矢が・・・・・・!」と小声で呟いていた。
勇矢はそれに気づいていたが、何も言わず、ただポケットからちゅーるを取り出して、窓の外の黒猫に向かって差し出した。黒猫はしばらく勇矢とちゅーるを交互に見て、それから近づいてきた。
「可愛い奴め」
それを聞いた烈が「勇矢に感情があった!」と叫んで、睨まれた。
第八章 馬の異変
六ヶ月目の午前中。騎乗実習の途中だった。
担当馬は「ウィンズ」という名のセン馬だった。おとなしい馬で、どの候補生も乗りやすいと言っていた。実習の前半、颯真は問題なく乗っていた。でも後半に入った頃から、馬から来る感触が変わった。
(・・・・・・なんだ、これ)
物理的な何かではない。感情の流れが変わっている。穏やかな退屈さの底に、何か別のものが混じっている。鈍い。嫌な感じ。
(不快感・・・・・・左後ろ?)
颯真は騎乗を止めた。
「すみません、この子の状態を確認してもらえますか」
周囲が静まった。担当教官が近づいてきた。
「何かあったか」
「左後肢に違和感があります。なんとなく嫌がっている気が・・・・・・」
教官は颯真を見た。それから馬を見て左後肢を曲げたり伸ばしたり触れてみる。腫れもなく熱感もない。一見、問題はないように見える。
「根拠は」
「・・・・・・騎乗した感覚です」
周囲の候補生が顔を見合わせた。桜子さんが小声で「大丈夫?」と言った。烈が「解るか?」と流玲に言ったが、流玲は複雑な顔をして首を振った。教官は少し考えた後、獣医を呼び、検査を行った。歩様等その場では問題なしとの判定であり、教官から軽い叱責と騎乗再開を告げられた。
「流玲、烈、二人でウィンズの手綱を持ってもらえる? 少し長めで」
颯真が「ごめん」と一言謝ってから、球節の下部を強く押した。瞬間、激しいいななきと共にウィンズが跳ね上がり颯真を蹴り飛ばす。
結果は、左後肢の中手骨に遠位縦骨折が確認された。レントゲンの状態から少し前に骨が割れ徐々に悪化しており、このままでは関節面まで達していた可能性がある。そうなれば予後不良もありえる大事故ともなるが、普通の歩様検査では発見が難しいレベルだった。
担当教官が颯真の前に来た。
「観察力がある。お前がウィンズを救ったんだ。ありがとう。だが、プロテクターの当たり所がよく怪我はないが、馬の蹴りをまともに受けたら普通に骨折、運が悪ければ死ぬ事もある。もう二度とあんな真似はするな。いいな。事例報告と反省文の提出をするように」
「・・・・・・はい」
颯真は頷いたが、内心、別のことを考えていた。
(感覚だけじゃ、説明できない。もっと言語化できなければ、信用されない)
その夜、佐和が指導室に来るよう伝えてきた。
「神谷。今日のことを聞いた」
「はい」
「よく判断した。ルール内で、正しく行動した。蹴られたのは、よろしくないがな」
颯真は少し意外だった。
「教官が昔やっていたこととは、違いますか?」
「・・・・・・俺が若い頃は、今より医療が進歩していなかった。自分の判断を信じて、勝手に止めた。それが評価されなかった。お前は教官に報告し、獣医の診断を覆す行動を取った。それだけで、全然違う」
「一緒ですよ。当時でも馬は嫌がったはずです」
「そうだ。だが、やり方が違う。俺は正しかったが、正しい方法を取らなかった」
佐和は少し、遠い目をした。
「感覚のせいじゃなかったかもしれない。俺の、やり方の問題だったのかもしれない」
「・・・・・・教官は、正しかったと思います」
「綺麗事だ」
「綺麗事でも、正しかったことは正しかったです。ただ、正しいだけじゃ足りなかったってことだと思います」
佐和はしばらく黙っていた。それから、短く言った。
「プロテクター越しとはいえ数日は痛む。しっかり冷やしておけ」
颯真が部屋を出ると、廊下で勇矢が立っていた。
「聞いてたの?」
「偶然だ」
嘘くさかったが、颯真は追及しなかった。
「颯真。お前は、正しいことと勝つことを両立できると思ってるのか」
「うん、思ってる」
「根拠は」
「まだない。でも、そう思ってる」
勇矢は少し黙って、「これを使え」とアイシング袋を渡し歩き去った。流れる空気が、質感がこれまでと違った。
第九章 寮の夜、廊下の話
冬が来た。競馬学校の冬の朝は、特に冷える。馬房作業の時間、息が白くなって、馬の体温が湯気になって立ち上る。その湯気の中で藁を取り替えながら、颯真はよく三年間の牧場を思い出した。
(アストラルは寒いのがすこし苦手だったな)
藤堂から手紙が来た。アストラルが先月、小さな障害馬術の大会に出て好成績だったと書いてあった。短い文章で、余計なことは何も書いていなかった。でも颯真には、その短さの中に誇りが混じっているのがわかった。ヴァルガスは馬場馬術の練習を続けているという。最初は拒否反応があったが、徐々に受け入れてきた。「まだ感情が少ないが、少しずつ変わっている」と書いてあった。颯真はそれを読んで、ヴァルガスの漆黒の馬体と、空虚だった目が少しずつ変わっていく様子を思い浮かべた。
ある夜、寮の廊下でトレーニングルームからの帰りに勇矢と鉢合わせた。廊下に静かな声が響いていた。
「解ってます。本年度のみならず、三年間首席、アイルランド大使特別賞も取ります・・・・・・では」
電話を切ったばかりの様子だった。勇矢の顔が、少し固い。
「お父さんから?」
「・・・・・・別に」
「ごめん、余計なこと聞いた」
しばらく沈黙が続いた。なんとなく廊下の端に並んで座った。そしてなぜか二人とも、すぐに立とうとしなかった。
「俺が上位の成績を取っても、親父はそれを確認するような感じで電話してくる。できて当然、という前提がある」
颯真は黙って聞いた。
「それに慣れてるから、別に何とも思わない。ただ・・・・・・勝つことの意味が、最近よくわからなくなる。勝て、勝て、勝て。ずっとそれで来た。でも勝った後に何があるのか、一度も考えたことがない。そしてどこまで勝てばいいのか」
颯真はしばらく考えた。前世で魔王城に突撃する直前、これが一緒に取る最後の食事になるかもと全員で酒場に繰り出した時、勇者が唐突に「魔王を倒した後、どうしたい?」と質問したことを思い出した。みなが思い思い目標や夢を語る中「俺にはなんにもない。魔王を倒したらその後、どうしよう」と困った顔をして言った。
「あの超美人なお姫様と結婚して王様になんじゃねぇの!? めっちゃ期待した目してたじゃん!! それともエルフの女王様? 聖剣の巫女様? 解った! ハーレムだろこの野郎!! 羨ましいぞ!!」
酔っ払った槍使いがここぞとばかりぐだ絡みしまくる。
「次の目標が、ない」という言葉。勝利のために生きてきた者が、勝利を果たした後に立つ空白。川越勇矢の言葉は、あの時の勇者の言葉と同じだった。
「僕は、また一緒に走りたい馬がいるから」
「また?」
「アストラルっていう僕が初めて乗った馬。ちゃんとしたレースでなくても、一緒に走りたい。僕が一番うまく、その背に乗りたい。彼の本当の走りを引き出して一緒に楽しみたい。そのために騎手になりたい」
勇矢はその答えを、少しの間、反芻しているかのように沈黙していた。
「・・・・・・わかりやすいな、颯真は」
「勇矢は?」
「ない」
「ない?」
「今は、ない。それが問題だとも思っていなかった。だが最近、お前達といるとそれが・・・・・・何か欠けてるような気がする」
二人はしばらく黙って廊下の壁を見ていた。
「颯真」
「うん」
「二年になる前、進級レースで、勝負しよう。お前と勝負したい」
颯真は驚いた。勇矢がこういう言い方をするのは初めてだった。目的のない勝利ではなく、誰かと競い合うことへの意志。それは勇矢の中に、何か新しいものが生まれ始めている証拠だった。
「・・・・・・いいよ。やろう」
二人は立ち上がって、各自の部屋に戻った。廊下の暗がりからミーがのっそり現れて、勇矢の足元に身体を押しつけた。少しだけ表情を緩めて、屈んでミーの頭を撫でた。
「お前は見てたのか」
ミーは答えなかった。ただ満足げにニャと鳴いて、颯真の足元に移動し身体を擦ると暗がりに消えていった。
第十章 桜子さんが本気になった日
進級前の課題実習があった。二人一組で同じ馬に連続で乗り、後半の騎手がどれだけ前半の課題を引き継げるかを評価するものだった。颯真と桜子さんが組まされた。
「あたしが前半ね。後半よろしく」
「了解です」
桜子さんの前半騎乗は、安定していた。指示が明確で、馬が従いやすい。でも馬から来る感情は「嫌じゃないけど好きでもない」という感じだ。
颯真が後半を引き受けると、馬の感情が少し変わった。警戒から、好奇心へ。
(今日のこの子、まだ余力がある)
颯真は馬のリズムを感じながら、「待つ」だけでなく「誘う」を意識した。流玲と話し合って作った理論。馬が行きたいと思う直前に、軽い促しを入れる。先回りではない。追従でもない。対話の中で生まれる、ちょうどよい間。
(ここだ!)
颯真からの誘いに馬が応えた。フォームが崩れなかった。佐和が目を細めその騎乗を追った。
実習が終わった後、桜子さんが颯真の横に来た。
「颯真、あのさ」
「はい」
「あたし、あなたとの差がわかった。あたしは馬をコントロールしてる。颯真は馬と話してる」
「・・・・・・正確ですね、その表現」
「メディア志望だからね。観察は得意なの」
桜子さんは少し間を置いた。
「あたし、コメンテーターになるつもりの通過点で騎手やろうとしてたけど、今日初めて思った。本気で勝ちたい、って」
颯真は何も言わなかった。
「笑っていいよ」
「笑いません。遅い本気なんてないと思うので」
桜子さんはしばらく颯真を見て、それから前を向いた。
「打算込みで言うけど、あなたが目立てば隣にいるあたしも目立つ。だからあたしはあなたを応援することにした」
「ありがとうございます」
「でも進級レースでは負けないから」
「ぜひ負かしにきてください」
桜子さんは「当然」と言って、それから珍しく真剣な顔で馬房に向かっていった。その背中に、前世の僧侶が初めて「本気で守りたい」と言った時の顔が重なった。打算から始まっても、本物になる人間がいる。颯真はそれを知っていた。
第十一章 烈の失敗と烈の覚悟
進級レースは、はじめて全候補生が同じレースで騎乗し順位を競う。記念レースのような立ち位置だが、みな真剣だし順位が上なら嬉しい。
そこに向かうための模擬レース、烈は最初から飛ばした。ハイペースで先頭に出て、そのまま押し切ろうとした。半分まではよかった。残り三分の一で馬が脚を失った。それでも烈は追い続けたが最後は殿負けだった。最近の模擬レースではこれが定番になっていた。
教官の評価は短く「才能はあるが、雑」
烈はその夜、一人で走り込みを終え、調教コースのフェンスに座っていた。颯真と流玲が声をかけると、「そっとしておいてくれ」と言ったので、二人で挟むように両隣に黙って座った。十分くらい、沈黙が続いた。
「なんで黙ってんだよ」
「そっとしてくれって言ったので」
「一人にしろってことだったんだけど」
「あ~、ごめん。でもさ」
また少し沈黙があった。
「俺、馬には感覚だけで乗れると思ってた。小さい頃から。それだけでなんとかなってたし。ガッと乗ってグッと出てスパーッと走れば全部勝った。誰にも文句は言わせなかった」
「ごめん、全く解らない」
流玲がげんなりした顔で理解することを放り投げた。
「でもここでは通用しない。どいつもこいつも感覚だけの奴なんていない。流玲は理論がバケモノだし、勇矢は理論も感覚も両方あるラスボス級。颯真は・・・・・・なんか変なんだけど強い」
「ありがとう」
「褒めてない」
烈は立ち上がり、フェンスに頭突きをかます。ガシャンと派手な音がする。
「俺、弱いのか?」
「弱くはない、かな。爆発力があるのも才能で、強力なんだけど爆発させるタイミングを学んでないだけじゃないかなぁ」
「んな事言われても・・・・・・、流玲どうすればいい?」
「烈くん、僕の話をちゃんと聞いてくれる? 今までみたく最初は意味がわからないと思うけど、そこで投げ出さず三割くらいわかれば変わると思います」
「三割でいいのか?」
「烈くんには三割で十分だと思います。残りの七割は僕と違って感覚でカバーできるから」
前世の槍使いは、パーティーに賢者が加わった時、最初は拒否した。理論で語られることが肌に合わなかった。それでも、リザードマンの槍使いを相手にその超絶技に手も足も出ずに敗北した後、「こういう動きをすれば勝てる」という一つの歩法と戦術指示を受け入れた瞬間から、急激に強くなった。一点の理論が、その人間の感覚を何倍にも活かした。
烈はしばらく流玲を見て、それから急に腕を取って立ち上がらせた。
「よし。今すぐ教えてくれ!」
「ええ!? 明日からの方がいいんじゃないですか!?」
「俺が熱いうちに動かないと冷めるんだよ!」
流玲を強引に連れて自習室に走って行った。颯真は一人でフェンスに残り、冬の夜空を見上げた。冷たい空気の中、星は何倍にも美しく輝いて見える。するとミーがどこからともなく現れて、颯真のひざに座った。
(寒くない?)
ミーは答えなかった。ただ颯真の方を一瞬見て、それから夜空を見上げた。颯真も夜空を見た。一人と一匹で、しばらくそうしていた。
第十二章 一年目の初春
進級レースが迫る。
その時点での颯真の評価は「騎乗の変化に可能性はある」と書かれるようになり、退学の勧告もされることはなかった。
勇矢は相変わらずトップ評価だった。だが何かが変わっていた。騎乗のリズムに、かつてあった「機械的な正確さ」だけでない何かが宿り始めた。担当教官の一人が「感情が加わった」と評した。勇矢本人はそれについて何も言わなかった。ただ自習室での夜、勇矢がミーを膝に乗せながら流玲と烈の講義をのぞき込む姿が、何度もあった。
流玲は騎乗と理論の統合が進み、「実戦で使える理論家」という評価が固まりつつあった。展開予測と仕掛けタイミングの分析では学校内でトップ評価を受けていた。ただし部屋の本棚の膨張もひどく、颯真と烈のスペースを借りているのにまだ足りなくなりつつある。本人曰く「人生で一番幸せな時間」。馬オタクの称号を誰も取り上げなかったし、取り上げようとも思わなかった。
桜子さんは本気になった後、急速に伸びた。プロデュース能力が騎乗にも活かされ始め、「状況を俯瞰する視点」という長所が評価されるようになった。相変わらず計算高く、しかし本気でもある。その二層構造が、桜子さんの強みになっていた。
烈は流玲との勉強の結果、ペース配分の概念を三割だけ習得した。それで十分だった。爆発力と最低限の制御が組み合わさり、「ハマれば最速」の評価が固まりつつあった。
ただ十名でスタートした候補生はこの一年で九名になっていた。秋、体重管理が困難と判断して自ら退学を選んだ。騎手の道を諦めたが競馬に係る仕事に就きたいと話し、去り際は静かだった。颯真だけでなく全員で見送った。前世でもこういう別れが一番、言葉を失う。残った九名で進級レースを迎える。
進級レースの一週間前、佐和が全候補生を集めた。
「枠順を発表する」
流玲が隣で囁いた。「ここの枠順って、ある程度意図的に組まれてるんですよ。過去のパターン見るとわかります。同じくらいの実力の候補生を競わせる傾向があるんです」
発表された枠順は、烈が一番枠、勇矢が三番枠、桜子さんが四番枠、流玲が五番枠で残る四名の同期が二・六・七・八番枠。颯真は九番枠、大外に入った。発表の瞬間、流玲の「あれ~?」という変な声が聞こえた。
「馬の担当は明日発表する。発表後は馬房の担当もレースまで固定とする。それぞれ自分の出来うる最高の騎乗をしろ。ただし」
佐和は少し間を置いた。
「この学校で学んだことは、ここで試されるわけではない。ここで学んだことは、外に出て初めて試される。そのための準備であり、飛び立つための滑走路、そのスタート位置についたに過ぎない事を自覚してレースに挑め」
颯真はその言葉を胸に刻んだ。
第十三章 進級レース――それぞれの走り――
三月の某日。
この日一年生、二年生の進級レースと三年生の卒業レースが学校の調教コースで行われる。通常の実習コースより直線が長く、コーナーのカントがわずかに急だ。一年生のレースは距離千六百メートルのマイル戦となった。
そして今日は、外部からも観客が来る。殆どは生徒の父母だが調教師やJRA関係者、マスコミ等も訪れる。
颯真は馬房棟の入り口から観客スタンドを見た。関係者席に見覚えのある顔があった。藤堂恒一。いつも通りの作業着で、腕を組んで座っている。その隣に両親。反対側に細身のスーツ姿の男が座っていた。川越勇将だ。現役トップジョッキーが、息子の進級レースに来ていた。
お父さんが川越騎手にサインを貰っているのが恥ずかしい。
颯真はそれを見て、両親と藤堂が来てくれたことへの温かさと、勇矢がこの状況をどう感じているかへの想像が重なった。
烈の馬は「シンコーラッシュ」。栗毛の牡馬で、とにかく前に行きたがる逃げ馬だ。先頭を突き進む烈のスタイルにぴったりだった。
流玲の馬は「スコラリア」。落ち着いた差し馬で、そのキレ脚は強烈だが一ハロン以下しか維持できない。使い所が難しく正確さを求められるタイプ。
桜子さんの馬は「フロールロゼ」。バランスのいいマイル馬で、どこからでも動ける器用な自在型。状況を読みながら自分を売り込む桜子さんにふさわしい。たてがみも三つ編みに織り込まれており、映えも意識したコーディネートと外向けの仮面もバッチリである。
勇矢の馬は「エクリプスコード」。好位差しを得意とするが、仕掛けのタイミングが命の難しい馬だ。
そして颯真の馬は「スターリング」。芦毛の牡馬で、実習中に颯真が一番よく乗った馬だ。最初はお仕事っぽい走り、走りながらあくびをするズブい性格であったが、お互いの呼吸を一年間かけて知ってきた。
颯真はスターリングをパドックで歩かせながら、感情を読んでいた。
(元気だ。今日は調子がいい。走る気がある)
スターリングは中距離が得意でマイルでは脚を余す馬だ。コース全体で最適なペース配分をしなければならない。流玲の理論と藤堂のノートが頭に浮かんだ。このコースのコーナー、直線の距離、坂の位置。烈が飛ばせば前半ハイペースになる。勇矢は好位から最終直線で差してくるはずだ。桜子さんは勇矢をマークして前目のポジションを取ってくるなら、流玲はその後方。
(だとすれば、僕が選ぶべき位置は)
颯真はゲートの前で、スターリングに話しかけた。声ではなく、感情で。
(今日は、一緒に判断しよう。僕が全部決めようとしない。でも、お前が行きたいと思う様に、僕が背中を押す)
スターリングが耳を動かした瞬間、ゲートが開いた。
一番枠、シンコーラッシュが初速で飛び出した。烈が全体重を前傾に預けて、馬の加速に乗っている。立ち上がりの一瞬からすでに「行く気」が伝わってくるほど鮮明で、そこだけが別の時間で動いているみたいだった。
勇矢のエクリプスコードが二番手集団から四番手あたりに控える。内側でじっくりと脚を温めている。あの位置でその速度なら、タイミングさえ間違えなければ直線で確実に弾けてくる。
桜子さんのフロールロゼが斜め後方外の五番手。勇矢を視界に入れながら、ちょうどいい距離を保っている。マークであり、観察。どこで動くかを決めるための準備だ。
流玲のスコラリアはその後方。「タイミングを間違わなければ脚は強烈」という馬で、流玲はそのタイミングを計算し続けている。あの顔は、いつも通り頭の中でラップを刻んでいる顔だ。
そして颯真のスターリングは、最後方から入っていた。九番枠、大外。内側に馬が密集している序盤は無理に押し上げず外を回す。マイルで脚を余すスターリングだが、前半から消耗させる必要はない。
(焦らなくていい。まだ早い)
スターリングの耳が、颯真の方を向いた。了解、とでも言うように。
隊列が決まり、前半の三ハロンが過ぎた。
烈の逃げは本物だった。前世の槍使いが突撃する時のあの「止まらない」感覚と、ここで見るシンコーラッシュの逃げが、どこか重なる。純粋な前への意志。どんな状況でも先頭であり続けようとする本能。三割の理論を手に入れた烈のペース配分は、以前の「乱れた速さ」ではなく、計算された推進力になっていた。
残り八百メートルに差し掛かる。颯真は外側から徐々に位置を上げ始めた。大外は距離のロスがある。だがスターリングは内へ入れると窮屈になる馬だ。
(どうする?)
颯真がスターリングに向けて問いかけた。言葉ではなく、感情として。
(そとでいい)
スターリングから返ってきたのは、そういう意味の気配だった。ロスより、走りやすさ。颯真の作戦、大外から捲ってのロングスパート。この馬の能力から選んだ答えをスターリングが受け取り、大外を維持したまま加速してコーナーを回っていく。
最終コーナーを抜けた瞬間、前方の隊列が動いた。
直線に入ったところで、勇矢が仕掛ける。
エクリプスコードが、外へ持ち出されながら遠心力も使い加速する。あのタイミングは自分から見ても完璧だった。スタンドから見ていた人間も分かったはずだ。父親のような騎乗だと言った人が絶対にいる。颯真にはそれが見えた。だが勇矢の騎乗には、今日は「機械的な正確さ」だけでない何かが宿っていた。内側から外へ、押し出すように馬を動かすその動作に、意志がある。ただ勝つのではなく、誰かに向かって勝ちにいく意志。そんな勇矢の動きを見ながら桜子さんが内ラチ沿いに切り込む。最短距離で消耗を抑える作戦のようだ。
颯真は直線の残り三百メートルで、スターリングに問いかけた。
(行けるか)
(よゆー)
スターリングから来る感情は、まだ走り足りないという感触だった。退屈そうに走ってあくびをしていたあの頃の子とは違う。「行きたい」という熱が、蹄の先まで満ちている。
(なら、一緒に行こう)
颯真は身体を低くした。余計な力を全部抜いた。馬が行きたい方向に、ただ在った。
スターリングが弾け、大外から颯真が来る。
残り二百メートル。
烈のシンコーラッシュが先頭で粘っている。半馬身後ろ外に勇矢のエクリプスコード。内にフロールロゼ。桜子さんの指示にしっかり応え勇矢と同じタイミングで加速していく。
急にスタンドから歓声が上がった。何かと思えば後方から強烈なプレッシャー。流玲とスコラリアだ。確認する為に振り向く間もなく、颯真のさらに外に並び立つ。加速力がスターリングより強くジリジリと離されていく。
残り百メートル。
烈が三頭併せの状況から、もう一段ギアを上げようとした。シンコーラッシュが応えようとする。だが前半のハイペースの代償は正直だ。先頭を譲りたくない烈と、もう限界が近いシンコーラッシュ。その両側を勇矢と桜子さんが押し上げてくる。颯真はそんな勇矢の背を見ていた。
(この人は、今、本当に勝ちたいと思っている)
馬からではなく、人間から伝わってくる気配だった。目的のない勝利ではない。「颯真と走りたい」と言った夜の、あの廊下の温度が、今この直線に持ち込まれている。
隣にはクビ差で先行しているスコラリアの首を全力で押し込む流玲、最初にできた友達。烈のムチには頑張れとの気合と壊れるなよとの願いが込められている。桜子さん、打算の仮面が弾け飛び、本気顔がちょっと怖い。まるで勇者パーティーの時のような五重奏(クインテット) 颯真の中で何かが決まった。
(ぶっちぎれ!!)
颯真がいままで出したことのない全力全開の指示。スターリングから弾けるような歓喜の感情が立ち昇り、さらなる加速。スコラリアに並ぶことなく一気に抜き去り、エクリプスコードに迫る。
二頭が横並びで直線を駆けた。どちらも脚が残っている颯真と勇矢、二人の目線が交差する。どちらも引かない。そしてスタンドがひとつの歓声になった。
(ケツかゆい、つかれた)
「はいはい」
洗い場でスターリングについた砂や汗を洗い流しながら、全身を水で冷やしていく。
隣の洗い場では烈が「俺、ずっと先頭だったんだぞ!!」とブツブツ言えば、さらにその向こうにいる流玲から「残らなかったですけどね」と茶々が入る。
「でも最後まで先頭を走り続けたんだ、結果的に五着でもラッシュはマジで頑張った。文句あるか!!」
文句などなかった。烈の走りは、ハマっていた。それは本当だった。
流玲がスコラリアにホースからの水を直接飲ませながら
「展開は読んでた通りでした・・・・・・、颯真くんのロングスパートも。あの作戦しかないと読みは的中、スコラリアの加速力なら勇矢くんにも届くと考えていたんですが・・・・・・。二頭の最後の加速、ラップが予測より少し早かった、それが僕の敗因で、原因の判明している三着は受け入れられる結果です」
「スターリングに全力全開で行こうって言ったからな」
「・・・・・・それを言語化するのが、次の課題ですね」
「頑張って」
流玲は「はい、必ず」と言ってスコラリアを労り、各部を触りながら状態を確認していく。
対面の洗い場では、桜子さんがフロールロゼのたてがみの三つ編みをほどきながら「あたし四着。悔しい」と拗ねていた。
「計算通りじゃなかったですか?」
「計算とは別に、悔しいの。わかる?」
「・・・・・・わかります」
「でも、すっごく楽しかった。なんでだろうね」
桜子さんは颯真を見て、それから少し笑った。今日のその笑顔には、打算は混じっていなかった。
「次は勝つわよ」
「はい、ぜひ」
その隣、エクリプスコードの首を洗う勇矢と目があった。
それはゴール直後に颯真を見た歓喜を宿した目。勇矢のエクリプスコードの鼻先が、ほんの僅かに前にあった。
颯真は二着。
レースの直後、颯真は息を整えながら、スターリングの首に手を当てた。
(ありがとう。よく走った)
(ひさしぶりのぜんりょく、たのしい、つかれた)
スターリングから来るのは、疲労とそれを上回る充実だった。最後まで走りきった、という感覚。あくびをしながら走っていたあの馬が、今日は最後の一歩まで本気で走った。馬の身体を優先するあまり、無理をさせることを無意識に避けていた。だが彼らだって競り合いとなれば勝ちたいし、そのためなら無茶もする。それをこちらの一方的な思いで抑え込むのは自分のエゴでしかない。共に走るその意味をもう一度噛みしめる。
スタンドでは藤堂が腕を組んだまま動かなかった。隣に座った両親のうち、絵里が口を覆って拓也の袖を引っ張っているのが遠目にも見えた。拓也はなぜか背筋が伸びたまま微動だにしない。
川越勇将は、息子の走りを見て長い間黙っていた。それから、静かに頷き藤堂と言葉を交わしている。何かを認めるような、あるいは何かが変わったことへの確認のような、その一動作だった。
勇矢が颯真の隣に馬を寄せてきた。
「勝った」
「おめでとう」
「・・・・・・颯真のプレッシャーをずっと感じていた。今俺のできる、すべてを使った」
勇矢はそれだけ言って、前を向いた。その横顔に、入学の日に感じた「消耗した静けさ」はもうなかった。かわりにあったのは、まだ言葉になっていない何かだ。勝った先、そこにあるのは空白ではなく、まだ言葉にならないナニカ。その背を目で追いかけ、冬の高く澄み切った空を見上げる。
勇者・・・・・・、キミに会いたいよ。
魔王を倒したその先、かの世界で勇者はどんな未来を進んだのだろう。僕のこと、この世界のこと、そしてキミとそっくりな彼のことをたっぷりと話してあげたかった。
エピローグ ―― 一年目の終わり ――
進級レースが終わった夕方、颯真は一人で馬房に戻った。
スターリングの水と飼い葉を確認してから、馬体を拭いた。スターリングは静かに颯真の手を受け入れていた。今日のレースでまたひとつ何かが変わった、ということを颯真は感じていた。馬から来る感情が、以前と違う。「仕事」ではなく、「一緒に走ったこと」の残滓のようなものが、まだそこにある。
(おつかれさま)
(つかれた、ケツかゆい)
スターリングは答えずクルッと回ってお尻を向ける。でも首を曲げこちらを向き、耳も颯真の方を向いて、しばらく動かなかった。
(そうか)
颯真はたっぷりとスターリングが満足するまでお尻をかくと、静かに馬房を出た。
外に出ると、藤堂が待っていた。颯真は驚いた。レースが終わったら帰るものだと思っていた。
「・・・・・・師匠」
「一年でずいぶんと成長したな」
それだけ言った。余計なことを言わない男だ。
「ありがとうございます」
「レースもなかなかだ」
「勝てなかったです」
「ああ、だがスターリングのロングスパート。いい判断だった」
颯真は少し笑った。批判でも擁護でもない。事実を言っているだけだ。それが藤堂という人間だった。
少し間があり、藤堂は真新しいノートを差し出した。
「今日のレースの総評と明日からの課題だ」
この短時間で書き上げたであろうその筆跡に、不意に涙が滲む。
「泣くな。お前は今日一つの壁を抜いた。馬に全力で走ることをさせた。あとはそこに行く判断の速さだ。コンマ一秒早ければ結果は変わっていた。分かるか」
「はい、はい」
「覚えておけ。来年は今年とは別人で来い。そのためのノートだ。それと"はい"は一回でいい」
藤堂は踵を返した。
「ご両親が食堂で待っている。だいぶ心配していた。面会して見送ってこい」
「はい」
颯真が歩き出すと、後ろから声がかかった。
「信じているぞ」
颯真は振り返らなかった。でも、一度だけ頷いた。
両親との面会は、食堂の隣の面談室で行われた。
絵里が最初に颯真の顔を確認して、それから安堵した顔になった。
「怪我はない? レース、初めて見たのよ。迫力もすごいしお馬さんは大きいし、あんなにスピードがあるのにシートベルトも無いなんて・・・・・・」
「うん、そうだね。でも女性でも騎乗してるし、僕も訓練してるから大丈夫」
「勝てそうだったけど惜しかったわね。でもすごかった。あの・・・・・・川越くんのお父さんに、あなたの息子さんとライバルですね、って言ったら笑顔で握手してくれたわよ」
颯真は少し頭を抱えた。
拓也は颯真の顔をしばらく見て、それから言った。
「・・・・・・来年、また来るから。それまで頑張れ」
「うん、ありがとう」
それだけで長くは話さない。でも颯真には分かった。
帰り際にミーが気まずそうに現れて「にゃあ」と絵里に挨拶をすると、絵里は泣きながら抱き上げて一緒に帰ると言ってきかなかった。
面会が終わって見送りをした帰り道、颯真はミーを胸に抱いて寮に向かいながら夜空を見上げた。
三月の空に、宵の明星が輝いている。
廊下の角を曲がったところで、勇矢がいた。電話を終えたばかりの様子だった。
「お父さんから?」
「ああ」
今日の「ああ」は、いつもと少し質感が違った。重くない。
「聞いてもいい?」
勇矢はしばらく黙った。そして、ミーの頭を撫で、珍しいことに答えた。
「次も勝てと言った」
「それだけ?」
「最後に・・・・・・いいレースだった、と。俺の記憶では、初めて聞いた」
颯真は何も言わなかった。
「俺には、まだ勝つ意味が分からない。でも今日は・・・・・・その言葉が嫌いじゃなかった」
また少し沈黙があった。
「颯真」
「うん」
「来年も勝負しよう。今日より、もっと本気で」
「うん、やろう。次は負けない」
就寝時間ギリギリまで幼少期の話、家族の話、乗馬の話、学校の話、色々なことをとりとめなく話した。ミーと遊びながら。最後にミーとどちらが一緒に部屋へ戻るか争いになったが、お互いに反対側に立ちミーを呼ぶことで決着をつけた。勇矢がちゅーるを使って呼びかけるという大人げないことをしたが、ミーが脇目も振らず颯真の胸に飛び込んだ。
「こんどは俺が勝つ」
勇矢の言葉には今までで一番強い想いが乗っていた。
部屋に戻るとミーはただ満足げにニャと鳴いて、颯真の肩に顎を乗せてきた。重い・・・・・・、でもあたたかい。
流玲はノートに何かを書き続けている。
「なに書いてるの?」
「今日のレースで、颯真くんのスパートタイミングについて一つ仮説があるんです。次の実習で検証したくて」
「寝た方がいいよ」
「もう少しだけ」
颯真はベッドに横になった。ミーが頭の脇で丸くなる。流玲のペンの音が静かに続いている。
颯真は目を閉じて、今日のレースを振り返った。
スターリングとラストスパートを走った感覚がまだ残っている。あの「ぶっちぎれ!」という瞬間。馬の意志と自分の意志が重なって、一つの走りになった瞬間。前世でライム達と駆けた時の感覚と、どこか似ていた。契約という魔法の絆がなくても、この世界でも同じものが生まれると、今日初めてはっきりと分かった気がした。
(二年目は、もっとうまくなる。委ねるだけでも強制するだけでもダメなんだ。なぜビーストテイマーには絆が必要だったのか、僕も変わっていかないといけない)
確信があった。
流玲のペンの音が、しばらく続いた。
ミーの寝息が聞こえ始めた。
契約獣だけでなく勇者パーティーの皆とも夢で会いたいな・・・・・・、そう思いながら。
「ソーマ!」「ソーマくん」「ソ~マ~」「ソーマ」
かつて呼ばれていた声を思い出しながら、颯真は意識を手放していく。
馬のいななきが遠くで響く。春はもうそこまで来ていた。
はじめての小説に対し、評価や感想、お気に入りも頂き、ありがとうございます。
嬉しくて、競馬学校編を書き始めたのですが三年分を詰め込もうとしたら1年分しか進みませんでしたし、一週間もかかってしまった・・・、すみません。
この話の評価や感想も教えて頂けると嬉しいです。
スターリングのイメージは某芦毛のエンターテイナーなアイツ笑