「ありがとう、一緒にいてくれて」
彼はその言葉を最後に、光の中に消えた。
契約獣たちと共に、世界を救うために。
転生した先は、現代日本。
神谷颯真(かみや そうま)という名の少年として生まれ直した彼のもとに、また「声」が聞こえてくる。
動物たちの感情が、言葉より先に届く。
ある日出会った一頭の馬は、深く傷つき、走ることを忘れかけていた。
前世で学んだことは一つ。
命じるな。信じろ。共に走れ。
失った絆の記憶を胸に、少年はもう一度、誰かのために走り出す――。
プロローグ ――消滅の瞬間――
世界が、砕けていく音を聞いた。
地の底から這い上がるような轟音が、大気そのものを震わせる。空が割れ、そこから溢れ出した漆黒が地に落ち、ゆっくりと、しかし確実に世界を侵食していた。
勇者が魔王を倒した。
しかしそれは戦乱の終焉ではなく ――崩壊の始まりだった。
魔王はその魂を代償として、世界の道連れを望み、世界そのものが崩壊を始めていた。
「ソーマッ! 早く来い!!」
勇者の声が遠い。
勇者を庇い、呪いの波動を一番近くで受けた身体が動かない。膝をついたまま、ソーマは理解していた。僕がこの崩壊を止める以外にパーティーのみんな、父さん、母さん、この世界が生き延びる道はない。
直接浴びたからこそ分かる。魔王が遺した呪いは、世界そのものを崩壊へと導くもの。それを相殺するには、同等の"質量"がいる。
周囲には、確かな温もりがあった。
銀狼のライム。蒼鷹のシア。翠竜のロック。闇猫のミミス。白鹿のキラ。
ビーストテイマーとして命を預け、共に戦い抜いた契約獣たち。
ただの使役ではない。ともに在ることを選び続けた、家族。
「……お前たち」
言葉はかすれた。それでも、絞り出す。
ライムが静かに鼻先を押し当ててくる。シアが翼で肩を包む。応えは、もう交わされていた。
魂と魂を結びつけた契約。その総量。
――自分と、この五つなら、足りる。負けた腹いせに世界と心中するような魔王の魂になんか負けない。そして呪いの要は目の前にある。
「……こまったな」
思わず笑みがこぼれた。
こんな役目、望んだ覚えはない。
それでも。
「ありがとう、一緒にいてくれて」
尾が、揺れた。
それだけで、十分だった。光があふれ、白く溶けていく。
かすかに勇者たちの制止する声が聞こえる中、ソーマは目を閉じる。
この選択を、後悔はしない。
ただもう一度、契約獣たちと平和になった世界で暮らしたかったな。
第一章 目覚めの春
神谷颯真(かみや そうま)が最初に「変だ」と気づいたのは、五歳の春のことだ。
近所の公園に捨てられていた煤けた仔猫が、鳴き声でなく「ことば」で話しかけてきた。
ひもじい。さみしい。こわい。
正確には声ではない。胸の奥に直接、感情の塊が流れ込んでくる感じだ。
颯真はしゃがんで、ぼろぼろの仔猫に手を差し伸べた。
「わかった。うちに来い」
母親は困った顔をしたが、颯真があまりに真剣な目をしていたので折れた。「ミー」と名づけられたその猫は、三日もすれば穏やかな満足感を毎朝発信するようになった。
初めてお風呂に入れたとき、恐怖の感情が一気に溢れ出してきた。
「大丈夫」
颯真がそう伝えると、ミーは暴れることもなくお湯に身を任せた。湯上がりに初めてわかった。毛並みが夜を切り取ったかのような、美しい黒猫だった。
これがふつうじゃないと理解したのは、もう少し後だ。
小学一年生のとき、生き物係に立候補した颯真は、学校のウサギが病気を隠していることを言い当てた。ウサギは確かに元気そうに見えた。だが颯真には、腸の不快感が直接伝わってきていた。
獣医に診せると、重度の腸炎。このままでは命の危険すらある状態だった。
それから颯真は「生き物係の有名人」になった。犬のケンカを止める。カラスがゴミを漁るのをやめさせる。遠足で行った農場で、足に棘が刺さった暴走牛を停止させる。
騒がしい生活だったが、颯真はどこか淡々としていた。
同級生が「なんでわかるの?」と聞くたびに、少し考えてから「なんとなく」と答えた。うまく説明できないし、する必要も感じなかった。ただ、生き物が「こう」と言っているなら、聞いてやればいい。それだけのことだ。そしてなんとなく感じる違和感。
そしてときどき、夢を見た。
白い霧の中に、狼と鷹と竜と鹿が立っている夢だ。足元には猫がいて、みんなこっちを見て、しっぽや翼を揺らしている。颯真が手を伸ばすと、霧が濃くなって、何も見えなくなる。
目が覚めると、胸の奥に温かい何かが残っている。
泣いているわけじゃない。でも涙がにじんでいる。
(また夢見た)
ミーが布団の上から覗き込んでくる。不安と好奇心が混ざった気配。颯真は起き上がって、頭を撫でた。
「ただの夢だよ」
そう言いながら、颯真には確かな予感があった。
あの霧の向こうに、自分の「前」がある。
でも今はまだ、思い出すべき時ではない気がした。
第二章 夏祭りの馬
颯真が中学生になった夏の終わり、神社の境内に縁日の屋台が並ぶ中、何をするでもなく歩いていた。颯真の住む町では「秋駆け神事」が行われる。
もともとは五穀豊穣を祈る儀式で、神社に馬を奉納し、曳き馬神事を行う。そして最終日、その馬たちが境内脇の参道コース――直線八百メートル(4ハロン)――を駆けるというもので、一着馬に神馬として称号が与えられる。今ではすっかり観光イベントになり、地元の乗馬クラブや牧場が馬を貸し出し、地域の若者が騎乗する形になっている。
颯真は毎年来ていた。初めて見たときから、馬が好きになっていたからだ。
競馬場に連れて行ってもらったことは一度もない。でも馬という生き物が発する感情は、他のどの動物よりも豊かで、複雑で、美しかった。喜びは大きく、恐怖は深く、誇りは鋭い。そう思っていた。あの子を見るまでは。
今年も屋台をひやかし、焼きそばを食べ、明後日の秋駆け神事の見物場所の下見も終えてそろそろ帰ろうかと思ったとき――。
颯真の足が、止まった。
神事の待機スペース。境内の隅に設けられた仮設の馬房の前、鹿毛の馬が、柵に背を向けて佇んでいる。
他の馬たちが耳を立てて周囲に関心を示す中、その馬だけが静止していた。正確には、静止というより――「消えようとしている」ように見えた。存在感を消そうとして、息を潜めて、ただ時間が過ぎるのを待っている。
颯真には、その感情がはっきり伝わってきた。
疲労。諦め。それより深いところにある、もっと重くて古いもの。
(なんだ、これ……)
颯真はゆっくり近づいた。馬が耳を倒す。警戒。でも逃げようとはしない。
もう逃げる気力もないのだと、颯真にはわかった。
「なあ」
低く、静かに話しかける。
「お前、まだ走りたいと思ってるか?」
当然、返事はない。馬は言葉を話さない。ただ感情の流れが来る。鈍い、疲弊した波。
颯真は柵の外から、手のひらを馬の首に近づけた。触れるか触れないかの距離で、止める。
「……嫌なら触らない」
馬は動かなかった。
でも、ほんの少し。ほんの一瞬、鼻の穴が広がって、颯真の匂いを吸った。
それだけだった。でも颯真には、そのとき確かに何かが変わったのがわかった。馬の中の、固く凍っていた何かが――少しだけ、動いた。
「おい坊主、その馬には近づくな。ちょっと難しい子なんでね」
背後から掛けられるぶっきらぼうな言葉に、顔を向けると作業着を着たおじさんと目があった。
「難しい、というのは?」
「アストラル。元中央の競走馬で去年引退してうちで預かっている。騎乗しようとすると暴れる。人に慣らさせるためにも曳き馬神事に参加の予定でね」
曳き馬。人が乗らず、手綱を引かれるだけで歩く参加形式。
「競走馬……。走っていたんですよね?」
「まぁな、でも成績はさっぱり。適性に合わんレースばかり使われて、心が折れたんだろう」
おじさんはため息とともに煙草の煙を吐き出し、もう行きなさいと注意をしてその場を離れた。
颯真は再び、アストラルを見た。
馬は依然として柵に背を向けていた。
でも颯真には聞こえていた。疲弊した感情の奥の奥。岩の底に湧く泉のような場所から、かすかに滲み出てくるもの。
(……走りたい)
消えかけている。でも、消えていない。
颯真は、目を細めた。
第三章 師匠と試練
その馬の管理人の名前は、藤堂恒一(とうどう こういち)。元々は栗東に所属していた中央でも名うての調教師であったが定年を期に実家のあるこの地に戻り、引退馬を乗馬用にリトレーニングしたり、功労馬の養老を請け負ったりする牧場を経営していた。
翌朝、颯真が仮設馬房の前でうろうろしていると、煙草の煙を漂わせながら事務所から出てきた、白髪交じりの頑固そうな男がそれだった。
「アストラルの所にいた子か。昨日からずっと見てたな」
「はい。あの馬のことを教えてほしいんです」
藤堂は煙草を地面に押し付けて、じっと颯真を見た。品定めするような目だった。
「いくつだ」
「十二です」
「馬に乗れるか」
「乗ったことはないです」
沈黙。
「アストラルの経歴、知りたいか」
颯真は頷いた。
藤堂は事務所に戻り、椅子を一つ引き出して颯真を座らせ、自分は壁に背をもたれ、腕を組んだ。
「アストラルは五歳の牡馬だ。セレクトセールで高額落札されたが、現役時代の成績は一五戦一勝。重賞はおろか、オープンにも手が届かなかった」
事実だけを並べる口調。感情を交えない、藤堂なりの誠実さだった。
「その一勝は、ダートの千四(1400メートル)。あれはダートが合う馬だ。スタミナよりスピードで走るタイプ。短いがキレのいい脚を使う」
「なのに?」
「なのに、当時の調教師は芝の中距離で使い続けた。血統もそうだが馬主の意向があったんだろう。クラシックを戦う馬を要求した。だがアストラルはそういう馬じゃあない」
颯真は静かに聞いた。
「結果が出なければ、騎手が変わる。調教方針も変わる。馬は混乱する。何が正解かわからなくなる。走り方がわからなくなる」
藤堂が天井を見た。
「去年、最後のレースでアストラルはゲートの中で暴れた。パドックから気配がおかしかった。それでも陣営は出走させた。ゲートを出た後、百メートルで止まった。走る気を、完全に失っていた」
それだけで、颯真には全部わかった。
走る意味がなかったんじゃない。走り方を、奪われたんだ。
「引退後はうちに来た。騎乗しようとすると暴れる。曳き馬以外は無理だと思っていた」
藤堂は颯真を見た。
「お前は、あの馬の何が見えている?」
「まだ、走りたいと思ってます。あの馬は」
「……根拠は」
「伝わってきます。直接」
沈黙が落ちた。
「試すことがある。ついてこい」
連れて行かれたのは、馬房の前だった。
アストラルが颯真の姿を認めて、耳を動かした。さっきより、わずかに速く。
「乗ってみろ」
周囲の厩務員がざわついた。颯真は構わず、アストラルの横に立った。
馬の感情を読む。警戒。困惑。でも――拒絶ではない。
「乗っていいか」
颯真は馬に向かって言った。返事はない。でも「来るな」とも言っていない。
颯真は深く息を吸い、藤堂の腕を足場に飛び上がった。
背中に跨った瞬間。
アストラルの全身が硬直した。
(怖い。やめろ。降りろ――)
強い感情が来た。颯真はそれを受け止めて、流した。逃げない。押し返さない。ただ受け取る。
「僕はここにいる」
静かに言った。
「お前のペースでいい。動きたくなければ動かなくていい」
一秒。 二秒。 十秒。
アストラルの背中の筋肉が、少しずつ、緩み始めた。
一分が過ぎた。馬は動かなかった。でも抵抗もしなかった。
そして二分が過ぎた頃。
アストラルは、一歩踏み出した。
颯真の主導でも、手綱の引きでもなく。馬が、自分で選んだ一歩だった。
藤堂がぼそりとつぶやいた。
「……本物か?」
それが、すべての始まりだった。
第四章 一夜の特訓
曳き馬神事が終わり、明日は「秋駆け神事」のメインレースだ。
境内の一角を仕切った角馬場の中央で、藤堂が長い手綱を持っている。その周りをアストラルに乗った颯真が周回する。
今日中にこの坊主に教えなければならないことは、山のようにある。
「背筋。前傾になるな」
藤堂の指摘は容赦ない。感情もない。ただ、正確だ。
「体重を鐙に逃がせ。馬の背中に乗るな、浮け」
言葉では理解できた。でも身体がついてこない。そういうとき、颯真にはもう一つのルートがあった。
アストラルに、聞く。
(どのくらい?)
感情で問いかける。返ってくるのは言葉ではなく、感覚だ。「こう」という身体の記憶。どんなバランスのとき走りやすいか。どんな重心のとき脚が地面をつかみやすいか。
颯真はそれを、自分の身体に翻訳した。
「……ん?」
藤堂が目を細めた。
「今、何かを直したな。指摘していないのに」
「アストラルに聞きました」
沈黙。
「……馬に聞いた、と」
「感情で、です。うまく説明できないんですけど――こちらから伝えると、馬も返してくれます」
藤堂は長い間、黙っていた。
「……中央でも、ほんの一握り、そういう騎手がいる」
「そうなんですか?」
「馬と"呼吸を合わせる"と言う。技術じゃなくて、才能だ」
(本物だな。とびきりのダイヤの原石が、まさかこんな所に……)
「お前にそれがあるなら、俺が教えられることは少ない。でも今日中に基礎の基礎だけは叩き込む。土台のない才能は、折れる」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「……はい」
藤堂は小さく、笑った。颯真が初めて見る表情だった。
訓練は続いた。
一時間、二時間。日が暮れても、颯真は止まらなかった。
走り方を覚えた。アストラルと呼吸を合わせることを覚えた。馬の脚の運びを感じながら、余計な力を抜くことを覚えた。
そして気づいたら、アストラルが走っていた。
ぎこちない。でも確実に、前へ。
颯真には伝わってきた。アストラルの中で、何かが変わっていくのが。恐怖が薄れるのではなく、走ることへの記憶が戻っていく感じ。かつて「こうやって走っていた」という感覚を、少しずつ、取り戻していく。
「颯真」
飼葉を一心不乱に食べるアストラルの馬房で、煙草に火を灯しながら藤堂が言った。
「秋駆け神事は、神社の許可があれば参加可能だ。秋駆け神事のメインレースを勝つと、その年の神馬が決まる」
颯真は顔を上げ頷いた。
「明日だ。アストラルで出るか?」
「出ます」
即答だった。
藤堂は少し呆れたような顔をしたが、何も言わなかった。
「相手を教えておく」
藤堂がタブレットを差し出した。映っていたのは――漆黒の馬体。筋肉の鎧をまとったような、圧倒的な威容。
「ヴァルガス。元重賞馬。三年連続でこのレースを圧勝している。オーナーは元調教師で、馬の調教に絶対の自信を持っている。完璧に作られた馬だ。鞍上も元地方騎手ときてやがる」
颯真はその画像を見た。それは知っている、あの子。
初めて見たのは三年前。美しい馬だった。でもどこか――空虚だった。他の馬たちが走ることを喜んだり、負けたことを悔しがったりしている中、波紋のない水面のように、静かで、深みがない。
(走ることの意味を、この馬は知っているんだろうか)
「勝てると思うか?」
藤堂が聞いた。
「アストラルが走りたいなら、走ります。勝ち負けはその次です」
藤堂は何も言わなかった。
ただ、煙草の煙が、静かに夜空に溶けていった。
第五章 前夜
帰ると言って別れた後、颯真は仮設馬房に戻っていた。
藤堂は何も言わず、調教前に聞いていた母親の電話番号へ帰りが遅くなってしまうことへの謝罪の連絡をする。
アストラルは起きていた。
颯真が近づくと、馬は首をゆっくり向けた。もう耳を倒さない。警戒の色がない。ただ、颯真を認識して、迎えている。
それだけで、颯真には十分だった。
馬の額に、手を当てた。
馬の内側から来るものは、複雑だった。
緊張。期待。そして深いところに、まだ怖さがある。「また間違える」という記憶の傷。うまくいかなかった日々が、蓋の下でまだ生きている。
「怖いよな」
颯真は静かに言った。
「無理に走れとは言わない。明日、走りたくないなら、僕はそれを受け入れる」
アストラルは鼻を鳴らした。
「でも一つだけ覚えといてくれ」
颯真は馬の目を見た。深い、暗い、美しい目。
「お前が走りたいと思った瞬間に、僕は合わせる。お前のリズムで走る。僕がリードするんじゃない」
そんな事は無いはずなのに、前にもこんな事あったよなと颯真は思っていた。
それは颯真が「指示した」ときではなかった。「信じた」ときだった。「お前ならできる」と思って、手綱を放したとき。
制御ではなく、信頼。共に歩む覚悟。
それが颯真のビーストテイマーとしての本質だった。
「だから、怖いまま走っていい。それでいい。僕がいる」
アストラルが、颯真の肩に鼻先を押し付けてきた。
ゆっくりと、重く。
颯真は目を細めた。
(ありがとう)
それは颯真の言葉か、馬の感情か。もうどちらかわからなかった。
第六章 秋駆け神事
当日の朝は、快晴だった。
参道コースの両側に、多くの人が集まっていた。神事レースは、地元ではそれなりに知られたイベントであり、地方局のテレビ中継もあった。屋台も多く出ている。
出走馬は全部で六頭。
アストラルは五番枠だった。馬体重は他の馬より軽い。見た目の迫力では、最下位だろう。パドックで颯真を乗せて歩くアストラルに対して、観客の反応は冷やかだった。
「あの馬、大丈夫? 細くな~い??」
「曳き馬じゃないの?」
「乗ってるの子供?」
颯真は気にしなかった。
強がりではない。本当に、意識が別のところにあったからだ。
アストラルの状態を感じていた。緊張している。当然だ。でも昨日より、怖さが薄い。
颯真は馬の耳に、声にならない声で言った。
(一緒に走ろう)
アストラルの耳が、ぴんと立った。
そして一番枠に、ヴァルガスが入った。
どよめきが上がった。漆黒の馬体は、日差しを吸い込んで輝いていた。筋肉の鎧。完璧な歩様。だがその目にはなにも映っていなかった。
「ヴァルガスだ。今年も本命だな~」
「三連覇だって。もう決まりじゃないの」
「相手にならんでしょ」
颯真はヴァルガスを見た。
美しい馬だった。疑いなく。
でも――あの馬から来るものが、ない。
感情の発信がない。走ることへの期待も、喜びも、怖さも。完全に、平らだ。
そして思う
(この子にも……走ることの意味を思い出してもらいたい)
スタートラインに各馬が並んだ。
直線八百メートル、電撃4ハロン。全馬一斉スタートし先頭で駆け抜けたものが勝利。ルールはそれだけだ。
颯真はアストラルの背中で、息を整えた。
感じる。馬の呼吸。脚の重心。準備が整っていく感覚。
(いつでもいい。合図は僕が、タイミングはキミが)
スターターの神主が旗を上げた。
第七章 走る意味
一瞬の静寂から、大きな歓声があがった。
五頭が一斉に飛び出し、ヴァルガスは最初の一完歩目から全力。機械のような正確さで脚を刻んでいく。その後ろに他の四頭が続いた。
アストラルは、遅れた。
合図の後一瞬、硬直した。スタートの歓声と、他の馬が一斉に動く衝撃に、身体が固まった。
(大丈夫だ)
颯真は叫ばなかった。鞭も打たなかった。手綱も引かなかった。
ただ、感じた。アストラルが固まっている理由を。怖いのではない。身体が「走り方」を思い出そうとしている。記憶の引き出しを、開けようとしている。
(急がなくていい。思い出せ)
二完歩。三完歩。
アストラルが動き始めた。
ぎこちなかった。最初の百メートルで、他の五頭に大きく引き離された。観客の失笑が聞こえた。
「やっぱり無理だって」
「完走、頑張れ~」
聞こえてはいたが意識を向けることはない。
意識の全部が、アストラルの身体の中にあった。
アストラルの感情が、変わっていく。
怖さが引いていく。その代わりに、別の何かが来る。熱い。速い。身体の奥から湧いてくる、原初的な感覚。
(走りたい)
その瞬間だった。
颯真は感じた。馬の脚の運びが、変わる瞬間を。
「――行こう」
颯真は声に出した。命令ではなかった。一緒に走ろうという、呼びかけだった。
残り六百メートル(三ハロン)。アストラルが加速した。
藤堂は目を疑った、それまでとは別の馬になったと思うほど、脚が伸びた。重心が低くなった。地面を掴む力が変わった。切れるいい脚。瞬発力で走るタイプ。ダートで勝利した、本来のアストラルの走りが、いまはじまる。
その感覚は、まるで急な崖を下る白鹿の背にすべてを委ねた時のよう……。
(ん?なんだろう?この感覚、覚えてる)
颯真はその動きに合わせた。先導するのではなく、合わせる。馬が行きたい方向へ、馬が出したいリズムで。余計な力を一切加えず、同じベクトルにそっと手を添える。まるで颯真という重さが、そこにないみたいに。
観客が、静かになった。
「……あれ、速くないか?」
アストラルが二頭を一気に抜いた。
残り四百メートル(二ハロン)。前には二頭。
ヴァルガスは、はるか前を走っていた。完璧なフォームで、淡々と。感情のない走りで。
颯真はアストラルの感情を読んだ。疲れていない。まだ脚がある。そして――楽しんでいる。その時、前を走る一頭が急によれて進路を塞ぐ。
(大丈夫!)
アストラルと視界が共有され進むべき進路を伝える。
森の中を走る銀狼の背でトレントを回避するなんてお手の物だ!!
霧の晴れた前世の記憶が、颯真の中で重なった。
ライムと駆けていた夜。シアの先導で嵐の中を魔王城に向かい飛んでいた朝。みんな、命じられたから動いていたのではなかった。走りたいから走っていた。飛びたいから飛んでいた。
それでいい。それが正しい。わずかに開いた隙間にアストラルが飛び込む
残り二百メートル(一ハロン)。
アストラルが二着を抜いた。
前にはヴァルガスだけ。
その差は、まだ三馬身あった。
「追いつく気か?」
「ちょっと待って、あの馬本気で速い……!」
颯真は感じた。アストラルが、一段階ギアを上げ手前を変える。
それは颯真の指示ではなかった。馬が「行ける」と判断して、自分で決めた。
あの臆病な翠竜が強大な邪竜に会心の一撃を決めた時のように。
(僕はただ、ここにいる)
颯真は身体を低くして、馬の動きに溶け込んだ。
残り百メートル。
アストラルの鼻先が、ヴァルガスの後肢を捉えた。
どよめきが、歓声に変わった。
残り五十メートル。
風を読み風を味方にする蒼鷹の加速を邪魔しない姿勢……。
首が並んだ。
颯真にはヴァルガスの騎手の焦りが感じ取れた。焦りから、初めて鞭を使った瞬間が。楽勝だと思っていたのに「競られている」という事実に、初めて対応した。
だが、ヴァルガス自身は変わらなかった。
走りのリズムが変わらない。加速しようとする意志が、ない。ただ淡々と
(この子は、勝っても負けても)
ゴール。
アストラルの首が、ヴァルガスより、前に出た。
歓声が、参道に響いた。
第八章 絆の言葉
ゴール後、アストラルは荒い息を吐いていた。
颯真は背から降りて、アストラルの首に額を当てた。
伝わってくるのは、疲弊と、それを上回る何か。
熱い、満ちた、充実した感覚。
(走れた)
颯真は笑った。声を出さずに、ただ笑った。
関係者と観客が駆け寄ってきた。でもその前に、颯真は気になっていたことがあった。
アストラルを藤堂に預けて、ヴァルガスのいる方へ歩いた。
漆黒の馬は、騎手が降りた後、静かに立っていた。敗北を受け入れているのか、意に介していないのか、颯真にはわからなかった。
ヴァルガスのオーナー――元調教師らしき老人が険しい顔で立っていたが、颯真は構わず馬の前に立った。
感じる。
ヴァルガスから来るのは、空白だった。
感情の発信が、ない。喜びも悔しさも怖さも。ただ、「指示を待っている」という状態が、べったりと表面を覆っている。
(……この馬は、自分で走ったことが、ないんだろう)
「なあ」
颯真はヴァルガスに言った。
「走るのって、楽しいか?」
返事はなかった。
でも――ほんの少し。ヴァルガスの耳が、颯真の方向へ、かたむいた。
「走りたいから走るんだ。僕は、そういう走りがしたい。お前にも、そういう走りをしてほしい」
ヴァルガスは動かなかった。
でも、その瞬間だけ、颯真には感じ取れた。
ヴァルガスの奥の、最も深い場所。
かすかに、揺れた何かを。
オーナーの老人が颯真の肩を掴んだ。
「なんのつもりだ、貴様」
「すみません。話しかけたくて」
「馬に話しかけた? 馬鹿にしているのか」
「してません」
颯真は老人を見た。
「あなたはこの子に走ることを教えた。でも走ることの意味を教えてない。そのうちこの子は、走ることをやめます」
老人の顔が赤くなった。
「子供が何を――」
「颯真」
藤堂の声だった。
藤堂が颯真の隣に立って、老人に静かに頭を下げた。
「すみません、うちの子が失礼を。でも」
藤堂は老人を、真っ直ぐ見た。
「あいつの言ってることは、間違ってない」
老人は何も言わなかった。
颯真はもう一度、ヴァルガスを見た。
彼はこちらを向いていた。
ただその目は、さっきより少しだけ――違って見えた。
エピローグ 走りたいから
その後、藤堂は颯真に言った。
「中央競馬の騎手の道を、考えてみないか」
騎手。
中央競馬(JRA)の騎手になるには、JRAの騎手候補生学校に入る必要がある。競争倍率は高く、入学できるのは毎年わずかな人数だ。年齢制限もある。
「考えてます。ずっと」
「いつから」
「昨日、アストラルに乗ったときから」
藤堂は少し黙った。
「才能はある。それは断言できる」
「でも?」
「才能だけで勝てるほど甘くない。修羅場はこれから何度でも来る。お前の"力"は、深く同調すれば馬とダメージを共有する。限界を超えれば、お前が倒れる。そしてお前は馬に無理をさせない、その行為は勝負の世界で蛇蝎のごとく嫌われる」
「知ってます」
「知った上で、やるか」
颯真は空を見た。
秋の快晴。高い雲。
前世の記憶を取り戻した颯真に契約獣たちが揺らしていた尾と翼が、頭の中に浮かんだ。
「ニャーン」
ふと、鳴き声が聞こえた。
「あれ?ミー??こんな所まできたの?」
気がつけば足元にいた黒猫がこちらを見上げている。そっと抱えあげそのひだまりの様な温かさと小麦のような香りに癒される。
あいつらが最後に見せてくれた、覚悟が颯真の中にまだある。
僕は今度こそ、誰も失わない勝ち方を証明する。力で従わせるんじゃなく、一緒に走ることで。
「もっと走りたいんです」
颯真は言った。
「アストラルと。そしていつかは、もっとたくさんの馬達と」
藤堂は煙草に火をつけた。
「来週から、僕が面倒を見る。週に四日、訓練に来い。残りは勉強をしろ。騎手は頭も使う」
「はいはい」
「一回だけ言え」
「……はい」
藤堂がため息をついた。でも颯真には、その呆れの奥に、温かいものが混じっているのがわかった。
アストラルが、颯真の背中に鼻先を押し付けてきた。
それが「行こう」という意味なのか、「ありがとう」という意味なのか。
たぶん、どちらでもあった。
颯真は笑って、馬の首に腕を回した。
「ああ。また走ろう」
空に、秋の風が吹いた。
初めて物語を作ってみました。
感想などもらえたら嬉しいです。