転生ビーストテイマーは競馬場で伝説を刻む   作:春の月夜

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二年生編は分割で投稿していきたいと思います。

感想をお待ちしております


第3話(1)

第一章 日本ダービー

 

 五月末の最終日曜日、東京競馬場の芝は思っていたより緑が深かった。

 空は薄い雲に覆われて陽が柔らかい。だがコースを取り囲むスタンドの圧力は、空の柔らかさとまるで釣り合わない。外回りコースの最終直線、五百二十六メートル。その長さを颯真は事前に知識として持っていた。でも実際に目で見ると、数字が別の重さに変わった。

 人が、いる。

 人、人、人どこを見ても人だ。スタンドが人で埋まり、コースの内側も、立ち見エリアも、通路も、至るところに人がいて、その全員が同じレースを待っている。聞こえてくる声の量も、質も、颯真がこれまで経験したどんな場所とも違う。神事レースの境内の空気は、祭りの静けさと共鳴していた。進級レースのスタンドは、知っている顔ばかりだった。でもここは違う。誰も颯真を知らないし、颯真も誰も知らない。ただ、全員がこれから同じものを見ようとしている。

(これが、競馬だ)

 頭では分かっていた。テレビで見たことがある。映像で知っていた。でも映像と、ここにいることは、まったく別の話だった。

 

 二年生に進級して二ヶ月。校外見学の行き先が日本ダービーだと告げられた時、烈が「うおっ!!」と叫んで佐和に睨まれた。あれから一週間が経って、烈はまだその時の興奮の余韻でちょっとうるさい。

 

 候補生たちは関係者エリアへの通行証を首から下げて、厩舎関係者専用のルートから入場した。スタンドの一般席ではなく、コース側の見学エリアだ。一般の観客とは視点が違う。馬が走るコースまでの距離が、肉眼でわかるほど近い。

「パドックから見ても良いですか?」と流玲が引率の教官に確認した。ノートをすでに開いている。

「見学エリアの範囲内なら動いていい」

「ありがとうございます」

 流玲は速足でパドックの方へ消えた。

 桜子さんが「あたし、スタンドの角度から見たい。カメラ映えするポジション確認する」と言って、別の方向に歩き出した。

 烈が「俺は馬! 馬見る! 絶対近くで見る!」と言ってパドック方面に流玲を追い、走っていった。

 颯真は、しばらくその場に立ったまま、スタンドを見上げていた。

 

 勇矢が隣に来た。

 いつもの表情だ。感情が表に出ない、削ぎ落とされた静けさ。でも今日はその静けさの奥に、颯真が初めて見る種類の緊張が混じっていた。

「親父が乗る」

 勇矢が言った。颯真に向けた言葉かどうかも分からないくらい、小さな声だった。

「うん。エクレールフォルスだろ」

「ああ」

 エクレールフォルス。今年のクラシック戦線、皐月賞を一着で駆け抜けてきた三歳馬。ダービー本番の単勝オッズは二・二倍。上位評価を競う一頭だ。鞍上は川越勇将。G1で四十二勝、日本ダービーでも過去に二勝している。

(勇矢のお父さんが、今日ここで走る)

 颯真にはそれがどういうことか、まだうまく掴めなかった。ただ、勇矢の横顔を見ると、それがとてつもなく大きなことだということだけは伝わってきた。

「見るの?」

「……当たり前だ」

 勇矢はそれだけ言って、パドックへ続く地下馬道の方へ歩き始めた。颯真は少し遅れてついていった。

 

 

 パドックの空気は、また別物だった。

 馬が周回している。本番を走る十八頭が、パドックの内側に立つ調教師、馬主の周りを歩く。観客がフェンス越しに馬を見ている。どの馬も状態がいい。当然だ。四千頭を超える三歳の頂点を決めるレースに出てくる馬の状態が悪いわけがない。

 でも颯真には、見えた。

(この子は前走の疲れが少し残っている。右後肢の踏み込みが一歩ごとに少し浅い)

(あの子はテンションが高すぎる。パドックで消耗している)

(こっちの子は落ち着きすぎている。状態がいいというより、気持ちが入っていない)

 学校の練習馬たちと違うのは、十八頭ともが「今日のための馬」になっていることだった。仕事として走るのではなく、走るために整えられている。あくびをしながら走るスターリングのような子は、ここには一頭もいない。

 その差を、颯真は身体の奥で受け止めた。

 

 一頭ずつ読んでいると、流玲が隣に来た。ノートには何かがびっしり書かれている。

「颯真、七番のエクレールフォルスどう見えます?」

 颯真はエクレールフォルスを目で探した。七番。栗毛の馬体。引き手を持つスタッフとは半馬身の間を保って歩いている。流玲がすかさず「状態は?」と問いかける前に、颯真には伝わってきていた。

(落ち着いている。でも落ち着きすぎていない。走る気が満ちている。)

「いい状態だと思う」

「データ上も悪くないです。前走からの間隔、調教タイム、馬体重の推移。ただ昨日の雨で今日の馬場は少し渋め発表なので、そこだけ変数です」

「馬場が渋くなると?」

「瞬発力型より持続力型が若干有利になる。エクレールフォルスはどちらかというと切れ味勝負のタイプなので……」

 流玲は言いながらノートに書き込む。颯真は流玲の分析とエクレールフォルスから感じ取るものを、頭の中で重ねた。状態はいい。でも今日の馬場が合わないかもしれない、という懸念は、颯真にも何となく伝わっていた。

(馬の状態と、馬場と、展開と、騎手の判断と、運。それが全部揃っても勝てるかどうかわからない。なんて怖い世界だろう)

 頭の中でそう思った時、流玲が小さく言った。

「ここで負けたら、ダービーには二度と戻ってこれません。三歳しか出られないので・・・・・・、颯真くん、こんな格言ご存知ですか?皐月賞は『最も速い馬が勝つ』、菊花賞は『最も強い馬が勝つ』そしてダービーは『最も運のいい馬が勝つ』」

「最も運のいい馬……」

「一発勝負です。ダービー馬のオーナーになるのは、一国の宰相になるより難しいと言われる所以です」

 

 パドックの内側はG1出走馬の関係者のみが立ち入ることが許される特別な場所、そこで騎手が馬主・調教師と言葉を交わしている。

 川越勇将が、そこにいた。

 颯真は初めて間近で見た。テレビや写真では見たことがある。「現役最強の一人」と全員が呼ぶ男。トップジョッキー。でも実物は、颯真が思っていたより静かな人だった。派手さがない。背が低く、身体が薄い。騎手は全員そうだが、勇将の細さは特別だ。二十年以上体重を管理し続けた身体の、削ぎ落とされた静けさ。

 その顔が、勇矢によく似ていた。

(そうか、似てるんだ)

 当たり前のことだが、颯真は少しだけ驚いた。勇矢の「消耗した静けさ」は、お父さん譲りなのかもしれない。あるいは、お父さんを見て育つうちに、知らずそうなっていったのかもしれない。どちらだとしても、今ここで勇将の顔を見ると、勇矢がどんな場所から来たのかが、少しだけ見えた気がした。

 

 勇矢が一般関係者エリア最前列に立って、パドックを回るエクレールフォルスを目で追っていた。

 颯真は声をかけなかった。

 この時間は、勇矢のものだと思った。

 

 

 騎手を乗せた馬たちがコースへ向かう頃、スタンドの音量が一段上がった。

 場内アナウンスが返し馬の各馬を熱量のこもった紹介でコースに迎え入れる。颯真たちは見学エリアの最前列に移動していた。ゴールポストまで十メートルもない。こんなに近くでG1レースを見るのは初めてだ。

 

 烈が「心臓がやばい」と言いながら柵を両手で握った。桜子さんが「ポジション最高」とつぶやきながら超満員のスタンドを見渡した。流玲がノートを閉じた。今日初めて、流玲がノートを閉じた。

 颯真は、ゲートの方向を見ていた。

 

 スターターの合図とともに音楽隊によるファンファーレ、それに合わせて数万人が一斉に手拍子を行う。

 十八頭がゲートに収まっていく。エクレールフォルスは七番ゲート。外ではない、内でもない。中枠。流玲が「展開次第では不利になる」と言っていた枠だ。

 

 静寂の中、ゲートが開いた。

 音よりも先に、地面の振動が来た。そして続くとてつもない歓声。

 

 颯真はその瞬間、言葉を失った。

 十八頭が一斉に動く。その質量と速度が生み出す空気の動きが、自分たちの場所に迫ってくる。テレビで見るのとは、根本的に違う。画面の中で馬が走っているのではない。馬が走っている場所に、自分がいる。それだけのことで、なにもかもが違う。

 目の前を通り過ぎる馬群にスタンドの歓声が上がった。

 最初の直線が終わり、コーナーへ入る。颯真は馬群を目で追いながら、流れを読もうとした。先頭争いが激しい。ペースが速い。流玲が「ハイペースです」と小声で言った。

(エクレールフォルスは)

 七番の栗毛が、馬群の中団やや後方にいた。外に出ている。勇将は動かない。騎手が動く気配が見えないのに、馬はきれいに走っている。あれが二十年の技術というものか、と颯真は思った。

 

 向こう正面に入ると、馬群が縦長になった。ペースは落ちない。

 流玲がタイムとオーロラビジョンを確認しながらつぶやいた。「前半が速すぎる。先行馬は後半持たない可能性が高いです」

「じゃあ差し馬が有利?」

「理論上は。でも東京の直線で差せるかどうかは、仕掛けのタイミング次第で……」

 その言葉が途中で止まった。コーナーを三番手集団が曲がってくる。オーロラビジョンの中、エクレールフォルスが動いていた。

 コーナーの途中から外に持ち出して、加速している。早い仕掛けだ、と颯真は思った。あの位置から仕掛けるのか。でも勇将には何か見えているのだろう。読んだ何かが、鞍上にしか解らないそのタイミングを選ばせている。

 颯真の視線は、エクレールフォルスに固定されたまま動かなかった。

 

 最終コーナーを抜け、地平の向こうから馬群がせり上がってくる。

 東京の直線が始まった。

 スタンドが、一つの音になった。

 颯真はその音の中で、少しだけ自分が消えていく感覚を覚えた。何万人もの人間が同じ瞬間を見ている。その一点に、颯真も含まれている。前世では魔王との最終決戦の前夜に、静寂の中で星を見た。あの時も世界の一点に自分がいる感覚があった。でも今は静寂ではない。音の中に、そういう感覚がある。

(きた!)

 エクレールフォルスが伸びていた。外から来ている。二番手、三番手を抜いた。先頭は青鹿毛の馬体。内ラチ沿いを走る。差は、二馬身ある。

(届くか)

 颯真は思わず声に出しそうになった。届いてほしい、という感情があることに気づいた。勇将のためではない。勇矢のためだと思った。でも厳密に言えば、そういうことでもない。ただ、目の前で起きている何かが、決まってほしいという感覚だった。

 残り二百メートル。差は、縮まっている。一馬身半。一馬身。

 残り百メートル。

 半馬身。

 

 スタンドからは一塊の歓声と、それと混ざり合う呻きのような音が上がった。

 エクレールフォルスの鼻先が、届かなかった。

 ハナ差、二着。

 

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 歓声は続いている。スタンドを見上げると一着馬の馬主と思われる人が抱き合っている。場内アナウンスが着順を告げる。颯真はその声を遠くで聞きながら、コースの向こうを見ていた。

 勝った馬がウイニングランをはじめ、スタンドからは騎手の名が何度もコールされている。そしてはじめて栄光を手にした騎手は拳を振り上げ泣いていた。二着以下の馬たちが先に引き上げてくる。

 

 エクレールフォルスが戻ってきた。

 青鹿毛の馬体が汗で光っている。勇将が馬の首を静かに叩いた。よく走ったと言っているのか、ただ触れているだけなのかは、颯真の位置からは分からない。でも、その手の動きには感情がある。地下馬道に消えていくエクレールフォルスを見送る颯真にはそれだけ見えた。

「ハナ差か」

「ハナ差なんだな……、ハナって、どのくらいだっけ」

 烈の声に覇気がなかった。

「約二十センチです。馬の首の長さが一単位なので、体積で言えば……」

 流玲は途中で止まった。

「……二十センチです」

 それだけ言って、押し黙った。

 

 颯真は勇矢を探した。

 人込みの少し後ろ、柵から少し離れたところに勇矢が立っていた。コースを見ている。表情は読めない。いつも通りの、削ぎ落とされた顔だ。でも颯真にはわかった。

(今、何かを見ている)

 声をかけるか迷った。迷って、やめた。

 今の勇矢に近づく必要はない、と思った。今は一人で、何かを見せてもらっているべき時間だ。颯真にはそれがわかった。

 

 桜子さんが静かに颯真の隣に来た。

「ねえ」

「うん」

「あたし、今日初めてレースを見て泣きそうになった」

 颯真は少し驚いた。桜子さんがそういうことを言う人だとは思っていなかった。

「計算で泣くとかじゃなくて?」

「うっさい。本気で泣きそうだったの」

 桜子さんはそれだけ言って、スタンドの方に目を向けた。

「あたし、コメンテーターになるとか言って騎手目指してたじゃない。でも今日見て、なんか……競馬って、こんなんなんだって思って」

「こんなん、って?」

「人が多すぎて、お金が動きすぎて、誰かが泣いて誰かが喜んで。そのど真ん中でちゃんと走れる人って、どういう人間なんだろうって」

 颯真は答えなかった。答えの代わりに、コースをもう一度見た。

 

 

 帰りのバスの中は、静かだった。

 行きの道中は烈が「ダービーだ! ダービー!」と騒いでいたが、帰りは烈でさえ黙っていた。

 窓の外を流れる景色を見ながら、颯真は今日のレースを頭の中で繰り返していた。

 一着馬とエクレールフォルスの差は、ハナ差だった。二十センチ。それだけの差が、勝ちと負けを分けた。馬の状態も悪くなかった。勇将の騎乗も、颯真が見た限りでは判断のミスは見当たらなかった。でも負けた。

(絶対はない、ということか)

 前世でも知っていた。完璧な準備が、完璧な結果を保証しない。それは戦いの世界では当然のことだ。でも競馬というのは、もっと細かい。騎手の技術も、馬の状態も、展開も、馬場も、全部が揃っても、それでも負けることがある。ハナ差という単位で。

 

 隣の座席で、勇矢が目を閉じていた。眠っているのか、考えているのかは分からない。颯真は声をかけずに前を向いた。

 流玲が後部座席でノートを広げていた。今日のレースをすでに分析し始めている。

 桜子さんは窓の外を見たまま動かない。

 烈は窓に頭をもたせかけて、珍しく目を閉じていた。

(みんな、何かを持って帰ろうとしている)

 颯真はそう思った。今日という日が、それぞれの中で何かを動かしている。

 

 バスが競馬学校の正門を通った頃、勇矢が目を開けた。

「颯真」

「うん」

「親父が負けるの、初めて生で見た」

 颯真は少し驚いた。そうか、と思った。勇将は常勝の騎手だと颯真も思っていた。でも当然、負けることはある。それを今日、勇矢は初めて自分の目で見た。

「どうだった」

 勇矢はしばらく黙った。

「わからない。まだわからない」

「うん」

「ただ……親父が、負けた後に馬の首を叩いてたのを見た。あの顔を、初めて見た」

 颯真は何も言わなかった。

「俺は親父の勝った顔しか知らなかった。勝って当然、という顔。でも今日の顔は違った。なんと言うか……」

 勇矢は窓の外を見た。

「人間の顔だった」

 颯真は頷いた。言葉はいらなかった。

 

 学校に戻ったのは夕方だった。

 夕食の前に少し時間があった。颯真は一人で馬房棟に向かった。今日は実習がないから、担当馬の世話はない。ただ、馬のそばにいたかった。

 馬房棟の端に、学校の練習馬たちが入っている。スターリングがいる方へ向かうと、スターリングが柵から顔を出してきた。

「元気だった?」

(やっときた)

「また今日もあくびしてたんだろ」

(ねてた)

 颯真は笑いながら、スターリングの頬に手を当てた。穏やかな感情が伝わってくる。馬房棟の空気が、いつも通りに静かだった。藁の匂い、馬の体温、低い鳴き声。

 その「いつも通り」が、今日はどこか違って感じられた。

(東京競馬場のあの空気と、ここの空気は、本当に同じ世界の出来事なのか)

 颯真には、その問いがすぐには答えられなかった。

 地続きの世界のはずだ。同じ国にあって、同じ競馬という枠組みの中で動いている。なのに今日見てきた場所と、今いるこの場所が、まるで別の物質でできているように感じた。

(いつか、あの場所に出ていく)

 その確信は、行く前よりも強くなった。でも同時に、今ここにいる自分との間に、目に見えない距離があることも分かった。

 その距離を、どう埋めるのか。

 答えは、まだなかった。

 

 スターリングが鼻を鳴らした。颯真の手のひらを少し押すような、軽い動作だった。

(ねむい?)

「うん。ぼーっとしてた」

 颯真はもう一度スターリングの首を撫でて、馬房を離れた。

 

 食堂に向かう途中、烈とすれ違った。烈は珍しく口を閉じていた。颯真が「どうした」と聞くと、烈は少し考えてから言った。

「なあ颯真。俺たちが乗るのって、ああいうレースだよな」

「ああいうレース?」

「あの歓声の中で走るやつ。あんだけ人がいて、みんなが見てて、その真ん中で馬に乗るやつ」

「そうなるはずだよ、騎手になれたら」

 烈は少し黙った。

「俺、今日まで競馬が好きだと思ってたけど、あれ見て初めて"競馬で走りたい"って本気で思った。なんか変なこと言ってる?」

「ううん、僕も同じ」

「よかった」

 烈はそれだけ言って歩き出した。その背中が、来た時より少しだけ大きく見えた。

 

 その夜、三〇二号室で流玲が言った。

「今日のレース、データで見ると川越騎手の仕掛けタイミングは完璧だったんですよ」

「うん」

「ペースも読んでたし、コースどりも最善だった。でも馬場の微妙な変化で、切れ味が十パーセントくらい削がれた計算で。そのハナ差は、ほぼ馬場の差です」

「それって、どうにもならないってこと?」

 流玲は少し考えた。

「どうにもならない部分と、どうにかできる部分があります。馬場はどうにもならない。でも馬場がこうなることを事前に読んで、それでも勝てる戦略を選ぶ余地はあったかもしれない。でも騎手には、与えられた条件の中で最善を尽くすことしかできないし選択する時間は刹那しかありません」

「乗る馬は調教師が決める」

「そうです。だから騎手は、与えられた馬で、与えられた条件の中で、勝つしかない」

 颯真はその言葉を聞きながら、今日のレースを思い出した。勇将の手が、エクレールフォルスの首を叩いていた。あの動作の意味を、勇矢は「人間の顔だった」と言った。

(与えられた条件の中で、最善を尽くす)

 それは、あらゆる場所で必要なことだ。前世のソーマとしての自分も、魔力のないこの世界の自分も、同じだ。

 でも、今日見てきたものはそれだけではなかった気がする。

(「最善を尽くしても勝てない」ということが、確かにあるということ)

 それを、頭でなく目で見たのが今日だった。

 

「流玲」

「なんですか」

「もし僕たちが、いつかG1に出るような立場になって、今日みたいな負け方をしたら、どうする?」

「……僕はたぶん、データを見ます。何が違ったのか、どこに自分の判断の余地があったのか、徹底的に分析する」

「うん」

「颯真くんはどうしますか?」

 颯真は少し考えた。

「分からない。でも、馬の首を叩くと思う。よく走ったって」

 流玲がノートから顔を上げた。

「……それ、川越騎手と同じですね」

「うん」

「颯真くんらしい」

 流玲は少し笑って、またノートに戻った。

 

 ミーがどこからともなく現れて、颯真の膝に乗った。

(今日は凄い経験をさせてもらった)

 今日を振り返りつつ、黒猫の喉を撫でる。ミーはただ喉を鳴らし身体を丸める。重い、温かい。

 外では五月の夜風が吹いていた。

 

 颯真は窓の外を見た。

 東京競馬場のあの直線が、まだ目の奥にある。五百二十六メートル。何万人もの声の中を、馬と一緒に走る道。

 その光景と、今この部屋の静けさと、どちらが「現実」なのか、颯真には分からなくなりそうだ。

 たぶん、両方とも現実なのだ。

 ただ、その間に距離があるだけで。

 その距離を埋める方法を、明日から探す。

 

 ミーが鼻を鳴らした。流玲のペンの音が静かに続いている。

 二年生の、本当の始まりだった。

 

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