転生ビーストテイマーは競馬場で伝説を刻む   作:春の月夜

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第3話(2)

第二章 学校の違和感

 

 

 

 月曜の朝、起床ベルが鳴る前に颯真の目は開いていた。

 四時三十分。寮の窓から見える空はまだ群青色をしていて、廊下も静まり返っている。腕を伸ばすと、いつも通りの天井がある。本棚に並んだ流玲の本も、ベッドの脇に置かれた藤堂のノートも、何一つ動いていない。なのに何かが違う。

 

(昨日と地続きで、今日が来てしまった)

 それが、颯真には意外だった。

 日本ダービーの興奮を経た夜は、目が冴えて眠れないような気がしていた。でも実際には、いつも通りの時間に眠って、いつも通りの時間に目が覚めた。それが奇妙だった。あれだけ何かが揺さぶられたのに、身体は普段通りの規則で動いている。

 

 起床ベルが鳴った。流玲がベッドの上で少し呻いて、桐島の代わりに今年から同室となった上級生・赤峰が「あー、月曜……」と低く言った。

 いつも通りの朝が始まる。

 体重測定。颯真の数字は変わっていなかった。プラスマイナスゼログラム。担当の管理士が「神谷、安定してるな」と言った。一年前なら誇らしかった一言が、今朝は別の意味に聞こえた。

 

(安定するように、僕は管理されている)

 馬房作業に向かう途中、廊下ですれ違う候補生たちの顔が、いつも通りに眠そうだ。寒くもなく暑くもない五月末の朝の空気。蛇口から出る水温も適切。馬房棟の藁は新しいものに交換されている。何もかもが、静かに整えられている。

 その「整えられている」感じが、颯真は今朝、初めて気になった。

 

 スターリングの馬房に着くと、芦毛が顔を出した。

「おはよう」

(まだはやい)

「なんで分かるの」

(ねてたから)

 颯真は笑った。スターリングの感情の流れは、いつも通り穏やかだった。今日は走るのか走らないのか。それが分かれば動く。それだけの世界に、この子は居る。

 

 藁を取り替えながら、颯真は昨日の七番、エクレールフォルスを思い出した。あの栗毛から伝わってきたのは、こういう穏やかさではなかった。「今日のために来た」という熱だった。それは目的を与えられた馬の温度だ。スターリングの温度とは、根本的に違う何かがあった。

(同じ競争馬なのに『現役』と『元』で、こんなに違う)

 

 

 

 午前の騎乗実習は、いつもの基礎メニューだった。

 基本姿勢の確認、軽速歩、駈歩。教官が一人ずつフォームをチェックする。担当馬は教官が割り振る。今日の颯真の担当はクライム。穏やかで仕事熱心な、典型的な学校馬だ。

 

 鞍に跨って、颯真は手綱を握った。クライムから来る感情は、馴染みの形をしていた。「指示を待つ」「合わせる」「邪魔しない」。一年生の頃なら「いい子」と思っていた感触だ。

 

 でも今朝は、違う見え方をする。

(この子は、僕が落馬しないように作られている)

 厳密にはそれは正確ではない。クライムは生まれてからの育成過程で穏やかな性質を伸ばされ、危険な動きを抑える調教を受け、候補生の練習に最適な状態に整えられた。学校が選び、学校が整えた馬。だから安全に乗れる。

 

 昨日コースを駆けていた十八頭は、違う。あの子たちは「速く走る」ために整えられていた。落ちる候補生を気にする必要がないところで、極限まで尖らせた身体と気性で走っていた。

 

 駈歩の指示が出た。クライムが応える。きれいに脚を出す。颯真がフォームを崩しても、クライムは勝手に修正してくれる。

 

(守られている)

 

 その単語が頭の中に浮かんだ時、颯真は少しだけ手綱を強く握った。クライムが微かに耳を動かした。「どうした」と聞いてくる動作だった。颯真は手綱を緩めた。

「ごめん。なんでもない」

 でも、なんでもなくはなかった。

 

 休憩時間、馬を引いて歩いていると、勇矢が向こう側を歩いていた。担当馬はバスター。勇矢はなにか馬に話しかけている。声は届かないが、口元の動きは見える。

 勇矢の表情に、昨日の続きがあった。削ぎ落とされた静けさが、いつもより一段深い。

 颯真は声をかけなかった。

 

 休憩用ベンチには桜子さんが座って、ボトルの水を飲んでいた。颯真が隣に座ると、桜子さんが先に口を開いた。

 

「颯真。今日の実習、簡単じゃない?」

「うん。簡単」

「あたしも。なんでだろうね」

 桜子さんは前を見たまま言った。

「メニューはいつも通り。馬もいつも通り。でも、なんか今日は……簡単すぎる気がする」

「昨日があったから?」

「だと思う」

 桜子さんはボトルにキャップを締め直した。

「あたしさ、昨日の帰りに思ったの。あたし今ここで、何のために乗ってるんだろうって。学校のメニューをこなして、評価を取って、それで何になるんだろうって」

「進級するため?」

「進級して、卒業して、それから?」

 颯真は答えに詰まった。

「答えはあるんだよ。プロの騎手になる。それは知ってる。でも昨日見たプロは、あんな場所にいた。あたしが今いるここから、あそこまで、本当に道が繋がってるのかなって。それを今、ちょっと疑ってる」

 

 桜子さんは立ち上がってのびをすると、自分の馬の方に戻っていった。

 残された颯真は、桜子さんが言葉にしてくれた感覚を、ありがたく受け取った。自分一人が変なことを思っているわけではないらしい。

 

 

 

 昼食の食堂は、いつもの賑やかさだった。

 カロリー計算された定食。サラダの量、米の量、タンパク源の種類。すべてが各候補生の体重管理に合わせて配膳される。烈の前にだけ、なぜか少し米が多い気がするが、それは烈が運動量で押し切るタイプだからだ。

 

 四人で同じテーブルに着いた。勇矢は別の席で一人で食べていた。

「勇矢、誘わなかったの?」と烈が聞いた。

「今日はそっとしておく」と颯真が答えた。

「うん」と烈は頷いて、自分の米にとりかかった。

 

 流玲がノートを開きながら箸を動かしていた。食事中もノートを開く流玲を、最初は変だと思った。今は誰も気にしない。

「流玲、まだ昨日のレース分析してるの?」

「ええ。色々と気付くことが多くて。颯真くん、面白い計算結果が出ました」

「うん」

「昨日のダービー、出走十八頭の平均キャリアは六戦です。最大は九戦、最小は四戦。つまり一年から一年半の競走生活を経て、ダービーに出ています」

「うん」

「で、僕たちが卒業して見習い騎手になっても、最初の半年から一年は新馬戦と未勝利戦が中心です。G1の馬には乗れない。乗れるようになるまで何年もかかる・・・・・・、かもしれません」

「うん」

「つまり、昨日見たような馬とレースをするのは、早くても三年後とか四年後。下手したら十年たっても乗れないかもしれない」

 颯真は箸を止め、烈が反論する。

「それを、今ここで考える意味あるのか?」

「あります。むしろ今ここでしか考えられないんですよ。卒業した後はもう走り出してる。立ち止まって遠くを見るのは、今のうちです」

 烈が口に米を詰め込んだまま「むぐっ」と何か言った。聞き取れなかった。

「飲み込んでから喋って」

「ぐっ……、流玲、お前理屈っぽすぎる! でも合ってる気がする!」

「烈くんが僕に同意するの珍しいですね」

「俺だってちょっとは考えるんだぞ!」

 颯真は二人の言い合いを聞きながら、流玲の言葉を反芻した。

(立ち止まって遠くを見るのは、今のうち)

 その通りかもしれない、と思った。

 

 

 

 午後の座学が終わって、寮に戻る前に少し時間があった。

 颯真は一人で調教コースの方へ歩いた。実習の終わったコースは静まり返っていて、土の匂いだけが空気に残っている。トラックを取り囲むフェンスに頬杖をついて、誰もいないコースを眺めた。

 ここで、先週まで颯真は乗っていた。週に何回も、他の候補生と並んで、教官の合図でスタートを切って、コースを回って戻ってくる。それは練習であり、試験であり、評価の対象だった。

 

 昨日見たコースとは、何もかもが違う。

 いや、形は同じだ。コースの曲率も、直線の長さも、競馬学校のコースは本場を踏まえて作られている。違うのは、走る馬と、見ている人と、賭けられているもの。

 

(賭けられているもの)

 

 その単語に、颯真の意識が引っかかった。

 学校で何かを賭けたことがあるだろうか。失敗しても次がある。評価が下がっても、次の実習で挽回できる。落馬しても、教官が駆け寄ってきてくれる。怪我をすれば、養生する時間が用意されている。

 

 昨日の十八頭が走った場所には、それがなかった。一発勝負、一回きり、二度と戻れない、と流玲が言っていた。

 新馬戦、未勝利戦、条件戦、重賞戦、そのすべてがその馬にとって一発勝負。

(あれが本物の競馬で、僕は今、本物じゃない場所にいる)

 言葉にしてしまうと、自分でも少し驚いた。

 

 昨日まで自分が大切に積み上げてきたものが、急に薄っぺらく見えた。違う。薄っぺらいのではない。これは練習用の足場だ。本物に出る前に身体を作るための場所。それは尊いはずだ。なのに今、その尊さが、なんとなく重さを失っているように感じる。

 

 後ろから足音がした。

「神谷」

 佐和だった。

 巡回のついでなのか、それともコースに用事があったのかは分からない。佐和はフェンスの隣に立って、誰もいないコースを颯真と同じ方向に眺めた。

 しばらく二人とも黙っていた。

「昨日、どうだった」

 佐和が先に口を開いた。評価を求める問いではない。一年生の頃から、佐和の問いはいつもそうだ。答えを試しているのではなく、ただ問うている。

「大きかったです」

「そうだ」

「勇矢のお父さんが、二十センチ届かなかったのを見ました」

「ハナ差だ」

「ハナ差で負けても、騎乗自体にはミスがなかったように見えました。馬も状態が悪くなかった。それでも届かなかった」

「届かないことがある」

「はい」

「それを見て、どう思った」

 颯真は少し考えた。考えたが、まとまった言葉にならなかった。だから、まとまっていないまま話した。

「学校が、急に……簡単に見えました」

 

 佐和は何も言わなかった。颯真は続けた。

「ここで僕がやってることは、ちゃんと意味があると思ってました。藤堂先生のところで三年やって、ここで一年やって、それぞれのステップが必要だと思ってた。なのに昨日見たあとだと、ここでやってるのが、何か……守られた中での練習に見えるんです」

 

「守られている?」

「はい」

「そうだな。守られている」

 佐和は否定しなかった。颯真はその「そうだな」を、自分の中で噛み砕いた。

「だからって、ここでやってることに意味がないわけじゃない。それも分かるんです。でも昨日見た景色と、ここでやってる練習が、繋がってるイメージが今は……うまく描けません」

「描けないか」

「描けないんです」

 

 佐和はしばらくコースを見ていた。風が一度、フェンス越しに吹いた。

「外を見たなら、ここで何をするか考えろ」

 佐和の声はいつも通り静かだった。説教の調子はない。提案ですらないかもしれない。ただ事実を置いていくような言い方だった。

 

「ここは、お前の言う通り守られた場所だ。失敗しても次がある。馬も教官が選ぶ。評価の物差しは決まっている。それを薄っぺらいと感じたなら、感じたままでいい。お前の感覚は、間違っていない」

 

 颯真は佐和を見た。佐和はコースの方を向いたままだった。

「だが、感じて終わるな。守られた場所には、守られた場所だからこそできることがある。本番に出てからではできないことだ。それを今やらずに、何のためにここに居る」

 颯真は何も言えなかった。

「外を見て、こことの違いに気づいた。それで一段階。次は、その違いを埋めるために、ここで何をするかを自分で決めろ。教官に与えられたメニューをこなすだけでは、その違いは埋まらない」

「……はい」

「お前は一年で、誘うことを覚えた。その先にあるものを、今度は自分で取りに行け」

 佐和はそれだけ言って、踵を返した。少し歩いてから、もう一度振り返った。

 

「今度、厩舎実習がある。学校の馬じゃなくて、現場の馬に乗る。それが二回目の「外」だ。一回目は見るだけだった。次は、お前自身が乗る側になる。覚悟しておけ」

 佐和の足音が遠ざかっていった。

 

 

 

 夕食の席で、勇矢が珍しく自分から口を開いた。

「颯真、今晩、自習室空いてるか」

「空いてる。何か?」

「ペース配分の本を借りたい。流玲が持ってる」

 流玲が顔を上げた。

「どの本ですか?」

「お前が一年の冬にしきりに進めてて、結局俺が断ったやつ。ロングスパートの理論書」

 流玲はしばらく勇矢を見た。

「あれを今、読みたいんですか?」

「読みたい」

「貸します」

 

 勇矢は頷いて、また食事に戻った。それだけのやり取りだった。

 でも颯真には分かった。勇矢は昨日のレースを、何度も自分の中で再生している。お父さんがどこで仕掛けたか、どこで届かなかったか、どこに別の選択肢があり得たか。それを言葉にする道具を、自分から取りに行こうとしている。

 

(勇矢も、立ち止まって遠くを見ているんだ)

 桜子さんが「あたし、メディア対策の参考書じゃなくて、レース実況の歴史見ようかな」と言った。流玲が「いきなり方針変更ですね」と返した。桜子さんは「変更じゃないの。広げるの」と言った。

 

 烈は珍しく米のおかわりをしなかった。普段なら一杯目を飲み込むより先に二杯目を取りに行く烈が、今日は最初の一杯を時間をかけて食べていた。颯真が見ていることに気づくと、烈は少しムッとした顔をした。

「俺だってさ、考えるんだぞ」

「うん」

「昨日の馬の脚、めちゃくちゃ綺麗だっただろ。あんな脚出すには、たぶん、食って動くだけじゃダメで、引き締めるトコはちゃんと引き締めなきゃいけないんだ。だから、米、減らしてみてる」

「自分で?」

「自分で」

 颯真は少し笑った。烈の理屈は単純だが、方向は合っている気がした。

 

 

 

 夜、自習室には四人が揃っていた。流玲が、勇矢にロングスパートの理論書を渡し、勇矢は窓際の席に陣取って、ページをゆっくり捲り始めた。

 

 桜子さんはタブレットでレース実況の動画を見ながら、ノートにメモを取っている。

 

 烈は走り込みのメニューを書き直していた。「まず一週間は腹筋三百」と書いてある。颯真は「足りるかな」と思ったが、口には出さなかった。

 

 颯真は自分のノートを開いた。藤堂のノートだ。入学式の前そして一年の卒業時に渡された、課題が書かれた二冊。

 

 颯真は折に触れてこのノートを開いていた。もう何度読み返したか解らない。藤堂の手書きの字が並んでいる。「コースどりの判断速度」「馬を尊重する自分のクセを意識化せよ」「勝つことから逃げるな」。一年生で取り組んだものもあれば、まだ手をつけていないものもある。

 

 手をつけていない一行が、目に入った。

 「自分から馬を選べ。与えられた馬で勝つだけでなく、自分が選んだ馬で勝てるようになれ」

 

 一年生の時に読んだ時は、意味がよく分からなかった。学校で「自分で馬を選ぶ」場面はない。教官が割り振る。だから先送りにしていた。

 

(これだ)

 

 今になって、この一行が動き出した。

 佐和の言葉と、藤堂の字が、頭の中で繋がった。「ここで何をするか考えろ」と「自分から馬を選べ」。学校で与えられる馬は、誰がどう選ばれているか。なぜその馬が学校に来て、なぜそれぞれの馬がそれぞれの候補生に割り振られるのか。颯真はそこを、一度も自分で考えたことがなかった。

 

(明日から、馬を見る目を変えよう)

 決めた瞬間、ノートのページに小さな影が落ちた。ミーがいつの間にかテーブルの上に乗っていた。流玲がすかさず「ミー、ノートの上はダメです」と言ったが、ミーは動かなかった。颯真が紙を引っ張ると、ミーの肉球がついてきた。仕方ない。

「ミー、後で読ませてくれ」

「にゃ」

 返事だが、肯定の意味かどうかは分からなかった。

 

 窓の外、調教コースの方角に、月が出ていた。

 昨日とまったく同じ月のはずだ。それなのに、見え方は変わっていた。

 

 昨日の月は、東京競馬場の余韻を抱えて見上げる月だった。今夜の月は、明日からどう動くかを考えながら見上げる月だ。同じものでも、自分の側が動けば、見え方が変わる。

(変わったのは、僕の方なんだな)

 颯真はそう思った。

 

 学校が変わったわけではない。学校はこれまで通り、与えられたメニューを与えてくれるし、選んだ馬を割り振ってくれるし、評価を出してくれる。守られた場所であり続ける。

 

 でも、その中で颯真がどう動くかは、変えられる。

 守られた場所だからこそ、できることがある。佐和はそう言った。藤堂のノートも、それを示している。だったら、それをやる。

 二年生は、与えられるものをこなす場所では終わらせない。

 

 ミーが颯真のノートの上で丸くなった。流玲が「もういいや」と諦めて、自分のノートの方に戻った。勇矢は集中して理論書のページを書き写している。桜子さんは動画の音量を下げた。烈は腹筋を始めようとして、桜子さんに「自習室でやらないで」と止められた。

 

 いつもの夜が、続いていた。

 でも昨日とは、たしかに違う夜だった。

 




ここまでお読み頂きありがとうございます。

分割して書くと、前の文に付け足したいエピソードや伏線があっても出来ないと感じてます。
やっぱり文章を構成して書き上げていくのは難しい・・・。

それと、短編としてありますが、これ連載に変えたほうがいいのでは?と思い始めました。

そして是非、評価と感想をいただければ幸いです。
モチベーションがこんなに変わるとはって感じですのでよろしくお願いします。

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