ソ連。閉鎖都市。孤児。弾薬庫。悪魔。
少女がレゼになるまでの話。

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一話

 砂。地平線。荒涼とした風。吹き荒ぶ。

 少女にとって故郷とは、それらを内包している。

 

 少女の故郷はイシク・クル湖から50キロほど離れた人口約200の村だった。キルギス人とカザフ人の混住地域にあり、それはソビエト社会主義共和国連邦という共同体の一部でもあった。

 

 家は小さな石造りであって、暖炉をもってしても冬は極寒が体を突き刺した。キルギス人の例に漏れずして家畜を飼っており、羊数頭、山羊、鶏が内訳であった。電気というものはいまだ安定の外にあり、夜はランプの明かりが最大のよりどころである。水は近くの小川から毎日必要に応じて汲んでいた。

 

 日中は母親の手伝いで大半を占めていた。生活は羊の世話、水汲み、薪拾い、そして病弱な兄の看病の四つで終始していたのである。たまの空き時間では山で石を拾い、友だちと遊びふけり、野花を摘んでいた。

 

 少女は生活を過酷と感じつつも、捨て去ろうと決することはなかった。産まれ堕ちてからそれ以外を知りえなかったということもあるが、歌の上手な母親と、寡黙だが芯のある父親の元を離れる理由がなかったためで。看病は楽でなかったが、それ以上に、幼少期から病気しがちで、その時間の多くを寝台で過ごしていた兄が在るのが当たり前だったこともある。

 

 いずれにせよ、少女にとって世界とは狭かったが、彼女は彼女なりに満ちて足るを知っていた。

 

 少女が五歳と三ヶ月であったころ、兄が死んだ。母が膝をついて泣いていた。父は遠くを見つめている。自分は母の服を引っ張るが、母は気づかない。これが少女のもっとも鮮明な旧い記憶である。

 

 やがて、母も後を追うように体調を崩し始める。咳が止まらない。診療所では「過労」と診断されるが、症状は悪化の一途をたどる。結核は当時のソ連で蔓延し、特に中央アジアの農村部で猛威を振るい、多くの屍を積み重ねていた。兄もそんな、何千何万のうちの一人だった。

 

 母親は地域の結核療養所に入院した。父親は増やした仕事に出なければならず、少女は祖母の家に預けられた。少女は己を取り巻く環境の中で、出来る限り気丈に、大人らしくふるまった。それでも夜は枕を濡らした。

 

 母親に会いたくて、時々療養所の外で窓越しに母親の姿を見た。母親は痩せ細っていく。力なくほほ笑む頬に肉はなく、歌を教えてくれた喉は骨が浮いて見えた。

 

 母の葬儀は簡素なものだった。父親は一言も発せず、酒を飲み続けた。少女は母親の墓の前で、一晩中座っていた。誰も動かせなかった。夜明けに、探しに来た祖母が声をかけ、ようやく帰路についた。

 

 父親はかねてより、ソビエトロシアの多くの壮年男性がそうであったようにアルコールに依存気味であり、間違いなくそれは兄と母を経て悪化した。仕事も当然のように失った。祖母は高齢で体調を崩し、糸をちぎるようにあっけなく死んだ。村の人々は同情しつつも、自分の生活で精一杯であった。

 

 暗い家。暗い夜。慢性的なアルコールは判断能力を奪い、ただ根源的な感情のみを増大させる。やがてふとした拍子に父は暴れ、少女に手を上げた。騒ぎを聞きつけた村人が介入し、それは地元当局による執行に繋がった。父親は抵抗したが、酩酊状態で親権能力なしと判断された。少女には、官僚的な保護が与えられることとなった。

 

 少女はタラス州の児童保護施設に送られた。保護施設と聞こえはいいが、受け皿としては不十分に過ぎた。この時代、そしてこの国において、少女の遭った悲劇はあまりにもありふれ、そこかしこに転がっている。

 

 保護施設はとっくの昔に定員を超過していた。食事、娯楽、教育といったすべてが、与えられるべき分量を大幅に下回っていた。名簿といったデータは徹底的に管理されつつも、生存のための保証は後回しにされていた。

 

 それでも少女は幸運であったと自覚している。ソビエトは貧困を否定している。それは生活向上といった旨でなく、弾圧と言った方向性である。支援以上に、監視に努めている。ホームレス、ストリートチルドレンといった彼らは当局に摘発され、放浪の罪を問われ、投獄されて懲役を受ける。少なくともそれを避けられた。

 

 物資の不足した争いの有り余る施設で、少女は自発的にナイフの扱いを習得した。食物を切るよりも、人を脅し、殺傷するにあたって。次いで、少女という立場が醸し出す弱弱しさを極限まで利用し、相手の虚を突く方法も。

 

 限りなく庇護の薄い環境に少女はさほど時間をかけずして適応し、駅の屑籠の片隅にあった黴臭い黒パン片を齧りながら、少女は少女という人間について認識を改めた。

 

 冷たさに満ちた生活が半年を過ぎたころ、軍服を着た男たちが訪れ始める。矢車草色の帯をもつ軍帽を被っている。戦々恐々とした院長は、男たちといくらか言葉を交わすと、所属児を幾人か呼び出し、品定めのように軍人たちの前に並び立てた。少女も、そのうちの一品であった。

 

 見下ろす目。見定める目。良質な肉を探す目。短い議論と、書類とのすこしの相互確認のすえ、軍人は少女の手を引いてゆき、院外に停められていた黒い車へ手荒に載せ込んだ。ナイフを振るうこともできたが、幾人かが背負うライフルや、ホルスターの武骨なふくらみを見ると、そういう考えも起きなかった。

 

 少女という貨物は、フルンゼ郊外の医療施設へ運び込まれ、職員たちへと引き渡された。まず、無数のシラミが潜む黒ずんだ、されど生家の唯一の名残であった服が剥ぎ取られた。次いで野菜のように体中を洗われ、消毒され、薄い綿製の患者服を与えられた。そしていつぶりかの温かい食事を味わい、柔らかい寝具で眠りについた。

 

 翌日から少女への検診が開始される。身長、体重、胸囲、頭囲。採血。X線撮影。全身骨格。心電図。視力検査、聴力検査、歯科検診。神経学的検査。平衡感覚テスト。認知機能テスト。金属と、肌寒さと、大人たちの眉の動きだけが、少女にとってはこれらの思い出である。

 

 すべての検査が終了して数日後、新しい服が支給された。紺色のワンピース、白いソックス、それと黒い革靴。少女はここへ来たときに職員に剥ぎ取られ、そして恐らくは廃棄物として処理されたであろう衣服を思い起こし、少しだけ体を丸めた。

 

 さらに数日後、施設に現れた軍人たちが少女をバンに乗せた。一言も発さない軍人たちに囲まれ、窓のない中で数時間を揺られ続けた少女は、やがて灰色で満ちた都市の、その外れに位置する、トウヒやマツの森と高いフェンスとで囲まれた施設で降ろされた。僅かな鉄柵の隙間からは、もうもうと響く唸りを上げる巨大な工場や灰色のアパルトメント群を垣間見ることができ、その光景は人の営みなどよりも、むしろ無機質な怪物を少女に思わせた。

 

 少女が連れてこられた施設は扁平であったが、それ以上に二次元の広がりが大きかった。建物は三つあり、同じような色。同じような形。四角。壁はコンクリートであり、黒い筋が雨で流れた跡として壁を這っていた。

 

 軍人たちによって中に連れて入れられ、白衣を着た大人たちに引き渡される。そして、医療施設で受けた検査をさらに発展させたようなものを施される。内容は多岐にわたりなおかつ奇妙なものも混じっており、かつてよりも長い長い時間をかけて、ようやく少女は解放された。

 

「君の寝床へ案内する。ついてきなさい」疲労が色濃い少女に優し気に声をかけたのは、白衣を纏った初老の男性だった。すこしばかり拍子抜けする。これまでずうっと、ピリピリとした雰囲気を纏わせた軍人や、人らしい機微を見せない白衣人間ばかりと対面していたので。

 

「カルポフだ。君たちの健康管理と、育成プログロムマを担当している。詳しい説明は明日にするから、今日はゆっくり休むように」

 

 カルポフと名乗る男性の歩くままに追随し、いくつかの棟を通り抜ける。階を2、3ほど上ると、それまでよりもいくらか温度を感じる、多くのドアが並ぶエリアへと立ち入った。それぞれには名前の書かれたプレートが掲げられている。カルポフはそのうちの一つで立ち止まり、コンコンとノックを行う。

 

「先生? どうしたの、今時分……」

 

 ドアが開けられ見えた人影は、女の子の形をしていた。歳は少女と同じくらいか、あるいは少し上である。長い金色の髪を三つ編みにしている。睡眠前らしく、患者服とよく似た薄い綿の寝間着を着ている。目は茶色。警戒の色は見えず、むしろ好奇心が勝っている。

 

「ああ、アンナ。起こしてしまったかな」カルポフが穏やかな声で言った。「新しい子、だ。今日到着した。君と同室になる」

 

 ふぅん。値踏みでもなく、敵意でもなく、ただ純粋な興味で少女を見つめられる。アンナと呼ばれた少女に対し、少女は保護施設では決して向けられることのなかった類の視線に、わずかばかりにたじろいだ。

 

「こんばんは」ロシア語は流暢で、訛りがない。気後れ。「中に入って。ベッドはあっちよ」

 部屋は広い。二つのベッドと、二つの机と、小さな窓。清潔で、暖かい。簡素だが、石造りの生家よりも保護施設の雑魚寝部屋よりもはるかに整っている。

 

「君の荷物は明日届く。必要なものはすべて我々が支給する。それじゃあ、おやすみ」

 

 カルポフは去る。足音が廊下に遠ざかる。先ほどまでは若干の不信を抱いていたが、今では心細さへと変わっていた。いきなり放り出され、立ち尽くし何をすべきか分からずにいる少女を横に、アンナは自分のベッドに戻り、毛布をかけ直していた。

 

「あなたの名前は?」

 

 そういえば、ここへ来てから誰も尋ねなかった。検査の書類には番号が振られていた。

 少女は自分の名を告げた。

 

「そう」微笑み。「よろしくね。ここに来たばかりだと、色々怖いと思うけど、大丈夫よ。カルポフ先生は優しいから」本当に?

 

「電気消すね。それじゃ、おやすみなさい」

 

 暗闇に包まれた。窓から微かに月明かりが差し込んでいる。僅かな時間を立ちて過ごしたあと、少女は自分に割り当てられたベッドに横たわった。清潔なシーツと柔らかい枕に包まれながら、暗闇の中で天井を見つめた。ここは何処なのか。何故連れてこられたのか。これから何が始まるのか。

 

 アンナの寝息が聞こえる。規則正しく、穏やか。彼女はここに慣れている。ここが日常になっている。手が無意識に腰へ伸びた。ナイフは不在の場で、取り上げられている。工場が唸る音が、遠く、低く響いていることに気がついた。

 

 不安が重く冷たく胸を満たし、少女は目を閉じた。眠りは容易には訪れなかった。新しい服の匂い。知らない部屋。知らない少女。知らない明日。すべてが未知だった。そして何百日ぶりに、砂の故郷を思い出した。

 少女は小さく体を丸め、朝が来るのを待った。

 

 起床のブザーに気づかずも起きれたのは、アンナが身を揺らしてくれたからであった。「起きないと怒られるよ。教官みんな怖いんだから」髪を結いながら言う彼女に倣い、少女も身支度を始めた。顔を洗う程度であったが。

 

 連れていかれ、食堂へ辿り着く。長いテーブルが並び、三十人ほどの子供たちが座っていた。年齢はまちまちで、白い肌、浅黒い肌、金色の髪、真っ黒な髪、スラブ的顔立ち、アジア的顔立ちと、国中からかき集めたような顔ぶれをしている。皆、同じような紺色の制服を着ている。むろん少女も着ていた。

 

 粥と黒パン、ソーセージにキャベツの酢漬けと紅茶の朝餉を静かに食べ終わると、職員の指示で全員が移動を始めた。少女は変わらずアンナの後ろを歩いた。

 殺風景な教室に至る。窓はあるが、外の景色は高いフェンスと針葉樹の森だけ。机と椅子が整然と並んでいる。黒板と、国旗と、偉大なる革命家の肖像画が目につく。アンナが少女の袖を軽く引き、自分の隣の席を示した。されるがままに、そこに座った。

 

 ドアが開き、軍人が一人入ってきた。顔は硬く、表情に乏しい四十代ほどの男だった。髪は短く刈り上げられ、いくつかの勲章が胸できらめいている。

 軍人は子どもたちを見渡し、おもむろに口を開いた。祖国。選ばれし者。使命。西側帝国主義との闘争。資本主義の腐敗。社会主義の優越性。偉大なる競争。歴史の必然。少女はそれらの単語を聞いていたつもりだったが、すべて頭を上滑りしていくだけであった。

 

 諸君らは国家の目となり耳となり、また手にも足にもなる。費用は公費からすべて賄われる。それにふさわしいだけの働きを、同志である君たちに期待する。

 

 男はそう締めて、ツカツカと部屋を出て行った。

 アンナは、すくなくとも話が始まってから、ずっとそっぽを向いていた。窓外のトウヒを眺めていたようだった。横顔の眼差しと、透き通った眉目が目に入る。きれいだな。そのときの感情を説明する語彙を、これ以上には持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 スヴェルドロフスク-27は地図上に記載されていない国家機密の閉鎖都市である。正確な座標はごく限られた者のみが知り、人の出入りは厳しく制限されている。かつての指導者は西との競争、ひいては戦争に備え戦略的に重要な役割を担う都市を数十ほど建造し、そして情報統制のヴェールで完全に覆い尽くした。少女が送られた都市は弾薬の製造が主目的であり、小銃の鉛玉から重砲の榴弾までが生み出されていた。

 

 訓練は翌朝から開始された。走る、腕立て、腹筋、懸垂といった体力訓練。ロシア語、算数、地理、歴史といった座学。地理の授業では西側諸国の地図が配られ、主要都市の位置、交通網、政府機関の所在地を暗記させられる。歴史は資本主義の腐敗と帝国主義の残虐性を徹底的に叩き込まれる。午後からは実技訓練。関節技、投げ技、急所への打撃。「相手を殺さず無力化する方法」を学ぶ。少女は保護施設でナイフを握っていたが、ここで教えられるのは素手での、より計算された暴力だった。

 

「ここは監獄なの。許可がないと誰も出られないの。所長さんだってね」

 

 経歴上暴力には多少自尊があった少女をたやすく組み伏せてみせたアンナが、訓練の合間で驚かすように言った。都市全体が隠されてるから、その中でも秘密にされている私たちなんか、誰もわからないの。

 

 新しいシーツの匂いがして、生家のシーツ、そして羊と土の匂いを想起する。良いことと感じたが、ひっかかる。砂漠の夜闇は静かに忍び寄る腕のようであったが、ここの夜は頭を抑えつける拷問器具のようで、また木々の隙間を縫って這い寄る工場の唸りが継続的に不快感を与えている。あの院では寝込みを襲われることも一度や二度ではなかったが、音の観点ではまだ快適といえた。

 

「ね。起きてる?」

 シーツで身じろぐ音のあとに、暗闇から声がした。既に聞きなれたアンナの声。天井を見つめたまま、小さく答える。

「うん」

「眠れないの」

 問いではなく確認に等しかった。答えなかったが、アンナは肯定と受け取った。シーツが僅かに擦れる音がして、それきりまた静かになった。少女はアンナが再び眠るのだと思った。だから次に声が来たとき、少し驚いた。

「最初はみんなそう。工場の音が気になって。でも三日もすれば聞こえなくなる。聞こえてるのに聞こえなくなるんだ」

 また、引っかかる。少女は天井を見つめたまま、その言葉を耳と脳で反芻する。

「あなたはどこから来たの」

 唐突に問われて、少女は少しの間を置いた。

「キルギス」

「キルギス……」繰り返される。味わうように、あるいは地図の上で場所を探すように。

「中央だっけ? ごめん、よく知らないの。アパルトメント住み?」

「……そんなものなかったよ。石造りの家が並んでるだけ。電気もよく止まるし、水は毎朝川から汲む」

 アンナの口ぶりに彼女の育ちが含まれていることを感じ、少女の話し方に知らずして険が入った。

 少女は続ける。砂の話。風の話。荒涼とした地平線の話。夕暮れ時に空が赤く染まって、地面まで同じ色になる話。羊の群れが丘の向こうに消えていく話。小川の水が春になると雪解けで冷たくなって、それを毎日汲みに行った話。山で石を拾った話。野花を摘んだ話。

「きれいそう」とアンナは言った。

 少女は少し考えた。きれいだったかどうか、考えたことはない。当たり前にそこにあったものを、きれいと思う余裕はなかった。しかしアンナにとってそれは、絵の中の風景に見えるのかもしれなかった。

「あなたは」何もかも吐き出し切って少女は問う。知りたいわけではない。仕返しの意味を多く含んでいた。

「レニングラード」

 少しの間があり、アンナはそれだけ言った。少女は黙った。

 ワガノワにいたの。バレエ学校。ロシアで一番古いね。

少女にはその名前の意味するところがよく分からなかった。バレエというものを見たことがなかった。アンナはそれを察したのか、あるいは自分の言葉が届いている

「入学するのがまず難しいの。子どもたちが全国から受けにきて、選ばれるのはほんの一握りだけ。身体の比率とか、柔軟性とか、リズム感とか、色々なことを審査される。私が受かったのは七歳の時」

少女は七歳の自分を思った。七歳の自分は羊の世話をして、水を汲んで、薪を拾っていた。

「授業は朝から晩まである。バレエの実技だけじゃなくて、音楽理論、演技、語学、一般教科も全部ちゃんとやる。毎朝五時に起きて、夜まで踊ってた」

淡々と話した。昨日の天気を語るような口ぶりで。

「足の指の爪はいつも割れてた。トゥシューズを履き続けると、爪が死ぬの。黒くなって、剥がれる。床には血がついてた。それでも誰も何も言わない。みんな同じだから」

少女は自分の足を思った。村を歩き回って硬くなった足の裏。保護施設で怪我した指。それとは違う種類の傷のことを、アンナは話している。目的のある傷のことを。

「でも」アンナの声がわずかに変わった。「嫌じゃなかった。舞台に立つと、客席が全部暗くなって、自分だけ光の中にいるの。何百人もいる客席が、みんな息を止めて、自分だけを見てる。あの感じは、他に何も似たものがない」

少女は像を結ぼうとした。暗い客席と、光の中の少女。金色の髪と、白いスカート。しかし上手く結べなかった。目の前のアンナと、アンナが語る舞台の上のアンナとが、どうしても同じ輪郭に収まらなかった。

「好きだったんだね」

言ってから、少女は少し後悔した。当たり前のことを言い過ぎた、と思った。しかしアンナは怒らなかった。

「好きだった」短く、しかし確かな重さで言った。「とても」

そしてまた沈黙があった。

今度は少し長かった。工場が唸っている。アンナの寝息が聞こえてこない。まだ起きている。

「それで」少女はそっと言った。

「それで」アンナは繰り返した。「ここにいる」

その間に何があったのか。レニングラードからここまでの間に。少女は問おうとして、やめた。アンナの声が、それ以上を求めていなかった。扉はそこで閉まっている。鍵穴を覗いてはいけない、と直感した。

しばらくして、アンナが言った。

「あなたは覚えてるんだね。お母さんの歌」

少女は答えなかった。答えを探した。

胸の内で、母親の声を探した。あった。まだそこにあった。兄が死んで、母が死んで、父が壊れて、すべてを奪われてここまで来たのに、その声だけは、まだそこに残っていた。

「うん」

「そう」とアンナは言った。それ以上は何も言わなかった。

羨んでいるのか。哀れんでいるのか。あるいはその両方なのか、あるいはそのどちらでもないのか、少女には分からなかった。ただ、あの二文字が暗闇の中に静かに落ちて、沈んでいった。

「おやすみ」アンナが言った。

「おやすみ」

寝息が、今度はすぐに聞こえてきた。規則正しく、穏やかな呼吸だった。

少女は天井を見つめた。工場が唸っている。レニングラード。ワガノワ。光の中のアンナ。それで、ここにいる。その間に何があったのかを、少女は知らない。けれど、アンナがあの舞台をまだどこかに持ち続けているのか、それともとうに捨てたのか、あるいは捨てさせられたのか、それも分からなかった。

 今夜で二度目、砂漠を思った。星が近く、母親の声があった。


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