春来たりなば、白菊はキヴォトスに咲く   作:ふぁくしみり

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朱城の灯り

 知らぬ少女に支えられて歩くというのは、暁乃にとってひどく落ち着かないことだった。

 

 他人に体を預けることに、慣れていない。

 

 肩を借りるということは、自分の重みを相手に渡すことだった。

 足がもつれれば、相手まで巻き込む。

 力を抜けば、相手に支えさせてしまう。

 

 それが分かっているから、暁乃は何度も自分で立とうとした。

 

 けれど、膝は思うように動かなかった。

 踏み出した足先は石畳を擦り、体は自分の意思より少し遅れて傾く。

 抱えた黒い包みと革鞄の重みが、今はひどく遠い場所から引いてくるもののように感じられた。

 

 だが、その落ち着かなさを言葉にする力は、もう残っていなかった。

 

 左肩には、朱城ルミの手が添えられている。

 

 ルミは暁乃の腕を無理に引かなかった。

 腰を抱くわけでも、急かして前へ進ませるわけでもない。

 ただ、暁乃が一歩踏み出すたびに、その歩幅に合わせて半歩だけ先へ出る。

 

 暁乃の足が止まれば、ルミも止まる。

 体が傾けば、肩に添えた手に少しだけ力が入る。

 それだけだった。

 

 その手は、強引ではなかった。

 

 引きずるでもなく、押すでもない。

 ただ、暁乃が倒れぬように、歩幅を合わせてくれているだけだった。

 

「ゆっくりでいいよ。急がなくて大丈夫だから」

 

 ルミはそう言った。

 

 暁乃は返事をしようとした。

 

 けれど、喉が動かなかった。

 

 乾ききった喉は、もう声を出すことを拒んでいる。

 唇だけがわずかに動き、そこから漏れたのは言葉にならない掠れた息だけだった。

 

 それを見て、ルミは何かを察したように眉を下げた。

 

「……うん。喋らなくていい。まず、水ね」

 

 暁乃は小さく頷いた。

 

 それだけでも、首の奥が軋むようだった。

 

 夜の山海経は、昼とは違う空気を纏っていた。

 

 提灯の灯り。

 どこかの店から漂う湯気。

 焼き物の匂い。

 石畳に残った昼の熱。

 遠くから聞こえる生徒たちの笑い声。

 

 暁乃の知る東京の夜とはまるで違う。

 それなのに、山海経の町並みには、どこか見覚えのある影もあった。

 

 朱色の柱。

 瓦のような屋根。

 細い路地。

 格子窓。

 店先に吊られた灯り。

 

 キヴォトスという異郷の中で、ここだけは少しだけ、彼の知る東の空気に近かった。

 

 だからこそ、余計に奇妙だった。

 

 見慣れたはずの面影の中に、見知らぬものが混じっている。

 頭上に光の輪を浮かべた少女たち。

 光る看板。

 自動で鳴る案内音。

 遠くを滑るように走る車両。

 

 似ているのに、違う。

 

 その違いを考えようとするたび、頭の奥がぼんやり霞んだ。

 

 喉が痛い。

 腹が空いている。

 脚が重い。

 

 一歩進むたびに、体のどこかから力が抜けていくようだった。

 

「もう少しだからね」

 

 ルミが言う。

 

 暁乃はまた小さく頷いた。

 

 ほどなくして、ルミは通りから少し入った場所にある家の前で足を止めた。

 

 派手さはない。

 けれど、丁寧に暮らされているのが分かる家だった。

 

 古い意匠を残した扉。

 軒先に吊られた小さな灯り。

 窓から漏れる、柔らかな光。

 

 そこに立った瞬間、暁乃は無意識に足を止めかけた。

 

 他人の家だ。

 

 そう思った。

 

 だが、その思いを口にすることもできなかった。

 このまま入ってよいのか。

 迷惑ではないのか。

 見知らぬ者を家に入れてよいのか。

 

 そうした遠慮が頭の奥に浮かびはしたが、体はもう、それを形にするだけの力を持っていなかった。

 

 ルミは暁乃の様子を見て、扉に手をかけた。

 

「大丈夫。私が連れてきたんだから」

 

 まるで、暁乃が言えなかった言葉を先に拾ったようだった。

 

「今の君を外に置いていく方が無理だよ」

 

 扉が開く。

 

 中から、家の匂いがした。

 

 木の匂い。

 布の匂い。

 薄く残った料理の匂い。

 そして、どこか安心する温かさ。

 

 暁乃はその匂いに、ほんのわずか息を詰めた。

 

 知らない家だった。

 

 けれど、誰かがきちんと暮らしている場所の匂いだった。

 

「靴、こっちで脱がせるね。倒れそうだから」

 

 ルミはそう言って、暁乃を玄関の段差に座らせた。

 

 暁乃はかすかに身じろぎした。

 自分でできる、と言いたかったのかもしれない。

 

 けれど、声は出なかった。

 

「いいから。今はされるがままでいて」

 

 少しだけ冗談めかした口調だった。

 しかし、その手つきは丁寧だった。

 

 ルミは暁乃の履物を脱がせ、足元を整え、それからもう一度肩を貸した。

 

「はい、あとちょっと。座れるところまで行こう」

 

 暁乃は逆らえなかった。

 

 逆らう理由も、力もなかった。

 

 ただ、黒い刀の包みだけは腕の中に抱えたまま、ルミに支えられて家の中へ入った。

 

 部屋に通されると、暁乃は低い卓のそばに座らされた。

 

 座る、というより、ほとんど沈み込むようだった。

 膝から力が抜け、肩から鞄の重みがずれる。

 

 ルミはすぐに革鞄の紐を見た。

 

「鞄、下ろしていい?」

 

 暁乃は一瞬だけ目を動かした。

 

 その中には、写真がある。

 紫乃の煙管がある。

 旅の小物がある。

 

 手放したくはなかった。

 

 ルミは、そのわずかな躊躇を見逃さなかった。

 

「あ、勝手に開けたりしないよ。重そうだから、横に置くだけ」

 

 暁乃は少し迷い、それから小さく頷いた。

 

 ルミは丁寧に鞄を外し、暁乃のすぐ手が届くところへ置いた。

 

「抱えてるそれも、無理に離さなくていいからね」

 

 ルミは刀の包みをちらりと見る。

 

「大事なものなんでしょ?」

 

 暁乃の指先が、わずかに包みを抱え直した。

 

 ルミはそれ以上踏み込まなかった。

 

「なら、そのままでいいよ」

 

 その一言に、暁乃の肩から少しだけ力が抜けた。

 

 ルミはそれ以上何も聞かず、奥へ走る。

 

 水の音がした。

 

 戻ってきたルミの手には、湯呑みがあった。

 

「はい。まず水」

 

 差し出された湯呑みを、暁乃は両手で受け取った。

 

 冷たすぎない水だった。

 喉が弱っていることを考えてくれたのか、ほんの少しだけ温い。

 

 湯呑みの縁が唇に触れる。

 

 一口目で、喉が痛んだ。

 

 乾ききった場所へ水が触れ、そこだけが急に生き返ったようだった。

 

 暁乃はゆっくり飲むつもりだった。

 だが、一度水が通ると、体が勝手に求めた。

 

 二口。

 三口。

 

 気づけば湯呑みは空になっていた。

 

 ルミは何も言わず、もう一杯注いだ。

 

「ゆっくりね。急に飲みすぎると、気持ち悪くなるかも」

 

 暁乃は小さく頷く。

 

 今度は少しずつ飲んだ。

 

 水を飲むだけで、指先にわずかな感覚が戻ってくる。

 だが同時に、どれほど自分が渇いていたのかも分かってしまった。

 

 ルミはその様子を見て、眉を下げた。

 

「……そんなに、ずっと飲んでなかったんだ」

 

 暁乃は湯呑みを握ったまま、少し目を伏せた。

 

 答えようとして、喉を確かめる。

 

 先ほどよりは、動く。

 

 まだ痛い。

 まだ掠れる。

 それでも、ようやく声になった。

 

「……かたじけ、なく」

 

 掠れた小さな声だった。

 

 ルミは一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、少しだけ笑う。

 

「やっと喋れた」

 

 暁乃は申し訳なさそうに目を伏せる。

 

「声が……出ませんでした」

 

「うん。見れば分かったよ」

 

 ルミは湯呑みにもう少し水を注ぎ足した。

 

「だから、謝らなくていいからね」

 

 暁乃はまた何か言おうとした。

 

 けれど、ルミが先に指を立てる。

 

「謝るの禁止。今は水飲んで、座ってること。いい?」

 

 暁乃は戸惑ったように瞬きをした。

 

 命令というほど強くはない。

 けれど、拒む余地のない声だった。

 

 暁乃は小さく頷いた。

 

「……はい」

 

「うん」

 

 ルミは満足そうに頷き、今度は暁乃の顔色を確かめるように覗き込んだ。

 

「お腹は?」

 

 暁乃は答えようとした。

 

 その前に、空っぽの腹がかすかに鳴った。

 

 ひどく小さな音だった。

 

 けれど、静かな部屋の中では十分に聞こえた。

 

 暁乃は固まった。

 

 ルミも一瞬固まった。

 

 それから、彼女は笑わないように少しだけ口元を押さえた。

 

「……うん。空いてるね」

 

「……失礼、いたしました」

 

「だから謝らない」

 

 ルミはすぐに立ち上がった。

 

「いきなり重いものは駄目……だからお粥にする。待っててね」

 

「そこまで、していただくわけには……」

 

 ようやく出た遠慮の言葉は、まだ弱々しかった。

 

 ルミは振り返り、明るく言った。

 

「もうここまでしたから、今さらだよ」

 

 それから少しだけ得意げに胸を張る。

 

「それに、私は料理人だから。こういう時にご飯出せない方が嫌なの」

 

 料理人。

 

 その言葉に、暁乃はわずかに目を伏せた。

 

 胸の奥で、師匠の言葉がふと蘇る。

 

 ――腹を満たす術を知っている者は強いのです。

 

 ――刃より先に飯を出せる者は、なかなか侮れませんよ。

 

 暁乃は膝の上の刀包みを静かに抱え直す。

 

 台所へ向かうルミの足音を聞きながら、ようやく少しだけ、自分は助けられたのだと実感していた。

 

 

 

 ⸻

 

 

 

 台所から、かすかな音が聞こえていた。

 

 水を張る音。

 器が触れる音。

 鍋を置く音。

 火にかけたものが、少しずつ温まっていく音。

 

 どれも小さな音だった。

 少し離れれば聞き逃してしまうような、生活の端にある音だった。

 

 それでも、今の暁乃にははっきり届いた。

 

 誰かが自分のために動いている。

 

 その事実だけで、胸の奥が落ち着かない。

 

 暁乃は低い卓のそばで、湯呑みを両手に包んだまま、じっとしていた。

 

 手のひらに残る水の温度。

 喉を通った水の感覚。

 ようやく少し動くようになった指先。

 

 それらを確かめるように、ゆっくり息をする。

 

 逃げるべきか。

 

 そんな考えが、頭の片隅に一度だけ浮かんだ。

 

 見知らぬ場所。

 見知らぬ少女。

 この地のことは、何一つ分からない。

 

 けれど、立てなかった。

 

 脚に力が入らない。

 鞄を背負うことも、刀の包みを抱えて戸口まで歩くことも、今の暁乃にはできそうになかった。

 

 それに。

 

 暁乃は台所の方を見る。

 

 朱城ルミは、自分を捕らえようとはしていなかった。

 鞄を開けなかった。

 刀らしき包みにも、無理に触れなかった。

 水を飲めと言い、謝るなと言い、今は粥を作っている。

 

 それが何よりも、暁乃を戸惑わせていた。

 

「お待たせ」

 

 やがて、ルミが戻ってきた。

 

 盆の上には、小さな椀が乗っている。

 白く柔らかそうな粥から、薄い湯気が立っていた。

 

「熱いから、ゆっくりね。少し冷ましてあるけど」

 

 ルミは卓の上に椀を置いた。

 それから、匙を添える。

 

「味、薄めにしたよ。今はその方がいいと思うから」

 

 暁乃は湯呑みを置き、椀を見た。

 

 粥だった。

 

 ただの粥だ。

 特別なものではない。

 

 けれど、その白い湯気を見ているだけで、腹の奥がきゅうと縮む。

 

「……いただいても、よろしいのでしょうか」

 

 声はまだ掠れていた。

 けれど、先ほどよりははっきりしていた。

 

 ルミは少しだけ目を丸くした後、柔らかく笑った。

 

「うん。君のために作ったんだから」

 

「かたじけなく存じます」

 

「ほんとに丁寧だね」

 

 ルミはそう言って、向かいに座る。

 

「無理に急がないで。まず一口」

 

 暁乃は匙を取ろうとした。

 

 だが、指先が思うように動かなかった。

 匙を掴んだ手が、わずかに震える。

 

 椀の縁に匙が当たり、小さな音を立てた。

 

 暁乃の眉がかすかに寄る。

 

「申し訳ございませ――」

 

「謝らない」

 

 ルミは即座に言った。

 

 暁乃は言葉を止める。

 

 ルミは少しだけ苦笑した。

 

「それ、今日だけで何回言うことになるかな」

 

「……申し訳」

 

「それも謝罪だよ」

 

 暁乃は困ったように目を伏せた。

 

 ルミは笑わなかった。

 からかいすぎないように、声を少し柔らかくする。

 

「手、震えてるね」

 

「問題は、ございませぬ」

 

「問題あるよ」

 

「ですが、自分で」

 

「うん」

 

 ルミは頷いた。

 

「自分で食べたいんだよね」

 

 暁乃は少しだけ目を上げた。

 

「……はい」

 

「じゃあ、そうしよ」

 

 ルミは椀を少しだけ暁乃の方へ寄せた。

 匙を握る手元も、無理に支えない。

 ただ、椀が倒れないように、指先でそっと押さえるだけだった。

 

「椀は私が押さえる。君は匙だけでいいよ」

 

「……お手数を」

 

「はいはい。手数はもうかかってるから、今さらです」

 

 その言い方に、暁乃は返す言葉を見つけられなかった。

 

 匙で粥をすくう。

 

 少しこぼれた。

 それでも、どうにか口元まで運ぶ。

 

 一口。

 

 熱くはなかった。

 

 米は柔らかく、味は薄い。

 けれど、舌に触れた瞬間、暁乃の喉が小さく震えた。

 

 飲み込む。

 

 喉はまだ痛んだ。

 それでも、腹の奥に温かいものが落ちていくのが分かった。

 

 薄い味だった。

 体に障らないように、きっと余計なものを入れていない。

 それでも、今の暁乃には十分すぎるほどだった。

 

 美味しかった。

 

 ただ、それだけのことが、ひどく堪えた。

 

 胸の奥が、急に熱くなる。

 

 暁乃は匙を持ったまま、動きを止めた。

 

「暁乃ちゃん?」

 

 ルミが覗き込む。

 

 暁乃は答えようとした。

 だが、声より先に、目元から涙が落ちた。

 

 一粒。

 それから、もう一粒。

 

 湯気の向こうで、椀の縁に小さく落ちる。

 

 ルミが息を呑んだ。

 

「あ、熱かった? 痛い? 気持ち悪い?」

 

 暁乃は首を振った。

 

 強く振る力はなかった。

 それでも、違うと伝えたかった。

 

「……おいしい」

 

 掠れた声が漏れた。

 

 ルミの動きが止まる。

 

「え?」

 

「おいしい、です」

 

 暁乃はもう一度言った。

 

 それから、堪えきれないように目を伏せる。

 

「おいしい……」

 

 同じ言葉しか出てこなかった。

 

 それが礼として正しいのか、失礼ではないのか、暁乃には分からなかった。

 ただ、喉も腹も胸も、すべてがその一言に寄ってしまっていた。

 

「……かたじけ、なく」

 

 涙がまた落ちる。

 

「おいしい……とても」

 

 ルミは一瞬、驚いたように暁乃を見ていた。

 

 けれど、すぐに表情を緩めた。

 

 少し得意げで、少し安心したような笑みだった。

 

「でしょ?」

 

 ルミは椀を押さえたまま、嬉しそうに言った。

 

「私が作ったんだから。弱ってる子でも食べられるように、ちゃんと考えたんだよ」

 

 暁乃は涙を拭おうとした。

 

 けれど、匙を持つ手も、湯呑みを支える手も、まだうまく動かない。

 

 ルミは慌てず、そばにあった布を一枚取った。

 

「涙はあと。まず食べよ。冷めちゃう」

 

「……はい」

 

「泣くほど美味しいなら、もう一口いける?」

 

 暁乃は小さく頷いた。

 

 二口目。

 

 今度は一口目より、少しだけ楽に飲み込めた。

 

「おいしい」

 

「うん」

 

 三口目。

 

 匙を運ぶ手はまだ震えていた。

 だが、さっきより迷いはなかった。

 

「おいしい、です」

 

「うん。ゆっくりね」

 

 ルミは急かさなかった。

 何かを問いただすこともしなかった。

 ただ、椀を押さえながら、暁乃が食べるのを見守っていた。

 

 暁乃は少しずつ、粥を食べた。

 

 泣きながら食べるなど、みっともないことだと思った。

 けれど涙は止まらなかった。

 

 温かいものが腹に落ちるたびに、体が少しずつ戻ってくる。

 それと同じだけ、張り詰めていたものがほどけていく。

 

 半分ほど食べたところで、暁乃の手が止まった。

 

「もう無理?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ、休憩?」

 

 暁乃は少しだけ頷いた。

 

「はい」

 

「うん。いいよ」

 

 ルミは椀から手を離し、湯呑みを差し出した。

 

「少し水」

 

 暁乃は受け取り、ゆっくり飲んだ。

 

 胃のあたりに、温かいものが残っている。

 空っぽだった体に、ようやく何かが戻ってくる感覚があった。

 

 それと同時に、眠気も来た。

 

 強い眠気だった。

 

 瞼が重い。

 背筋を伸ばしていようとしても、頭が少し傾く。

 

「眠い?」

 

 ルミが聞く。

 

 暁乃は反射的に首を振ろうとした。

 

 だが、それより先にルミが言った。

 

「眠いよね」

 

 暁乃は黙った。

 

「無理して起きてなくていいよ。今日はもう休んだ方がいい」

 

「ですが、まだ、お礼も」

 

「お礼は明日聞く」

 

「名も、まだ」

 

「あ、それは聞きたい」

 

 ルミは少しだけ身を乗り出した。

 

「話せるなら、名前だけ教えて。無理なら明日でもいい」

 

 暁乃は湯呑みを置いた。

 

 息を整える。

 

 ただ名乗るだけのことが、今はひどく難しかった。

 

「……白菊」

 

 掠れた声が、部屋に落ちる。

 

「白菊、暁乃と申します」

 

「しろぎく、あきの」

 

 ルミはゆっくり繰り返した。

 

「暁乃ちゃん、ね」

 

 ちゃん。

 

 暁乃はその呼び方を、少しだけ遅れて受け取った。

 

 子供や年若い者に向けられる呼び方として、耳にしたことはある。

 女に限った響きとも、暁乃には思えなかった。

 少なくとも、そこに嘲りや乱暴さはない。

 

 この地の少女たちが自分をどう見ているのかはまだ分からない。

 だが、ルミの声に含まれていたのは、見下しではなかった。

 

「……はい」

 

「じゃあ、暁乃ちゃん」

 

 ルミは少しだけ笑った。

 

「改めて、私は朱城ルミ。さっき言ったけど、山海経初級中学の生徒。あと、料理人見習い……って言うとちょっと悔しいけど、まあ今はそんな感じ」

 

「朱城、様」

 

「様はいらない。それにルミでいいよ」

 

「では、朱城さん」

 

「ルミ」

 

「……ルミ、さん」

 

「うんうん。それでいいよ」

 

 ルミは満足そうに頷いた。

 

 それから、ふと暁乃の頭上を見る。

 

 そこには何もなかった。

 

 山海経の生徒なら、誰にでもあるはずのもの。

 キヴォトスの生徒なら、起きている限り自然に浮かんでいるもの。

 

 ヘイローがない。

 

 ルミはそれを見た。

 

 見たが、何も言わなかった。

 

 今、聞くことではない。

 

 そう判断した。

 

「布団、用意するね」

 

「そこまでしていただくわけには」

 

「もうその言葉、禁止にしようかな」

 

 ルミは立ち上がる。

 

「食べて、水飲んで、寝る。今日はそれだけ。難しい話は明日」

 

「……はい」

 

「いい返事」

 

 ルミは奥から布団を持ってきた。

 

 暁乃は手伝おうとしたが、立ち上がる前にふらついた。

 

「はい、座ってて」

 

 ルミの声が飛ぶ。

 

 暁乃はまた座るしかなかった。

 

 布団は低い卓から少し離れた場所に敷かれた。

 ルミは枕の位置を整え、薄い掛け布を重ねる。

 

「ここで寝て。寒かったら言って」

 

 暁乃は布団を見て、わずかに表情を曇らせた。

 

「……ですが」

 

「うん?」

 

「俺は、砂と汗で、汚れております」

 

 掠れた声で、暁乃は言った。

 

「このような身で、寝具をお借りするわけには……」

 

 ルミは一瞬だけ目を瞬いた。

 

 それから、困ったように笑った。

 

「そういうの、今はいいから」

 

「ですが」

 

「いいの」

 

 ルミは少しだけ声を強めた。

 

「汚れた布団は洗えばいい。でも、暁乃ちゃんがこのまま床で寝たら、そっちの方が困る」

 

 暁乃は言い返せなかった。

 

「それに、私が寝ていいって言ってるんだからいいの。分かった?」

 

「……はい」

 

「うん」

 

 ルミは満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、横になる」

 

 暁乃はゆっくり立ち上がろうとする。

 ルミが肩を貸す。

 

 その時も、黒い刀の包みは離さなかった。

 

 布団のそばまで来ると、暁乃は一度、鞄の方を見た。

 

「鞄も近くに置くね」

 

 ルミはすぐに言った。

 

「その包みも、抱えたままでいいよ。寝にくかったら横に置けばいいし」

 

 暁乃は小さく頷く。

 

 布団に身を横たえると、体の奥から一気に力が抜けた。

 

 横になる。

 

 ただそれだけで、視界が大きく揺れた。

 部屋の灯りが滲み、天井の木目がぼやける。

 

「ちょっと待ってて」

 

 ルミは一度立ち上がり、奥へ行った。

 

 戻ってきた時、その手には濡らした手拭いがあった。

 

「顔だけ拭くね。熱くない?」

 

 暁乃は答えようとしたが、もう声がほとんど出なかった。

 

 代わりに、小さく頷く。

 

 ルミは手拭いを軽く絞り、暁乃の額にそっと当てた。

 

 ひんやりとした感触に、暁乃の瞼がわずかに震える。

 

「ごめんね。ちょっと冷たかった?」

 

 暁乃は小さく首を振った。

 

 額。

 頬。

 目元。

 口元。

 

 ルミの手つきは、先ほど靴を脱がせた時と同じように丁寧だった。

 砂をこすり落とすのではなく、弱った肌を確かめるように、少しずつ拭っていく。

 

「白い髪、砂ついちゃってるね。今日は無理だけど、明日ちゃんと洗おう」

 

 そう言って、ルミは額にかかっていた髪をそっと指で避けた。

 

 白い髪が、指先にさらりと流れる。

 

 その下から、暁乃の顔がはっきりと見えた。

 

 ルミの手が止まった。

 

 先ほどまでも、整った顔立ちだとは思っていた。

 けれど、汗と砂に汚れ、苦しそうに俯いていた時とは違う。

 

 汚れを拭われ、髪をよけられた暁乃の顔は、思っていた以上に静かで、透き通るようだった。

 

 白い肌。

 閉じかけた赤い瞳。

 長い睫毛。

 まだ幼さの残る輪郭。

 

 弱っているからこそ、余計に壊れそうに見えた。

 それなのに、どこか人目を奪うほど綺麗だった。

 

 ルミは思わず見つめた。

 

 見つめてしまった。

 

「……ルミ、さん?」

 

 掠れた声が、ルミを呼んだ。

 

 その声で、ルミははっとする。

 

「あ、ううん。なんでもないよ」

 

 慌てて笑おうとした。

 

 けれど、自分の頬が熱くなっているのが分かった。

 

「ちょっと、砂が多かっただけ。ちゃんと拭けてるかなって」

 

「左様、でございますか」

 

「うん。そうそう」

 

 ルミは少し早口になった。

 

 暁乃はまだぼんやりしているのか、それ以上は追及しなかった。

 ただ、ルミの手元を見てから、かすかに目を伏せる。

 

「……そこまで、していただくわけには」

 

「はい、またそれ」

 

 ルミは軽く遮った。

 

「明日の話。今は寝る」

 

 暁乃はそれ以上言えなかった。

 

 ルミがそばに膝をついた。

 

「大丈夫?」

 

「……はい」

 

「その“大丈夫”、あんまり信用できないな」

 

 暁乃は返事に困った。

 

 ルミは掛け布を肩まで上げる。

 

「今夜は寝て。起きたら、また水飲んで、ご飯食べて、それから考えよう」

 

「考える」

 

「そう。君がどこから来たのかとか、どうしたいのかとか。そういうのは、ちゃんと起きてから」

 

 暁乃は薄く目を開けた。

 

「……聞いて、くださるのですか」

 

「うん」

 

 ルミは当然のように頷いた。

 

「でも今じゃない。今聞いても、君、途中で寝ちゃいそうだし」

 

「申し訳……」

 

「謝らない」

 

 ルミが言う。

 

 暁乃はかすかに息を吐いた。

 

「……はい」

 

 その返事は、ほとんど眠りに沈みかけていた。

 

 ルミは立ち上がりかけて、ふと足を止める。

 

「暁乃ちゃん」

 

 呼びかけると、赤い瞳が少しだけこちらを向いた。

 

「ここでは、無理に何かしなくていいから」

 

 暁乃は聞いているのか、いないのか分からないほど静かだった。

 

「まず、元気になって」

 

 その言葉に、暁乃の指が刀の包みを弱く握った。

 

「……かたじけ、なく」

 

 それだけ言うと、暁乃は目を閉じた。

 

 眠りに落ちるのは早かった。

 

 あれほど気を張っていた体が、もう限界だったのだろう。

 細い呼吸が、少しずつ深くなる。

 

 ルミはしばらく、その寝顔を見ていた。

 

 白い髪。

 赤い瞳は閉じられている。

 頭上には、やはり何もない。

 

 年下に見える。

 とても強そうには見えない。

 

 けれど、その腕は眠っていても、黒い包みを離していなかった。

 

 ルミは片づけようとしていた手拭いを手にしたまま、もう一度、暁乃の顔を見る。

 

 砂を拭われた頬は、灯りの下でひどく白かった。

 眠っているせいか、先ほどよりも表情は幼い。

 けれど、ただ幼いだけではない。

 

 どこか遠くから迷い込んできたもののような、触れたら消えてしまいそうな静けさがあった。

 

「……本当に、綺麗な子」

 

 小さく呟いてから、ルミは自分で少し驚いた。

 

 何を言っているのだろう。

 

 見知らぬ子を拾ってきて、水を飲ませて、ご飯を食べさせて、ようやく寝かせたところだ。

 今考えるべきなのは、明日のことのはずだった。

 

 どこから来たのか。

 なぜヘイローがないのか。

 その黒い包みは何なのか。

 どうして、あんなに飢えていたのか。

 

 聞かなければならないことは、いくらでもある。

 

 それなのに、ルミはもう一度だけ、暁乃の寝顔を見てしまった。

 

「……何があったんだろうね」

 

 今度の呟きには、さっきよりもはっきり心配が混じっていた。

 

 返事はない。

 

 暁乃は眠っている。

 

 ルミは灯りを少し落とし、鞄が暁乃の手の届く位置にあることを確かめた。

 

 黒い包みも、無理に離させない。

 それがこの子にとってどれほど大事なものなのか、今はまだ分からない。

 けれど、眠ってなお離せないものを、勝手に取り上げる気にはなれなかった。

 

 それから、空になった湯呑みと半分ほど残った粥の椀を静かに片づける。

 

 明日の朝、もう一度温めればいい。

 

 そう思いながら、ルミは台所へ戻った。

 

 背後では、白い子が、ようやく深く眠っていた。

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総合評価:508/評価:6.55/未完:18話/更新日時:2026年03月23日(月) 21:28 小説情報

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