知らぬ少女に支えられて歩くというのは、暁乃にとってひどく落ち着かないことだった。
他人に体を預けることに、慣れていない。
肩を借りるということは、自分の重みを相手に渡すことだった。
足がもつれれば、相手まで巻き込む。
力を抜けば、相手に支えさせてしまう。
それが分かっているから、暁乃は何度も自分で立とうとした。
けれど、膝は思うように動かなかった。
踏み出した足先は石畳を擦り、体は自分の意思より少し遅れて傾く。
抱えた黒い包みと革鞄の重みが、今はひどく遠い場所から引いてくるもののように感じられた。
だが、その落ち着かなさを言葉にする力は、もう残っていなかった。
左肩には、朱城ルミの手が添えられている。
ルミは暁乃の腕を無理に引かなかった。
腰を抱くわけでも、急かして前へ進ませるわけでもない。
ただ、暁乃が一歩踏み出すたびに、その歩幅に合わせて半歩だけ先へ出る。
暁乃の足が止まれば、ルミも止まる。
体が傾けば、肩に添えた手に少しだけ力が入る。
それだけだった。
その手は、強引ではなかった。
引きずるでもなく、押すでもない。
ただ、暁乃が倒れぬように、歩幅を合わせてくれているだけだった。
「ゆっくりでいいよ。急がなくて大丈夫だから」
ルミはそう言った。
暁乃は返事をしようとした。
けれど、喉が動かなかった。
乾ききった喉は、もう声を出すことを拒んでいる。
唇だけがわずかに動き、そこから漏れたのは言葉にならない掠れた息だけだった。
それを見て、ルミは何かを察したように眉を下げた。
「……うん。喋らなくていい。まず、水ね」
暁乃は小さく頷いた。
それだけでも、首の奥が軋むようだった。
夜の山海経は、昼とは違う空気を纏っていた。
提灯の灯り。
どこかの店から漂う湯気。
焼き物の匂い。
石畳に残った昼の熱。
遠くから聞こえる生徒たちの笑い声。
暁乃の知る東京の夜とはまるで違う。
それなのに、山海経の町並みには、どこか見覚えのある影もあった。
朱色の柱。
瓦のような屋根。
細い路地。
格子窓。
店先に吊られた灯り。
キヴォトスという異郷の中で、ここだけは少しだけ、彼の知る東の空気に近かった。
だからこそ、余計に奇妙だった。
見慣れたはずの面影の中に、見知らぬものが混じっている。
頭上に光の輪を浮かべた少女たち。
光る看板。
自動で鳴る案内音。
遠くを滑るように走る車両。
似ているのに、違う。
その違いを考えようとするたび、頭の奥がぼんやり霞んだ。
喉が痛い。
腹が空いている。
脚が重い。
一歩進むたびに、体のどこかから力が抜けていくようだった。
「もう少しだからね」
ルミが言う。
暁乃はまた小さく頷いた。
ほどなくして、ルミは通りから少し入った場所にある家の前で足を止めた。
派手さはない。
けれど、丁寧に暮らされているのが分かる家だった。
古い意匠を残した扉。
軒先に吊られた小さな灯り。
窓から漏れる、柔らかな光。
そこに立った瞬間、暁乃は無意識に足を止めかけた。
他人の家だ。
そう思った。
だが、その思いを口にすることもできなかった。
このまま入ってよいのか。
迷惑ではないのか。
見知らぬ者を家に入れてよいのか。
そうした遠慮が頭の奥に浮かびはしたが、体はもう、それを形にするだけの力を持っていなかった。
ルミは暁乃の様子を見て、扉に手をかけた。
「大丈夫。私が連れてきたんだから」
まるで、暁乃が言えなかった言葉を先に拾ったようだった。
「今の君を外に置いていく方が無理だよ」
扉が開く。
中から、家の匂いがした。
木の匂い。
布の匂い。
薄く残った料理の匂い。
そして、どこか安心する温かさ。
暁乃はその匂いに、ほんのわずか息を詰めた。
知らない家だった。
けれど、誰かがきちんと暮らしている場所の匂いだった。
「靴、こっちで脱がせるね。倒れそうだから」
ルミはそう言って、暁乃を玄関の段差に座らせた。
暁乃はかすかに身じろぎした。
自分でできる、と言いたかったのかもしれない。
けれど、声は出なかった。
「いいから。今はされるがままでいて」
少しだけ冗談めかした口調だった。
しかし、その手つきは丁寧だった。
ルミは暁乃の履物を脱がせ、足元を整え、それからもう一度肩を貸した。
「はい、あとちょっと。座れるところまで行こう」
暁乃は逆らえなかった。
逆らう理由も、力もなかった。
ただ、黒い刀の包みだけは腕の中に抱えたまま、ルミに支えられて家の中へ入った。
部屋に通されると、暁乃は低い卓のそばに座らされた。
座る、というより、ほとんど沈み込むようだった。
膝から力が抜け、肩から鞄の重みがずれる。
ルミはすぐに革鞄の紐を見た。
「鞄、下ろしていい?」
暁乃は一瞬だけ目を動かした。
その中には、写真がある。
紫乃の煙管がある。
旅の小物がある。
手放したくはなかった。
ルミは、そのわずかな躊躇を見逃さなかった。
「あ、勝手に開けたりしないよ。重そうだから、横に置くだけ」
暁乃は少し迷い、それから小さく頷いた。
ルミは丁寧に鞄を外し、暁乃のすぐ手が届くところへ置いた。
「抱えてるそれも、無理に離さなくていいからね」
ルミは刀の包みをちらりと見る。
「大事なものなんでしょ?」
暁乃の指先が、わずかに包みを抱え直した。
ルミはそれ以上踏み込まなかった。
「なら、そのままでいいよ」
その一言に、暁乃の肩から少しだけ力が抜けた。
ルミはそれ以上何も聞かず、奥へ走る。
水の音がした。
戻ってきたルミの手には、湯呑みがあった。
「はい。まず水」
差し出された湯呑みを、暁乃は両手で受け取った。
冷たすぎない水だった。
喉が弱っていることを考えてくれたのか、ほんの少しだけ温い。
湯呑みの縁が唇に触れる。
一口目で、喉が痛んだ。
乾ききった場所へ水が触れ、そこだけが急に生き返ったようだった。
暁乃はゆっくり飲むつもりだった。
だが、一度水が通ると、体が勝手に求めた。
二口。
三口。
気づけば湯呑みは空になっていた。
ルミは何も言わず、もう一杯注いだ。
「ゆっくりね。急に飲みすぎると、気持ち悪くなるかも」
暁乃は小さく頷く。
今度は少しずつ飲んだ。
水を飲むだけで、指先にわずかな感覚が戻ってくる。
だが同時に、どれほど自分が渇いていたのかも分かってしまった。
ルミはその様子を見て、眉を下げた。
「……そんなに、ずっと飲んでなかったんだ」
暁乃は湯呑みを握ったまま、少し目を伏せた。
答えようとして、喉を確かめる。
先ほどよりは、動く。
まだ痛い。
まだ掠れる。
それでも、ようやく声になった。
「……かたじけ、なく」
掠れた小さな声だった。
ルミは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ笑う。
「やっと喋れた」
暁乃は申し訳なさそうに目を伏せる。
「声が……出ませんでした」
「うん。見れば分かったよ」
ルミは湯呑みにもう少し水を注ぎ足した。
「だから、謝らなくていいからね」
暁乃はまた何か言おうとした。
けれど、ルミが先に指を立てる。
「謝るの禁止。今は水飲んで、座ってること。いい?」
暁乃は戸惑ったように瞬きをした。
命令というほど強くはない。
けれど、拒む余地のない声だった。
暁乃は小さく頷いた。
「……はい」
「うん」
ルミは満足そうに頷き、今度は暁乃の顔色を確かめるように覗き込んだ。
「お腹は?」
暁乃は答えようとした。
その前に、空っぽの腹がかすかに鳴った。
ひどく小さな音だった。
けれど、静かな部屋の中では十分に聞こえた。
暁乃は固まった。
ルミも一瞬固まった。
それから、彼女は笑わないように少しだけ口元を押さえた。
「……うん。空いてるね」
「……失礼、いたしました」
「だから謝らない」
ルミはすぐに立ち上がった。
「いきなり重いものは駄目……だからお粥にする。待っててね」
「そこまで、していただくわけには……」
ようやく出た遠慮の言葉は、まだ弱々しかった。
ルミは振り返り、明るく言った。
「もうここまでしたから、今さらだよ」
それから少しだけ得意げに胸を張る。
「それに、私は料理人だから。こういう時にご飯出せない方が嫌なの」
料理人。
その言葉に、暁乃はわずかに目を伏せた。
胸の奥で、師匠の言葉がふと蘇る。
――腹を満たす術を知っている者は強いのです。
――刃より先に飯を出せる者は、なかなか侮れませんよ。
暁乃は膝の上の刀包みを静かに抱え直す。
台所へ向かうルミの足音を聞きながら、ようやく少しだけ、自分は助けられたのだと実感していた。
⸻
台所から、かすかな音が聞こえていた。
水を張る音。
器が触れる音。
鍋を置く音。
火にかけたものが、少しずつ温まっていく音。
どれも小さな音だった。
少し離れれば聞き逃してしまうような、生活の端にある音だった。
それでも、今の暁乃にははっきり届いた。
誰かが自分のために動いている。
その事実だけで、胸の奥が落ち着かない。
暁乃は低い卓のそばで、湯呑みを両手に包んだまま、じっとしていた。
手のひらに残る水の温度。
喉を通った水の感覚。
ようやく少し動くようになった指先。
それらを確かめるように、ゆっくり息をする。
逃げるべきか。
そんな考えが、頭の片隅に一度だけ浮かんだ。
見知らぬ場所。
見知らぬ少女。
この地のことは、何一つ分からない。
けれど、立てなかった。
脚に力が入らない。
鞄を背負うことも、刀の包みを抱えて戸口まで歩くことも、今の暁乃にはできそうになかった。
それに。
暁乃は台所の方を見る。
朱城ルミは、自分を捕らえようとはしていなかった。
鞄を開けなかった。
刀らしき包みにも、無理に触れなかった。
水を飲めと言い、謝るなと言い、今は粥を作っている。
それが何よりも、暁乃を戸惑わせていた。
「お待たせ」
やがて、ルミが戻ってきた。
盆の上には、小さな椀が乗っている。
白く柔らかそうな粥から、薄い湯気が立っていた。
「熱いから、ゆっくりね。少し冷ましてあるけど」
ルミは卓の上に椀を置いた。
それから、匙を添える。
「味、薄めにしたよ。今はその方がいいと思うから」
暁乃は湯呑みを置き、椀を見た。
粥だった。
ただの粥だ。
特別なものではない。
けれど、その白い湯気を見ているだけで、腹の奥がきゅうと縮む。
「……いただいても、よろしいのでしょうか」
声はまだ掠れていた。
けれど、先ほどよりははっきりしていた。
ルミは少しだけ目を丸くした後、柔らかく笑った。
「うん。君のために作ったんだから」
「かたじけなく存じます」
「ほんとに丁寧だね」
ルミはそう言って、向かいに座る。
「無理に急がないで。まず一口」
暁乃は匙を取ろうとした。
だが、指先が思うように動かなかった。
匙を掴んだ手が、わずかに震える。
椀の縁に匙が当たり、小さな音を立てた。
暁乃の眉がかすかに寄る。
「申し訳ございませ――」
「謝らない」
ルミは即座に言った。
暁乃は言葉を止める。
ルミは少しだけ苦笑した。
「それ、今日だけで何回言うことになるかな」
「……申し訳」
「それも謝罪だよ」
暁乃は困ったように目を伏せた。
ルミは笑わなかった。
からかいすぎないように、声を少し柔らかくする。
「手、震えてるね」
「問題は、ございませぬ」
「問題あるよ」
「ですが、自分で」
「うん」
ルミは頷いた。
「自分で食べたいんだよね」
暁乃は少しだけ目を上げた。
「……はい」
「じゃあ、そうしよ」
ルミは椀を少しだけ暁乃の方へ寄せた。
匙を握る手元も、無理に支えない。
ただ、椀が倒れないように、指先でそっと押さえるだけだった。
「椀は私が押さえる。君は匙だけでいいよ」
「……お手数を」
「はいはい。手数はもうかかってるから、今さらです」
その言い方に、暁乃は返す言葉を見つけられなかった。
匙で粥をすくう。
少しこぼれた。
それでも、どうにか口元まで運ぶ。
一口。
熱くはなかった。
米は柔らかく、味は薄い。
けれど、舌に触れた瞬間、暁乃の喉が小さく震えた。
飲み込む。
喉はまだ痛んだ。
それでも、腹の奥に温かいものが落ちていくのが分かった。
薄い味だった。
体に障らないように、きっと余計なものを入れていない。
それでも、今の暁乃には十分すぎるほどだった。
美味しかった。
ただ、それだけのことが、ひどく堪えた。
胸の奥が、急に熱くなる。
暁乃は匙を持ったまま、動きを止めた。
「暁乃ちゃん?」
ルミが覗き込む。
暁乃は答えようとした。
だが、声より先に、目元から涙が落ちた。
一粒。
それから、もう一粒。
湯気の向こうで、椀の縁に小さく落ちる。
ルミが息を呑んだ。
「あ、熱かった? 痛い? 気持ち悪い?」
暁乃は首を振った。
強く振る力はなかった。
それでも、違うと伝えたかった。
「……おいしい」
掠れた声が漏れた。
ルミの動きが止まる。
「え?」
「おいしい、です」
暁乃はもう一度言った。
それから、堪えきれないように目を伏せる。
「おいしい……」
同じ言葉しか出てこなかった。
それが礼として正しいのか、失礼ではないのか、暁乃には分からなかった。
ただ、喉も腹も胸も、すべてがその一言に寄ってしまっていた。
「……かたじけ、なく」
涙がまた落ちる。
「おいしい……とても」
ルミは一瞬、驚いたように暁乃を見ていた。
けれど、すぐに表情を緩めた。
少し得意げで、少し安心したような笑みだった。
「でしょ?」
ルミは椀を押さえたまま、嬉しそうに言った。
「私が作ったんだから。弱ってる子でも食べられるように、ちゃんと考えたんだよ」
暁乃は涙を拭おうとした。
けれど、匙を持つ手も、湯呑みを支える手も、まだうまく動かない。
ルミは慌てず、そばにあった布を一枚取った。
「涙はあと。まず食べよ。冷めちゃう」
「……はい」
「泣くほど美味しいなら、もう一口いける?」
暁乃は小さく頷いた。
二口目。
今度は一口目より、少しだけ楽に飲み込めた。
「おいしい」
「うん」
三口目。
匙を運ぶ手はまだ震えていた。
だが、さっきより迷いはなかった。
「おいしい、です」
「うん。ゆっくりね」
ルミは急かさなかった。
何かを問いただすこともしなかった。
ただ、椀を押さえながら、暁乃が食べるのを見守っていた。
暁乃は少しずつ、粥を食べた。
泣きながら食べるなど、みっともないことだと思った。
けれど涙は止まらなかった。
温かいものが腹に落ちるたびに、体が少しずつ戻ってくる。
それと同じだけ、張り詰めていたものがほどけていく。
半分ほど食べたところで、暁乃の手が止まった。
「もう無理?」
「いいえ」
「じゃあ、休憩?」
暁乃は少しだけ頷いた。
「はい」
「うん。いいよ」
ルミは椀から手を離し、湯呑みを差し出した。
「少し水」
暁乃は受け取り、ゆっくり飲んだ。
胃のあたりに、温かいものが残っている。
空っぽだった体に、ようやく何かが戻ってくる感覚があった。
それと同時に、眠気も来た。
強い眠気だった。
瞼が重い。
背筋を伸ばしていようとしても、頭が少し傾く。
「眠い?」
ルミが聞く。
暁乃は反射的に首を振ろうとした。
だが、それより先にルミが言った。
「眠いよね」
暁乃は黙った。
「無理して起きてなくていいよ。今日はもう休んだ方がいい」
「ですが、まだ、お礼も」
「お礼は明日聞く」
「名も、まだ」
「あ、それは聞きたい」
ルミは少しだけ身を乗り出した。
「話せるなら、名前だけ教えて。無理なら明日でもいい」
暁乃は湯呑みを置いた。
息を整える。
ただ名乗るだけのことが、今はひどく難しかった。
「……白菊」
掠れた声が、部屋に落ちる。
「白菊、暁乃と申します」
「しろぎく、あきの」
ルミはゆっくり繰り返した。
「暁乃ちゃん、ね」
ちゃん。
暁乃はその呼び方を、少しだけ遅れて受け取った。
子供や年若い者に向けられる呼び方として、耳にしたことはある。
女に限った響きとも、暁乃には思えなかった。
少なくとも、そこに嘲りや乱暴さはない。
この地の少女たちが自分をどう見ているのかはまだ分からない。
だが、ルミの声に含まれていたのは、見下しではなかった。
「……はい」
「じゃあ、暁乃ちゃん」
ルミは少しだけ笑った。
「改めて、私は朱城ルミ。さっき言ったけど、山海経初級中学の生徒。あと、料理人見習い……って言うとちょっと悔しいけど、まあ今はそんな感じ」
「朱城、様」
「様はいらない。それにルミでいいよ」
「では、朱城さん」
「ルミ」
「……ルミ、さん」
「うんうん。それでいいよ」
ルミは満足そうに頷いた。
それから、ふと暁乃の頭上を見る。
そこには何もなかった。
山海経の生徒なら、誰にでもあるはずのもの。
キヴォトスの生徒なら、起きている限り自然に浮かんでいるもの。
ヘイローがない。
ルミはそれを見た。
見たが、何も言わなかった。
今、聞くことではない。
そう判断した。
「布団、用意するね」
「そこまでしていただくわけには」
「もうその言葉、禁止にしようかな」
ルミは立ち上がる。
「食べて、水飲んで、寝る。今日はそれだけ。難しい話は明日」
「……はい」
「いい返事」
ルミは奥から布団を持ってきた。
暁乃は手伝おうとしたが、立ち上がる前にふらついた。
「はい、座ってて」
ルミの声が飛ぶ。
暁乃はまた座るしかなかった。
布団は低い卓から少し離れた場所に敷かれた。
ルミは枕の位置を整え、薄い掛け布を重ねる。
「ここで寝て。寒かったら言って」
暁乃は布団を見て、わずかに表情を曇らせた。
「……ですが」
「うん?」
「俺は、砂と汗で、汚れております」
掠れた声で、暁乃は言った。
「このような身で、寝具をお借りするわけには……」
ルミは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、困ったように笑った。
「そういうの、今はいいから」
「ですが」
「いいの」
ルミは少しだけ声を強めた。
「汚れた布団は洗えばいい。でも、暁乃ちゃんがこのまま床で寝たら、そっちの方が困る」
暁乃は言い返せなかった。
「それに、私が寝ていいって言ってるんだからいいの。分かった?」
「……はい」
「うん」
ルミは満足そうに頷いた。
「じゃあ、横になる」
暁乃はゆっくり立ち上がろうとする。
ルミが肩を貸す。
その時も、黒い刀の包みは離さなかった。
布団のそばまで来ると、暁乃は一度、鞄の方を見た。
「鞄も近くに置くね」
ルミはすぐに言った。
「その包みも、抱えたままでいいよ。寝にくかったら横に置けばいいし」
暁乃は小さく頷く。
布団に身を横たえると、体の奥から一気に力が抜けた。
横になる。
ただそれだけで、視界が大きく揺れた。
部屋の灯りが滲み、天井の木目がぼやける。
「ちょっと待ってて」
ルミは一度立ち上がり、奥へ行った。
戻ってきた時、その手には濡らした手拭いがあった。
「顔だけ拭くね。熱くない?」
暁乃は答えようとしたが、もう声がほとんど出なかった。
代わりに、小さく頷く。
ルミは手拭いを軽く絞り、暁乃の額にそっと当てた。
ひんやりとした感触に、暁乃の瞼がわずかに震える。
「ごめんね。ちょっと冷たかった?」
暁乃は小さく首を振った。
額。
頬。
目元。
口元。
ルミの手つきは、先ほど靴を脱がせた時と同じように丁寧だった。
砂をこすり落とすのではなく、弱った肌を確かめるように、少しずつ拭っていく。
「白い髪、砂ついちゃってるね。今日は無理だけど、明日ちゃんと洗おう」
そう言って、ルミは額にかかっていた髪をそっと指で避けた。
白い髪が、指先にさらりと流れる。
その下から、暁乃の顔がはっきりと見えた。
ルミの手が止まった。
先ほどまでも、整った顔立ちだとは思っていた。
けれど、汗と砂に汚れ、苦しそうに俯いていた時とは違う。
汚れを拭われ、髪をよけられた暁乃の顔は、思っていた以上に静かで、透き通るようだった。
白い肌。
閉じかけた赤い瞳。
長い睫毛。
まだ幼さの残る輪郭。
弱っているからこそ、余計に壊れそうに見えた。
それなのに、どこか人目を奪うほど綺麗だった。
ルミは思わず見つめた。
見つめてしまった。
「……ルミ、さん?」
掠れた声が、ルミを呼んだ。
その声で、ルミははっとする。
「あ、ううん。なんでもないよ」
慌てて笑おうとした。
けれど、自分の頬が熱くなっているのが分かった。
「ちょっと、砂が多かっただけ。ちゃんと拭けてるかなって」
「左様、でございますか」
「うん。そうそう」
ルミは少し早口になった。
暁乃はまだぼんやりしているのか、それ以上は追及しなかった。
ただ、ルミの手元を見てから、かすかに目を伏せる。
「……そこまで、していただくわけには」
「はい、またそれ」
ルミは軽く遮った。
「明日の話。今は寝る」
暁乃はそれ以上言えなかった。
ルミがそばに膝をついた。
「大丈夫?」
「……はい」
「その“大丈夫”、あんまり信用できないな」
暁乃は返事に困った。
ルミは掛け布を肩まで上げる。
「今夜は寝て。起きたら、また水飲んで、ご飯食べて、それから考えよう」
「考える」
「そう。君がどこから来たのかとか、どうしたいのかとか。そういうのは、ちゃんと起きてから」
暁乃は薄く目を開けた。
「……聞いて、くださるのですか」
「うん」
ルミは当然のように頷いた。
「でも今じゃない。今聞いても、君、途中で寝ちゃいそうだし」
「申し訳……」
「謝らない」
ルミが言う。
暁乃はかすかに息を吐いた。
「……はい」
その返事は、ほとんど眠りに沈みかけていた。
ルミは立ち上がりかけて、ふと足を止める。
「暁乃ちゃん」
呼びかけると、赤い瞳が少しだけこちらを向いた。
「ここでは、無理に何かしなくていいから」
暁乃は聞いているのか、いないのか分からないほど静かだった。
「まず、元気になって」
その言葉に、暁乃の指が刀の包みを弱く握った。
「……かたじけ、なく」
それだけ言うと、暁乃は目を閉じた。
眠りに落ちるのは早かった。
あれほど気を張っていた体が、もう限界だったのだろう。
細い呼吸が、少しずつ深くなる。
ルミはしばらく、その寝顔を見ていた。
白い髪。
赤い瞳は閉じられている。
頭上には、やはり何もない。
年下に見える。
とても強そうには見えない。
けれど、その腕は眠っていても、黒い包みを離していなかった。
ルミは片づけようとしていた手拭いを手にしたまま、もう一度、暁乃の顔を見る。
砂を拭われた頬は、灯りの下でひどく白かった。
眠っているせいか、先ほどよりも表情は幼い。
けれど、ただ幼いだけではない。
どこか遠くから迷い込んできたもののような、触れたら消えてしまいそうな静けさがあった。
「……本当に、綺麗な子」
小さく呟いてから、ルミは自分で少し驚いた。
何を言っているのだろう。
見知らぬ子を拾ってきて、水を飲ませて、ご飯を食べさせて、ようやく寝かせたところだ。
今考えるべきなのは、明日のことのはずだった。
どこから来たのか。
なぜヘイローがないのか。
その黒い包みは何なのか。
どうして、あんなに飢えていたのか。
聞かなければならないことは、いくらでもある。
それなのに、ルミはもう一度だけ、暁乃の寝顔を見てしまった。
「……何があったんだろうね」
今度の呟きには、さっきよりもはっきり心配が混じっていた。
返事はない。
暁乃は眠っている。
ルミは灯りを少し落とし、鞄が暁乃の手の届く位置にあることを確かめた。
黒い包みも、無理に離させない。
それがこの子にとってどれほど大事なものなのか、今はまだ分からない。
けれど、眠ってなお離せないものを、勝手に取り上げる気にはなれなかった。
それから、空になった湯呑みと半分ほど残った粥の椀を静かに片づける。
明日の朝、もう一度温めればいい。
そう思いながら、ルミは台所へ戻った。
背後では、白い子が、ようやく深く眠っていた。