紅茶が冷めるまで(魔法少女まどか☆マギカ IF)   作:LongLong

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最終話「おかえり、とは言わずに」

最終話「おかえり、とは言わずに」

 

電話を切った後も、マミはしばらく、スマホを耳から離せなかった。

 

鹿目さんの声が、まだそこに残っている気がした。隣に、います。そう言った声だった。

 

スマホを膝の上に置いた。

 

座っているのは、崩れたコンクリートの塊の上だった。元が何の建物だったのか、もうわからなかった。鉄筋が何本も、曲がったまま空を向いていた。

 

左腕が、肩から下で動かなかった。痛みは、少し前から感じなくなっていた。それが良いことなのか悪いことなのか、マミにはわからなかった。右手で左の手首を持ち上げて、膝の上に置き直した。

 

中指の指輪が、朝の光を受けていた。

 

右手の指で触れると、指輪が形を変えた。卵形の宝石が、手のひらに乗った。黒い霧が、底の方から、縁のすぐ下まで満ちていた。金色は、上の方に、薄く残っているだけだった。

 

マミは、それを見ていた。

 

もう、魔法を使ってはいけない、と思った。この腕を治すための、ほんの少しの魔力でも。

 

怖いとは、思わなかった。怖いと思うための何かが、まだ身体に戻ってきていなかった。

 

最後に覚えているのは、空が逆さまになったことだった。

 

大きな影の下で、左腕に何かが当たった。音は聞こえなかった。気がつくと、背中が瓦礫の上にあって、空が、雨を落としながら、ゆっくりと回っていた。

 

立てなかった。

 

右手の指先に、魔力を集めようとした。リボンは、もう一本も出せないと思った。

 

指先に、細い金色が、一本だけ生まれた。

 

マミは、それを、空に向かって投げた。

 

その時、自分が何を考えていたのか、マミは覚えていなかった。

 

覚えているのは、一つの光景だけだった。

 

ガラステーブルの上に、少しだけ隙間を空けて並んだ、二つの手。

 

気がつくと、金色の糸は、一本ではなくなっていた。

 

-----

 

少し離れたところで、美樹さんが座り込んでいた。

 

膝を抱えて、瓦礫に背中を預けていた。青い髪が、泥と雨で頬に張り付いていた。

 

その隣に、佐倉さんがいた。胡坐をかいて、美樹さんの方に身体を向けて、何か言い続けていた。声は聞こえなかった。口の動きと、時々、美樹さんの肩を小突く手だけが見えた。美樹さんは、一度だけ、小さく笑ったようだった。

 

佐倉さんが、こちらに気づいた。

 

立ち上がって、足を引きずりながら歩いてきた。上着の袖が、片方ちぎれていた。

 

「電話、終わったか」

 

「ええ。鹿目さんと、冬野さん。二人とも、無事だったわ」

 

「そっか」

 

佐倉さんは、マミの左腕を見た。それから、マミの手のひらのソウルジェムを見た。何も言わずに、顎で、マミの背後の方を示した。

 

「先に帰んな」

 

「佐倉さん」

 

「あんたの家だろ」

 

マミが何か言う前に、美樹さんの声がした。

 

「マミさん」

 

美樹さんが、瓦礫に背中を預けたまま、こちらを見ていた。視線が、マミの左腕で止まった。

 

「……ごめんなさい」

 

美樹さんの左手が、膝の上で握られていた。中指の指輪の青が、くすんでいた。

 

「あたし、もう限界で。マミさんの腕、治せないです」

 

「使わせねえからな」

 

佐倉さんが、振り返らずに言った。

 

マミは、首を横に振った。

 

「謝らないで。美樹さんが無事なら、それでいいのよ」

 

美樹さんは、唇を噛んだ。それから、少しだけ、顔を上げた。

 

「冬野さん、待ってますよ」

 

「……美樹さんは」

 

「あたしは平気です。杏子もいるし」

 

「余計なこと言ってないで座ってろ」

 

佐倉さんが振り返って言った。美樹さんが、また少しだけ笑った。

 

マミは、二人を見ていた。

 

昨夜、この二人は、同じ部屋の、ソファの端と端に座っていた。

 

-----

 

暁美さんは、少し離れた瓦礫に、背中を預けていた。

 

足を投げ出して、両手を地面に置いて、空を見ていた。黒い髪が、肩から地面に流れていた。電話で鹿目さんに話した時と、何も変わっていなかった。

 

マミは立ち上がって、そちらに歩いた。

 

暁美さんの隣に、座った。

 

暁美さんは、こちらを見なかった。瞬きが、ひどく少なかった。紫の瞳が、雲一つない空を、ただ映していた。

 

マミは、何も訊かなかった。

 

何度も、この夜を繰り返してきた人だった。その人が、何度目の朝を見ているのか、マミにはわからない。わからないことを、今、訊くべきではない気がした。

 

二人で、同じ空を見ていた。

 

どこかで、鳥が鳴いた。遠くで、サイレンが鳴り始めた。

 

しばらくして、暁美さんの右手が、地面から持ち上がった。

 

顔は、空に向けたままだった。手だけが、マミの方に差し出された。

 

手のひらの上に、黒い、小さな卵のような形が乗っていた。

 

グリーフシード。

 

マミは、暁美さんの横顔を見た。暁美さんは、空を見ていた。手だけが、そこにあった。

 

マミは、それを受け取った。

 

暁美さんの手が、また、地面に下りた。

 

マミは、手のひらのソウルジェムに、グリーフシードを近づけた。黒い霧が、ゆっくりと吸い出されていった。縁の近くまで満ちていた霧が、半分ほどまで引いた。それ以上は、引かなかった。

 

使い終わったグリーフシードを、暁美さんの隣の地面に、そっと置いた。

 

「行くわね」

 

暁美さんは、答えなかった。

 

マミは立ち上がった。一度だけ、振り返った。

 

暁美さんは、まだ、空を見ていた。

 

-----

 

街は、壊れていた。

 

倒れた街路樹が、道を塞いでいた。どこかの店の看板が、歩道の真ん中に落ちていた。割れたガラスが、朝日を受けて、あちこちで光っていた。水たまりには、どれも、青い空が映っていた。

 

避難所から出てきた人たちと、何度もすれ違った。毛布を肩にかけたままの人。子どもの手を引いている人。自分の家の方を見上げて、立ち尽くしている人。

 

誰も、マミを見なかった。

 

見ても、泥だらけの、腕を押さえた女の子が一人、歩いているだけだった。昨夜、この街の空で何があったのか、この人たちは知らない。知らないまま、朝を迎えている。

 

それでいい、とマミは思った。

 

右手で、左腕を押さえて歩いた。一歩ごとに、肩の奥で、鈍い何かが揺れた。

 

割れずに残っていたショーウィンドウに、自分の姿が映った。

 

髪の巻きが、ほどけかけていた。頬に、乾いた泥がついていた。服の袖が、肘のところで裂けていた。

 

マミは、立ち止まって、右手で前髪を直そうとした。うまくいかなかった。指の間から、髪がまたこぼれた。

 

少しだけ、笑った。

 

鹿目さんたちの前では、いつも、ちゃんとしていたかった。先輩らしく。紅茶を淹れて、ケーキを切り分けて、困った顔をしないで。

 

今は、前髪一つ、直せない。

 

マミは、そのまま歩き出した。

 

戻ってくるわね。

 

冬野さんに、そう言った。必ず、戻ってくる。冬野さんが、待っていてくれるなら。

 

言った時、自分がそれを守れるのかどうか、マミにはわからなかった。

 

今、自分の足で、家に向かって歩いている。

 

それが、約束を守っていることなのかどうか、まだ、うまく実感できなかった。

 

-----

 

マンションのエントランスは、薄暗かった。

 

エレベーターの表示が、消えていた。ボタンを押しても、何も光らなかった。停電が、まだ続いていた。

 

マミは、非常階段の扉を開けた。

 

一段ずつ、上がった。右手で手すりを握って、身体を引き上げるように。左腕が、歩くたびに身体の横で揺れた。

 

踊り場で、立ち止まった。息が上がっていた。壁に背中をつけて、少しだけ目を閉じた。

 

戦っている間は、こんなふうに息が切れることはなかった。魔力で、全部ごまかしていた。今は、もう、ごまかすものが残っていなかった。

 

もう一度、手すりを握った。

 

何度、踊り場で立ち止まったのか、途中から数えなくなった。

 

自分の階の表示が見えた時、マミは、少しだけ笑いそうになった。毎日上り下りしている階段だった。こんなに長いと思ったことは、一度もなかった。

 

廊下を歩いて、自分の家のドアの前に立った。

 

鍵は、左のポケットに入っていた。

 

右手を伸ばした。身体をひねらないと、届かなかった。ひねると、左肩の奥で、何かが大きく軋んだ。

 

マミは、手を止めた。

 

ドアの横の、インターホンを見た。

 

自分の家のインターホンを押したことは、一度もなかった。

 

右手の指で、ボタンを押した。

 

-----

 

家の中で、チャイムが鳴るのが聞こえた。

 

少しして、足音がした。

 

走る音ではなかった。小さくて、ゆっくりで、床の上を滑るような足音だった。途中で一度、止まった。それから、また近づいてきた。

 

鍵が、内側で回った。

 

ドアが、開いた。

 

冬野さんが、立っていた。

 

昨日の朝と同じ服だった。髪が、少しだけ乱れていた。前髪の奥の黒い瞳が、マミを見ていた。

 

冬野さんの肩越しに、廊下の奥が見えた。リビングの入口に、鹿目さんが立っていた。両手で口元を押さえて、こちらを見ていた。

 

鹿目さんは、こちらに来なかった。

 

マミは、玄関に入った。背中で、ドアを閉めた。

 

「ただいま」

 

返事は、なかった。

 

冬野さんは、マミの顔を見ていた。泥のついた頬を見て、動かない左腕を見て、また顔に戻った。

 

マミは、靴を脱ごうとした。

 

右手を壁について、右の足で、左の踵を踏んだ。ローファーが、踵から外れた。足を引き抜いた拍子に、左の靴が、たたきの上で横倒しに転がった。

 

右の靴は、うまく踏めなかった。何度か踵を擦り合わせて、ようやく足が抜けた。踵の部分が、潰れたまま残った。

 

たたきの上に、二足の靴が、ばらばらに散らばっていた。

 

冬野さんの視線が、マミの顔から、下に落ちた。

 

靴を、見ていた。

 

冬野さんが、しゃがんだ。

 

マミは、それを見ていた。

 

冬野さんの手が、靴に向かって伸びかけて、止まった。

 

冬野さんが、顔を上げた。

 

一度だけ、マミを見た。マミの目を、見上げた。

 

マミが、自分を見ていることを、確かめるように。

 

マミは、目を逸らさなかった。

 

冬野さんの視線が、また、靴に戻った。

 

手が、伸びた。

 

指先が、震えていた。小さく、ではなかった。はっきりと、震えていた。

 

止まらなかった。

 

横倒しになった左の靴を、起こした。潰れた右の靴の踵を、指で押し戻した。二足を、並べた。少しだけずれていたのを、もう一度、揃え直した。

 

つま先が、ドアの方を向いていた。

 

冬野さんの手が、靴から離れた。

 

冬野さんは、しゃがんだまま、揃えた靴を見ていた。それから、ゆっくりと、立ち上がった。

 

身体は、固まっていなかった。

 

マミは、何も言わなかった。

 

冬野さんも、何も言わなかった。

 

マミの口元が、少しだけ、緩んだ。

 

それ以上は、何も見せなかった。

 

-----

 

廊下を歩いて、リビングに入った。

 

鹿目さんが、マミの左腕を見た。口元を押さえていた手が、下りた。

 

「マミさん……」

 

それだけで、鹿目さんの声は詰まった。目の縁が、赤くなっていた。一晩、眠っていない顔だった。

 

「平気よ」

 

マミは言った。

 

「少し、動かないだけ。休めば、戻るわ」

 

鹿目さんは、何か言おうとして、言わなかった。唇を噛んで、頷いた。

 

マミは、キッチンに立った。

 

いつものように、ケトルを持ち上げようとした。右手だけで、水を入れることはできた。コンロに置くこともできた。ティーポットに茶葉を入れようとして、缶の蓋が、片手では開かなかった。

 

缶を持ったまま、少しの間、立っていた。

 

「……鹿目さん」

 

鹿目さんが、キッチンの入口に来た。

 

「お願いしても、いいかしら」

 

鹿目さんが、頷いた。

 

マミは、手順を言った。缶の蓋を開けて。スプーンに、二杯。お湯が沸いたら、すぐにポットに注いで。三分、待って。

 

鹿目さんは、一つずつ、その通りにした。缶を開ける手つきが、少しだけぎこちなかった。茶葉が、スプーンから少しこぼれた。鹿目さんは慌てて、指でそれを集めた。

 

ケトルが、鳴り始めた。

 

マミは、リビングを振り返った。

 

冬野さんが、いつもの椅子に座っていた。

 

椅子の前半分に。膝の上に手を置いて。

 

昨日と、同じだった。一昨日とも、同じだった。

 

マミの家は、冬野さんの家ではなかった。冬野さんが帰る場所は、まだ、どこにもなかった。それは、今朝も、何も変わっていなかった。

 

それでも、冬野さんは、そこに座っていた。

 

ポットから、紅茶の香りが立ち上ってきた。鹿目さんが、砂時計をひっくり返した。

 

三つのカップが、テーブルに並んだ。

 

マミは、右手で自分のカップを持ち上げた。熱かった。一口、飲んだ。

 

いつもより、少しだけ濃かった。

 

「……おいしいわ」

 

鹿目さんが、泣き笑いのような顔をした。

 

しばらく、三人とも、黙って紅茶を飲んでいた。

 

鹿目さんが、カップを置いた。

 

「マミさん。……キュゥべえが、来ました」

 

マミの手が、止まった。

 

「体育館に。マミさんが落ちたって。このままだと、みんな、って」

 

鹿目さんは、自分の手を見ていた。

 

「わたしが契約すれば、全部、助けられるって」

 

「……それで」

 

「しませんでした」

 

鹿目さんの声は、小さかった。ただ、揺れていなかった。

 

「わたし、手が震えて、止まらなくて。そしたら」

 

鹿目さんが、テーブルの向こうを見た。

 

「冬野さんが、わたしの手を、握ってくれたんです」

 

マミは、冬野さんを見た。

 

冬野さんは、両手でカップを包んだまま、紅茶の表面を見ていた。聞こえているはずだった。顔は、動かなかった。

 

マミが瓦礫の上で、空に向かって金色の糸を投げていた時。

 

体育館の床の上で、この子が、鹿目さんの手を握っていた。

 

「……そう」

 

それだけしか、言えなかった。

 

マミは、カップを、もう一度持ち上げた。紅茶は、まだ温かかった。

 

冬野さんは、両手でカップを包んでいた。湯気が、冬野さんの前髪の先を、少しだけ揺らしていた。

 

-----

 

カップを置いた時、マミは、ふと、廊下の方を見た。

 

リビングのドアは、少しだけ開いていた。冬野さんが、いつもそうするように。

 

その隙間から、玄関が見えた。

 

たたきの上に、靴が二足、並んでいた。

 

つま先を、ドアの方に向けて。

 

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