トーマス・ホッブズ
『市民論』
第1話「人間は、人間にとって狼である。」
「……俺の、見落としだった」
暗闇の中、竜宮院聖哉は己の血に塗れた両手を見つめながら、ただ一度の油断を呪っていた。
救世難度SS+、捻曲イクスフォリア。
かつて救えなかった世界、因縁の地での戦いは苛烈を極めた。あらゆる準備を整え、万全を期したはずだった。だが、世界の理すらねじ曲がるその地において、計算外の事象が発生した。
ほんの僅かな、1パーセントにも満たない不確定要素。
普段の彼なら、その1パーセントすら完封するための「予備の予備」を用意していただろう。だが、過酷な連戦の中で生じた一瞬の隙。
その代償は、リスタルテの死だった。
『聖哉……気にしないで。あなたが、無事なら……それで……』
消えゆく光の中で微笑んだ女神の顔が、網膜に焼き付いて離れない。
神は死なない。だが、特殊な呪いを受けた彼女の魂は完全に砕け散る寸前だった。
絶望に沈む聖哉の前に現れたのは、大女神イシスターだった。
『竜宮院聖哉。リスタルテの魂は、今まさに消滅の淵にあります。統一神界の力をもってしても、彼女を元の状態に戻すことは困難でしょう』
「イシスター?神界が崩壊して姿が見えなくなったと思っていたが、なぜいきなりババアがでてくるのだ……まぁこの際そんなことはどうでもいい、方法はないのか。どんな代償を払ってもいい。俺の命でも、魂でも」
感情を押し殺した、だが確かに血を吐くような声で聖哉は問うた。
イシスターは静かに首を振り、そして告げた。
『一つだけ、神々の管轄外にある特殊な世界……特異点が存在します。そこは魔法も、神の力も届かない、ただの人間たちの閉鎖空間。しかし、その箱庭を覆う莫大な概念エネルギーを掌握できれば、リスタルテの魂を修復する奇跡を起こすことができるかもしれません』
「……行く。条件を教えろ」
『その世界の名称は【実力至上主義の世界】。救済難度は……測定不能(???)。あなたはただの高校生としてその学園に入学し、3年間のカリキュラムを生き抜き、最上位の【Aクラス】で卒業を果たさねばなりません。退学になれば、即座にゲームオーバー。リスタルテの魂も永遠に失われます』
魔法は使えない。ステータス画面もない。
剣も、鎧も、神界でのレベリングも通用しない。己の知略と、元の肉体に備わっていた基礎的な身体能力のみで、未知のルールに支配された箱庭を制覇しなければならない。
「……構わない。転送の準備をしろ」
聖哉は立ち上がり、己の頬を強く殴りつけた。
もう二度と、絶対に過ちは犯さない。
準備不足で大切なものを失うような真似は、未来永劫、絶対にしない。
(レディ・パーフェクトリー……? 違う。全然足りない。完璧など存在しない。常に最悪を想定し、その最悪のさらに底の底まで備えるんだ)
『それでは、送ります。どうか、彼女を……』
光が聖哉を包み込む。
そして次に目を開けた時、彼は見知らぬ場所に立っていた。
「新入生諸君、入学おめでとう」
聞こえてきたのは、マイクを通した壮年男性の退屈なスピーチだった。
体育館のような広い空間。周囲には、同じような真新しいブレザーを着た同年代の少年少女たちが並んでいる。
(……転移完了。ここが、実力至上主義の世界か、俺はこの世界の高校に転移したということだな)
聖哉は瞬時に周囲を観察した。
ざわめく生徒たち、壇上の教師陣、体育館の出入り口の数、窓の配置、そして隠しカメラや盗聴器の有無。視線を動かすだけで、膨大な情報を脳内で処理していく。
剣はない。魔法もない。だが、思考は以前よりも遥かに研ぎ澄まされていた。
「退学=リスタの消滅」。この絶対的なプレッシャーが、彼の慎重さを病的なまでに、狂気的なレベルにまで引き上げていた。
(隣の男子生徒……重心がぶれている。体幹が弱い。だが、服の下に凶器を隠し持っている可能性は捨てきれない。斜め前の女子生徒、髪の毛のピンが小型の通信機である確率は0.01%……いや、ゼロではないな。警戒度をCからBへ引き上げよう)
入学式という平和な風景の中で、聖哉一人だけが戦場に放り込まれた傭兵のような殺気を無意識に放ち、そして即座にそれを隠蔽した。
(目立ってはいけない。ターゲットになる確率を下げるため、まずは平凡な生徒を演じる。そして、この世界のルールを完全に把握する)
式が終わり、生徒たちがそれぞれの教室へと向かう中、聖哉は自分のクラスを確認した。
【1年Dクラス】。
(Dクラス……アルファベット順だとすれば、4番目。下位のクラスか。いや、これも罠かもしれない。あえて最上位をDと偽装している可能性も考慮に入れておくべきだ)
教室に足を踏み入れると、すでに何人かの生徒が席についていた。
窓際の最後列。そこが聖哉の席だった。
隣の席には、黒髪の長いストレートヘアが特徴的な、鋭い目つきの美少女が静かに本を読んでいる。堀北鈴音だ。
さらに、斜め前の席には、どこか覇気のない、目立たないように振る舞う男子生徒――綾小路清隆が座っていた。
聖哉は席に着くや否や、カバンの中からノートとペンを取り出し、誰にも見えない角度でメモを取り始めた。
『隣の女(堀北):警戒レベルB。孤立を好む傾向。暗殺者の素質あり。物理的距離を1.5メートル以上に保つこと』
『斜め前の男(綾小路):警戒レベルS。気配の消し方が異常。ただの学生ではない。絶対に背後を取られてはならない』
これから3年間、退学リスクを0%に保ち、Aクラスで卒業する。
そのためには、クラスメイトすら全員が敵、あるいは利用すべき駒だ。
「……まずは、この学校の武器屋と道具屋の場所を確認し、非常食を最低3ヶ月分確保する。話はそれからだ」
誰にも聞こえない声で呟きながら、竜宮院聖哉の異常なまでの学園生活が、今まさに始まろうとしていた。