ようこそ慎重至上主義の教室へ   作:GC

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Jeder Mensch hält die Grenzen seines eigenen Gesichtsfeldes für die Grenzen der Welt.

アルトゥール・ショーペンハウアー
『余録と補遺』


第10話「すべての人間は、自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。」

時間は遡り、昨日の深夜3時15分。

 

綾小路清隆が廊下で極細の縫合糸を見つけ、それを放置して自室に戻ってから、わずか5分後のことだ。

 

聖哉は、自室のドアノブの内側に仕掛けた加圧式振動センサーのログを確認していた。

 

(……踏んだな。いや、正確には『気づいて、避けた』か)

 

モニターに表示される数値は、0.02ミリの沈み込みを検知していた。普通の人間であれば、糸に触れて切断するか、あるいは全く気づかずに通り過ぎる。だが、その足跡の主は、糸の存在を視認し、かつそれが罠であることを瞬時に理解して行動を選択した。

 

(綾小路清隆。……お前の『無能』の演技は、オレの『病人』の演技と同等、あるいはそれ以上の精度だ。だが、生物としての気配を消しきれていない)

 

聖哉は闇の中で、タクティカルスーツを脱ぎながら思考を巡らせる。

 

本来なら、不干渉を貫くのが「レディ・パーフェクトリー」だ。正体不明の強者と関わることは、不確定要素を増やす自殺行為に等しい。

 

しかし、今回の【プランB:物理潜入】には、どうしても背後を任せられる高精度なセンサーが必要だった。櫛田のような感情で動く駒でも、須藤のような制御不能の獣でもない。機械のように冷静に状況を俯瞰し、最適解を出せる部品が。

 

(……リスクは高い。だが、彼を『監視下に置かないリスク』の方が、最終的な勝率を0.8%下げる。……修正が必要だ)

 

聖哉は、枕元に置いてある医療用の吸入器を手に取り、深い霧のような薬剤を吸い込んだ。それは喘息の薬ではない。神経を研ぎ澄ませ、数時間の不眠を無効化するための自作の覚醒剤である。

 

 

 

 

翌朝。登校直後の教室。

竜宮院聖哉は、いつも通り今にも事切れそうな弱々しさで机に突伏していた。

その様子を、数メートル離れた席から綾小路は観察していた。

 

(昨夜の影の主が彼だという確信は、90%。だが、動機が見えない。……あそこまで徹底した隠密行動を、単なる悪戯で行うはずがない)

 

綾小路が自席に座ろうとしたその時。

彼の机の引き出しの中に、一枚の保健室の利用カードが置かれていることに気づいた。

 

そこには、担当教諭の印鑑ではない、見覚えのある極細の縫合糸が、カードの角に一巻きだけされていた。

 

(……呼び出しか。それも、他人に悟られぬ形での)

 

綾小路は表情一つ変えず、そのカードをポケットに収めた。

 

1時間目の授業が始まる直前。彼は体調不良を理由に席を立ち、保健室へと向かった。

 

 

 

 

【視点:綾小路清隆】

 

保健室のカーテンの奥からは、消毒液の匂いと共に、重苦しいまでの静寂が漏れ出していた。

本来なら常駐しているはずの保健医の姿はない。入口には備品整理中の札が掲げられ、内側から鍵が掛けられていた。

 

「……鍵が開いている。入れということか」

 

オレがドアを僅かに開けて中に入ると、一番奥のベッドで、竜宮院聖哉が上半身を起こして待っていた。

彼は学校指定の制服を着てはいるが、その下には尋常ではない戦闘者の緊張感が凝縮されているのが分かった。

 

「12秒遅い。……周囲の警戒に時間をかけすぎだ、綾小路」

 

聖哉の声は、教室での掠れたものとは似ても似つかない、冷徹な刃のような響きを持っていた。

 

「慎重なのはお互い様だろう、竜宮院。……それで、この手の込んだ招待状の意味は何だ? オレはただの、やる気のないDクラスの一生徒だよ」

 

「嘘を吐くなら、もっとマシな設定を選べ。……昨夜、俺が仕掛けた『警戒糸』。あれに気づき、かつ通報も破壊もせず放置した。その時点で、お前がこちら側の人間であることは確定している」

 

聖哉はベッドから音もなく降り、オレとの距離を一定に保ちながら対峙した。彼の右手は、常に隠し持った何かを即座に投擲できる位置にある。

 

「『こちら側』……? 買い被りだな。オレはただ、面倒事に巻き込まれたくないだけだ」

 

「ならば話は早い。……お前の望む『平穏』を維持したければ、俺の計画の歯車になれ。もし断れば、俺はお前を『排除すべき不確定要素』として認定し、中間テスト終了までに社会的に殺す」

 

凄まじいまでの殺気。

それはホワイトルームの教官たちが放つ、洗練された暴力の気配に近い。

だが、竜宮院のそれは、より病的で、執念深い生存への渇望に裏打ちされていた。

 

「排除……。穏やかじゃないな。オレに何をしろと言うんだ?」

 

「中間テスト当日。および、その前段となる今夜の『特別行動』への同行だ。……お前の異常なまでの観察眼を、俺の死角を補うためのセンサーとして利用する。それ以上の接触も、それ以下の干渉も必要ない」

 

「協力関係……いや、契約か。オレがその『部品』になることで、オレの正体を詮索しないと約束できるか?」

 

「約束はしない。……だが、俺の計画が成功し、Aクラスへの道が盤石になれば、お前のようなマイナス因子の正体を暴くことにリソースを割くのは非効率だ。俺は常に、最も効率的な勝利を選択する」

 

オレは少しの間、沈黙した。

 

竜宮院聖哉。

 

彼はこの学校のルールで動いていない。自分自身の生存法則という名の、あまりにも強固な監獄の中に住んでいる。

ここで彼と敵対することは、今のオレにとって最も効率の悪い選択肢だ。

 

「……分かった。乗りかかった船だ。今夜、どこへ行けばいい?」

 

「23時。特別棟の印刷室だ。……詳細は、追って教室で伝える。」

 

「それと、過去問はどうした?ヒントを与えてやっただろう?」

 

「入手した、たまたまもらったことにしてあとの扱いは堀北と平田にまかせた」

 

「そうか」

 

聖哉は再びベッドに横たわり、元の病弱な生徒の顔に戻った。

 

「誰かに話せば、その瞬間に首を撥ねる。……これは比喩ではない」

 

「肝に銘じておくよ」

 

オレは保健室を後にした。

背中で、カチャリとドアの鍵が閉まる音がした。

 

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

 

(……接触完了。綾小路清隆、保有能力は予測通り。精神的耐久値、状況判断力ともに【A級パーツ】に相当する)

 

俺は目を閉じ、脳内のシミュレーターをアップデートした。

彼を仲間に引き入れたことで、今夜の潜入作戦の成功率は、84%から97.5%へと跳ね上がった。

残りの2.5%は、坂柳有栖や龍園翔といった、他のクラスの特異点との不意の遭遇リスクだ。

 

(準備は整った。……だが、まだ甘い。やつが裏切る可能性、あるいは第三者に情報をリークする可能性を、物理的に封じ込める必要がある)

 

俺はポケットから、小さな、本当に小さな紙片を取り出した。

そこには既に、今夜の座標と時間が記されている。

これを彼に渡す際、俺はさらに「ある仕掛け」を施すつもりだった。

 

彼がその紙片を手に取った瞬間、指先に付着する特殊な蛍光塗料。

肉眼では見えず、紫外線ライトの下でしか反応しないその塗料は、彼がもし約束の場所以外――例えば職員室や他の生徒の元へ向かえば、その足取りを完璧に追跡するビーコンとなる。

 

「……レディ・パーフェクトリー。……いや、まだだ。まだ足りない」

 

俺は再び、深い眠りのフリへと没入していった。

放課後、彼にあの紙片を渡すその瞬間。

 

それが、俺と綾小路清隆という、決して交わるはずのなかった二つの深淵が、共犯者として契約を結ぶ最終儀式となるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(決行当日、放課後の図書室へ戻る)

 

 

 

 

 

 

「……ねえ、須藤くん。ここはさっきも説明したよね?」

 

櫛田の声が響く中、俺は机に突伏しながら、隣の綾小路の動きを待った。

彼が席を立ち、自動販売機へ向かう。

すれ違いざま、俺は右手の指先だけで、用意していた毒入りの紙片を机の端に滑らせた。

 

(……拾え、綾小路。それが、お前が地獄の片棒を担ぐための、唯一のチケットだ)

 

彼が紙片を回収し、トイレへと消えていくのを、俺はまどろみの中で確認した。

これで、役者は揃った。

今夜、印刷室で、俺たちはこの学校の聖域を侵犯する。

 

 

 

 

【視点:竜宮院聖哉】

夜、23時。

学校内は完全な静寂に包まれている。

警備員の巡回パターンは完全に把握済みだ。

 

Aルート:22:45~23:05。

Bルート:23:15~23:30。

 

この10分間の空白こそが、俺に残された唯一の勝機である。

 

俺は、タクティカル防音スーツの締め付けを確認し、暗視ゴーグルを起動した。視界が緑色に染まり、壁越しの熱源が可視化される。

 

印刷室のドアの前。

そこには、約束通り綾小路清隆が立っていた。

彼は何の装備も持たず、まるでお気に入りの散歩コースを歩くかのような、無防備な立ち姿だった。

 

「……1秒遅いぞ、綾小路」

 

「これでも急いだつもりだが。……それで、この厳重なロックをどうするつもりだ? この学校のセキュリティは、外部の専門業者が管理していると聞いているが」

 

「問題ない。……既に【プランB:物理潜入】のためのプログラムは構築済みだ」

 

俺はポーチから、自作のオーバーライド・デバイスを取り出した。

これは、購買部で入手した電子辞書のメイン基板を改造し、ブルートフォース攻撃(総当たり攻撃)と脆弱性スキャンを並列実行させるように最適化したものだ。

 

ドアのカードリーダーに、特製の電磁パルス・エミッターを密着させる。

 

「……3、2、1」

 

電子的な火花が散る音さえ立てず、インジケーターが赤から緑へと変わる。

数秒。

本来ならプロのハッカーでも数時間は要するであろう暗号を、俺が組み上げたアルゴリズムが、物理層からのノイズ混入によって強制解凍したのだ。

 

「……入るぞ。足跡を消す準備はできているな?」

 

「お前一体何者だ……。」

 

「お互い余計な詮索は無用、違ったか?」

 

「そうだな」

 

印刷室の内部は、大型のオフセット印刷機と、段ボールに詰められた試験用紙の山で埋め尽くされていた。

俺は、迷うことなく「Dクラス・中間テスト問題」と書かれた箱へと向かう。

 

だが、俺が手を伸ばしたのは試験問題そのものではなかった。

その隣に置かれている、予備の解答用マークシートの束だ。

 

「問題を見るんじゃないのか?」

 

「問題など、既に入手している過去問の傾向から98%の精度で予測できている。……俺が必要なのは、この『紙』の成分データだ」

 

俺は、携帯型の分光分析器(これも、古いスマホのカメラレンズに特殊なプリズムを装着して自作したもの)をシートにかざす。

反射率、吸光度、そして繊維の密度。

 

(……なるほど。パルプの含有率が予想より高い。熱伝導率がこれならば、インクの揮発温度をあと1.2度下げる必要があるな)

 

「お前は、試験そのものを書き換えるつもりか?」

 

綾小路の声が、暗闇の中で冷たく響く。

 

「書き換える? ……いや、違う。俺はただ、修正するだけだ。……この歪なシステムが導き出す、誤った結果をな」

 

俺は分析データを端末に保存し、マークシートの束に、目視では決して判別できない極小の印を付けた。

これは、俺のインクが最も効果的に反応するポイントを、後で判別するための目印だ。

 

 

 

その時。

 

 

 

「コツ、コツ、コツ」

 

 

 

廊下から、微かな、しかし確かな靴音と杖をつくようなが聞こえてきた。

 

(……巡回か? いや、早すぎる。Bルートの開始まで、あと4分はあるはずだ)

 

俺は即座に綾小路の手を引き、印刷機の陰へと身を潜めた。

暗視ゴーグルのサーマルモードが、ドアの外側に立つ人影を捉える。

 

その熱源は、通常の警備員のものとは異なっていた。

背が低く、しかし、発せられる威圧感は周囲の空気を凍らせるほどに鋭い。

 

「……そこにいるのは、誰でしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドアの隙間から漏れ聞こえてきたのは、鈴を転がすような、しかし地獄の淵から響くような

坂柳有栖の声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夜遊びにしては、少しばかり場所が不適切ですね。……ふふ。Dクラスの『幽霊さん』、それとも『勇者様』?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺の心臓の鼓動が、急速に速まる。

計算外の因子。

Aクラスの統治者、坂柳有栖。

彼女がなぜ、この時間に、この場所にいるのか。

 

そして、今彼女はなんといった?

 

 

 

 

『勇者様』

 

 

 

 

 

間違いない、彼女は過去の俺の行動を知っている。

だが、なぜ?

 

 

 

 

 

腑抜けた高校生たちの日常を見ているなかで、

救済難度SS+ 捻曲イクスフォリア以上の難易度の世界であることを

聖哉は無意識に忘れ、油断をしていた。

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